昨日所用で、外を歩いていると、蝉の声に勢いがなくなっているように感じました。
確かにもうお盆ですものね。
夜になるとあちこちから秋の虫の鳴き声も聞こえてくるようになりました。
学生時代はこの時期になると、終わっていない宿題をどうしようと、焦燥感に駆られていたものです。
24時間テレビを見ては、世の中には頑張っている人もたくさんいるのだから俺も頑張ろうと自分を鼓舞してみたりしましたが、
結局それも長続きせず、宿題が全部終わらぬまま新学期を迎えてしまう、というのが私の夏休みのいつものパターンでした。
その話を一緒に勉強している子たちにすると、「それでよく卒業できましたね!」と驚かれます。
私が学生だった頃は、色んなことが良くも悪くも今より緩い時代だったように思います。
今の子たちは、私達の頃に比べ要求されるものが多くなり、大変だなぁと感じることが多いです。
みんな本当に頑張っています。
昨日のブログでは、人の成長は一次関数のように直線的に実現するのではなく、
階段を上るように、停滞期が続いた後、ある日突然ブレイクスルーが訪れるという形で実現する、という内容を綴りました。
人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~
多くの人は、人間は一次関数的に何かに取り組んだら取り組んだだけ成長すると勘違いしていて、
取り組んでも取り組んでも何の成果も感じられない時期がしばらく続くと、その取り組みをやめてしまい、
自分は結局このような人間である、成長できない人間である、という諦念を抱いてしまいます。
そのような成長に対する勘違いが、人の成長を拒んでいるように私は感じています。
停滞期に自分自身を見限ってしまう、そのような状態に陥らないために、大切なことは三つあります。
1、人の成長は一次関数ではなく、階段状に果されることを知ること
2、取り組むものにやりがいを見出すこと
3、微細な変化に対するフィードバックをしてもらうこと
昨日は1について綴りました。
今日は2について。
人は意味のないことを延々とやり続けられるものではありません。
自分のやっていることに意味を見出せるからこそ、それを続けることができるのです。
自分のやっていることに意味を見出せれば、成長を実感できない停滞期が続いたとしても、
それをやり続け、最後には成長を感じられるようになるわけです。
そして何か一つのことで成長を感じられれば、人の成長は停滞期とブレイクスルーを繰り返すという形をとることが実体験として分かり、
他のことでも、停滞期に心折れることなく取り組み続け、成果を得られるようになるのです。
だからその人がやっていることの意味を周りの人間が明確化してあげるというのは非常に大切なことです。
子どもの学習に関してもそれは当てはまります。
多くの子どもは学習する意味など考えたこともなく、周りの大人からやれやれと言われるがままに学習に取り組んでいて、
一体自分は何のためにこんなことをしなければならないのかと、疑問を持っている子はたくさんいます。
しかし、大人がその意味を明確にしてあげれば、彼らの学びに対する姿勢も変わってきます。
学習することの意味、これはいくつもいくつもあると思いますが、一つの例として、「人は知っている範囲内でしか考えられない」という話をしたいと思います。
例えば雷という自然現象があります。
あの現象の原理は中学で習う電磁気と気象の知識があれば理解できます。
急速に発達する積乱雲の中で上昇気流に煽られた氷の粒がぶつかり合うことで雲が静電気を溜め込み、
雲と地上との間の電圧差がある一定値を超えたときに空気中で起こる放電現象、それが雷という自然現象です。
これも中学の歴史で習うことですが、17世紀に俵屋宗達によって描かれた風神雷神図屏風を見ると、昔の人たちが雷という自然現象をどのように理解していたかが良くわかります。
雲の上に太鼓を持った雷様が住んでいて、それが大暴れするときに雷という自然現象が起こる、というのがその時代の人たちの雷の理解の仕方です。
科学技術が進歩し、人間の知っている範囲が広がったからこそ、現代人はその原理をより合理的に考えられるようになったわけです。
これは「人は知っている範囲内でしか考えられない」ことの好個の例です。
私の実体験も一つ。
高校生の子たちと一緒に学習していると、「もう勉強やだ!学校辞めたい!」などという言葉が飛び出してくることがあります。
テスト勉強に追われ頭が一杯になっているからこそ、そんな言葉が飛び出してくるのかもしれません。
その気持ちはとても良くわかるのですが、その言葉を受けて私が、
「高校は義務教育じゃないから辞めようと思えば辞められるよ。でも辞めてどうするの?」
などとちょっと意地悪いことを聞くと、彼らの多くは言葉が出なくなります。
なぜどうしていいか分からないのでしょうか?
これもやはり「人は知っている範囲内でしか考えられない」からです。
まだあまりものを知らないからこそ、そのあとの選択肢を考えられなくなるのです。
知れば知るほど、様々な選択肢を考えられるようになり、自分が生きたいように生きられる可能性も高まっていくのです。
だからこそ人は学ぶ必要があるのです。
私が学生だった20年ほど前までは、偏差値の高い大学に入って、大企業に就職して、結婚し、ローンを組んで家を建て、定年までその企業の一員として働くという、
社会に広く共有された目指すべき一つの生き方がありました。
しかし、今その生き方はもう成り立たない時代になっています。
そうであるならば、勉強して大学に入ったって意味がないのではないか?
そういう意見も一緒に学んでいる子どもたちから聞かれますが、私はむしろ逆だと思います。
社会が生き方の指針を失った時代だからこそ、自分で考えて生きていける人になるために、学ばなければならない。
私はそのように考えています。
なぜなら、人は知っている範囲内でしか考えることが出来ないからです。
私が考える学ばなければならない理由、説明の仕方はいくつもあるのですが、上に書いたことがその一つです。
このように、学ぶ意味、そして自分が置かれた時代背景を理解できれば、子どもの学ぶことに対する意識は相当変わってきます。
だからその子の周りにいる大人が、その子より一段高い視点から学ぶことの意味を明確化してあげることは非常に重要です。
そしてその意味を実感出来れば、成長のための停滞期を乗り越え、ブレイクスルーを経験できるのです。
そしてそのことが一つの成功体験としてその人の中に記憶され、さらに学びたいという意欲を掻き立てることになるのです。
今日も長くなってしまいましたので、3に関してはまた次回とさせて頂きます。
今日も最後までお読み頂きありがとうございます。
不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。