Categories
ブログ

「そこしか居場所がなかった」 ~なぜ依存するのか~

昨日は奥さんの実家がある魚沼市へ家族で行ってきました。

息子におじいちゃんの畑でいちご狩りをさせる事と、おばあちゃんが手入れしている庭のバラが見ごろなのでそれを見に行くことが今回の目的です。

息子は、おじいちゃんとおばあちゃんに一杯かわいがってもらって、採ったばかりの大きないちごを口いっぱいに頬張って、終始幸せそうな顔をしていました。

バラが満開の庭で、ボーっと椅子に座っていると蜂がせっせと蜜を集めに来ていたり、バラの花びらの中で小さなアマガエルが休憩していたり、

そこでは人間の理性が作り出した時間にではなく、それぞれの生き物がそれぞれの時間に従って、それぞれの命を生きている姿がありました。

私はやっぱりああいう自然豊かな中で生きていきたい人間なのだなぁと再確認しました。

 

前々回のブログで紹介した動けなくなった子どもに必要なもの、私が考えるものは以下の三つです。

1、責められないこと

2、受容的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざける事

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

3の力を奪うものとは、今でいえば具体的にはゲームとネットです。

前回のブログでは、ネット依存の大半を占めるゲーム依存とはどのようなものかをご紹介しました。

脳が壊れる ~ゲーム依存という病気~ 

お子さんが動けなくなったときに、なぜ受容的な態度で接することが出来ず、責めてしまうのか、そしてなぜ子どもたちはゲームの世界に依存してしまうのか?

これらは別々に起きている事柄ではなく、関連して起きていると私は考えます。

 

先日、NHKのクローズアップ現代でゲーム依存が特集されていました。

番組内でゲーム依存からの回復を目指している20代の青年や、学校のいじめが原因で引きこもり、ゲームに依存するようになった高校生の話が紹介されていました。

彼らが異口同音に口にしていたのは「そこしか居場所がなかった」ということです。

 

精神科医の泉谷閑示さんはその著書「『普通がいい』という病」の中で、依存症とは、代償行為が量的に増加し自分の意志では止められなくなったもの、と説明しています。

本当に欲しいものが得られないが故に、質的に異なる何かで対象への渇きをごまかそうとするけれど、それは本来質的に異なるものであるから、いつまでも満足が得られず、

代償行為の量が増加し、その結果脳が壊れ、自分の意志ではその行為を止められなくなってしまうのが依存症の構造である、ということです。

それでは、依存症に陥る人たちが本当に求めていたものとは何でしょうか?

ゲーム依存に陥った人たちの「そこしか居場所がなかった」という言葉がすべてを教えてくれてます。

彼らが本当に欲していたものは、「人との繋がり」や「他者からの関心」でしょう。

 

番組中で、ゲーム依存になり一年半部屋に引きこもっていた男の子とその親御さんのエピソードが紹介されていました。

お子さんの引きこもりとゲーム依存に悩んでいた親御さんは、精神保健福祉士の八木真佐彦さんのもとを訪れ、CRAFTと呼ばれるプログラムをお子さんに対して行うようになりました。

CRAFTとは、今までお子さんにかけていた否定的な言葉を、肯定的な言葉、受容的な言葉に変えていくというものです。

例えば、お子さんが皿を洗っておいてくれたら「皿を洗ってくれてありがとう」とか、本当に些細なことに対しても肯定して受け止める言葉がけを行うように心がけたそうです。

そうし続けるうちに、家の中の雰囲気が変わり、お子さんも部屋から出てきて自分の気持ちを語ってくれるようになり、今はもうゲームはしていないと紹介されていました。

この事例が示すように、本来得たいものが得られれば、病的に何かに依存する必要がなくなるということです。

人との繋がりや、周囲の大人からの関心が得られれば、ゲーム依存の状態から脱することが出来るのです。

それではなぜ、私たち大人は、子どもに対して関心を示し、受容的な態度で接することが出来なくなってしまうのでしょうか。

それは私たち大人から穏やかさを奪う構造があるからだと私は考えます。

また長くなりましたので、続きは次回。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

Categories
ブログ

脳が壊れる ~ゲーム依存という病気~ 

先日、息子と一緒に本を読んでいたときのこと。

絵本の中に牛の絵が描いてあったので、

「ほら、牛さんだよ。モー!」

と言うと息子が、「んっ!」と言いながら私の顔を指さしてきました。

「いやいや、これはお父さんでしょ。そうじゃなくてこれは牛さんだよ、モー!」

と言うとまた、「んっ!」と言いながら私の顔を指さしてきます。

何でかなぁ、としばらく考えていたら、息子と一緒にいるときの私の口癖が理由だと分かりました。

「ちょっとちょっとやめてぇ、もー!」

「ああ、それ投げないで、もー!」

「そんなところ触らなくていいよ、もー!」

、、、普段の言葉に気を付けようと思った出来事でした。

 

前回のブログでは、動けなくなったお子さんに必要なものは、まず心穏やかに休むこと、と述べました。

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

休ませるといっても、ただ学校に行かず家にいるだけでは、休めていることにはなりません。

心穏やかに休むためには、必要なものがあります。

私が考える必要なものは以下の三つです。

1、責められないこと

2、共感的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざけること

学校に行かず家にいるお子さんを責めないこと。

受容的な雰囲気で接すること。

ゲームやネットなどの依存症に陥らないように気をつけること。

心穏やかに休むためには、この3つがそろっていること大切です。

それではなぜ、受容的な態度ではなく、お子さんを責めてしまうのか、そしてなぜお子さんはゲームの世界に依存するのか?というところで前回は終わりました。

なぜお子さんはゲームに依存するのでしょうか?

その理由を考える前に、今日はゲーム依存とは具体的にどのようなものかを考えてみたいと思います。

 

ゲーム依存、正式には「ゲーム障害」と言います。

2019年5月、WHOが新しい疾病として認定しました。

2017年のデータですが、日本には成人で421万人、中高生で93万人いると言われ、ネット依存のうち90%がゲーム依存であると考えられています。

ゲームに依存すると、日常生活に様々な問題が現れます。

その例を以下に示します。

・欠席、欠勤

・昼夜逆転

・朝起きられない

・ひきこもり

・イライラしてモノを壊す

・家族に暴力をふるう

上記に加え、症状がひどくなると、幻覚や幻聴の症状が現れたり、まっすぐ歩けなくなったり、長時間同じ姿勢でいるため、血栓ができてエコノミークラス症候群になったりする場合もあります。

 

それではなぜこのような問題が起きてしまうのでしょうか?

それはゲーム依存が人の脳を壊すからです。

人の行動は、脳の前頭前野と大脳辺縁系によってコントロールを受けています。

通常は、人間の理性を司る前頭前野の活動が優位で、本能や感情を司る大脳辺縁系の働きを制御しているのですが、

ゲーム障害になると、前頭前野の働きが不活発になり、大脳辺縁系の活動が優位になってしまうため、本能や感情に支配され、自制的ふるまいが出来なくなってしまうのです。

このように脳が壊れてしまうことが、問題行動を引き起こす原因です。

 

様々なお宅にお邪魔していると、特に男の子を持つ親御さんが、休みの日はずっとゲームしているけど、依存症ではないのか?と心配されている場合が多いです。

ゲーム依存の診断は専門医によって、以下の基準でなされています。

・ゲームのコントロールが出来ない

・他の生活の関心事、日常の活動よりゲームが優先される

・問題が起きているにも関わらず、ゲームを続けてしまう

・個人、家族、社会における学業上、職業上の機能を果たすことが出来ない

・上記4つがすべて当てはまり、その状態が12か月以上続く

このような基準により診断が下され、カウンセリングや認知行動療法による治療が始まります。

それでも改善が見られない場合は、数か月ネット環境の無い病院で入院治療が行われます。

 

ゲーム依存の兆候としては以下のようなものがあります。

・使用時間がかなり長くなった

・朝起きられない

・絶えずゲームのことが気になる

・他のことに興味を示さない

・注意すると激しく怒る

・使用時間や内容などについて嘘をつく

・課金が多い

ゲーム依存は病気です。

もし上記のような兆候が見られる場合は、まず専門機関に一度ご相談されてみる事をお勧めします。

新潟ですと、下記の医療機関で依存症の相談が出来ます。

さいがた医療センター ゲーム・インターネット依存外来

 

動けなくなったお子さんが陥りやすいゲーム依存とはどのようなものかについて見てきました。

それではなぜ、子どもたちはゲームの世界に閉じこもるようになるのか、次回はその背景を考えてみたいと思います。

続きます。

参考図書:ネット依存症 樋口進 著

参考サイト:ゲーム障害の症状、治療法

不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

Categories
ブログ

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

私の母は私が小学生の頃から畑で野菜を育てています。

二週間くらい前でしょうか、目が出たばかりだったミニトマトが、先日畑に行くと20センチくらいまで伸びていました。

植物の伸びようとする力、生きようとする力にしみじみと感じ入るものがありました。

一つ一つの生命には生きようとする力、伸びようとする力が内在している。

そうであるならば、それを支える人間にできることは、適切な環境を整えてあげる事。

そしてその環境は、決してその生きようとする意志を歪ませるようなものであってはならない。

グングン伸びゆくトマトに、一緒に学習している子どもたちの姿が重なって見えました。

私は彼らにとって適切な環境を提供できているのだろうか?

そんな問いが浮かんで来ました。

 

先日のブログでは、

子どもが、明るく元気で聞き分けのいい「良い子」を演じるのは、周囲の期待に応えるため、評価を得るため、であること、

本来の自分の願望を押し殺し、無理に良い子を演じ続けることで、周囲に対して怒りや憎しみが堆積し、それが限度を超えたとき、動けなくなること、

について綴りました。

「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

引きこもりや不登校をすべてこのストーリーで説明することはできません。

あくまでも私の知る限りでは、このようなケースが多くみられるということです。

評価の眼差し過剰な社会で、評価を得るために無理をし続けてきた結果動けなくなった子ども。

その子どもに必要なものとは、何でしょうか?

 

お子さんが動けなくなったとき、多くの親御さんが取られる態度は、𠮟咤激励して学校に行かせようとすること、だと思います。

一時的にそれで乗り越えられたとしても、その状態が長続きすることはありません。

またしばらくすると動けない状態に戻るお子さんが多いです。

今までずっと頑張ってきたお子さんに必要なのは、さらに頑張ることではなく、まずは休むことです。

一口に休むと言っても、ただ休んでいればいいわけではありません。

休むためにも押さえておかなければならないことがあります。

 

動けなくなったお子さんに必要なもの。

その子が今どのようなプロセスにいるかによってそれは変わってくるのですが、

ここでは動けなくなった最初期に必要なものについて考えてみたいと思います。

私の考える必要なもの、以下の三つです。

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

1、責められないこと

たとえ学校を休んでいても、休んでいることに罪悪感を抱くような環境であれば、休めていることにはなりません。

「いつまで休んでいるつもりなの!」、「明日は学校に行きなさいよ!」などの言葉がけや、お子さんの顔を見るたびにため息をついたりする態度など、

休んでいる期間が長くなるにつれ、そばにいる親御さんもイライラが募ってついついこのような言動をとってしまいがちなのですが、

休んでいることに罪悪感を抱いてしまうような環境に身を置いても、それはただ学校に行っていないというだけで、休めていることにはならないのです。

それでは、どうするか?

2に続きます。

 

2、共感的な態度

評価の眼差しが過剰になった世界に必死に適応しようとして、疲れて動けなくなってしまった。

そのような状態のお子さんには共感的な態度で接することが必要です。

共感的な態度で接するとは、どのようなものをいうのでしょうか?

共感の示し方は様々だと思います。

例えば、お子さんの身体をマッサージしてあげるとか、

嫌がらないのであれば、頭を撫でてあげるとか、

好きな食べ物を作ってあげるとか、

お子さんのしてくれたほんのちょっとしたことにでも「ありがとう」と言い続けるとか、

返事が返ってこなくても毎朝「おはよう」と声をかけ続けるとか、

もし話をしてくれるようになったら、お子さんの話に共感的に耳を傾けるとか、

その方法は本当にさまざまだと思います。

そういう態度で接し続けることで、評価や競争の世界で強張っていたお子さんの気持ちが徐々に和らいでいきます。

 

3、力を奪うものから遠ざけること

2で共感を示すことが大切と述べましたが、共感を示すことは、言いなりになることではありません。

心穏やかに休むためには、力を奪うようなものから、お子さんを遠ざける必要があります。

そのためには、「ダメなものはダメ」と毅然とした態度をとることも必要です。

お子さんの力を奪うものとはなんでしょうか?

大人でも子どもでも、直面したくない現実から目をそらすために、別の世界に逃避してしまうことがあります。

それが一時的であれば問題はありませんが、その逃避状態が常態化してしまうのは問題です。

逃避状態の常態化とは、何かに依存することです。

依存する対象は人により様々ですが、大人であれば、アルコール、ギャンブル、薬物などがありますし、

子どもであれば今一番気を付けなければいけないのは、ネットとゲームです。

ネット・ゲーム依存症になると、ゲームのこと以外考えられなくなり、ご飯も食べずに一日中やり続け、自分の意志で止められなくなったり、ひどくなると幻覚や幻聴、歩行困難などの症状が出ることもあります。

このような状態に至っては、心穏やかに休むことは不可能です。

そのような状況にならないために、お子さんの力を奪うものから適切な距離を取らせることが必要です。

 

評価の眼差し過剰の社会で疲弊したお子さんが、心穏やかに休むために必要な環境について考えてきました。

私が考える心穏やかに休むために必要なものは

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

の3つです。

それでは、お子さんのそばで支援する親御さんが、1のような状態に至らず、2のような態度でお子さんと向き合うために必要なものとは何でしょうか?

そしてなぜ子どもはゲームやネットの世界に居場所を見出そうとしてしまうのでしょうか?

今日はまた長くなってしまいましたので、次回以降考えてみたいと思います。

続きます。

不登校、ひきこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

Categories
ブログ

「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

今日の新潟市、晴天が広がり少し動くと汗ばむくらいです。

先ほど家族で家の近所を散歩してきました。

息子は、タンポポがお気に入りらしく、花を摘んでは花びらをむしって喜んでおりました。

河川敷を歩いたのですが、川から吹く風が心地よく、のんびりと過ごすことが出来ました。

 

前回のブログでは、不登校、引きこもりという現象が増加する裏には、大人社会の構造変化がある、というお話を綴りました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~

気持ち一杯になって動けなくなったお子さんに対してどのような接し方をしたらいいのか。

それを考える前に、なぜ動けなくなるのかをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

なぜならそれが、動けなくなったお子さんに対してどう接すればよいか、のヒントになると考えるからです。

以前のブログで、子どもと接するときに必要なのは、「評価の眼差し」、「共感の眼差し」の二つである、と綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

子どもが健全に成長するためには、この二つの眼差しがバランスしていることが大切なのですが、

ここ何回かに分けて書いてきた通り、今は評価の眼差しが過剰になっている時代です。

そんな時代の中で、今まで元気で明るく聞き分けのよい良い子だったのに、何かのきっかけで動けなくなる。

私の知る限りですが、引きこもりや不登校にはそのようなケースが多いように感じます。

それでは彼らはなぜ動けなくなるのでしょうか?

 

子どもというのは本来わがままな生き物です。

私には今もうすぐ一歳半になる子どもがいますが、彼は、自分の願望が通らなければギャンギャンと大声をあげて泣いて怒ります。

接しているこちらは本当に大変だなぁと感じることも多々ありますが、あれが本来の子どもの姿なのでしょう。

だからどんな子どもの中にも、わがままで自分勝手にやりたいという願望はあるのです。

もちろん成長するなかで、それを抑え、周囲と折り合いをつけて生きる事を学ぶのはとても大切なのですが、

まだ小さいうちからその我慢が過剰になって、自分の願望を押し殺し、一生懸命周りの大人の期待に応えようとしているのが、明るく元気で聞き分けのよい良い子の姿です。

それではなぜ彼らは「良い子」を演じるのでしょうか?

それは、彼らを取り巻く世界が共感性に乏しく、過剰な「評価の眼差し」に満ちているからです。

もし自分の願望を素直に表現して、周囲の期待に応えず評価を得られなければ、自分は見捨てられてしまうんじゃないか?

そのような不安を子どもに抱かせる雰囲気が社会に蔓延しているからこそ、彼らは無理をして「良い子」を演じているのです。

 

自分の願望を押し込めて無理に「良い子」を演じ続けていれば、いつかその子は自分に対してそのような我慢を強いる周囲に怒りや憎しみを持つようになるでしょう。

「良い子」を演じるその仮面の裏側で、彼らは沢山の闇を抱え込んでいるのではないでしょうか?

その怒りや憎しみが外へ向かえば、暴力や夜遊びなどの問題行動になるでしょうし、それが内へと向かえば、自分の殻に閉じこもり引きこもることになるのでしょう。

私の実感としては、今は怒りや憎しみが外へ向かう子よりも、内へ内へと向かい動けなくなる子の方が多いように感じます。

ここに書いていることは、私の経験を元にしたものであり、もちろん例外もあるかと思います。

しかし、私の知る限りにおいて考えてみると、不登校、引きこもりの増加という社会現象の裏側には、

このような評価の眼差し過剰な社会の中で、子どもたちが評価を得られず、期待に応えられず、見捨てられたらどうしよう、という不安を抱え込んでいる、

このような構造があるように感じられます。

 

このように「評価の眼差し過剰な社会」の中で、評価されることに、期待に応えることに疲れて動けなくなった子どもたち。

このような構造が認識できれば、自ずと彼らに必要なものが見えてきます。

長くなりましたので、また次回。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

Categories
ブログ

二つの眼差し ~株式会社化する社会~

前回のブログでは、子どもの健全な成長には、評価の眼差し、共感の眼差し、この二つのバランスが必要である、という内容を綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

それでは実際に子ども見つめる、社会の眼差し、私たち大人の眼差しはどのようになっているのでしょうか?

考えてみたいと思います。

 

私が尊敬する思想家の内田樹先生は、「株式会社化する社会」という言葉で現代日本社会の趨勢を表現しています。

これは、構成要員が、社会の様々な領域に株式会社の運用ルールを適用すれば、万事がうまく運んでいく、という信憑に取りつかれた社会のことです。

株式会社の運用ルール、私が考えるものは以下の三つです。

一、競争と評価

二、トップダウンによる意志決定

三、効率とスピードを重視

この社会の流れは私が記憶している限り、2000年代前半にアメリカ初の新自由主義が日本に侵入してきて以来のことだと思います。(実はもっと古いのですが、それはまた次回)

注:新自由主義・・・政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し社会に行き渡るとする。(デジタル大辞泉より)

この新自由主義の発想のもと、郵便事業の民営化、労働者派遣法の改正など様々な規制緩和が実施されました。

その流れの中で、いつの間にか日本全体に、すべての組織は株式会社のルールに準じて運用されるべき、という「信仰」が根付いてしまったのだと私は感じています。

さて、その信仰は、命題として真と言えるのでしょうか?

私は違うと考えます。

その反例を示します。

世の中には、株式会社の運用ルールに馴染まない組織というものがあります。

私が考えつくものは、医療、宗教、行政、農林漁業、そして教育です。

これらの領域に株式会社の運用ルールを持ち込んではダメなのです。

何故ダメか、教育と株式会社の運用ルール一、二、三を関連づけて、その理由を見ていきたいと思います。

一、競争と評価

これはもう先日のブログで考察したことですが、子どもが成長するためには、評価の眼差しに加え共感の眼差しが必要です。

競争を煽り、評価するだけでは、他者評価に依存し自分の考えを持てない子どもになってしまいます。

二、トップダウンによる意志決定

子どもが成熟するためには葛藤が必要です。

そして子どもが葛藤するために必要なのは、いろいろな大人が少しずつずれたことを言える環境です。

あの人はああ言うけれど、この人はこう言う。

様々な大人の言うことのずれの中で、子どもは葛藤し、自分なりの価値観を獲得していきます。

これが成熟というプロセスです。

トップダウンの意志決定がなされる組織では、このずれは忌避されます。

そこには単一の価値観しか存在し得ません。

そしてそのような環境下で、子どもの葛藤、成熟など期待できるはずもありません。

三、効率とスピードを重視

子どもを育てたことのある親御さんや、子どもに携わる仕事をされている方ならすぐにわかることと思いますが、

子どもがある状態からある状態へ直線的に成長するなどということはあり得ません。

子どもの成長とは、様々なトライ&エラーを繰り返しながらあっちへぶつかり、こっちへぶつかりするプロセスを通じて果されるものです。

だから、親は、教育に携わる人間は、そのトライ&エラーのプロセスを待ってあげる必要があるのです。

「待つ」というプロセスが不可欠な領域に「スピード」や「効率」などという発想を持ち込んでいいはずがありません。

子どもは工業製品ではないのです。

 

教育を取り上げて具体的に見てきましたが、先ほど挙げた五つの分野、人が人らしく心穏やかに生きていくために、必要不可欠なものばかりです。

株式会社とは、その性質上儲けがなければ存続し得ない組織です。

「儲けが立たなくなったから私どもはトンズラします」でそのサービスを止められてしまっては、その後私たちの生活が成り立たなくなってしまうのです。

だからこれらの分野は株式会社の運用ルールを適用してはいけないのです。

今見てきたように、教育という分野に株式会社の運用ルールを持ち込んではならないのですが、それでは今、実際の教育の現場はどのようになっているでしょうか?

株式会社化から守られているのでしょうか?

残念ながらそうはなっていない、と私は感じています。

長くなりましたので続きは次回。

不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。

Categories
ブログ

反省の方法 ~それは事実か解釈か~

夜の授業を終えて家路につく道すがら、車の窓を開けるとあちらこちらからカエルの鳴き声が聞こえます。

代掻きと田植えを終えた田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声です。

人によってはうるさいと感じるのかもしれませんが、私は田舎で生まれ育った人間なので、子どもの頃からこの鳴き声を聞きながら育ちました。

大人になった今でも、春になってこのカエルの鳴き声を聞いていると、とても安らいだ気持ちになります。

「三つ子の魂百まで」というのは、本当にその通りですね。

私はこれからも春が来るたびにこの鳴き声に安らぎを感じるのだろうと思います。

少雪の影響を受けることなく今年も豊作に恵まれますようにと願っています。

 

前回のブログでは、

・反省とは、客観的視点から自分の過去の振る舞いを振り返り、改善点を見出しそれを現実に反映させること

・起きた出来事を記録し、それを読み返すことで客観的視点から自分の振る舞いを振り返ることが出来ること

という内容を綴りました。

反省の方法 ~本当にそこにリンゴはあるか~

もちろんただ、出来事を記録するだけでも良いのですが、より客観的な視点を得るためには、記録の仕方にはコツがあります。

ここまでが前回の内容です。

今回は、より客観的視点を得るための出来事の記録の仕方について綴ります。

 

例えばある日、こんなことがあったとします。

<ケース1>

職場の同僚の何人かが、向こうの方でヒソヒソと話をしている。

自分の悪口を言われているのではないか、と感じてすごく嫌な気持ちになった。

<ケース2>

朝、子どもに「おはよう」と挨拶をしたら、返事が返ってこなかった。

無視されたように感じて、怒ってしまい喧嘩になった。

ケース1、ケース2のような出来事があって、それを記録したとします。

確かにこれらは一つの出来事なのですが、さらに三つの段階に分けることが出来ます。

三つの段階、それは、事実、解釈、行動または結果の三つです。

 

ケース1で言えば、このように分けられます。

事実:同僚が向こうの方で、ヒソヒソ話をしている

解釈:自分の悪口を言っているのではないか

結果:嫌な気持ちになる

ケース2は以下のようになります。

事実:朝、子どもに挨拶をしたら返事が返ってこなかった

解釈:自分を無視している

行動:腹が立って喧嘩になる

先日の記事と関連づければ、この「事実」とは客観のことであり、「解釈」が主観です。

人は誰でも自分自身の主観から完全に自由になることは出来ないのですが、この主観、つまり解釈が、起きた出来事を、事実のままに客観的に見ることを邪魔するのです。

起きた出来事をただ記録するだけでは、それが誰の目にも客観的な事実なのか、自分の解釈が介入し事実と主観が混然一体となった自分自身の創作物なのか、を判別することはできません。

しかし一つの出来事を、事実、解釈、行動または結果の三要素に分類することで、

自分の解釈がその行動や結果を引き起こしていること、そしてその出来事に対して別の解釈の余地があること、そしてその別の解釈を採用していれば別の行動または結果に繋がっていたこと、

これらのことに自覚的になることが出来るのです。

先ほどのケース1で言えば、自分以外の誰かの噂話をしているのかも、という解釈もあり得ますし、ケース2で言えば、お子さんがなにか他の考え事をしていて聞こえていなかった、という解釈もあり得ます。

このような別の解釈をしていたら、嫌な気持ちになる、とか、腹を立てて喧嘩になる、とは別な行動が起こったはずです。

 

ただ起きた出来事を記録するだけでも、それなりに客観的な視点を得ることはできるのですが、

このように起きた出来事を、事実、解釈、行動の三要素に分類するだけで、起きた出来事を、自分の主観と客観に分けることが出来るので、より客観性を獲得できるようになります。

そして、その三つの段階に分けた記録を後から読み直すときに、自分が事実に分類し客観的であると思い込んでいたことの中にも、まだ自分の主観が混入していることに気が付き、より客観的視点から自分の、解釈と行動の傾向性を振り返ることが可能になります。

そして必要とあれば、その傾向性を自分の意志で変えていくことも可能になります。

つまり、過去を振り返り自分の振舞いの中に改善点を見出し、現実に反映させるという、「反省」が可能になるということです。

 

今日の内容のまとめです。

・起きた出来事を、事実、解釈、行動または結果の三つに分類し記録する。

・三つに分類し記録することで、自分自身の事実に対する解釈と行動の傾向性を自覚することが出来る。

・その後、記録を読み返すことで、記録したときには客観的事実であると思えたことの中にも、自分の解釈が混ざっていることに気が付き、より客観的に振り返ることが出来る。

ご自身の振る舞いを客観的視点から振り返る際に、ぜひ試してみて頂きたい方法です。

不登校、引きこもり、家庭教師のご相談はこちらからどうぞ。

 

Categories
ブログ

反省の方法 ~本当にそこにリンゴはあるか~

数日暑い日が続きましたが、今日は朝から五月らしい気持ちの良い風が吹いています。

田植えも始まり、車の窓を開け田舎道を走っていると、どこからか風に乗って土の匂いが香ってきます。

風の肌触り、空気の匂い、空の色、咲いている花。

年齢を重ねる中で、そのような季節の変化に気づき、味わえるようになったのだなぁと感じます。

若いころは年齢を重ねることを単に喪失と考えていましたが、歳を重ねるというのは得るものもたくさんあることに気づいてからは、今までの認識が変わりました。

十年後も年を重ねることで、こんなことが得られたと思えるように、日々を重ねていきたいものです。

 

前回のブログでは、

危機的状況において過去を振り返りご自身を責めてみても、自分で自分のパフォーマンスを下げてしまうこと、

過去を振り返り自分自身を責める「後悔」ではなく、過去の自分の振る舞いに改善点を見出し、今の状況に反映させる「反省」をすることが大切であること、

という内容を綴りました。

生き延びるために必要なこと ~後悔と反省~

それでは具体的に「反省」とはどうすることなのか?

今日はそのことを考えてみたいと思います。

 

反省とは、客観的視点に立って、過去の自分の振る舞いを振り返り、その中に改善点を見出すこと、そしてそれを現状に反映させること。

これを繰り返していければ、人間のパフォーマンスはどんどん向上します。

論理的にはそうなのですが、事はそう簡単ではありません。

なぜなら「客観性」を保つことが難しいからです。

それが何であるかを考えるとき、それが何でないかを考えることで、それ自体に対する理解が深まる、ということがあります。

そこでまず「客観」とその反意語「主観」の定義を見てみたいと思います。

客観:当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考える事。またその考え。

主観:その人ひとりのものの見方。(デジタル大辞泉より引用)

主観と客観の一致を、またはその不一致を論理的に確かめる方法はありません。

例えば今自分の目の前にリンゴが見えているとします。

ここで考えてみて頂きたいのですが、「見えていること」、が「そこに存在していること」を担保していると言えるでしょうか?

「見えていること」はあくまでも、自分にとっての主観です。

だから「見えていること」を以って、そのリンゴが本当にそこに存在しているかどうかを、つまり自分の主観が客観的に真であるかどうかを言い切ることは出来ません。

その客観性を確認しようと思うならば、論理的には自分という人間から脱出して、自分自身を含めて客観視する必要があるのですが、そのようなことは物理的に不可能です。

つまり主観を脱して、完全な客観を得る事は出来ないということです。

それ故に誰の考えの中にも必ずその人にとっての主観が紛れ込んでいます。

私の書いていることの中にも、自分ではそうと気づかずにたくさんの主観が紛れ込んでいるはずです。

過去を振り返り反省するのがそれほど容易ではないのは、今見てきたように「客観性」を確保することが難しいからです。

しかし、完全な客観性を得ることはできませんが、ある程度の客観性を確保することは可能です。

それは何をする事かと言えば、「出来事を記録すること」と「後でそれを読み返すこと」です。

 

先日のブログで「私」という人間はさまざまな人格要素がコミュニティを形成したものである、と綴りましたが、

生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

「私」というコミュニティのメンバーには「過去の私」も含まれます。

「今の私」から見れば「過去の私」は他者であるということ、つまり「出来事を記録した私」は、「それを読み返す私」から見れば、他者であるということです。

先日、ライティングに関する本を読んだのですが、その中のアドバイスに「書いた文章は一晩寝かせること」というものがありました。

作文であれ、ブログ記事であれ、ラブレターであれ、書いている真っ最中は「なんて素晴らし文章だ!」、と思えても、

一晩経って読み返してみると、書き手と読み手の間にあまりにも温度差がありすぎて、お寒い文章に感じられる、そんな経験を持っている方も多いのではないでしょうか?

これがまさに『「記録した私」と「読み返す私」は他者である』ということの意味です。

「今の私」と「過去の私」は他者である、と言ってもそこは一人の人間ですから完全に分断されているわけではありません。

だから完全な客観性を得ることは不可能ですが、出来事を記録し、それを読み返すことで、ある程度の客観的視点を獲得することが可能です。

つまり「記録すること」と「読み返すこと」で、私たちは客観的に反省出来るということです。

 

今日の内容をまとめると、以下のようになります。

「反省」には客観的視点が必要であるが、主観と客観を完全に分けることは物理的に不可能である。

しかし、「出来事を記録すること」と「それを読み返す」ことで、ある程度の客観性が確保できるため、過去の自分の振る舞いを振り返り改善点を見出す、ということが可能になる。

 

出来事を記録し、それを読み返すだけでも、ある程度の客観的視点は得られますが、さらに客観性を高めるためには、記録の仕方にコツがあります。

次回はその記録の仕方について。

続きます。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

Categories
ブログ

生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

世の中はゴールデンウィークに突入ですが、私は全く関係なく仕事です。

仕事ではなかったとしても、もともと人込みや賑やかな場所が苦手なので、きっと出かけないのだろうと思いますが。

このウイルス禍で仕事が減ったり、無くなったりされる方も多い中、自分の仕事を必要としてくれる方がいる。

その有難さを感じながら仕事をしております。

 

前回、前々回の記事で、災害時に現れる「災害ユートピア」という助け合いのコミュニティについて、そしてなぜそのようなコミュニティが立ち上がるのか、ヒトの進化の過程を振り返りながら考察してきました。

災害ユートピア ~生き延びるために必要なこと~

生き延びるために必要なこと ~ホモサピエンスの生存戦略~

まとめるならば、ホモサピエンスは、血縁関係を超えた他者と大規模なコミュニティを形成し、助け合うことが出来たから、他の人類が淘汰される中、生き延び繁栄することが出来た。

そのような進化のバックグラウンドがあるからこそ、災害という危機的状況において、自然と見ず知らずの他者と助け合いのコミュニティ、「災害ユートピア」を形成することが出来る。

これが前回、前々回の記事の内容です。

コミュニティという言葉を聞くと、自分以外の他者との間に形成するものと私たちは思っていますが、それだけではなく、自分の中に住むたくさんの他者との間にも、コミュニティを形成して私たちは日々生きている、というのが本日の内容です。

私が「自分の中に住む他者」という考えを得るきっかけをくれたのが、作家の平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』という一冊です。

私たちが「私」という存在について考えるとき、それはもうこれ以上分けることが出来ない一つの人格という考えを抱きがちです。

それ故に巷にあふれる自己啓発本の類には「今のあなたは本当の自分じゃない。もっとキラキラ輝ける本当の自分を探そう!」などというメッセージが横溢しているのですが、著書の中で平野さんはそのような人間観に異を唱えます。

“すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこでこう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である”

対人関係ごとに見せる複数の顔のことを平野さんは「分人」という言葉で定義します。一人の人間の中にはこの分人が同居していて、その集合体として私という人間が出来上がっている、というのが「分人」の人間観です。

私はこの「分人」という言葉を「自分の中に住む他者」「人格要素」などの言葉に換えて、使いたいと思います。

この考え方をもとに自分自身を振り返れば、私の中には様々な他者が住んでいます。

優しい自分、真面目な自分、ずる賢い自分、弱気な自分、自堕落な自分。

どのような状況に身を置くか、どのような人たちと同居するかで、自分の中に住むどのような他者が前景化してくるかが変わってきます。

例えば、気の置けない友人と一緒にいるとき、ご自分のお子さんと一緒にいるとき、苦手な上司と一緒にいるとき、ご両親と一緒にいるとき、それぞれの場面を想像してみてください。

それぞれの状況下で、全く変わることのない唯一の人格要素によってその場に臨むことが出来るでしょうか?

それぞれの状況でそれぞれ別の人格要素が表出してくるのではないでしょうか?

このように私たちは、日々その状況に適した人格要素を用いて、生きていることが分かります。

そしてこれが大切なことなのですが、そのうちのどれか一つが本物で、それ以外の人格要素が偽物というわけではありません。

例えば、気弱な自分より勇敢な自分を、邪悪な自分より慈悲深い自分を、本当の自分と思い込み、その裏返しの社会的に好ましくない人格要素から目を逸らしたくなるのが人情というものですが、

そもどれもが「自分の中に住む他者」「分人」であり、その様々な他者がひしめき合いながら一人の「私」というコミュニティを形成している、

そしてその構成員には、今まで自分が生きてきた人格要素、つまり過去の自分や、これから自分が生きるであろう人格要素、つまり未来の自分も含まれている。

それが「私」という存在なのだと私は考えます。

今日の内容をまとめると、「私」とはこれ以上分けることが出来ない唯一無二の人格要素から成る存在ではなく、その状況に合わせて様々な私が前景化しては入れ替わる、複数の人格要素からなる一つのコミュニティである、ということです。

長くなりましたので、今日はここまでとさせて頂きます。

続きます。

不登校、引きこもり、家庭教師のご相談はこちらからどうぞ。

 

 

Categories
ブログ

生き延びるために必要なこと ~ホモサピエンスの生存戦略~ 

前回の記事では、災害時に即時的に現れる助け合いのコミュニティを「災害ユートピア」と呼び、様々な国、様々な時代の災害時に確認されている、ということを綴りました。

生き延びるために必要なこと ~災害ユートピア~

それではなぜそのようなコミュニティが生まれるのでしょうか?

今日は私が先日観たテレビ番組の内容と絡めながら、その理由を考えてみたいと思います。

先日観たのはNHKスペシャルの「人類誕生」という番組です。

その中で、ネアンデルタール人とホモサピエンスの生活様式の違いが紹介されていました。

人類は、その誕生から数百万年かけて、猿人、原人、旧人、新人という経路をたどり進化してきました。

ネアンデルタール人は、旧人に属し、約40万年前に地球上に現れ、最盛期にはヨーロッパを中心に2万人が生活していたと考えられています。

旧人というと知的に劣ったイメージを抱きますが、ネアンデルタール人は、現生人類より大きな脳容積(1550mlほど)を持ち、装飾品を身に着けたり葬礼の習慣を持つなど、高度な文化を持っていたことが遺跡調査によって分かっています。

そして我々ホモサピエンスですが、もちろん新人に属し、約20万年前に中央アフリカに現れ、その後グレートジャーニーを経て世界中に広がって行きました。

その旅の途中、今から約5万年前には、ヨーロッパでホモサピエンスとネアンデルタール人が共存していた時代があり、両者の間で種の交雑があったこともDNAの解析から明らかになっています。

両者の生活様式は大きく異なりました。

骨格も太く屈強な身体を持っていたネアンデルタール人は、原始的な石器を用いて数人の集団で大型草食獣に肉弾戦を挑み狩猟を行っていました。(ネアンデルタール人の骨からケガや骨折の痕跡がたくさん発見されています。)

一方のホモサピエンスは、ネアンデルタール人に比べ華奢な体つきだったため、大きな獣を狩ることはできず、自分たちより体の小さな草食動物を捕え生きながらえていました。

しかしその両者の優劣関係は数千年の間に逆転します。

体格で劣るホモサピエンスは、ネアンデルタール人のコミュニティ(最大20人程であったことが分かっています)より大きなコミュニティ(最大150人規模)を形成し、大人数で獲物を追い込み、高度な狩猟道具を使って狩りをするようになっていきました。

番組の中では、この狩猟道具の進化と、コミュニティの規模が両者の優劣を逆転させた要因だと述べられていましたが、私はこの集団形成が一番大きな理由だと感じました。

大規模な集団を形成すれば、その中には狩りの作戦を考えるのが得意なものがいたり、手先が器用で道具作りに長けているものがいたり、集団を統率することに秀でたものがいたり、得意分野を持ち寄って助け合うことが可能になるからです。

一方のネアンデルタール人は、狩猟道具やコミュニティ規模に大きな進化が見られず、屈強な体と大きな脳を持っていたにも関わらず、約3万年前に地球上からその姿を消してしまいます。

なぜホモサピエンスは血縁関係を超えてこのように大きな集団を形成できたのでしょうか?

その答えは脳の構造にありました。

ホモサピエンスの脳容積はネアンデルタール人のものより小さいのですが、社会性や共感性を担う前頭葉や頭頂葉が大きく発達していたため、血縁関係を超えた他者と協力し生きていけたというのです。

つまり、ホモサピエンスの生存戦略とは、一人一人が強い個になることではなく、他者と協力し合う大きな集団を形成することだったのです。

その証拠になるような実験も番組内で紹介されていました。

生後数か月の赤ちゃんに、三匹の動物の指人形劇を見せます。

真ん中の人形が一生懸命箱を開けようとしています。左側の青い服を着た人形はそれを邪魔し、右側の黄色い服を着た人形はそれを助けようとします。

劇を見せたあと、赤ちゃんの前に青い服の人形と黄色い服の人形を差し出すと、ほぼすべての赤ちゃんが黄色い服の人形に手を伸ばすのだそうです。そしてその結果は服の色を変えて実験しても同じでした。

この実験からわかることは、生後数か月の赤ちゃんでさえ、他者と協力関係を築く個体を好ましく感じるようになっているということです。

だいぶ説明が長くなってしまいましたが、「災害ユートピア」の話をしていたのでした。

今見てきたように私たち現生人類の生存戦略が、他者と協力し合う大集団を築くことであると分かれば、非常時になぜ即席の助け合いのコミュニティが形成されるのか、その理由も自然と納得できます。

ひとまずの結論として言いたいことは、協力し助け合うコミュニティを形成することで私たちの祖先は生き延びてきた、その生存戦略が現代の私たちにも本能のレベルで刷り込まれているからこそ、危機的状況に際会したときそこに災害ユートピアが形成されるのだということです。

そしてこの続きとして、コミュニティというのは自分の外側にいる他者とだけ形成するものではなく、自分の内にいる他者とも形成するものです、という話をしたいのですが、大変長くなってしまいましたので、また次回。

続きます。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

Categories
ブログ

生き延びるために必要なこと ~災害ユートピア~

やや肌寒い感じはありますが、今日の新潟市内は本当に良い天気です。

しかし人通り、車の量などを見ていると、やはり普段の街とは違う印象を受けます。

コロナウイルスの影響が広がる中で、私も外出したり人と会ったりする機会が減ってきました。

お店を休業したり、営業形態を変えたり、身近な人達にも影響が広がっています。

皆さん大変な状況にあるにも関わらず、親切にしてもらったり、ねぎらいの言葉をかけてもらったり、

ありがたいことに私は普段からそういうことが多いのですが、普段にも増してこのウイルス禍でそのように接して頂くことが増えたように思います。

大変な状況にあるにも関わらず、誰かに優しくしてもらったこと。

思い出してみると今までにそういうことが何度もあったことに気が付きました。

子どもの頃のことです。

冬に大雪が降って、かぎっ子だった私は学校からの帰り道、帰ったらまず家の前の雪かきをしないと家に入れないと思っていたのですが、

家に着くと、家の前、それから車庫の前まできれいに雪かきがされていました。

自分の家の周りだけでも大変だっただろうに、近所のおじいさんが私の家の周りも雪かきしてくれていたのです。

私が特別に人との出会いに恵まれているからなのでしょうか?

そうだとすれば本当にありがたいことなのですが、それだけでは無いようです。

先日、このような現象を説明する言葉に出会いました。

「災害ユートピア」という言葉です。

災害ユートピアとは:

大規模な災害が発生すると、被災者や関係者の連帯感、気分の高揚、社会貢献に対する意識などが高まり、一時的に高いモラルを有する理想的なコミュニティーが生まれる現象。災害を契機に生み出されたユートピア。(Weblio辞書より引用)

これはアメリカの著作家レベッカ・ソルニットが同名の著書で提唱した概念です。

自身が1989年にカリフォルニア州で発生したロマ・プリータ地震で被災した際の経験を踏まえ、今までに起きた大災害を調査、研究した結果、

災害時には即席の助け合いのコミュニティが形成され、見知らぬ人同士が助け合うという現象が起きていることを発見しました。

阪神淡路大震災や東日本大震災の際にも、助け合いや支え合いの雰囲気が高まり、世界から日本人の公共性の高さが称賛されたことがありましたが、

これは決して日本に限った話ではなく、様々な時代、様々な国で共通にみられる現象だということです。

続きます。

不登校、学習に関するご相談はこちらからどうぞ。