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人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

8月14日、お盆二日目の朝です。

今年はコロナウイルスの影響で帰省を控える方が多いからでしょう、いつもより静かなお盆を過ごしております。

私の家もいつもなら東京に住む姉とその子どもたちが帰省してきて、ワイワイガヤガヤの日々を過ごしているはずなのですが、

今年は帰省取りやめなので、甥っ子、姪っ子に会えずちょっぴり残念です。

来年は一緒に花火をして遊べるといいなぁ。

昨日息子は実家の庭に大きなプールを出してもらって水遊びをしていました。

じじちゃん、ばばちゃんにたくさん遊んでもらって満足気な顔をしていました。

 

一緒に学習している子どもから、勉強しても成績が上がらない、という話をされることがあります。

考えられる原因は二つあります。

一つはやり方が間違っている。

もう一つは成長に対する勘違いです。

今日は二番目の人の成長に関する勘違いについて。

 

中学二年生の数学で、一次関数というものを学びます。

y = ax + b という形の関数で、そのグラフは傾きaが0より大きければ右上がりの坂道ような形になります。

人の成長に対する勘違い。

それは、多くの人は人間の成長は一次関数のように実現されると考えていることです。

例えば一時間何かの学習に取り組めば、一時間に見合う形で成長を感じられるはずである、ということです。

しかし、自分自身を含め多くの子どもと学習する中で、人はそのような形では成長しないと私は確信しています。

それでは、人の成長とはどのような形で実現するものなのでしょうか?

 

高校生になると、y = [x] という関数を学びます。

これはガウス関数と言ってそのグラフは右上がりの階段のようになります。

私が考える人の成長は、このガウス関数のような形で実現します。

つまり、階段の踏み段のように、いくらやっても成長を感じられない平坦な時期がしばらく続いた後、

今までできなかったことがある日簡単に出来るようになる、階段を一段登るような瞬間が突然訪れる、

人の成長というのはそのような形で訪れるものだということです。

 

だから何かに取り組み始めたからといって、それがすぐに何かしらの実を結ぶなどということはほとんどありません。

しばらくは何の変化も感じられないような時期が続きます。

そして多くの人はこの期間に何かに取り組むことをやめてしまい、いつまでもこの階段状の成長を体験することが出来ず、

自分はこういう人間なのだ、結局ダメなのだと、自分自身に対する諦念を強く握りしめ、ついにはそれを手放せなくなってしまうのです。

このような状態に陥らないために必要なことが三つあります。

1、人の成長が階段状であると知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対してフィードバックをしてもらうこと

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

まず、一つ目ですが、人の成長は一次関数ではなく階段状に実現すると知ることです。

人の成長が一次関数のように実現すると確信したまま、やってもやっても成果らしいものが感じられない日々が続けば、

その人はその努力をもう続けなくなってしまうでしょう。

しかし、人の成長が一次関数ではなく、階段のように実現すると知っていれば、その何の成果も感じられない日々にも意味を見出すことが出来るはずです。

いつか成長の時が訪れるという確信があれば、たとえ大変な事であっても投げ出さずに取り組み続けることが出来るものです。

だから、何かをやり続けるために、まずは人の成長は階段状であること、続けることでいつか成果を感じられる日が必ず来るとことを知ることが大切なのです。

 

ちょっと長くなりましたので、今日はここまで。

2と3についてはまた次回とさせて頂きます。

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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人を成長に導く叱り方 ~叱るのは誰のためか?~

子どもと接するとき、または会社勤めをされていて後進を指導するとき、

ある行動に対して、それはどうしても直してほしい、改善してほしいと感じる場面があるかと思います。

その際に苦言を呈する、叱るということが必要になる場合もありますが、人を叱るということが苦手な人は多いと思います。

その苦手意識というのは叱り方を知らないことに起因しているのではないでしょうか?

今日は叱ることについて考えてみます。

 

まず叱るというのは、誰のために行うことでしょうか?

それは相手のためです。

自分のどこに問題点があったのか、その人のためにフィードバックして、成長を促してあげるのが叱るという行為の目的です。

たびたび、叱っているようで、実はそれが自分のイライラした感情のはけ口にしかなっていない、という場合を目にしますが、

それは自分のストレス発散のためになされる行為なので「叱る」ではありません。

その行為は何なのかといえば、「怒る」です。

怒るのは、自分のイライラした感情を発散して自分がスッキリすりために行うことです。

つまり、怒るのは相手のためではなく、自分のためなのです。

そして怒られた相手は、この行為が自分のためではなく、怒っているその人自身のための行為であることに気づき、

その言葉から耳を背けたり、受け流すようになります。

だから怒ったとしても、怒った側の感情は一時的にすっきりしますが、問題点はそのまま放置されるので、また同じことでイライラして怒らなければならなくなります。

「叱る」は相手の成長のため。

「怒る」は自分のストレス発散のため。

いくら言っても相手の行動が改まらないと思う場合、まず自分が今まで行ってきたことが、「叱る」と「怒る」のどちらであったのか、自己省察してみてはと思います。

 

叱るとは何かを明確にしたところで、今度は叱り方について考えてみましょう。

例えばお子さんが、学校からの配布物を親御さんに見せ忘れていた、という場合を考えてみます。

その時に、叱る側の人間が指摘するべきは、改善してほしい行動です。

具体的にどのような行動を改善してほしいのか、その部分を冷静に相手に対して指摘することです。

この場合であれば、学校からの配布物をすぐに見せるようにしてほしい、と相手に冷静に伝えることです。

「どうしていつもそうなの!だいたいこの前だって☆□〇※!」などと怒り始めてしまうと、相手はその言葉を受け流してしまうので、その行動は変わりません。

だからまず、相手の改善してほしい行動を冷静に具体的に指摘することです。

そして叱る際にもし時間があったらやってほしいのが、サンドウィッチにして叱るということです。

サンドウィッチというのは、何かで何かを挟み込むことの例えなのですが、何で何を挟み込むのでしょうか?

それは良い点と良い点で改善点を挟みこんで相手に伝えるということです。

ある事柄に対する人間の印象というのは、同じ強さでその人の中に刻まれるものはありません。

ある事柄の最初と最後が強く印象として残ります。

これを利用して、良い点と良い点で挟み込んで相手に改善してほしい点を伝えれば、相手もその言葉を受け取りやすくなります。

例えば先ほどの配布物の例で言えばこうなります。

「昨日は、夕飯のあと食器を洗ってくれてありがとう。助かったよ。

でも一つあなたに直してほしいことがあるんだけど。

学校からの配布物はもらったらすぐに見せてほしいの。

学校からの連絡が分からないととても困るから。

お願いしますね。

それから今日もお弁当を残さず全部食べてくれて嬉しかったよ、ありがとう。」

例えばこんな風に伝えると、改善点を指摘する場合でも、その人の良い点で挟み込んでいるため、相手の受け取る印象はだいぶ変わってきます。

しっかりと改善点は指摘しつつも、相手には「あなたの良いところも私はしっかりみていますよ」というメッセージが強く伝わります。

ここまでする時間がなかったら、いきなり改善してほしい行動を伝えて、最後に良い点、感謝している点を伝えるだけでも、相手の受け取りかたは全然違うものになります。

このように伝える順番で相手の印象は大きく変わりますので、ぜひ試してみてください。

 

それからもう一つ、叱る際に頭に入れておきたいことは、相手の行動の背景を分かろうとすることです。

どうしてそのような周りが困る行動をし続けてしまうのか、その背景を理解しようとすることです。

頭では分かっていても理屈にかなわないような行動をしてしまうとき、その当人も気づけていない苦しさを抱えている場合があります。

その人が抱えているそうせずにはいられない背景を分かろうとすることです。

分かろうとするとは具体的にはその人の言葉に耳を傾けてあげることです。

それでその人の抱える苦しさが聴き手に分かるようになるわけではありません。

それでも、自分の抱える事情も理解してくれようとしているのだという姿勢が相手に伝わります。

自分のことを分かろうともせずに、自身の要求だけを突き付けてくる人間の言葉と、

苦言は呈しつつも自分の抱える苦しさ、事情を分かろうとしてくれる人の言葉。

一体どちらが耳を傾けてもらえるでしょうか?

自分のことを理解しようとしてくれる人の言葉であればこそ、叱られる側もその言葉に耳を傾けようとするのではないでしょうか。

 

本日のまとめ。

・叱るのは相手の自己成長のため。自分の行為が相手のためか自分のためか自己省察を。

・叱るときは、改善してほしい行動を冷静に伝える。相手の良い点で改善してほしい点を挟んで伝えると、受け取る印象が良くなる。

・自分の要求だけを伝えるのではなく、相手がそのようなふるまいをしてしまうその背景を理解しようとすること。

ご家庭でお子さんに対して、または会社で後進を指導する際に、ぜひ試してみてください。

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「どう書けばいいか分かりません」 ~読書感想文の書き方

最近心掛けていることに、朝しっかりと朝日を浴びる、というものがあります。

朝日を浴びることで、セロトニンの分泌が促され、心穏やかに過ごせるのだそうです。

加えてセロトニンを材料に作られる眠りを誘発する物質、メラトニンの合成も促され、夜の眠りが改善します。

詳しくはまた日を改めてブログに書かせて頂きますが、ここ数日試してみてとても良い気がしています。

朝起きてカーテンを開けてⅠ5分ほど太陽光を浴びる、ただそれだけです。

良かったら試してみてください。

 

コロナウイルスの影響で、今年は夏休みが例年より遅いスタートとなっていますが、

新潟市内では小学生はもうすでに夏休み、中学生も間もなく夏休みといった学校が多いです。

夏休みなると決まって出される宿題が読書感想文です。

この時期にご家庭にお邪魔していると、「読書感想文どうすればいいですか?」、「書き方が分かりません」という質問を度々受けます。

どうして読書感想文を書くのに皆苦労するのでしょうか?

それは文章の型を知らないからです。

本日は読書感想文の書き方について。

 

様々な文章には型というものがあります。

例えば物語であれば、起承転結。

論説文であれば、序論、本論、結論。

学術論文であれば、概要、背景、方法、結果、考察。

それぞれの文章にはそれぞれの型があります。

読書感想文を書くときに途方に暮れてしまう理由は、この型を知らないからです。

それでは読書感想文の型とはどのようなものでしょうか?

 

読書感想文は、作文を読む人に、自分が読んだ本にはどのような内容が書いてあり、

自分はそれをどのように感じ、この本からどのようなことを学んだのかを伝えるために書く作文です。

この読書感想文の目的が分かっていれば、自ずと読書感想文の型は決まってきます。

私がお勧めする読書感想文の型は、これです。

image0 (2)

字が汚くてすみません。

この紙に必要なことを記入していくと、それが読書感想文の型となり、スムーズに作文を仕上げることが出来ます。

それではこの紙をどう使うのか、説明していきます。

 

まず本を読んでいるときに、印象に残った箇所を三つピックアップしておきます。

そして、本を読み終わったらこの紙を自分で作ってください。

( )でくくってある文章は書き方の説明ですので、書かなくて結構です。

次に、この紙を埋めていきます。

内容1~3には、自分が本を読んでいて印象に残った内容を書きます。

いつ、どこで、誰が、どんなことを言っていたとか、その本に書いてあった内容を作文の読み手に対して説明する箇所です。

次に、それぞれの枠の右隣に、その内容に対して、自分がどのように感じたか、どういうことが印象に残ったか、自分なりの解釈を記入します。

最後に、一番右側のまとめの欄に、解釈1~3に記した内容を要約し、結局自分はこの本からどのようなことを学び、どのように自分の日常生活に生かしていきたいのか、をまとめとして記します。

このようにまずこの紙をすべて記入してから、原稿用紙に向かってください。

 

作文を書くのになぜ時間がかかってしまうかと言えば、書きながらどういう作文にしていこうか構成を考えるからです。

構成を考えるという作業と、書くという作業が同時進行になってしまうが故に、書くことに時間がかかってしまうのです。

まずこの紙を記入し構成を考えてから原稿用紙に向かえば、もう書くべきことは決まっているので、休みなく一度に書き上げることが出来ます。

もしお子さんが一人で、この紙を埋められないならば、親御さんがお子さんに対して質問をしてあげるといいと思います。

「どこがおもしろかった?」とか「どこが印象に残った?」とか、「それはどうして?」とか、親御さんが質問してあげることで、お子さんの思考は深まっていきます。

それから、最後の三つの解釈を要約するところですが、物事を要約することで人間は抽象的な思考が出来るようになってきます。

三つの解釈に共通するものは何か、要するに何を言っているのか、物事の本質を観取する訓練にもなります。

少し難しいかもしれませんが、ぜひ挑戦させてみてください。

 

夏休みはいつもより自由に使える時間がたくさんあります。

子どもにはぜひ、たくさん本を読んで、言葉を豊かにし、情緒を育んでほしいと思います。

お子さんの読書感想文を書く際に役立てて頂けたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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やさしさに包まれたなら ~学びの場に必要なもの~

最近息子がジブリのサウンドトラックを気に入っていて、よく一緒に聴いています。

息子のお気に入りはトトロの「さんぽ」と崖の上のポニョのテーマソングです。

それらが流れるとニッコニコで踊り出します。

サウンドトラックの中に、魔女の宅急便のエンディング曲「優しさに包まれたなら」も収録されています。

久しぶりに聞いたのですが、歌詞にハッとする箇所がありました。

“やさしい気持ちで目覚めた朝は大人になっても奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて静かな木漏れ日のやさしさに包まれたならきっと

目に映る全てのことはメッセージ”

目に映るありとあらゆる物事から、自分に宛てられたメッセージを感じ取る。

その自分に向けられて発せられるメッセージに対する感受性が最大限に発揮されるために必要な条件、

それが“優しさに包まれたなら”。

なるほど確かにそうだよなぁ、と私は思わず唸ってしまいました。

 

ギリシャ哲学の礎を築いたソクラテス、そしてその弟子のプラトン。

儒教の祖である孔子。

仏教を打ち立てた釈迦。

そっち方面に疎い私はつい最近まで知らなかったのですが、現代まで脈々と語り継がれるこれらの思想を築き上げた、この4人、

実はほぼ同時代を生きていたのだそうです。

彼らが生きていたのは、紀元前500年前後。

なぜこの時代に、後世まで残るような思想が次々生まれたのでしょうか?

この時期は地球が温暖化し、農機具として鉄器が使われるようになり、農業生産性が著しく向上します。

農業生産性の向上によって余剰な収穫物が得られるようになり、それが貧富の差を生み出しました。

富める者は自分は働かず、貧しい使用人に労働をさせるようになります。

そしてそれらの人々は有り余る財力で、自分の周りに芸術家や学者を囲い込むようになりました。

こうして、食べるものにありつけず、飢える心配から解放された知識階級の人間たちの中から今日まで残るような思想が次々と生み出されることとなったのです。

飢える事の不安から解放され、将来に対する安心感があったからこそ、それらの知識人も思想を深めることが出来たのでしょう。

つまり人が思索を深め、何かを学び取るために必要なものの一つが安心感だということです。

 

思索を深め、何かを学び取るためには安心感が必要。

これは私自身の感覚ともとてもよく合致します。

私は今でこそ、高校生に数学を教えていますが、高校時代は本当に数学が分かりませんでした。

先生の言っていることが全然頭に入って来ないのです。

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことを今でもよく覚えていますし、

sin、cos、tanの意味が分かるようになったのは高校三年生の春です。

それくらい意味が分かりませんでした。

その後何とか、大学に入ったのですが、何を血迷ったのか私は理学部に入学します。

数学は意味不明でしたが、この意味不明の文字列の何たるかが分かれば、世界の秘密の一端を解明できるのではないかと思っていたのです。

そこには、分からないからこそ分かりたいという、ある種の飢えがあったのかもしれません。

しかし数学が出来ないままでは卒業できないと危機感を抱き、もう一度高校の数学を勉強し直すことにしました。

なんと教科書を開いて自分で読み進んでいくと、あんなに意味不明だったことが、「なんだ、そんなことだったのか」という具合にスラスラと意味が分かるのです。

結局大学では、数学の授業でも評定Aをとりましたし、今センター試験や共通テストの数学の問題を解けば9割方正答できます。

別に自慢がしたくてこのような事を書いているのではありません。

本題はこれからです。

 

私はプロフィールにも書いていますが、高校が大嫌いでした。

毎日毎日学校に行きたくなかったのですが、そんなこと言うと親に怒鳴りつけられるので、しょうがないから3年間イヤイヤ通っていました。

進学校だったので、勉強の出来不出来というたった一つのモノサシで自分を測られる感じや、

ちょっとでも周りと違うふるまいをすると変な奴みたいな扱いを受ける、同調圧力に満ちた雰囲気が窮屈でたまらなく嫌でした。

大学に入ってからは本当に自由でした。

気の合わないような人間と同じ空間にいる事を強要されたりもしないし、勉強の成績という単一の価値感で優劣を測られることもありません。

本当にのびのびと自分のしたいことに没入できる貴重な時間を過ごしました。

これらの現象から私が言いたいことは、どうしようもなく居たくない場所に居続けることによって、脳の活動はフリーズしてしまうということです。

そしてこれは別に私一人に限ったことではありません。

 

子どもたちと一緒に勉強していても、場の雰囲気がその子に与える影響を強く感じます。

具体的に書くことは控えますが、家の中の雰囲気が悪くなっていたり、学校での人間関係に心配なことがあったりすると、子どものパフォーマンスは一気に低下します。

テストの点が悪いと親に怒られると心配している子より、テストの点が良かろうが悪かろうが別に何も影響ない、という子の方が良く勉強するし、成績も良かったりという例も見てきました。

時代に名を刻む先人たちが思索を深めるために必要だったもの。

そして子どもたちが学びを深めるために必要とするもの。

人間の脳は定住生活を始めた1万2000年前からほぼ進化していないそうなので、きっとそれらは同じなのだと思います。

人が思索し、学びを深めるために必要なもの、それはまず安心感です。

不安感を抱いたり、分からないことを責められたりするような環境では、何かに集中することはできません。

子どもたちに良い学びを手渡したいともし親御さんが望まれるのならば、

誰かと競わせたり、不安感をあおるようなことではなく、どうぞまず安心感を抱けるような環境づくりをしてみてください。

自分に向けて発せらるあらゆるメッセージへの感受性を上げていけるのは、やさしさに包まれた安心感のある環境だからです。

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過保護と過干渉 ~自己中心性から抜け出すために必要なもの~

先日、授業中に子どもと本に書いてあったなぞなぞを考えていました。

本には相撲取りの絵が書いてあり、「取っても取っても無くならないものって何だ?」とありました。

まぁ普通に考えれば答えは相撲なのですが、その子の答えは、

「うーん、脂肪?」

なるほど!

お母さんと一緒に大笑いしてしまいました。

将来大物になる予感がします。

 

前回のブログでは、

働くことを考える際に発せらるべき第一の問は、「私は何がしたいのか?」ではなく、「この世界にはどのような困難を抱えた、またはどのような欲求を持った他者がいるのだろうか?」であること、

そして、仕事のやりがいとは、自分のしたいことをしてそこに充足を見出すという仕方ではなく、自分が何かを為したことで他者が喜んでくれる、その他者の満足のうちに見出すものであること、

という内容を綴りました。

仕事に関する第一の問、そしてそのやりがいについて

それでは、「私は何がしたいのか?」とか「私は何が好きか?」という自己中心性から脱却し、他者の抱える困難に、そして欲求に目を向け他者貢献できるようになるためには、何が必要なのでしょうか?

 

願望というのは満たされることで薄らいでゆきます。

食欲や睡眠欲などの生理的な願望は、満たされてもそれがまた不足すれば沸き上がってくるものですが、

それとは別に、心理的な発達過程で生じる願望というのは、満たされることで薄らいでゆきます。

例えば、以前読んだ子育ての本に、お母さんの口紅を塗りたがる小さな男の子の話が紹介されていました。

男の子が口紅を塗りたがるので、お母さんはダメと言い続けていたのですが、あるとき好きなだけ塗らせてあげたら、それ以降はもう口紅を塗りたがることはなかったそうです。

このように成長段階に応じて生じる願望というのは、満たしてあげることで薄らいでいきます。

自己中心性というのも、自分に注目してほしい、自分を大切に扱ってほしい、自分を認めてほしい、という願望です。

つまり、満たしてあげれば、全く無くなることはないですが、薄らいでゆきます。

それでは一体どうすればいいのでしょうか?

「過保護」と「過干渉」という言葉を軸に考えてみたいと思います。

 

児童精神科医の佐々木正美さんは「過保護」と「過干渉」を以下のように定義しています。

過保護:子どもの望むことを皆叶えてあげようとすること。

過干渉:親が望むものを子どもに与えること。

そして著書「子どもの心の育てかた」の中で以下のように述べています。

“子どもの望み通りにしてあげること、してあげすぎること、というのは「悪い」とされることがあります。なんでも子どもの言うことを聞いてやったら、子どもは依頼心ばかり強くなり、自立できなくなる、という意見です。

けれど、私はそんな事例を、本当に見たことがないのです。一見、そういう風に見えるケースというのは、過保護の結果ではなく、過干渉です。子どもに対して過剰に干渉し、そのあとから保護的な態度をとる、というケースがほとんどなのです。

子どもというのは、親の過剰な干渉を受けると欲求不満になってしまいます。強い不満の状態にいて、子どもが自立へのスタートを切れず、育児もうまくいかない、ということがあります。”

 

たとえば、子どもに対して、沢山おもちゃを買ってあげたとか、いろいろな場所へ旅行へ連れて行ってあげたとか、習い事に通わせてあげたとか、高等教育を受けさせてあげたとか、

そのうような一連の行為が、子ども自身の願望であり、それが叶えられたのであればその子の中の自己中心性は薄らぐことになるでしょうが、

それらが親の願望でしかなく、子どものほうが自分の願望を押し込めて親の願望に付き合わせられているのならば、いつまでも子どもの中に、自己中心性はくすぶり続けることになるでしょう。

そのような状態で、もう学校も卒業したのだから就職して他者貢献にやりがいを見出せと言われても、それは難しい話だと思います。

自己中心性から抜け出し、他者貢献に踏み出していけるようになるために必要なもの、それはまず子どもの自己中心性を周りの大人が満たしてあげることです。

 

自己中心性というのは、平たく言ってしまえば、「甘えたい」ということです。

自分を見てほしい、自分に注目してほしい、自分をほめてほしい、そのような願望が自己中心性を形作っているのです。

今回は働くということに注目して綴ってきましたが、そのことだけでなく親から自立するというプロセスにおいてお子さんに何か不都合が生じている場合、

この「過保護」と「過干渉」という視点から今までのご自身の振る舞いを振り返ってみると何か気づくことがあるのではないでしょうか?

もしその振る舞いが自分自身の願望によるものならば、そこにはまだ解消されていない自分自身の自己中心性があるのかもしれません。

その振る舞いはお子さんの願望に沿ったものなのか、それとも自分自身の願望に沿ったものなのか?

この問は決して他者にのみ向けられるものではありません。

一人の親として、沢山の子どもと関わる家庭教師として、まず私自身が問い続けなければならないことだと思います。

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「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

今日の新潟市、晴天が広がり少し動くと汗ばむくらいです。

先ほど家族で家の近所を散歩してきました。

息子は、タンポポがお気に入りらしく、花を摘んでは花びらをむしって喜んでおりました。

河川敷を歩いたのですが、川から吹く風が心地よく、のんびりと過ごすことが出来ました。

 

前回のブログでは、不登校、引きこもりという現象が増加する裏には、大人社会の構造変化がある、というお話を綴りました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~

気持ち一杯になって動けなくなったお子さんに対してどのような接し方をしたらいいのか。

それを考える前に、なぜ動けなくなるのかをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

なぜならそれが、動けなくなったお子さんに対してどう接すればよいか、のヒントになると考えるからです。

以前のブログで、子どもと接するときに必要なのは、「評価の眼差し」、「共感の眼差し」の二つである、と綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

子どもが健全に成長するためには、この二つの眼差しがバランスしていることが大切なのですが、

ここ何回かに分けて書いてきた通り、今は評価の眼差しが過剰になっている時代です。

そんな時代の中で、今まで元気で明るく聞き分けのよい良い子だったのに、何かのきっかけで動けなくなる。

私の知る限りですが、引きこもりや不登校にはそのようなケースが多いように感じます。

それでは彼らはなぜ動けなくなるのでしょうか?

 

子どもというのは本来わがままな生き物です。

私には今もうすぐ一歳半になる子どもがいますが、彼は、自分の願望が通らなければギャンギャンと大声をあげて泣いて怒ります。

接しているこちらは本当に大変だなぁと感じることも多々ありますが、あれが本来の子どもの姿なのでしょう。

だからどんな子どもの中にも、わがままで自分勝手にやりたいという願望はあるのです。

もちろん成長するなかで、それを抑え、周囲と折り合いをつけて生きる事を学ぶのはとても大切なのですが、

まだ小さいうちからその我慢が過剰になって、自分の願望を押し殺し、一生懸命周りの大人の期待に応えようとしているのが、明るく元気で聞き分けのよい良い子の姿です。

それではなぜ彼らは「良い子」を演じるのでしょうか?

それは、彼らを取り巻く世界が共感性に乏しく、過剰な「評価の眼差し」に満ちているからです。

もし自分の願望を素直に表現して、周囲の期待に応えず評価を得られなければ、自分は見捨てられてしまうんじゃないか?

そのような不安を子どもに抱かせる雰囲気が社会に蔓延しているからこそ、彼らは無理をして「良い子」を演じているのです。

 

自分の願望を押し込めて無理に「良い子」を演じ続けていれば、いつかその子は自分に対してそのような我慢を強いる周囲に怒りや憎しみを持つようになるでしょう。

「良い子」を演じるその仮面の裏側で、彼らは沢山の闇を抱え込んでいるのではないでしょうか?

その怒りや憎しみが外へ向かえば、暴力や夜遊びなどの問題行動になるでしょうし、それが内へと向かえば、自分の殻に閉じこもり引きこもることになるのでしょう。

私の実感としては、今は怒りや憎しみが外へ向かう子よりも、内へ内へと向かい動けなくなる子の方が多いように感じます。

ここに書いていることは、私の経験を元にしたものであり、もちろん例外もあるかと思います。

しかし、私の知る限りにおいて考えてみると、不登校、引きこもりの増加という社会現象の裏側には、

このような評価の眼差し過剰な社会の中で、子どもたちが評価を得られず、期待に応えられず、見捨てられたらどうしよう、という不安を抱え込んでいる、

このような構造があるように感じられます。

 

このように「評価の眼差し過剰な社会」の中で、評価されることに、期待に応えることに疲れて動けなくなった子どもたち。

このような構造が認識できれば、自ずと彼らに必要なものが見えてきます。

長くなりましたので、また次回。

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生きづらい時代と自己肯定感

臨床心理学者で若者の不登校、引きこもりの問題に長年携わっておられる高垣忠一郎さんの著書を紹介致します。

生きづらい時代と自己肯定感 高垣 忠一郎 著

高垣さんは、定義が曖昧な「自己肯定感」という言葉を、「自分が自分であって大丈夫と思える感覚」と定義しています。

「自分のことが好き」とか「自分は素晴らしい」ではなく、「自分であって大丈夫」という表現が言い得て妙だと思います。

自己肯定感というのは様々ダメなところもあるけれど、そんな自分に対しても「まぁいいじゃないか」と思えることであり、

自分のダメなところをひた隠し、優れた部分しか見ようとしない自己愛とは全く別のもです。

自己嫌悪の強い人ほど、それを見ないふりして理想的な自己像に縋り付くもの。

だから自己愛と自己嫌悪は同じコインの裏表の関係なのです。

それでは自分の至らなさを受け容れて人間的に成熟するという苦痛を伴うプロセスを避け、

自分の優れた一面にしか目を向けない自己愛の中に逃げ込んでしまうのは何故なのでしょうか?

日本にはもともと「個」という考えが希薄でした。その概念が登場するのは明治時代に入ってからと言われています。

明確な「個」という概念を持たない日本人は共同体の中である役割を演じることで、不確かな自分という存在に確かさを見出してきました。

しかしグローバリズムの流れを受けて、拠り所としていた家族、地域、会社などの共同体は次々と解体されてしまいます。

個を支える強い宗教も存在しない日本では、砂つぶのようにバラバラになった人々が自分の存在を担保する術を失ってしまいました。

自分が存在することの意義を確かめるために私たち現代の日本人が寄りかかっているもの、それが他者からの承認です。

しかし人の評価のような移ろいやすいもので、自分の存在に絶対的な安心感を抱けるはずもありません。

そういう心に根ざす自分の存在に対する根源的な不安が、「生きづらい」という言葉で表現される世の中の雰囲気の正体なのではないかと私は思います。

そしてその不安感と対峙することを避けるために、自己愛という虚構に逃げ込む人が増えているのでしょう。

大人の社会に漂うこの根源的な不安感が、子どもたちに影響を及ぼさない訳はありません。

思春期というのは、親の価値観から脱皮して自分という人間を形作っていかなければならない、ただでさえ不安定な時期。

その不安定な自分のままで、未知の世界に足を踏み込めぬと自分の殻に閉じこもる子どもが増えるのも無理からぬことなのだと思います。

だから不登校や引きこもりというのは、個人の問題でも、個別のご家庭の問題でもありません。

社会全体の不安感が引き起こしている問題なのだと私は考えます。

この問題の解決の糸口は、子どもが変わることではありません。

まずは大人が変わることです。

社会に漂うこの不安感はどこから来るのか?

自分たちはどのような価値観に依拠して生きているのか?

そしてその価値観は誰が握りしめさせたものなのか?

社会の雰囲気に流されることなく、そういう問いを自分に投げかけ続け、一人一人が気づいていくことでしか、この問題は解決を見ないだろうと思います。

なぜ子どもたちは引きこもるのか?

この不安感はどこからやって来るのか?

なぜ評価や競争の世界に依拠して生きてしてしまうのか?

高垣さんの著書は、そういう問いに対峙するための見取図を与えてくれる一冊でした。

もしよかったら手に取ってみてください。

目次

1、自己肯定感ってなんやろう?

2、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感の来歴

3、自己肯定感と「自己愛」そして「自分を愛する心」

4、競争社会と自己肯定感

5、現代の社会情勢と自己肯定感

6、自己肯定感のいま 命の世界と自己肯定感

7、自己肯定感を育てるために

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