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生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

世の中はゴールデンウィークに突入ですが、私は全く関係なく仕事です。

仕事ではなかったとしても、もともと人込みや賑やかな場所が苦手なので、きっと出かけないのだろうと思いますが。

このウイルス禍で仕事が減ったり、無くなったりされる方も多い中、自分の仕事を必要としてくれる方がいる。

その有難さを感じながら仕事をしております。

 

前回、前々回の記事で、災害時に現れる「災害ユートピア」という助け合いのコミュニティについて、そしてなぜそのようなコミュニティが立ち上がるのか、ヒトの進化の過程を振り返りながら考察してきました。

災害ユートピア ~生き延びるために必要なこと~

生き延びるために必要なこと ~ホモサピエンスの生存戦略~

まとめるならば、ホモサピエンスは、血縁関係を超えた他者と大規模なコミュニティを形成し、助け合うことが出来たから、他の人類が淘汰される中、生き延び繁栄することが出来た。

そのような進化のバックグラウンドがあるからこそ、災害という危機的状況において、自然と見ず知らずの他者と助け合いのコミュニティ、「災害ユートピア」を形成することが出来る。

これが前回、前々回の記事の内容です。

コミュニティという言葉を聞くと、自分以外の他者との間に形成するものと私たちは思っていますが、それだけではなく、自分の中に住むたくさんの他者との間にも、コミュニティを形成して私たちは日々生きている、というのが本日の内容です。

私が「自分の中に住む他者」という考えを得るきっかけをくれたのが、作家の平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』という一冊です。

私たちが「私」という存在について考えるとき、それはもうこれ以上分けることが出来ない一つの人格という考えを抱きがちです。

それ故に巷にあふれる自己啓発本の類には「今のあなたは本当の自分じゃない。もっとキラキラ輝ける本当の自分を探そう!」などというメッセージが横溢しているのですが、著書の中で平野さんはそのような人間観に異を唱えます。

“すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこでこう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である”

対人関係ごとに見せる複数の顔のことを平野さんは「分人」という言葉で定義します。一人の人間の中にはこの分人が同居していて、その集合体として私という人間が出来上がっている、というのが「分人」の人間観です。

私はこの「分人」という言葉を「自分の中に住む他者」「人格要素」などの言葉に換えて、使いたいと思います。

この考え方をもとに自分自身を振り返れば、私の中には様々な他者が住んでいます。

優しい自分、真面目な自分、ずる賢い自分、弱気な自分、自堕落な自分。

どのような状況に身を置くか、どのような人たちと同居するかで、自分の中に住むどのような他者が前景化してくるかが変わってきます。

例えば、気の置けない友人と一緒にいるとき、ご自分のお子さんと一緒にいるとき、苦手な上司と一緒にいるとき、ご両親と一緒にいるとき、それぞれの場面を想像してみてください。

それぞれの状況下で、全く変わることのない唯一の人格要素によってその場に臨むことが出来るでしょうか?

それぞれの状況でそれぞれ別の人格要素が表出してくるのではないでしょうか?

このように私たちは、日々その状況に適した人格要素を用いて、生きていることが分かります。

そしてこれが大切なことなのですが、そのうちのどれか一つが本物で、それ以外の人格要素が偽物というわけではありません。

例えば、気弱な自分より勇敢な自分を、邪悪な自分より慈悲深い自分を、本当の自分と思い込み、その裏返しの社会的に好ましくない人格要素から目を逸らしたくなるのが人情というものですが、

そもどれもが「自分の中に住む他者」「分人」であり、その様々な他者がひしめき合いながら一人の「私」というコミュニティを形成している、

そしてその構成員には、今まで自分が生きてきた人格要素、つまり過去の自分や、これから自分が生きるであろう人格要素、つまり未来の自分も含まれている。

それが「私」という存在なのだと私は考えます。

今日の内容をまとめると、「私」とはこれ以上分けることが出来ない唯一無二の人格要素から成る存在ではなく、その状況に合わせて様々な私が前景化しては入れ替わる、複数の人格要素からなる一つのコミュニティである、ということです。

長くなりましたので、今日はここまでとさせて頂きます。

続きます。

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