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学校と納豆の等価性 ~人生いろいろ、学校もいろいろ~

ここ数回、変なタイトルでブログを書いております。

前々回、前回の記事では、

・「納豆嫌い!」は怒られないのに、なぜ「学校嫌い!」は怒られるのか?

・学びの場は学校しかない、という価値観が不登校という問題をつくる

・情報処理の仕方、感受性の強弱によっては学校にいること自体が苦痛になる子がいる

ということを書いてきました。

日本の教育について考えてきましたが、海外の教育はどのようになっているのでしょうか?

オランダでは、公的な学校教育以外のさまざまな代替教育が普及しています。

例えば、イエナプラン教育、シュタイナー教育、ダルトン教育などです。

そこでは、異年齢の子が少人数のグループを作って学んだり、時間割を自分たちで決めたり、

知識だけでなくモノづくりや身体表現、芸術表現を学んだり、

自分が学んだことを同じグループの子たちに発表することに重きが置かれていたり。

日本の学校とはだいぶ雰囲気が異なることが感じ取れると思います。

またドイツ、スイス、オランダでは、小学校卒業時に、進路が大きく分かれます。

ドイツの例を見てみましょう。

ドイツは、日本でいう小学校4年生を終えた段階で中等教育が始まり、

その進路は、ギムナジウム、総合制学校、実科学校、基幹学校に分かれます。

ギムナジウムは9年間あり、大学への進学を目的としています。

実科学校、基幹学校はそれぞれ6年、5年の期間があり、

そこでは職業訓練が行われ、技術者や公務員、職人の育成に当たっています。

約半数の子どもがこのコースに進学するそうです。

卒業者は職人として仕事に就くか、職業専門学校へ進学します。

総合制学校は、大学へも職業専門学校へも進学でき、約3割の子どもたちがこのコースを選択します。

ドイツでは、職人や技術者の社会的地位が高く、生活も安定しやすいのだそうです。

本人も希望せずその適正もないのに、誰かれ構わず大学進学を目指させる日本と違い、

その子の適性に応じて様々なキャリアパスが用意されているのです。

フィンランドでは、グループ学習が重要視されています。

一クラスは24人で子どもたちは4~5人のグループに分かれて学習します。

そこではできる子ができない子に教え、助け合い学びあうことが重視されています。

学力だけでなく、お互いに助け合うという社会性も同時に身につくため、

フィンランドでは、いじめが少なく、不登校という問題も存在しないそうです。

また先生は皆大学院の修士卒で、大きな裁量権を与えられ、人事考課もなく、子ども一人一人に合った学習方法を自分で選択することができます。

中央で決めた画一的学習内容を、どんな特性を持った子どもにも画一的に指導しようとする日本の教育とは対称的です。

オランダ、ドイツ、フィンランドとヨーロッパの国々の教育について見てきましたが、実際にそれで学力は付いているのかという疑問があります。

PISAと呼ばれる国際的な学力調査のテストがあります。

3年ごとに15歳の子どもの数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力を問うテストです。

紹介したいずれの国々も、世界の72の国と地域から54万人が参加するこのテストで、すべての分野において上位15位以内に入っています。

つまりその教育方法でしっかりと結果が出ているということです。

今日は世界の国々の教育について紹介しました。

ここから分かることは、教育とは必ずしも正解ではなく、試みであるということです。

世界中でさまざまな教育方法が試行錯誤されています。

日本の教育だってそうです。

それはあくまで試みであり、決して正解ではないのです。

そうであるならば、その一つの試みに適応することが苦手というそれだけの理由で、

私たちはそんなに自分を責める必要があるのでしょうか?

続きます。

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    学校と納豆の等価性 ~人生いろいろ、子どももいろいろ~

    昨日のブログでは、「納豆嫌い!」は別に叱責の対象にはならないのに、

    なぜ「学校嫌い!」は叱責の対象になるのか?と綴りました。

    それは、今の日本に“学ぶためには学校に行かねばならない“という強固な価値観があるからです。

    私は子どもたちは学ぶ必要があるとは思いますが、それが必ずしも学校ではなくてもいいのではないか、と考えています。

    今日はその理由を書いてみたいと思います。

    人間の情報処理の仕方には、いくつか種類があることが知られています。

    一、空間視覚型情報処理

    二、聴覚言語型情報処理

    三、視覚言語型情報処理

    このような情報処理型があるのだそうです。

    視覚空間型情報処理が優位な人は、身体や手先を動かすのが得意で実際に行動して学ぶことが得意です。

    反面、集中力が続かず、じっとしていることが苦手と言われています。

    聴覚言語型情報処理が優位な人は、会話を通して情報を処理することが得意で、コミュニケーション能力が高く、相手に共感を示すのが得意です。

    半面、空間認識や論理的思考が苦手と言われています。

    視覚言語型情報処理が優位な人は、文字言語を通じて情報処理を行い、論理的に物事を考えるのが得意です。

    その一方で、オリジナリティには乏しく、会話が苦手という一面があります。

    聴覚言語型や視覚言語型は、講義中心の現行の学校というものに比較的馴染みやすいですが、

    視覚空間型といわれる情報処理をする子どもは、じっとしているのが苦手なわけですから、講義中心の学校教育に適応困難を起こすことが容易に想像できます。

    また、脳の特性で感受性の豊かな子どもは、HSC(highly sensitive child)と呼ばれていて、

    その感受性の豊かさゆえに、大きな音や、強い光、におい、化学物質、場の雰囲気の変化などに敏感に反応し、苦しさを覚えてしまうといわれています。

    この特性を持った子にとっては、学校にいるだけで精神的に消耗してしまい、学習どころではないでしょう。

    空間視覚型情報処理の子どもにしろ、HSCの子どもにしろ、今の学校というシステムに上手に馴染むことが難しい子どもたちがいます。

    日本では、教育がそのような子どもたちの学びに上手く適応できていないのが実情なのです。

    続きます。

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      学校と納豆の等価性 ~「学校嫌い!」はなぜ怒られるのか?~

      私たちが悩みを抱えて苦しんでいるときというのは、

      得てして「○○であるべき」という価値観に縛られているときではないでしょうか?

      不登校も同じだと思います。

      「学校に行くべき」という価値観が、お子さんを、親御さんと苦しめている。

      そういう面があると私は感じます。

       

      今は何の苦も無く食べられますが、私は以前納豆が苦手でした。

      納豆が苦手であったときに、納豆が苦手であるという理由から誰かに叱責されたことはありませんでした。

      話は変わって、私は高校生のときにとにかく学校が嫌いで、毎日行きたくないと思っていました。

      ある朝父親に、「学校に行きたくない」と告げると、「ふざけるな!」と怒鳴りつけられました。

      私と同じように、学校行きたくないと告げると、親御さんから叱責されたというお子さんは多いです。

      「納豆嫌い」も「学校嫌い」も何かが嫌いという点において何ら変わりはないはずなのに、このように全く異なる対応を取られるという不思議。

      納豆が嫌いでも誰から叱責されることもないのに、学校が嫌いというとなぜこんなにも怒られてしまうのでしょうか?

      それは、納豆には変わりがあるが、学校には変わりがないから、だと思います。

      納豆がなくても、そのほかのもので栄養補給を代替できますが、学校以外でその機能を代替する場が日本にはない。

      そう思っている人は多いと思います。(私は全くそうは思いませんが。)

      だから「ふざけるな!」と怒られるのかもしれません。

      私は学校に行けないことが問題なのではなく、この学校以外に変わりが効かないという状態に問題があるのだと考えます。

      続きます。

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        「勉強しなさい!」その前に

        人は誰でも依存状態から人生をスタートさせます。

        何もできない無力な赤ん坊としてこの世に生まれてきます。

        その状態から、成長し自分の足で歩いていけるようにすること、その状態に導くのが大人の大切な仕事であると私は考えます。

        自立。

        それは具体的にどんな状態なのでしょうか?

        =自立とは何か?=

        一人で何でもできること、他者と関係を持たずとも生きていけること、それは自立ではなく孤立というのかもしれません。

        私の考える自立とはそういうものではありません。

        自分を信頼し、他者を信頼し、緩やかに相互依存できる人間関係を複数持ち合わせている状態。

        自立とは緩やかな相互依存を通じてた果たされるものであると考えます。

        そうであるならば自立の基礎にあるのは、他者に対する信頼感であるはずであり、さらにその基礎にあるのは、自分自身に対する信頼感です。

        自分自身の存在に安心感を抱けるからこそ、他者との人間関係に一歩を踏み出していける、私はそう考えます。

        親御さんの発する「勉強しなさい!」という言葉。

        これは自分の力を頼りに生きていける状態なってほしいという願いが込められた言葉です。

        でもそれが親子の関係(それは他者との関係性の基礎となるものですが)を悪くするならば、子どもは果たして自立していけるのでしょうか?

        =doの自信とbeの自信=

        精神科医の水島広子さんは、人間の自信にはdoの自信とbeの自信がある、と著書の中で述べています。

        doの自信。

        英語のテストで100点が取れる、100メートルを○○秒で走れる、友達が○○人もいる、これらは行為や所有のレベルの自信です。

        これらは、それをできなくなれば、それを持てなくなれば、崩れてしまう極めてもろい自信です。

        beの自信。

        ○○ができる、○○を所有している、などとは関係なく自分自身の存在に対する自信、安心感、それがbeの自信です。

        これは常に自分自身とともにある自信です。

        能力や所有物が無くなっても消えない自信。

        自分自身に対してこういう気持ちを持てること。

        それが他者との意人間関係に踏み出すための最初の一歩になり、そして緩やかな相互依存的人間関係を築けるようになること、つまり自立につながるのではないでしょうか。

        =beの自信を育てるために=

        そうであるならば、「勉強しなさい!」の前にかける言葉があるのではないでしょうか。

        beの自信を育てる言葉がけ。例えばどんなものがあると思われますか?

        子どもに対して感謝する言葉、子どもの存在を喜ぶ言葉、そういう言葉がけが、子どもの中にbeの自信を育てていくのではないでしょうか。

        例えば、

        「いつも元気でいてくれてうれしい」

        「お弁当きれいに食べてくれてうれしい、ありがとう」

        「あなたの顔を見ていると幸せな気持ちになるよ」

        これは○○ができたからとか、○○を所有しているからとか、そういうことに関係ない存在に対する感謝と喜びの言葉がけです。

        最初は恥ずかしいかもしれません。

        お子さんも受け取ってけれないかもしれません。

        それでも親御さんからのこういう言葉がけは、お子さんの中に自分という存在に対する安心感を育んでいきます。

        「勉強しなさい!」という言葉に込められた願いはなんでしょうか?

        それはお子さんに自立してほしい、自分の足で立って生きて行ってほしい、そういう願いではないでしょうか?

        でもその言葉がけが、お子さんから自分自身に対する安心感を奪い、将来の自立を妨げているとしたら、、、?

        自立とは緩やかな相互依存を通じて果されるもの。

        そうであるならば他者のために○○ができるというdoの自信も大切です。

        でもdoの自信を持つために、すでに持っているdoの自信が力を発揮するために、その基礎に必要なのは自分自身に対する安心感、beの自信なのだと考えます。

        「勉強しなさい」

        その前に、

        「ありがとう」、

        「うれしい」、

        そんなお子さんのbeの自身を深める言葉がけを始めてみませんか?

        お子さんの将来の自立のために。

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          「こんなこと勉強してなんか意味あるんですか?」

          私が学生の頃、勉強して世間的に良い評価の学校に入り、給料の高い安定した会社に入る、という生き方を目指すことが一つの大きな流れだった気がします。

          しかしいつ頃からでしょうか、この生き方が成り立たなくなってきているように感じます。

          何かを学ぶことのモチベーションが、「自分のため」という範囲を出ない場合、子どもたちは学ぶことの意味が分からなくなってしまうのだろうと感じます。

          もちろん、「自分のため」を考えることを間違いだと私は思いません。ただ学ぶことの意味はそれだけではないと考えています。

          私の考える学ぶことの意味は、「生き延びる力をつけるため」です。

          「生き延びる力」とはなんでしょうか?お金を稼ぐ力でしょうか?作物を育てる力でしょうか?海や川で魚を獲る力でしょうか?

          もっと抽象的に考えれば、「生き延びる力」とは誰かの役に立てることであると私は考えます。

          人は誰かの役に立ちたいと考える生き物なのではないか、と思う出来事がありました。

          私には4歳になる甥っ子がいます。彼がまだ2歳になるかならないかの頃、一緒にごはんを食べている時に、ニコニコしながら私に自分の食べ物を分け与えてくれたことがありました。

          2歳の子どもでさえ、人に与えたい、誰かの役に立ちたいと考えるのだなぁと、私にはとても印象的な出来事でした。

          人の喜びには、自分が何かを得る喜びと、人に何かを与える喜びの二種類があるのかも知れません。

          「こんなこと勉強してなんか意味あるんですか?」

          子どもたちのこの言葉は、自分が何かを得る喜びだけでは、学びの動機付けとして弱い、ということを意味しているように感じます。

          学ぶことの意味は、生き延びる力をつけるため。生き延びる力とは、誰かの役に立てること、そしてそれは人にとって喜びなのではないか?と書いてきました。

          アイディアとは既知の要素の新しい組み合わせである、という言葉にあるように、知っていることが多ければ多いほど、目の前で困難を抱えている人を、新しいアイディアで手助けできるようになるのではないでしょうか。

          そして、そういう誰かの役に立てる人間が、人の間で生き延びることができるのではないでしょうか。

          学ぶことの動機付けとして、今自分が学んでいることがどのように世の中で生かされており、今自分が学んでいること自体が世の中にとってどのような意味があるのか。

          教科書に載っている問題の解き方だけでなく、そういう視野の広い話を伝えることで、子どもたちの学びを動機付けていきたいと考えております。

          そのためには、私自身が学び続けなければいけないし、学び続けていきたいと考えています。

          そして子どもを学びの世界に誘うのは、大人自身の学び続ける姿なのかも知れません。

          「こんなこと勉強してなんか意味あるんですか?」

          この問いに対する私の答えは「ある」です。

          それを子どもたちと接する中で伝えていくのが、自分にとって大切な仕事です。

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            「もともとそんなにできる子じゃないから、、、」

            「もともとそんなにできる子じゃないから、、、。」

            ご家庭でお子さんと学んでいると、親御さまからこのような言葉を聞くことがあります。

            日本では、身内を褒めることを良しとしないという文化がある事も関係しているかもしれません。

            しかし、その日々の何気ない言葉がけがお子さんの才能の発露に影響を与えているとしたらどうされますか?

            ピグマリオン効果という言葉をご存じでしょうか?

            一言でいうならば、「人はそのように接することでそのようになっていく」というのがその内容です。

            アメリカで以下のような実験が行われました。

            幼稚園から五年生までの子どもに学習能力テストを行いました。

            そして次の学期から担任になった教師たちに、数人の子どもの名前を伝え、

            その子どもたちが学習能力テストでずば抜けた学習能力があることが分かったという情報を伝えました。

            実はそれは嘘の情報で、その子どもたちがほかの子どもに比べて成績が伸びるであろう客観的事実はありませんでした。

            しかし学期末に学習能力テストをしてみると、名前を伝えられた子どもたちの成績は大きく伸びていました。

            その子どもたちとほかの子どもたちにどんな違いがあったのでしょうか?

            それは接する教師がその子たちに対してどのような前提をもって向き合っていたか、とこの実験は結論づけています。

            その教師たちは、名前を告げられた子どもたちには特別な才能があるという前提で接していました。

            そしてその教師たちの前提が子どもたちの能力の向上をもたらしたということです。

            周りにいる大人がどのような前提をもってその子と向き合うか、

            それでその子の能力が大きく伸びもすれば、花開かなくなってしまいもする。

            私自身この話を初めて聞いたとき、自身の子どもとの接し方を振り返って反省することが多々ありました。

            人はそのように接することでそのようになっていく。

            その思いをもって日々子どもたちと一緒に学ばせて頂いております。

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              家庭教師の大丈夫!は、成績不振、不登校で悩まれる親御さん、お子さんを対象とした家庭教師です。

              「私の育て方が悪かったから...」 どうかそんな風にご自身を責めないでください.。

              お子さんが、抱え込んだその苦しさや違和感を表現できたのは、 「お母さんならば受け止めてくれる」 そんな安心感、信頼感があればこそではないでしょうか。

              お子さんとの間にそのような関係性を築く子育てをしてこられたからこそ、ではないでしょうか。

              だから、どうぞご自身を責めないでください。

              私自身、高校生の頃に学校に馴染めず、辛い日々を過ごした経験があります。

              そんな自分だからこそ、気持ちいっぱいになって動けなくなっている子どもたちに、 寄り添い、気持ちを分かろうとし続けられるのではないか、 そんな思いでおります。

              お子さんの不登校に悩むお母さんの力になりたい、 心の穏やかさを取り戻してもらいたい、 子どもたちに笑顔を取り戻してもらいたい、そんな思いで活動しております。

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