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続・「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

前回のブログでは、子どもたちからの、

「こんなこと勉強しても大人になってから使わないでしょう!」

という言葉を受け、私の考えを綴りました。

二つあるのですが、その一つ目が、

「それを学ぶ前の人間に、それを学ぶ意味は分からない」

ということでした。

前回のブログ記事 「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

今回は二つ目を綴ります。

推敲の段階では二つと思っていましたが、よくよく考えると前回の考えと地続きだなという気もしてきて、

二つに分ける必要がなかったのだなと後から気づきました。

とりあえず綴ります。

 

~汎用的学び~

子「なんだこれ、訳わからん!」

私「簡単ではないよね。」

子「もうやりたくない!だいたい大人になって二次関数使う人なんているんですか?」

私「使う人より使わない人のほうが圧倒的に多いかもね。」

子「じゃあこんなん勉強しても意味ないじゃないですか!」

私「いやいや、あのねぇ、、、」

今授業中のやり取りを一部再現してみましたが、

ここに書いたように、この手の質問を受けるのは、理科や数学を学習している時が多いです。

確かに二次関数を大人になってから利用する人はごく一部の限られた人かもしれません。

しかし、私たちは数学や理科を通じて、日常生活に欠くことのできないもっと汎用的能力を涵養しているのです。

それは論理的にものを考える力です。

それは、日常生活で腕立て伏せの動作をすることは稀であっても、腕たせ伏せで鍛えた筋肉が日常生活で大いに役立つこと、とよく似ています。

つまり学んでいる題材それ自体を実際に使うことはなくとも、その題材を通して養った力は大いに役に立つということです。

論理的に考える力は、誰かに物事を説明するとき、誰かから物事の説明を受けるとき、必要不可欠な力です。

それを持たなかったために、論理的に破綻してるような嘘くさい詐欺に引っ掛かるなどということさえある訳です。

数学、理科だけではありません。

詳しくは割愛しますが、例えば歴史を学ぶことで、文脈の中で出来事を見る力を、

英語を学ぶことで、日本語とは別の思考方法を私たちは学んでいるのです。

 

~意図せず何かを学んでいる~

上で、私たちは題材それ自体に加え、もっと汎用的な能力を身に着けているという話を綴りました。

もう一歩論を進めれば、何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている、でもそれが何なのかをうまく認識できない。

そんな学びもあるのではと私は考えます。

それを感じるのが、文章読解力です。

文章読解力というものが、本を読むことで確かに身につくことは、よく知られていることですが、

それがなぜなのかをうまく説明できるでしょうか?

何を身に着けたから私たちは文章を読み取れるようになったのでしょうか?

文章を読むことでたくさんの言葉を知ったからでしょうか?

難解な論説文を読んで論の展開の仕方を学んだからでしょうか?

時代の風雪に耐え読み継がれてきた古典に触れて、情緒が豊かになったからでしょうか?

そのどれもが確かにその通りなのですが、そのどれもがこの疑問に対して十分な答えを与えてくれているようには思えません。

一体何が身に着いたから文章が読み取れるようになったのかをうまく説明できないけれど、

読書を重ねることで確かに文章を読み取れるようになる。

それを通じて一体何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている。

そのような学びもあるのだということです。

 

何を学び取っているのかをうまく説明できないのは、前回のブログに書いた通り、

私自身がまだ何かを学び取れていない証拠なのだろうと思います。

別の話をするつもりが、一周回ってもとの話に戻ってしまいました。

前回と地続きと申し上げたのはそういうことです。

何故なのかは分からないけれど、それを通じて確かに人間の生きる力が向上する、そのような学びが存在するということです。

それが今に至るまで消えることなく学問として残り続けるということは、そこに何かしらの人類史的意味があるという証なのであり、

たとえ今の未熟な自分がその意味を上手く咀嚼できないからといって、簡単に切り捨ててはいけない。

様々な事例を挙げて説明してきましたが、要するに私が言いたいことはそういうことです。

 

いくつかの歴史的、地政学的要因が相まって今まで日本は豊かさと安全を享受してきました。

豊かで安全な社会であれば人は未熟なままでも生きていけるので、学ぶことの意味が分かりづらくなってしまったのだと思います。

ただその豊かさと安全が未来永劫続くとは思えない雰囲気が漂ってきていると私は感じます。

(昨今大人の世界にも広がる「学び」ブームもその空気を肌で感じているからこそ、でしょう。)

人口爆発、資源の枯渇、環境破壊、大国の右傾化など、今までと同じ暮らしを妨げるであろう要素はいくつもあります。

これからは好むと好まざるに関わらず、変化を求められる時代になっていくのでしょう。

だからこそ私は、子どもたちに学びを通じて考える力を身に着け、人間的成熟を果たしていってもらいたいと考えています。

 ご家庭でもしお子さんから、

「こんなもの大人になっても使わない!」

と言われた時に参考にして頂けたら、と思います。

家庭教師のお問合せ、お申込みはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「こんなこと勉強して何の意味があるの?」 

ここ数日、一緒に学習をしている子どもたちから、

「こんなこと勉強しても大人になったら使わないでしょ!」

という言葉を頂きました。

確かに二次関数や三角比、電磁誘導の法則を大人になってから使う人より、使わない人のほうが圧倒的に多いことでしょう。

「使わないものを学んでもしょうがないじゃないか」

私自身、高校生の時にsin、cos、tanを習いながら、

「これはいったい何のためになるのだろうか?」

と思っていた記憶がありますから、その疑問も分からないではありません。

ただ大人になって思うことは、

「意味が分からないことを簡単に切り捨てないでほしい」

ということです。

理由は二つあります。

 

~学ぶ前の人間にその意味は分からない~

一つ目。

何かを学ぶ前の人間が、それが無意味か否かについて判断を下すことは不可能だからです。

それを学び取る前の人間には、それを学び取った後、

自分の世界がどのように変化するのかを想像することができないということです。

人間の変化には量的変化と質的変化があります。

今までできていたことを、今までよりも速く、多く、広範囲に出来るようになること、それが量的変化です。

例えば今まで自転車で移動していたけど、車の免許を取得することでもっと速く移動できるようになった。

これは量的な変化です。

一方、それを学ぶことで、物事の見え方、価値観が変わること、そんな世界があると初めて知ること、それが質的変化です。

例えば赤ちゃんが言語を学び取ること、これは質的変化です。

質的変化とは、物事の見え方、価値観が変わることと書きました。

それには今までの自分の価値判断体系を変化させることが必要なので、学ぶのにそれなりの負荷がかかります。

今までの自分の思考フレームを組み替える作業が必要になりますから、当然苦痛も伴うでしょう。

そして質的変化によって変化した自分の姿というものを、その情報に触れ変化する前の人間が、事前に想像することは難しいのです。

だからそれを学び取る意味も、それを学び取る前の人間には良く分かりません。

例えば想像してみてくだいさい。

赤ちゃんが言語を習得する前に、言語を習得することで自分はこのようなことが出来るようになる、と想像することは可能でしょうか?

赤ちゃんが言語を学び取った意味が分かるのは、言語を学び取った後なのです。

学び取った後になって初めて、

「言葉を学ぶことによって私はこのような事が出来るようになったのだ」

と事後的にその意味を知ることになるのです。

 

質的変化をもたらすような学びであればあるほど、それを学ぶ前の人間がそれを学ぶ意味を理解することは難しいものなのです。

だから、学び取る前から短絡的に「そんなものには意味がない」と意味付けることをしないでもらいたい、

というのが理由その一です。

長くなりましたので、続きはまた次回。

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読書のすすめ ~習慣化するために~

前々回のブログでは、読書離れに対する危機感を、前回のブログでは読書によって得られるものは何かについて、綴ってみました。

読書のすすめ ~読めない、書けない、その理由~

読書のすすめ ~地平線の向こう側~

読書の大切さは分かっているけれど、それがなかなか習慣化されない。

親御さんの中にはそのような悩みを抱えていらっしゃる方もおられることと思います。

そこで、読書習慣をつけるために、何が出来るのかを今回は考えてみたいと思います。

そしてこれは学習の習慣づけに関しても応用できる内容です。

 

~興味と難易度~

どんなに親御さんが読ませたいと願う本であっても、まずお子さんがその本に対してなんの興味もなければ、

きっとその本を読んでもらうことは難しいでしょう。

まずその本のジャンルがお子さんの興味を持てるものを選ぶこと。

これが大切です。

内容と同じくらい難易度も大切です。

人が最も集中できるのは、対象の難易度が自分にとってちょうどよい時です。

例えば、何かゲームをすることを想像してみてください。

そのゲームが自分に対応できる範囲を超えて難しかった場合、

またはものすごく簡単であった場合、そのゲームをしてみようと考えるでしょうか?

自分にとってちょうどよい難易度であるとき、人のやる気は最も引き出されるのです。

だから大人向けの難しい本であったり、低年齢向けの簡単な本であったり、

そのような場合にお子さんの興味を引くことは難しいでしょう。

以上のことから、まず読みたい本はお子さんを本屋さんや図書館に連れて行って、

実際に読んでもらったうえで、お子さん自身に選んでもらうことをお勧めします。

 

~毎日少しづつ~

今まで学習習慣がなかった子に、学習の習慣を身に着けるように話すと、

今まで全くしていなかったことに対する後ろめたさもあるのでしょうか、

1日2時間、3時間学習をする、という大きな目標を掲げがちです。

しかし、その目標の多くが習慣化することはありません。

習慣化するときのコツ、それは少量を毎日続けることです。

学習であれば、1日45分学習をするなどの目標から始めることです。

ストレスとは煎じ詰めれば変化のことです。

あらゆる変化がストレスであるからこそ、昇進や出産などの世間的におめでたいことでも、

精神疾患のきっかけになり得るのです。

大きな変化は大きなストレスになり得ます。

だから初めの変化はハードルを低く設定することが大切なのです。

読書に関して言えば、毎日30分くらいから始めてみるとよいと思います。

その際、始める時間と場所も決めるとより習慣化しやすくなります。

 

~環境~

お子さんにとって強い影響力を持つ環境要因の一つは親御さんです。

私が週に一回家庭教師でお邪魔して本を読むことが大切だよ、と語るよりも、

毎日たくさんの時間を一緒に過ごされる親御さんが、その効用を語るほうが何倍も効果的です。

親御さんご自身がその効用をお子さんに対して語れるためには、

まず親御さん自身がその効用をご自身で体験される必要があります。

どんなに人から説明されても、自分で体験してみなければ分からないことが世の中にはたくさんあります。

そしてそうであるからこそ、体験者の言葉というのは強い説得力を持つのです。

まずはご自身が読書の習慣を身に着けられ、それによって自分は何を得たのかを、お子さんに言語化されてみてください。

「本を読みなさい」と上から目線で語りかけるより、そういう親御さんの姿を見せることが、

お子さんに対して読書の魅力を何倍も雄弁に物語ってくれるのではないでしょうか。

 

私自身、小学校の時は全く本を読まない子どもでした。

先生の「本を読むといいよ」という金言を全力無視して野山を駆け回っておりました。

中学校に入ってから、たまたま手に取った椎名誠さんの旅行記が、私にとって自発的に読んだ初めての本になりました。

それから少しづつ本を読むようになり、大人になった今では、

一日の仕事を終え風呂に入り、眠る前に布団の中で本を読む時間が私にとって至福のひと時です。

本を読むことで得られるものをいくつか挙げてみましたが、私自身本から得たものは数えきれないほどあります。

そういう実体験があるからこそ、ゲームやスマホやテレビの世界に引きこもるのではなく、

本を通してその向こう側にある世界を見つけてほしいと強く思うのです。

あんまり口やかましくいうと逆効果にしかなり得ないと自制もしつつ、

これからも本の魅力を事あるごとに子どもたちに伝えていこうと思っております。

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読書のすすめ ~地平線の向こう側~

前回のブログでは、

・中高生、大学生の読書離れが進んでいること

・文章を読み解く、記述する力が低下していること

・ゲーム、スマホなどが子どもから独りで思考する時間を奪っていること

について綴りました。

前回は読書をしないことによって失われるものについて書きましたが、

今回は読書によって得られるものについて考えてみたいと思います。

 

~地平線の向こう側~

私は普段あまり積極的にテレビを見ません。

テレビの世界で展開される話は、結局商業主義という小さなコップの中の出来事でしかなく、

そのような情報に触れても、自分自身の世界観、人間に対する理解、そういったものが広くなる、または深くなることがほとんどないからです。

それではなぜ本を読むのか?

それは本を読んでいると、テレビとは逆のことが度々起きるからです。

自分が世界だと思い込んでいたものの向こう側にも、実は世界が広がっていたのだと気づかせてくれる。

本の世界にはそのような出会いがたくさんあるから私は本を読み続けるのです。

そしてそのような話に触れ新たな価値観を得ることで、

自分が今まで絶対視していた価値観への囚われから自由になれるのです。

読めば読むほど新しい価値観に触れられる、本を読むことにはそのような効用があります。

 

~葛藤を通じて成熟を果たす~

子どもが成熟を果たすためには、様々な価値観に触れることが大切です。

親の価値観、祖父母の価値観、学校の先生の価値観、近所のおじさんの価値観、親せきのおばさんの価値観、塾の先生の価値観。

それら様々な人の価値観が微妙にずれていて、その「ずれ」の中で揺れ動き葛藤する中で、自分独自の価値観を形作り成熟していく。

子どもはこのようなプロセスを通じて人間的に成長していくと私は考えていますが、

今の日本は、かつて存在した家族、地域社会といった共同体がどんどん存在感を失いつつあります。

子どもによっては接触を持つ大人が親と学校の先生しかいない、などという場合もあり価値観のずれに触れる機会がどんどん少なくなっています。

そんな中で、様々な人の様々な価値観に触れ、自分の中にすでにある価値観と新しい価値観のずれの中で葛藤する経験出来るのが本の世界なのです。

 

~認知する力~

人はどのように物事を認知するのでしょうか?

目に見えるもの、触れられるものであれば、それがそこに存在することを認知するのは比較的簡単です。

それでは目に見えないもの、触れられないものの存在を認知するにはどうしたらよいでしょうか?

それはそれを現す言葉を得ることです。

例えば、オーストラリアの先住民の中には、左右という概念を持たない言語を話す部族がいるそうです。

色も形も質感も大きさも同じだけれど、左右が逆になっている例えば右手と左手のような関係にある物体同士を鏡像関係にあると言いますが、

その言語を話す部族は、この鏡像関係にある二つの物体を異なるものとは認識できないのだそうです。

つまり左右という概念を持たない人たちから見ると、たとえそこに違いがあったとしてもそれを違いとは認識できないということです。

このように人は言葉を通してある概念を得、その概念を通して世界を認知します。

そしてそれを表す言葉を知らなければ、その概念を認知することは出来ないのです。

つまり言葉を得ることで、人は目に見えない、触れられない概念を理解し、その概念を通じてより世界を広く、深く、細かく認知できるようになるということです。

 

~抽象的概念を理解するために~

小学生を悩ませる概念の一つに、算数の割合があります。

割合とはある数に対するある数の比のことで、それは目に見えない概念です。

この割合という概念の理解が難しい子と容易な子がいます。

すべてそうとは言い切れませんが、割合を理解しやすい子は読書が好きな子が多いです。

それは読書を通じて得た言葉を通して抽象的な概念を理解できるからだと私は考えています。

小中高校生に教えていて思うのは、学習進度が進めば進むほど、扱う内容の抽象度は増していくということです。

この間高校生と一緒に読んだ論説文の題材は、話し言葉と書き言葉、印刷された言葉と手書きの言葉の差異について、というものでしたし、

高校数学の一番難解な数学Ⅲの領域では、この世界には実際に存在しない複素数平面などという概念が登場します。

学習進度が増せば増すほど、この抽象的な概念を理解する力、つまりどれだけたくさんの言葉を持っているかが、その子の理解度を左右してきます。

言葉を得るためには、沢山の言葉に触れることです。

たとえ難しい言葉があったとしても、辞書で調べながら本を読み続けることで、

私たちは沢山の言葉を得て、さまざまな概念を認知できるようになっていくのです。

 

今回のブログでは、本を読むことで私たちはいったい何を得られるのか、私見を書かせて頂きました。

「大切なのは分かったけれど、読まないんですようちの子は。」

そんな言葉も聞こえてきそうなので、どうすればお子さんが本を読むようになるかについて次回は考えてみたいと思います。

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読書のすすめ ~読めない、書けない、その理由~

ついこの間、年が開けたと思ったらもうすでに二月。

雪の少ない冬は、車の運転が多い仕事には本当に助かります。

受験生の学習指導に、生まれたての子どものお世話に日々バタバタと過ごす毎日です。

 

私、事あるごとに子どもたちに「本を読みなさい」と何度も何度も言っています。

子どもたちの学習指導に携われば携わるほど、その重要性を感じます。

今回はなぜ読書が必要なのかについて考えてみたいと思います。

 

~子どもたちの読書量~

全国学校図書館協議会が毎年5月に読書量調査を行っています。

第64回学校読書調査

その最新のデータ(2018年5月)によれば、高校生の一か月の読書量は、1.3冊。

全く本を読まない不読率は55.8%に上るそうです。

小中学生は、2001年くらいから読書量が緩やかに上昇し、不読率は下降傾向ではありますが、

高校生は先に挙げたような低調な結果が続いています。

大学生の読書量に関して大学生協が調査した結果によれば、

2017年、1日の読書時間が0と答えた大学生の割合はなんと53.1%にもなるそうです。

読書時間120分以上の学生の割合はほんの5.3%に過ぎませんでした。

大丈夫か、大学生?と思うのは私だけではないと思います。

 

~文章が書けない~

国語の論説文を読んでいると、「筆者の主張していることを120字以内でまとめなさい。」というような問題が度々出題されます。

「空欄に当てはまる言葉を三語で書きなさい。」、とか「○○について説明している箇所を25字で本文中から抜き出しなさい。」とか、

自分で文章を作成せずともよい問題ならば正答率は比較的高いのですが、

文章中に散在する必要な情報を拾い集め、自分の言葉で編集し直すような問題になると、

全く書けないか、書けても参照する部分がずれていたり、言葉の使い方、文と文のつなげ方がおかしかったり、

正答率が大幅に下がってしまいます。

この文章が書けないということと、読書量が極めて少ないということは、間違いなく関係しています。

 

~子どもから時間を奪うもの~

前述の調査で、不読率が中高生に比して極めて高かった高校生。

その読書をしない理由の1位と2位は、

他の活動などで時間が無かったから(64.5%)、他にしたいことがあったから(47.3%)となっています。

私が今まで見てきた限り、高校生になるとまず全員がスマホを持っています。

そして学習中もひっきりなしに、着信音やバイブレーションの音が鳴っています。

特に男の子に多いですが、休みになると朝からずっとゲームをしているという子も多いです。

依存症に気を付けてくださいね、とお話させて頂くことも度々あります。

スマホにゲーム。

高校生だけではなく大人もでしょうが、これらは独りになる時間、思考する時間を人から奪うものだなぁと感じています。

スマホであれゲームであれ、確かに誰かと繋がれるような気はするし、暇つぶしには持ってこいなのですが、

そこに展開する情報は、結局誰かの都合(多くは大人の金儲け)のために作り出された小さなコップの中の話でしかないので、

それらに触れることで世界観が広がるなどということはそうそうあるはずがないのです。

高校生の多感な時期にそのような狭隘な価値観の中に閉じ込められて、

大人の都合に染め上げれていくことは本当に大きな損失だと私は感じます。

 

子どもたちが本を読まないこと、読書しないことで失われるもの、子どもたちから時間を奪い取るもの、と綴ってきましたが、

読書で得られるものとは何でしょうか?

次回はそのような内容を綴ってみようと思います。

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感じて動く 〜なぜ人は歌い、踊り、絵を描くのか〜

先日のブログでは、情緒と理性がバランスして初めて人は人らしく生きられるはずなのに、

今の世の中では、理性が重視され、情緒が軽視される傾向にあるのではないか、と綴りました。

理性と情緒、どちらが人を突き動かすのか?

先日のブログでも綴りましたが、それは時に理性であり、時に情緒であり、時に両方であったり、

どちらであると断言することは難しいものだと思います。

そしてその両方があって初めて人は社会の中で他者と協力しながら生きていけるのだと思います。

そういう断りを書いたうえで、私は人をより強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であると考えます。

 

=なぜ理不尽な事件が日々起きるのか?=

テレビのニュースを見ていると、毎日のように誰が誰を殺したとか、殺伐としたニュースが流れてきます。

法を犯すようなことをすれば、その後どうなってしまうのか、知識として知らない人はいないはずです。

つまり論理の部分ではしっかりと理解しているにも関わらず、人は一線を超えてしまうということです。

もし人間をより強く突き動かすものが、情緒ではなく理性であるなら、

なぜこのような事件が起きるのでしょうか?

 

=言葉が無いということ=

私は相田みつをさんのエッセイ作品が好きです。

その中に、“感動とは感じて動くと書くんだなあ”というモノがあります。

もし人間が理屈で動く生き物であるならば、この世の中には「理動」という言葉だってあっていいはずですが、

私が知る限りそのような言葉はありません。

それを表す言葉が存在しないということは、そのような概念が存在しないということです。

つまり根源的に人を突き動かすものは理性ではないということです。

 

=なぜ宗教は存在し続けるのか?=

日本人は、一神教の国々に比べ、寛容な宗教観を持っている民族ですが、

それでも人生の節目節目には神仏に手を合わせ、日々の安寧を願う習慣を持っています。

そして大切な人との別れなど、自分一人では受け容れられないほどの悲しみを背負ったとき、

私たちはそのようなものに頼り、心の危機を回避しようとします。

論理の世界で考えれば、神仏のような存在を証明することはできません。

それでも、私たちは人生の節目に、悲しみに、喜びに、そのような存在に手を合わせ祈る生き物なのです。

もし情緒ではなく、理性のほうが人を強く突き動かすならば、なぜ宗教というものが存在し続けているのでしょうか?

 

=言葉では語り得ぬもの=

言語というのは、論理的な脳が統御する他者と意思疎通を図るためのツールです。

もし人間が言葉を使ってありとあらゆる自分の感情を他者に伝えることができるなら、

なぜこの世に芸術は存在するのでしょうか?

言葉だけでは語り得ぬ何かが心の中に在るからこそ、人は歌い、踊り、絵を描き、

語り得ぬその何かを懸命に表現しようとするのではないでしょうか?

その何かが、言語化し切ることが出来ない、人の情緒というものではないかと私は考えます。

 

“人間は考える葦である”という言葉を残し、数学や物理学の分野で多大な功績を遺したパスカルは、以下のように語っています。

“理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。

それを認めるところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない”

人間を強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であるにも関わらず、

理性が重視され、情緒が軽視される世の流れに私は違和感を覚えます。

世の流れを受け、公教育が理性重視の傾向に流れたとしても、ご家庭でお子さんの情緒を育むことは可能です。

次回は私が考える情緒を育む育て方について綴っていこうと思います。

続きます。

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情緒と理性 〜人を突き動かすもの〜

あけましておめでとうございます。

高校受験生、大学受験生の指導が立て込んで、しばらくブログを更新できずにおりました。

私立高校受験、センター試験と一月もバタバタと過ぎていくのだろうと思いますが、

自分の目標に向けて集中して取り組む子どもたちに、今の自分に出来得る精一杯のことをしていこうと思います。

三月までほぼほぼ休みが無い生活が続きそうです。

 

=理性>情緒=

子どもたちの学習指導をしていると思うことがあります。

だいぶ以前からの傾向ではありますが、進路選択で理系を希望する子どもが確実に増えています。

以前は文系を希望する割合が高かった女子でも、哲学、歴史、宗教、美術、文学などの文系分野を希望する学生は減少傾向にあり、

理学、工学、医療分野などの社会に出て即役に立つ度合いが高い、実利的な学部を希望する傾向があります。

個人的には、哲学や歴史、宗教、文学などは、私たち人間とはいったい何者なのかを理解するために大いに役立つ学問であると感じますが、

そういう学問領域よりも、社会に出てからすぐに役に立ちそうな学問領域を選択する傾向が強まっていると感じます。

この傾向を加速させるように2022年から高校の国語教育も変化します。

現行の国語では、必修科目として国語総合、選択科目として現代文A、現代文B、古典A、古典B、国語表現という科目が設けられていますが、

新課程では、必修科目として現代の国語、言語文化、選択科目として論理国語、文学国語、古典探求、国語表現という科目分けがされることとなります。

現行課程の現代文A、Bを、小説、詩、短歌、俳句などを学ぶ文学国語、評論文を学ぶ論理国語という二つのカテゴリーに分けるということですが、

現場の先生からは大学受験の出題傾向を受けて、多くの学校は論理国語と古典探求を選択し、文学国語は選択されなくなるだろうと言われています。

そもそも、人が書いた文章の真意を深く理解するためには論理的思考力と情緒的成熟の両方が必要になるはずで、

それを二つに分けてしまうこと自体に私はだいぶ違和感があるのですが、、、。

この情緒を軽んじ論理を重んじるという傾向は何も、勉強の世界に限った話ではなく、それが世の中全体の大きな流れなのだと感じます。

例えば何かモノを買う時も、知り合いのお店にお金を落とすより、大型量販店で一円でも安い商品を購入することが、消費者として正しい振舞であるという信憑が世の隅々まで広く行き渡っています。

今働く人の四割弱を非正規労働者が占める時代ですが、派遣社員や契約社員を増やしたほうが、企業の人員調整がしやすく、人件費も抑える事ができます。

その分自社で働く労働者の雇用は不安定になりますが、情緒よりも論理・理性を重んじる世の中ではそれは政治的に正しいふるまいと評価されます。

このように世の中全体が、情緒的なものより論理的・理性的なものを評価する時代になっていますが、私は「大丈夫ですか?」と言いたくなります。

私は大学で環境問題について学んできました。

大学を卒業してからも環境分析の仕事に携わってきました。

そして今、不登校、引きこもりという世の中から問題視される現象と関わっていますが、

環境問題も不登校、ひきこもりも根は一緒の問題だと感じています。

どちらも対象への表面的理解がもたらしている、という点で同根だと考えるのです。

続きます。

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息子 ~何を遺して逝けるのか~

昨日、2018年12月2日。

様々な人のお陰様で息子が生まれてきてくれました。

身長50センチ、体重3108グラム。

私は4350グラムの逆子で誕生した生まれながらの親不孝者なのですが、

奥さんのお腹に向けて「3000グラムで生まれてくるんだよ」と毎日話しかけていたら、

本当にそれくらいで生まれてきてくれたとても親孝行な息子です。

バカ親全開で書かせて頂きますが、世界で一番かわいいと思いました。

ほっぺもあごもぷにぷにでずっと触っていたくなります。

あくびをしてても泣いていても、ただかわいくて仕方ありません。

頑張って生まれてきてくれた息子に、頑張って産んでくれた奥さんに、

支えてくれた友人に、病院の先生、看護師さん、助産師さんに、

私を産んで育ててくれた親に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

本当にありがとうございます。

 

以前にもブログで書きましたが、私は前職で産廃処理工場で働いていました。

そこには毎日のようにたくさんの廃棄物が運ばれてきます。

便利な化学製品を作り出す過程で出る大量の有害物質。

まだ使えるのに、まだ食べられるのに、在庫処分の名のもとに廃棄される様々な製品。

ものすごい臭いのする土や水。

そういうものを無害化処理する仕事に従事しておりました。

ごみを減らす仕事、環境を守る仕事と自分に言い聞かせながら働いていましたが、どんなに自分を納得させようとしても、

私には自分の仕事が大量生産、大量消費、大量廃棄のプロセスを回す手伝いをしているようにしか感じられませんでした。

自分のやっている仕事は、自分のためや会社のためにはなっていても、本当に次の世代のためになっているのだろうか?

違和感を感じながら働き続けてきましたが、その違和感を自分の中で消化し切れなくなり、私は会社を辞しました。

ただ、私が清く正しい人間で、今もそこで働き続ける人たちが間違っていると非難したくてこのように書いているわけではありません。

この世界は様々な矛盾を抱えながら回り続けていますし、大きなシステムを急に変えることは不可能です。

そして私もその矛盾を抱えた世の中で、日々世界を汚しながら生きるインサイダーの一人でしかありません。

今廃棄物処理の仕事に従事する人がいなくなれば、ただでさえゴミだらけの世の中は今よりもっとゴミだらけになってしまうことでしょう。

だから今の世の中に必要不可欠な仕事なのです。

ただ私が自分の中に沸き上がった違和感とうまく付き合えなくなったという話です。

でも私はその違和感を大切に生きていきたいと思うのです。

 

私たちの生活では、GDPがどうだとか、株価がどうだとか、為替がどうだとか、様々な経済指標が日々取り沙汰されています。

経済が成長しさえすれば、様々な問題が解決するかのような、一種の信仰とでもいうものを抱いているようにさえ感じられます。

しかし、私はそこに違和感を禁じえません。

なぜならそこにはお金の計算ばかりで、人の命に対する視点が明らかに欠如しているからです。

土を汚し、水を汚し、空気を汚し、命を軽んじた先に、人の幸せがあるのでしょうか?

私にはどうしてもそうは思えません。

未来の世代から可能性を収奪してまで経済成長などという虚像を描き出すことに、一体何の意味があるのでしょうか?

私には分かりません。

 

私は今、子どもたちと日々学習を通じて関わらせて頂いております。

地味な仕事ですし、日々の勉強も、忍耐も必要な仕事ですが、誰のため、何のためにやっているのかが、とても良くわかる仕事です。

約束した宿題をやっていなかったりすると心の中で「この野郎!」と思うことも正直ありますが、

次を担う世代に何かを遺すことができる本当に大切な仕事だと感じ日々従事しております。

 

私は今、家族がいて、友達がいて、家があり、ご飯も食べられて、風呂にも入れて、布団の中で眠れます。

テレビをつければ「これを買えばあなたは幸せになれますよ」という押しつけがましいCMが大量に押し寄せてきますが、

こんなにも満ち足りているのに、これ以上何を欲する必要があるのだろうかと正直疑問に思ってしまいます。

以前、私にヨガを教えてくださった先生がこのような事を言っておられました。

「人生は何を得たかではなく、何を遺したか」

日々子どもたちと学習を通して関わる中で、次の世代に何を遺して逝けるのか?

浅薄な儲け話や際限のない物欲に惑わされることなく、そこだけを見定めて生きていけばいい。

息子の誕生にその思いを新たにした1日でした。

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「好き」という力 ~椎名誠さんの講演会で思ったこと~

11月23日、いつもお世話になっている新発田市の図書館、イクネス新発田の入場者100万人記念のイベントにお邪魔してきました。

記念講演をしてくださるのは、中学生の時にその著書を読んで以来憧れている冒険家で著述家で写真家の椎名誠さん。

椎名誠さんは、私が小学生のときに「椎名誠と怪しい探検隊」という番組をやっていて、毎週土曜日だったと記憶しているのですが、楽しく観ていた記憶があります。

小学生の時分には、担任の先生の「本を読みなさい」というありがたいお言葉を全力で無視して、サッカーに、野球に、自転車に、釣りに夢中になっていた私ですが、

中学生になったんだからちょっと本でも読んでみようかな、とおずおずと手に取ったのがテレビで見知っていた椎名誠さんの本でした。

息子さんとの思いでを綴った「岳物語」「続・岳物語」。

オーストラリアの砂漠を横断した「熱風大陸 ダーウィンの海を目指して」、日本の真裏パタゴニアを旅した「パタゴニア あるいは風とタンポポの物語」などの冒険記。

中でも私が好きなのが、何気ない日常を椎名誠さんの目線で綴ったエッセイ集です。

寝る前にぬくぬくと布団に潜り込んでそれらの本を読んでいると、本当幸せだなぁと感じます。

そんな憧れの人椎名誠さんに会えるので、朝からワクワクソワソワしながらお邪魔してきました。

 

講演のタイトルは「本の夢、本の力 ~本から得る夢、読書は自身の力に~」というものでした。

独特の空気感を漂わせながら、とつとつと語り始めた椎名誠さん。

新潟の粟島を仲間と冒険した話、中国を冒険したときのトイレの話、南米パタゴニアで見た氷河の話、同じく南米を旅した際に飲んだ醤油スープが今までで一番美味かったという話。

世界各国を冒険した際の話をたくさん聞かせてくれました。

世界各国を冒険して回っている椎名誠さんですが、その原点は子どものときに読んだ、「十五少年漂流記」や「さまよえる湖」という冒険ものの本だったそうです。

学生時代は喧嘩ばっかりしていて、大学も中退されているはずの椎名さんですが、お話を聴いていると本当に博学な方だなぁと感じました。

自身の好奇心に素直に従って生きている中で、不思議に思ったこと、疑問に感じたことを自身で調べるうちにたくさんの知識を得てこられたのだろうと思います。

何かを好きだと思える気持ちがその人の好奇心を刺激し、それが原動力となっていろんなことを調べ、博識になっていく。

本当に理想的な学びの形だと思います。

 

私は家庭教師として、日々子どもたちと一緒に学習をしていますが、

大人が用意した問いに、大人が喜ぶような答えを出すことばかり繰り返しているうちに、自分が何が好きかも分からなくなって、好奇心を持つことも忘れてしまっている。

そういう子どもも多いと感じます。

学校教育で教える内容は、子どもたちが生きていくうえで役に立つ素晴らしい内容だと私は考えていますが、

その教え方、評価の仕方については、考え直す必要が大いにあるとも感じています。

学習することの目的は、誰かと比べて自分の方が秀でていると悦に浸ることでもなく、自分は何もできないと卑下することでもありません。

自転車に乗れるようになったときに感じた気持ちのように、逆上がりが出来るようになったときに感じた気持ちのように、

昨日の自分には分からなかったことが、今日の自分にはわかる。

その喜びを得ることが学ぶ目的ではないでしょうか?

その喜びを味わってもらえれば、誰かが強制せずともその子は一生自発的に学び続けるようになるでしょう。

そういう状態になってもらうために、学習に携わる大人がどうするべきか、まだまだ学び続けていかなければならないと思っています。

どんな仕事もこれでいいと思ったらそれでおしまいです。

研鑽を重ねていかねばという気持ちを新たにした講演会でした。

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情報の海で溺れぬために ~知の蓄積がもたらすもの~

先日のブログでは、情報過剰な世の中で翻弄されることなく生きるためには、情報量を絞り込み、知識を身に着けることが大切である、と綴りました。

情報の海で溺れぬために ~I、K、W

前回のブログでは筑紫哲也さんのI、K、Wのお話をご紹介しました。

IはInformation(情報)、KはKnowledge(知識)、Wはwisdom(知恵)です。

知識の蓄積によって私たちは押し寄せる情報に右往左往することなく生きていけるようになるのですが、

知識の蓄積で得られるものはそれだけではありません。

知の蓄積が私たちになにをもたらしてくれるのか、見ていきたいと思います。

 

=知識が知恵に転化するとき=

wisdom(知恵)とは抽象的な言葉です。

知恵:物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事を筋道立てて計画し、正しく処理していく能力。(大辞泉より引用)

知恵とはつまり、ある事柄を自分で判断し、処理していく能力のことです。

これはいかにして身につくのでしょうか?

私は、知恵とは知識が経験と結びつくことによって得られるものだと考えます。

経験があっても知識がなければ、その経験が自分にもたらす何かを認知できないわけですから、そこから何かを学び取ることは難しいでしょうし、

知識があっても経験が伴わなければ、それは身体感覚を伴わない単なる知識でしかなく、実生活に役立つ判断能力にはなり得ないでしょう。

つまり、知識を蓄えておくことで、それを蓄えていない人に比べて、私たちは知恵を身に着ける機会を得やすくなるということです。

 

=アイディアは既知情報の新しい組み合わせ=

知識の蓄積は、新しいアイディアが生まれる土壌を作り出します。

アイディアとは、既知情報の新しい組み合わせだからです。

例えば私たちが毎日のように使っているスマートフォンという便利で厄介な道具がありますが、

あれは、カメラと電話とパソコンを組み合わせることで生まれました。

このようにアイディアとは既知情報の新しい組み合わせなのですから、

頭に様々な知識が蓄積されていればいるほど、新しい結びつきが生まれやすくなるわけです。

知の蓄積が私たちに様々なアイディアをもたらしてくれるわけです。

 

=記憶力が良い人とは沢山記憶している人=

記憶力は年齢とともに衰えていくものと今までは考えられてきました。

しかし、円周率4万桁を暗記した友寄栄哲さんが、そのギネス記録を打ち立てたのは、なんと54歳の時でした。

友寄さんが記憶した方法は、数字の並びをイメージと結合したり、なじみ深いものと結び付けたりして、ストーリーに仕立てて記憶するというものでした。

つまり、自分の脳内に蓄積された他の知識と結び付けることで新たな情報を記憶していくということです。

つまり記憶量が多ければ多いほど、既知の知識と新しい知識が結びつきやすくなるわけですから、記憶力の良い人とは、たくさん記憶している人と言えます。

頭の中に体系化された知のネットワークを作ることで、新しく入ってきた智識は既存の知識と関連付けられた形で脳の中に配置されます。

それは例えるならば、系統立てて書籍が配置されている図書館の書架に、新しい本が配置されるようなイメージです。

知識が独立して頭の中に入っているより、ほかの知識との関連性の中で記憶されているため、記憶として脳に留まりやすくなるのです。

 

日本の教育は知識偏重で良くないと言われることも多いですが、私は必ずしもそう言い切ることはできないと考えます。

先日参加した勉強会で教わったことですが、日本人ノーベル賞受賞者にはある共通項があるそうです。

それは全員国立大学出身者であるということです。

つまりセンター試験や共通一次試験を通過し、それ以前であっても国、数、英、理、社の五科目受験をしてきたということです。

創造的仕事をする人ほど、しっかりとした一般教養を身に着けており、それがイノベーションに繋がっているという好個の例だと思います。

 

情報の海で溺れぬために、そして知識や新しいアイディアで、困難を抱える誰かの力になれるために、子どもたちには学び続けてほしいと感じます。

そのためにも、私を含めた大人が学び続けその楽しさを、意義を、言語化し、子どもたちに伝えていく必要があるのです。

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