Categories
ブログ

ワーキングメモリーとその鍛え方

人間の認知機能の一つにワーキングメモリー(以下WMと表記)があります。

WMとは脳内にインプットされた情報を短期間保持し、それらに何らかの操作を加え新しい情報として出力する能力のことです。この機能はコンピューターのCPU(中央演算処理装置)に例えられます。

例えば誰かが「8+14-7の答えは?」と読み上げたとき、脳内に8、14、7という情報を保持し、8と14の和22を求め、そこから7を引き15という数字を出力する。これがWMの機能です。

学習に困難を抱えたお子さんはこのWMが弱い場合が多いです。音声情報や視覚情報を脳内に一旦保持してそれを処理することが苦手なため学習に困難を抱えることになるのです。

またWMは学力だけではなく、社会的スキルとも関連しています。例えば人と話している時、目の前の人の発する音声情報だけでWMが一杯になってしまうと、その人の声のトーンや表情まで読み取る余裕が無くなり、その状況に相応しくない返答をしてしまうという事が起こるのです。

25781358_m

このようにWMは学力や社会的スキルなど人が生きる上で重要な要素と深く関連した認知機能なのです。

それではお子さんのWMが弱い場合はどうすればよいのかと不安になる親御さんも多いかと思いますがどうぞご安心ください。WMを鍛える方法があります。

その方法のいくつかをご紹介致します。

・紙に12+4-9などの計算を書いてお子さんに数秒間提示した後、その紙を隠して暗算させる

・24586などの数字を読み上げた後、読み上げた順序とは反対に復唱させる

・親御さんが短い物語を創作して聞かせ、その話の内容を要約させる

・算数の文章問題を読み上げて、その計算結果を暗算させる

こんな練習を行うことでお子さんのWMをご家庭で鍛えることができます。

学力にもソーシャルスキルにも深く関わるWM。たとえそれが現状で弱かったとしてもご家庭で鍛えることが可能です。是非ご紹介した方法を試してみて下さい。

不登校、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

Categories
ブログ

停滞期を乗り越えるために ~意味を見出すことの意味~

昨日所用で、外を歩いていると、蝉の声に勢いがなくなっているように感じました。

確かにもうお盆ですものね。

夜になるとあちこちから秋の虫の鳴き声も聞こえてくるようになりました。

学生時代はこの時期になると、終わっていない宿題をどうしようと、焦燥感に駆られていたものです。

24時間テレビを見ては、世の中には頑張っている人もたくさんいるのだから俺も頑張ろうと自分を鼓舞してみたりしましたが、

結局それも長続きせず、宿題が全部終わらぬまま新学期を迎えてしまう、というのが私の夏休みのいつものパターンでした。

その話を一緒に勉強している子たちにすると、「それでよく卒業できましたね!」と驚かれます。

私が学生だった頃は、色んなことが良くも悪くも今より緩い時代だったように思います。

今の子たちは、私達の頃に比べ要求されるものが多くなり、大変だなぁと感じることが多いです。

みんな本当に頑張っています。

 

昨日のブログでは、人の成長は一次関数のように直線的に実現するのではなく、

階段を上るように、停滞期が続いた後、ある日突然ブレイクスルーが訪れるという形で実現する、という内容を綴りました。

人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

多くの人は、人間は一次関数的に何かに取り組んだら取り組んだだけ成長すると勘違いしていて、

取り組んでも取り組んでも何の成果も感じられない時期がしばらく続くと、その取り組みをやめてしまい、

自分は結局このような人間である、成長できない人間である、という諦念を抱いてしまいます。

そのような成長に対する勘違いが、人の成長を拒んでいるように私は感じています。

停滞期に自分自身を見限ってしまう、そのような状態に陥らないために、大切なことは三つあります。

1、人の成長は一次関数ではなく、階段状に果されることを知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対するフィードバックをしてもらうこと

昨日は1について綴りました。

今日は2について。

 

人は意味のないことを延々とやり続けられるものではありません。

自分のやっていることに意味を見出せるからこそ、それを続けることができるのです。

自分のやっていることに意味を見出せれば、成長を実感できない停滞期が続いたとしても、

それをやり続け、最後には成長を感じられるようになるわけです。

そして何か一つのことで成長を感じられれば、人の成長は停滞期とブレイクスルーを繰り返すという形をとることが実体験として分かり、

他のことでも、停滞期に心折れることなく取り組み続け、成果を得られるようになるのです。

だからその人がやっていることの意味を周りの人間が明確化してあげるというのは非常に大切なことです。

子どもの学習に関してもそれは当てはまります。

多くの子どもは学習する意味など考えたこともなく、周りの大人からやれやれと言われるがままに学習に取り組んでいて、

一体自分は何のためにこんなことをしなければならないのかと、疑問を持っている子はたくさんいます。

しかし、大人がその意味を明確にしてあげれば、彼らの学びに対する姿勢も変わってきます。

 

学習することの意味、これはいくつもいくつもあると思いますが、一つの例として、「人は知っている範囲内でしか考えられない」という話をしたいと思います。

例えば雷という自然現象があります。

あの現象の原理は中学で習う電磁気と気象の知識があれば理解できます。

急速に発達する積乱雲の中で上昇気流に煽られた氷の粒がぶつかり合うことで雲が静電気を溜め込み、

雲と地上との間の電圧差がある一定値を超えたときに空気中で起こる放電現象、それが雷という自然現象です。

これも中学の歴史で習うことですが、17世紀に俵屋宗達によって描かれた風神雷神図屏風を見ると、昔の人たちが雷という自然現象をどのように理解していたかが良くわかります。

雲の上に太鼓を持った雷様が住んでいて、それが大暴れするときに雷という自然現象が起こる、というのがその時代の人たちの雷の理解の仕方です。

科学技術が進歩し、人間の知っている範囲が広がったからこそ、現代人はその原理をより合理的に考えられるようになったわけです。

これは「人は知っている範囲内でしか考えられない」ことの好個の例です。

 

私の実体験も一つ。

高校生の子たちと一緒に学習していると、「もう勉強やだ!学校辞めたい!」などという言葉が飛び出してくることがあります。

テスト勉強に追われ頭が一杯になっているからこそ、そんな言葉が飛び出してくるのかもしれません。

その気持ちはとても良くわかるのですが、その言葉を受けて私が、

「高校は義務教育じゃないから辞めようと思えば辞められるよ。でも辞めてどうするの?」

などとちょっと意地悪いことを聞くと、彼らの多くは言葉が出なくなります。

なぜどうしていいか分からないのでしょうか?

これもやはり「人は知っている範囲内でしか考えられない」からです。

まだあまりものを知らないからこそ、そのあとの選択肢を考えられなくなるのです。

知れば知るほど、様々な選択肢を考えられるようになり、自分が生きたいように生きられる可能性も高まっていくのです。

だからこそ人は学ぶ必要があるのです。

 

私が学生だった20年ほど前までは、偏差値の高い大学に入って、大企業に就職して、結婚し、ローンを組んで家を建て、定年までその企業の一員として働くという、

社会に広く共有された目指すべき一つの生き方がありました。

しかし、今その生き方はもう成り立たない時代になっています。

そうであるならば、勉強して大学に入ったって意味がないのではないか?

そういう意見も一緒に学んでいる子どもたちから聞かれますが、私はむしろ逆だと思います。

社会が生き方の指針を失った時代だからこそ、自分で考えて生きていける人になるために、学ばなければならない。

私はそのように考えています。

なぜなら、人は知っている範囲内でしか考えることが出来ないからです。

 

私が考える学ばなければならない理由、説明の仕方はいくつもあるのですが、上に書いたことがその一つです。

このように、学ぶ意味、そして自分が置かれた時代背景を理解できれば、子どもの学ぶことに対する意識は相当変わってきます。

だからその子の周りにいる大人が、その子より一段高い視点から学ぶことの意味を明確化してあげることは非常に重要です。

そしてその意味を実感出来れば、成長のための停滞期を乗り越え、ブレイクスルーを経験できるのです。

そしてそのことが一つの成功体験としてその人の中に記憶され、さらに学びたいという意欲を掻き立てることになるのです。

 

今日も長くなってしまいましたので、3に関してはまた次回とさせて頂きます。

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

Categories
ブログ

「どう書けばいいか分かりません」 ~読書感想文の書き方

最近心掛けていることに、朝しっかりと朝日を浴びる、というものがあります。

朝日を浴びることで、セロトニンの分泌が促され、心穏やかに過ごせるのだそうです。

加えてセロトニンを材料に作られる眠りを誘発する物質、メラトニンの合成も促され、夜の眠りが改善します。

詳しくはまた日を改めてブログに書かせて頂きますが、ここ数日試してみてとても良い気がしています。

朝起きてカーテンを開けてⅠ5分ほど太陽光を浴びる、ただそれだけです。

良かったら試してみてください。

 

コロナウイルスの影響で、今年は夏休みが例年より遅いスタートとなっていますが、

新潟市内では小学生はもうすでに夏休み、中学生も間もなく夏休みといった学校が多いです。

夏休みなると決まって出される宿題が読書感想文です。

この時期にご家庭にお邪魔していると、「読書感想文どうすればいいですか?」、「書き方が分かりません」という質問を度々受けます。

どうして読書感想文を書くのに皆苦労するのでしょうか?

それは文章の型を知らないからです。

本日は読書感想文の書き方について。

 

様々な文章には型というものがあります。

例えば物語であれば、起承転結。

論説文であれば、序論、本論、結論。

学術論文であれば、概要、背景、方法、結果、考察。

それぞれの文章にはそれぞれの型があります。

読書感想文を書くときに途方に暮れてしまう理由は、この型を知らないからです。

それでは読書感想文の型とはどのようなものでしょうか?

 

読書感想文は、作文を読む人に、自分が読んだ本にはどのような内容が書いてあり、

自分はそれをどのように感じ、この本からどのようなことを学んだのかを伝えるために書く作文です。

この読書感想文の目的が分かっていれば、自ずと読書感想文の型は決まってきます。

私がお勧めする読書感想文の型は、これです。

image0 (2)

字が汚くてすみません。

この紙に必要なことを記入していくと、それが読書感想文の型となり、スムーズに作文を仕上げることが出来ます。

それではこの紙をどう使うのか、説明していきます。

 

まず本を読んでいるときに、印象に残った箇所を三つピックアップしておきます。

そして、本を読み終わったらこの紙を自分で作ってください。

( )でくくってある文章は書き方の説明ですので、書かなくて結構です。

次に、この紙を埋めていきます。

内容1~3には、自分が本を読んでいて印象に残った内容を書きます。

いつ、どこで、誰が、どんなことを言っていたとか、その本に書いてあった内容を作文の読み手に対して説明する箇所です。

次に、それぞれの枠の右隣に、その内容に対して、自分がどのように感じたか、どういうことが印象に残ったか、自分なりの解釈を記入します。

最後に、一番右側のまとめの欄に、解釈1~3に記した内容を要約し、結局自分はこの本からどのようなことを学び、どのように自分の日常生活に生かしていきたいのか、をまとめとして記します。

このようにまずこの紙をすべて記入してから、原稿用紙に向かってください。

 

作文を書くのになぜ時間がかかってしまうかと言えば、書きながらどういう作文にしていこうか構成を考えるからです。

構成を考えるという作業と、書くという作業が同時進行になってしまうが故に、書くことに時間がかかってしまうのです。

まずこの紙を記入し構成を考えてから原稿用紙に向かえば、もう書くべきことは決まっているので、休みなく一度に書き上げることが出来ます。

もしお子さんが一人で、この紙を埋められないならば、親御さんがお子さんに対して質問をしてあげるといいと思います。

「どこがおもしろかった?」とか「どこが印象に残った?」とか、「それはどうして?」とか、親御さんが質問してあげることで、お子さんの思考は深まっていきます。

それから、最後の三つの解釈を要約するところですが、物事を要約することで人間は抽象的な思考が出来るようになってきます。

三つの解釈に共通するものは何か、要するに何を言っているのか、物事の本質を観取する訓練にもなります。

少し難しいかもしれませんが、ぜひ挑戦させてみてください。

 

夏休みはいつもより自由に使える時間がたくさんあります。

子どもにはぜひ、たくさん本を読んで、言葉を豊かにし、情緒を育んでほしいと思います。

お子さんの読書感想文を書く際に役立てて頂けたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

Categories
ブログ

理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

Categories
ブログ

人を理解することの難しさ ~理解を困難にする三つの構造~

昨日は激しい雨が降り続き、各地で避難勧告や避難指示が出ていた新潟ですが、

今日は一転、梅雨が明けたような夏らしい青空が広がっています。

山の向こうには入道雲が立ち上っておりました。

私はあれを見ているとなんだか力が湧いてきます。

梅雨明けは間近ですね。

 

日本に心理療法を導入した臨床心理学者の河合隼雄さんは著書の中で以下のように述べています。

“一般の人は人の心がすぐ分かると思っておられるが、人の心がいかに分からないかということを、確信をもって知っているのが専門家の特徴である。”

私自身、仕事で誰かの話を伺っているときも、日常生活を送っていても、他者を理解するということの難しさを痛感する場面が多々あります。

人の話を聴くことのプロでさえ、「人の心が分からない」と言っているわけですから、人の心を理解するというのは、一大事なわけです。

それでは、何が人の心を理解することを難しくしているのでしょうか?

人の心を理解する上での困難さ、具体的には以下の三つがあります。

一、感情を表出することへの抵抗感

二、内的枠組みの違い

三、言語的枠組みの違い

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

一、感情を表出することへの抵抗

人の話を聴くときに、聴く側の人間が「それでは何でも話してください」と言ったところで、本当に何でも話してもらえるわけではありません。

そこには感情を表出することへに抵抗感があるからです。

感情というのは、その人の人間性の深い部分から沸き上がてくるものです。

それを相手に語るというのは、何一つ包み隠さない生身の自分を相手の前に晒すということです。

そこには当然、こんなことを言ったら笑われるのではないか、変に思われるのではないかという不安感が伴います。

また子どもの頃から、人前で泣いてはいけないとか、兄弟で喧嘩をしてはいけないとか、ある種の感情の表出を制限されて育った場合、

寂しさ、悲しさ、怒りなどの感情を感じたり、表現することが難しくなっている場合もあります。

どんな感情を表現しても、笑われたり、怒られたりしない、安心安全な場があって初めて人は感情を表に出すことが出来ます。

人を理解するとき、その安心安全の場をいかに作るかという難しさがまずあります。

 

そして安心安全の空間を作れたとしても、まだ人の理解を難しくする構造があります。

 

二、内的枠組みの違い

人は同じ経験をしても、必ずしも同じように感じるわけではありません。

例えば、遊園地でジェットコースターに乗った場合、そのスリルを楽しいと感じまた乗りたいと思う人もいれば、

乗り物酔いをして気持ち悪くなったり、怖いと感じたりして、もう二度と乗りたくないと思う人もいます。

花畑を散歩しても、その美しさに魅了されてまた来たいと思う人もいれば、退屈で退屈で一刻も早く帰りたいと思う人もいます。

このように、人は必ずしも同じ経験から同じ感情を導き出すわけではありません。

人の話を聴く際に、話し手が自分なら悲しいと感じるような出来事について話していても、それを話し手は悲しいと感じているとは限りません。

この内的枠組みの違いが、人と人の理解を難しくする第二の構造です。

 

人と人が理解することを難しくする構造、もう一つあります。

 

三、言葉の枠組みの違い

言葉というのは人と人が理解に達するためにとても便利な道具ですが、言葉という道具が内包する問題点が、相互理解を妨げる場合もあります。

その問題点とは、言葉に対して投影するイメージにはずれがあるということです。

ある言葉に対して抱くイメージは同一言語話者であれば、大まかには同じなのですが、

細かく深く他者を理解しようと試みるとき、そのイメージのずれが問題になってきます。

同じ言葉を用いていても、人によってその言葉に投影するイメージ、意味の幅、ニュアンスが微妙にずれているということがあります。

また同じ感情を抱いていたとしても、それを表す言葉が人それぞれに違うという場合があります。

今仮に、AさんとBさんの二人が会話しながら全く同じ感情を抱いてしたとして、

Aさんはそれを「寂しい」という言葉で表現し、Bさんがそれを「悲しい」と表現した場合、

AさんとBさんは自分たちが全く同じ感情を共有しているとは気が付けないでしょう。

一人一人がある言葉に投影するイメージがそれぞれに異なるため、

同じ感情に別の名前を付けていたり、別の感情に同じ名前を付けているということが起こり得ます。

この言葉の枠組みの違いが人と人が理解することを難しくする三つ目の構造です。

 

今見てきたように、人が人を理解するというのは、決して簡単なことではありません。

そんなにも理解することが難しいのならば、人を理解することは不可能なことなのでしょうか?

私はそうは思いません。

もちろん完全に他者を理解することは、大変に難しいことであると思いますが、

人を理解することの難しさを知るのことで、人をより良く理解できるようになると私は考えます。

長くなってしまいましたので続きは次回に。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

Categories
ブログ

やさしさに包まれたなら ~学びの場に必要なもの~

最近息子がジブリのサウンドトラックを気に入っていて、よく一緒に聴いています。

息子のお気に入りはトトロの「さんぽ」と崖の上のポニョのテーマソングです。

それらが流れるとニッコニコで踊り出します。

サウンドトラックの中に、魔女の宅急便のエンディング曲「優しさに包まれたなら」も収録されています。

久しぶりに聞いたのですが、歌詞にハッとする箇所がありました。

“やさしい気持ちで目覚めた朝は大人になっても奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて静かな木漏れ日のやさしさに包まれたならきっと

目に映る全てのことはメッセージ”

目に映るありとあらゆる物事から、自分に宛てられたメッセージを感じ取る。

その自分に向けられて発せられるメッセージに対する感受性が最大限に発揮されるために必要な条件、

それが“優しさに包まれたなら”。

なるほど確かにそうだよなぁ、と私は思わず唸ってしまいました。

 

ギリシャ哲学の礎を築いたソクラテス、そしてその弟子のプラトン。

儒教の祖である孔子。

仏教を打ち立てた釈迦。

そっち方面に疎い私はつい最近まで知らなかったのですが、現代まで脈々と語り継がれるこれらの思想を築き上げた、この4人、

実はほぼ同時代を生きていたのだそうです。

彼らが生きていたのは、紀元前500年前後。

なぜこの時代に、後世まで残るような思想が次々生まれたのでしょうか?

この時期は地球が温暖化し、農機具として鉄器が使われるようになり、農業生産性が著しく向上します。

農業生産性の向上によって余剰な収穫物が得られるようになり、それが貧富の差を生み出しました。

富める者は自分は働かず、貧しい使用人に労働をさせるようになります。

そしてそれらの人々は有り余る財力で、自分の周りに芸術家や学者を囲い込むようになりました。

こうして、食べるものにありつけず、飢える心配から解放された知識階級の人間たちの中から今日まで残るような思想が次々と生み出されることとなったのです。

飢える事の不安から解放され、将来に対する安心感があったからこそ、それらの知識人も思想を深めることが出来たのでしょう。

つまり人が思索を深め、何かを学び取るために必要なものの一つが安心感だということです。

 

思索を深め、何かを学び取るためには安心感が必要。

これは私自身の感覚ともとてもよく合致します。

私は今でこそ、高校生に数学を教えていますが、高校時代は本当に数学が分かりませんでした。

先生の言っていることが全然頭に入って来ないのです。

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことを今でもよく覚えていますし、

sin、cos、tanの意味が分かるようになったのは高校三年生の春です。

それくらい意味が分かりませんでした。

その後何とか、大学に入ったのですが、何を血迷ったのか私は理学部に入学します。

数学は意味不明でしたが、この意味不明の文字列の何たるかが分かれば、世界の秘密の一端を解明できるのではないかと思っていたのです。

そこには、分からないからこそ分かりたいという、ある種の飢えがあったのかもしれません。

しかし数学が出来ないままでは卒業できないと危機感を抱き、もう一度高校の数学を勉強し直すことにしました。

なんと教科書を開いて自分で読み進んでいくと、あんなに意味不明だったことが、「なんだ、そんなことだったのか」という具合にスラスラと意味が分かるのです。

結局大学では、数学の授業でも評定Aをとりましたし、今センター試験や共通テストの数学の問題を解けば9割方正答できます。

別に自慢がしたくてこのような事を書いているのではありません。

本題はこれからです。

 

私はプロフィールにも書いていますが、高校が大嫌いでした。

毎日毎日学校に行きたくなかったのですが、そんなこと言うと親に怒鳴りつけられるので、しょうがないから3年間イヤイヤ通っていました。

進学校だったので、勉強の出来不出来というたった一つのモノサシで自分を測られる感じや、

ちょっとでも周りと違うふるまいをすると変な奴みたいな扱いを受ける、同調圧力に満ちた雰囲気が窮屈でたまらなく嫌でした。

大学に入ってからは本当に自由でした。

気の合わないような人間と同じ空間にいる事を強要されたりもしないし、勉強の成績という単一の価値感で優劣を測られることもありません。

本当にのびのびと自分のしたいことに没入できる貴重な時間を過ごしました。

これらの現象から私が言いたいことは、どうしようもなく居たくない場所に居続けることによって、脳の活動はフリーズしてしまうということです。

そしてこれは別に私一人に限ったことではありません。

 

子どもたちと一緒に勉強していても、場の雰囲気がその子に与える影響を強く感じます。

具体的に書くことは控えますが、家の中の雰囲気が悪くなっていたり、学校での人間関係に心配なことがあったりすると、子どものパフォーマンスは一気に低下します。

テストの点が悪いと親に怒られると心配している子より、テストの点が良かろうが悪かろうが別に何も影響ない、という子の方が良く勉強するし、成績も良かったりという例も見てきました。

時代に名を刻む先人たちが思索を深めるために必要だったもの。

そして子どもたちが学びを深めるために必要とするもの。

人間の脳は定住生活を始めた1万2000年前からほぼ進化していないそうなので、きっとそれらは同じなのだと思います。

人が思索し、学びを深めるために必要なもの、それはまず安心感です。

不安感を抱いたり、分からないことを責められたりするような環境では、何かに集中することはできません。

子どもたちに良い学びを手渡したいともし親御さんが望まれるのならば、

誰かと競わせたり、不安感をあおるようなことではなく、どうぞまず安心感を抱けるような環境づくりをしてみてください。

自分に向けて発せらるあらゆるメッセージへの感受性を上げていけるのは、やさしさに包まれた安心感のある環境だからです。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

Categories
ブログ

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

私の母は私が小学生の頃から畑で野菜を育てています。

二週間くらい前でしょうか、目が出たばかりだったミニトマトが、先日畑に行くと20センチくらいまで伸びていました。

植物の伸びようとする力、生きようとする力にしみじみと感じ入るものがありました。

一つ一つの生命には生きようとする力、伸びようとする力が内在している。

そうであるならば、それを支える人間にできることは、適切な環境を整えてあげる事。

そしてその環境は、決してその生きようとする意志を歪ませるようなものであってはならない。

グングン伸びゆくトマトに、一緒に学習している子どもたちの姿が重なって見えました。

私は彼らにとって適切な環境を提供できているのだろうか?

そんな問いが浮かんで来ました。

 

先日のブログでは、

子どもが、明るく元気で聞き分けのいい「良い子」を演じるのは、周囲の期待に応えるため、評価を得るため、であること、

本来の自分の願望を押し殺し、無理に良い子を演じ続けることで、周囲に対して怒りや憎しみが堆積し、それが限度を超えたとき、動けなくなること、

について綴りました。

「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

引きこもりや不登校をすべてこのストーリーで説明することはできません。

あくまでも私の知る限りでは、このようなケースが多くみられるということです。

評価の眼差し過剰な社会で、評価を得るために無理をし続けてきた結果動けなくなった子ども。

その子どもに必要なものとは、何でしょうか?

 

お子さんが動けなくなったとき、多くの親御さんが取られる態度は、𠮟咤激励して学校に行かせようとすること、だと思います。

一時的にそれで乗り越えられたとしても、その状態が長続きすることはありません。

またしばらくすると動けない状態に戻るお子さんが多いです。

今までずっと頑張ってきたお子さんに必要なのは、さらに頑張ることではなく、まずは休むことです。

一口に休むと言っても、ただ休んでいればいいわけではありません。

休むためにも押さえておかなければならないことがあります。

 

動けなくなったお子さんに必要なもの。

その子が今どのようなプロセスにいるかによってそれは変わってくるのですが、

ここでは動けなくなった最初期に必要なものについて考えてみたいと思います。

私の考える必要なもの、以下の三つです。

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

1、責められないこと

たとえ学校を休んでいても、休んでいることに罪悪感を抱くような環境であれば、休めていることにはなりません。

「いつまで休んでいるつもりなの!」、「明日は学校に行きなさいよ!」などの言葉がけや、お子さんの顔を見るたびにため息をついたりする態度など、

休んでいる期間が長くなるにつれ、そばにいる親御さんもイライラが募ってついついこのような言動をとってしまいがちなのですが、

休んでいることに罪悪感を抱いてしまうような環境に身を置いても、それはただ学校に行っていないというだけで、休めていることにはならないのです。

それでは、どうするか?

2に続きます。

 

2、共感的な態度

評価の眼差しが過剰になった世界に必死に適応しようとして、疲れて動けなくなってしまった。

そのような状態のお子さんには共感的な態度で接することが必要です。

共感的な態度で接するとは、どのようなものをいうのでしょうか?

共感の示し方は様々だと思います。

例えば、お子さんの身体をマッサージしてあげるとか、

嫌がらないのであれば、頭を撫でてあげるとか、

好きな食べ物を作ってあげるとか、

お子さんのしてくれたほんのちょっとしたことにでも「ありがとう」と言い続けるとか、

返事が返ってこなくても毎朝「おはよう」と声をかけ続けるとか、

もし話をしてくれるようになったら、お子さんの話に共感的に耳を傾けるとか、

その方法は本当にさまざまだと思います。

そういう態度で接し続けることで、評価や競争の世界で強張っていたお子さんの気持ちが徐々に和らいでいきます。

 

3、力を奪うものから遠ざけること

2で共感を示すことが大切と述べましたが、共感を示すことは、言いなりになることではありません。

心穏やかに休むためには、力を奪うようなものから、お子さんを遠ざける必要があります。

そのためには、「ダメなものはダメ」と毅然とした態度をとることも必要です。

お子さんの力を奪うものとはなんでしょうか?

大人でも子どもでも、直面したくない現実から目をそらすために、別の世界に逃避してしまうことがあります。

それが一時的であれば問題はありませんが、その逃避状態が常態化してしまうのは問題です。

逃避状態の常態化とは、何かに依存することです。

依存する対象は人により様々ですが、大人であれば、アルコール、ギャンブル、薬物などがありますし、

子どもであれば今一番気を付けなければいけないのは、ネットとゲームです。

ネット・ゲーム依存症になると、ゲームのこと以外考えられなくなり、ご飯も食べずに一日中やり続け、自分の意志で止められなくなったり、ひどくなると幻覚や幻聴、歩行困難などの症状が出ることもあります。

このような状態に至っては、心穏やかに休むことは不可能です。

そのような状況にならないために、お子さんの力を奪うものから適切な距離を取らせることが必要です。

 

評価の眼差し過剰の社会で疲弊したお子さんが、心穏やかに休むために必要な環境について考えてきました。

私が考える心穏やかに休むために必要なものは

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

の3つです。

それでは、お子さんのそばで支援する親御さんが、1のような状態に至らず、2のような態度でお子さんと向き合うために必要なものとは何でしょうか?

そしてなぜ子どもはゲームやネットの世界に居場所を見出そうとしてしまうのでしょうか?

今日はまた長くなってしまいましたので、次回以降考えてみたいと思います。

続きます。

不登校、ひきこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

Categories
ブログ

変化の時代 ~なぜ考えられないのか?~

前回、前々回のブログでは、

・時代が変化し、良い大学に入って、良い会社に入れば一生安泰という時代は終わったこと

・これからは一人一人が考えることが求められる時代であること

・考えるために必要なのは、「知識」と「理解力」であること

について綴りました。

前々回の記事:変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

前回の記事:変化の時代 ~考えるために必要なこと~

考えることが大切な時代なのですが、日本人はもともと考える事が苦手な国民です。

歴史を振り返って見ればそれは明らかです。

学生時代に、歴史の授業で、遣隋使、遣唐使という言葉を習ったことがあると思います。

政治や法律、文化や宗教、さまざまな分野で日本は、昔から中国大陸、朝鮮半島の真似をし続けてきました。

明治維新、戦後復興では、その物まねの対象が西欧文明に変わっただけで、物まねをするという身の処し方はそのままでした。

つまり、どこかの国で成功している事例を真似することは得意でも、自分たちで考え何かを生み出すということが、日本人はずっと苦手な国民だということが分かります。

なぜ日本人は考えることが苦手なのでしょうか?

歴史が関与するような長い時間スケールで考えたときに、その理由は気候風土や島国であること、などの地理的な条件が関与してくるのだと思いますが、

もっと短い時間スケールでその理由を考えたとき、その答えはズバリ「考える」という訓練をしていないからです。

 

~学校の授業でやっていること~

前回のブログで、頭の使い方はピラミッド型の三層構造になっている、という話を綴りました。

下から数えて、第一層は「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」。

知識の蓄積が理解力を下支えし、理解力が「考える」を下支えする、そのような三層構造になっていると私は考えます。

つまり、「覚える」、「理解する」という頭の使い方の先に、「考える」というさらに高度な頭の使い方があるのです。

ここで学校の授業を思い出してみてほしいのですが、学校の授業でやっている頭の使い方は、「覚える」、「理解する」、「考える」のうちどれでしょうか?

例えば、漢字を「覚える」。

例えば、英単語を「覚える」。

例えば、三角形の合同の証明方法を「理解する」。

例えば、英文法のルールを「理解する」。

例えば、オームの法則を「理解する」。

学校の授業でやっていることを振り返ると、そこで行っている頭の使い方はほとんどが、「覚える」と「理解する」であることが分かります。

その授業のやり方は、試行錯誤を要する「考える」とは違い、非常に効率的に子どもを一定水準まで知的に成長させることが出来るのですが、

それを繰り返すだけでは、いつまでも「考える」ことが出来るようにはならないでしょうし、

人から教えられたことを「覚える」、「理解する」という作業ばかりをこなし続けることで、もっと何かを知りたいという知的好奇心がそがれてしまう恐れもあります。

 

以上のように短期的時間スケールで見たときに、日本人が考えることが苦手な理由は、そもそも「考える」という頭の使い方をしていないことが原因であることが分かります。

このような事を書くと、学校教育批判と捉えられるかもしれませんが、私は学校は、改善すべき点はあるものの、素晴らしい学びの場であると考えています。

先ほども述べたように、「考える」ためには、知識の蓄積と理解力の涵養は不可欠ですし、学力だけでなく、社会性も身に着けられる場所であると考えています。

学校で「考える」という頭の使い方をしていないなら、これから学校でそういう時間を作ればいいじゃないか、という意見もあるかと思いますが、

小学校教員の約55%、中学校教員の約80%が月の残業時間が100時間を超えている現状で、それを学校に求めるのは無理な話です。

「考える」訓練は、それが具体的に何なのかが分かれば、学校でやらずともご家庭で行えることです。

次回は「考える」訓練について。

続きます。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

C8E6496B-7A30-412C-9D41-B408EC7D7966

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Categories
ブログ

変化の時代 ~考えるために必要なこと~

先日、子どもが生まれてから初めて、奥さんの実家の魚沼に行ってきました。

息子は、お義父さんとお義母さんにかわいがってもらってニコニコご機嫌に過ごしておりました。

私が田舎で生まれ育った人間だからかもしれませんが、山も川も美しく、人も穏やかな田舎はいいなぁ、とつくづく思いました。

田んぼを覆っていた雪も解け、もうじき田起こしが始まることでしょう。

あの土のにおいが漂ってくると、私は春だなぁと感じます。

久しぶりにのんびりとした時間を過ごせた気がします。

 

~考えるとは何か?~

先日のブログでは、

いい大学に入って、いい会社に入って、そこで定年まで勤めあげる、というキャリアパスは成り立たなくなった、

一人一人がどう生きていけばよいのかを考えなければならない時代になった、という内容を綴りました。

「考える」というのは何の気なしに使っていることの多い言葉ですが、それでは具体的に「考える」とはどうすることを言うのでしょうか?

「考える」とは、目の前の出来事に懐疑の目を向け、自分なりに仮説を立て、その真偽を検証するという一連のプロセスのことを言います。

その検証結果が真であるならば、それが新たな定説となり、それが偽であるならば新たな仮説を立て、再度検証するというプロセスに進みます。

つまり、「考える」とは疑うことから始まるのです。

それではなぜ人は疑うことが出来るのでしょうか?

 

~頭の使い方三層構造~

私は頭の使い方は、ピラミッド型の三層構造になっているのではないかと考えています。

第一層が「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」です。

子どもたちと一緒に学習していて気づいたことですが、なぜそのようになるのか、その理由が理解できれば覚える必要がなくなることが沢山あります。

例えば、英語のテストを受けることを考えてみましょう。

なぜそのような言葉の並びになるのか、英文法を理解できていない人は、一言一句違わず言葉の並びを覚えてテストに臨まねばなりません。

文法を理解してる人は、なぜそのような言葉の並びになるのか、そのルールが分かっているのですからそのような苦労をせずとも、

主語の後には助動詞がきて、その後ろに動詞の原形、副詞句を付け加えるという英語のルールに照らし合わせて問題を解いていけます。

つまり「理解する」ことが出来れば、「覚える」ことをせずとも済むわけです。

こうして考えると、「理解する」ことは頭の使い方として、「覚える」より一階層上位の頭の使い方であることが分かります。

ただし、「理解する」はたくさんの「覚える」に支えられていることも忘れてはいけません。

たとえば、ひらがなや漢字、アルファベットを覚えなければ、そもそも文章が読めない訳ですから、「理解する」こともできないのです。

同様のことが「考える」にも言えます。

第一層の「覚える」と第二層の「理解する」が、第三層の「考える」を支えているということです。

「覚える」を「知識」と、「理解する」を「理解力」と言い換えるならば、知識の蓄積と理解力の涵養が、疑うことと、仮説を立てること、検証することを可能にしているのです。

何の知識もなしに、理解する力もなしに、人は何かを懐疑し、仮説を立て、それを検証することなどできないからです。

 

人が考えるために必要なもの、それは、知識と理解力であると綴りました。

自分のことを含めですが、日本人は、義務教育9年、高校で3年、人によっては大学で4年、教育を受けているにも関わらず、考えることが苦手な人が多いように思います。

それは何故なのでしょうか?

また、考えるために必要な知識ですが、それもただ頭の中に入っていればいいというわけではありません。

頭の中に知識が入っていたとしても、それが使える状態になっているものと、そうでないものがあるように私は感じています。

使える状態の知識とはどのようなものか、使えない状態とはどういうものか?

次回はそのような内容を綴ってみたいと思います。

続きます。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

ed3b409edbe8d0a817d441928180783f_s

Categories
ブログ

変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

お陰様で、先日息子が生後四か月を迎えることが出来ました。

日に日に大きくなり、出来ることも増えてきました。

生まれたばかりの頃は、呼びかけても無表情でポカーンとしていましたが、最近は笑顔で応えるようになってきました。

近頃は、自分の手でおもちゃをつかんでべろべろ舐めまくるという遊びにハマっているようです。

自分の子どもが生まれてから、前にも増して子どもが子どもらしくのびのびと生きられる世の中であってほしい、という思いが強くなりました。

伸び行く子どもの姿から学び取ることが多い日々を過ごしています。

 

~変化の時代~

私がまだ子どもだった頃のことです。

良い学校を出て、大きな会社に入って、そこで定年まで働いて、老後はマイホームでのんびりと過ごす。

そんなキャリアパスが現実味を持って語られておりました。

高度経済成長の終焉、バブルの崩壊、新自由主義の台頭を経て、そのようなキャリアプランは過去の遺物と化してしまいました。

今、働く人の4割弱が非正規雇用者で、年金だけで生活できずアルバイトをされている高齢者も沢山見かけるようになりました。

安定した雇用環境があればこそ、消費も増え、家庭を持ち、家を建てることもできたでしょうが、そのようなことがもう当たり前にかなわない時代に突入してしまいました。

いい学校、いい会社というキャリアパスが崩壊したのなら、もう学んだって意味がないじゃないか、という言葉も聞えてきます。

私はそうは思いません。

 

~考えることが必要な時代~

どう生きるべきか?

一昔前の日本は、その道筋を社会が用意してくれていました。

せっせと受験勉強に精を出し、いい学校に入り、いい会社に入り、年功序列で賃金があがり、

という流れに身を任せていれば、個々人が深く考えずとも生きていける時代でした。

今の世の中は、その大きな流れがもう機能を果たしてはいません。

身を任せていれば目的地まで連れて行ってくれるベルトコンベヤーは、もうその動きを止めてしまいました。

そんな時代であればこそ、私は学ぶ必要があるのと考えています。

なぜならば、一人一人が考えなければならない時代に突入したからです。

 

「考える」「考える」と綴ってきましたが、それでは「考える」とは具体的にどのようにすることでしょうか?

「考える」ために必要なこととは何でしょうか?

続きます。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

b99dc17381e88e19cc064127da00e86d_s