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「こどもが話してくれないんです、、、。」

子どもが全然話してくれない。

何を考えているのかわからない。

そんな悩みを抱えている親御さんは多いのではないでしょうか?

 

=話したくなる人=

ご自身の経験を振り返って、話を聴いてほしくなる人とはどんな人でしたか?

話を聴いてほしくて相談に行ったらその人の意見を押し付けられて、かえって苦しい気持ちになった、行くんじゃなかった。

私にはそんな経験があります。

人から相談を受けたら、相手のためを思うがゆえにアドバイスをする。

私にもそんな傾向がありますが、話したくなる人、話を聴いてほしいと思う人とは、

自分の意見を挟まず、話を聴いてくれる人だと私は考えます。

 

=傾聴とは=

相手の話を聴いてこちらの意見をアドバイスするという話の聴き方もあるのかもしれません。

それ以外に、もう一つ傾聴という話の聴き方があります。

自分の意見を挟まず話し手の脳内整理を手助けする聴き方、とでも言うのでしょうか。

傾聴とは、以下の三つの要素から成ります。

一、うなづき

二、要約・おうむ返し

三、沈黙で見守る

 

一つ一つ説明していきます。

一、うなづき

うなづくことで、あなたの話を聴いていますよ、あなたに関心がありますよ、というメッセージを話し手に送る。

二、要約・おうむ返し

相手のしゃべった内容をまとめて相手に返す、相手のしゃべったことをそのまま相手に返す、というのが要約・おうむ返しです。

話し手が自分の話した内容の確認、整理を手助けする効果があります。

三、沈黙で見守る

相手が沈黙したら沈黙で見守るということです。

話していた相手が沈黙するとき、それは話す過程で沸き上がってきた感情を味わいなおし、何かに気づいた瞬間かもしれません。

感情は味わいなおすことで、浄化されその影響は小さくなっていきます。

 

この聴き方は、聴き手が自分の意見を挟むことなく、聴き手は話し手を映す鏡になりきる。

そんなイメージでしょうか。

 

=分かろうとし続けること=

ついついご自身の経験から、お子さんにアドバイスをしたくなることもあるかもしれません。

人が相談をしに来るときには二種類あるのではないでしょうか。

一、アドバイスを求めているとき

二、自分の気持ちを分かってほしいとき

自分の気持ちを分かってほしい時、聴き手が自分の意見を挟まず、話に耳を傾けてくれたなら、

話し手は、安心して自分の内面にある感情と向き合い、何かに気が付けるのではないでしょうか。

人が人を分かりきること、それはとても難しいことだと思います。

分かりきることなどできないと分かりながら、それでも分かろうとし続けてくれる人。

そういう人の姿に、人はゆっくりゆっくり心を開いてくれるのかもしれません。

私が話したくなる人、話を聴いてほしいと思う人はそんな聴き方をしてくれる人です。

相手を分かろうとし続ける傾聴という話の聴き方。

もし「子どもが話してくれなんです」というお悩みをお持ちならば、ぜひご家庭で試してみてください。

お問い合わせはこちらからどうぞ。

 

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学校と納豆の等価性 ~不登校が無くなるとき~

数回に分けてちょっと変なタイトルでブログを綴ってきました。

今まで書いてきた内容は、

・「納豆嫌い!」は問題視されないのに、「学校嫌い!」は大問題になってしまうのは何故か?

・日本には「学校だけが唯一の学びの場である」という信仰にも似た考えがあり、それが不登校という「問題」を作っている。

・人間には様々な情報処理の仕方があり、その方法によっては学校の講義型の学習が合わない子もいる。

・HSC(Highly Sensitive Child)と呼ばれる感受性豊かな子どもがいて、その才能ゆえに学校にいるだけで苦しくなる場合がある。

・世界の教育に目を向けると、実に多彩な教育プログラムが用意されていて、日本のように単一のキャリアパスしか用意されていない国のほうが少ない。

ということです。

 

子どもたちと接していると、一人一人が実に多様であることがわかります。

その多様である子どもたちに一様な授業を提供することで、理解に達することができず、

自尊感情に傷つきを抱えてしまう子も少なくありません。

私自身、今では高校生に数学を教えておりますが、高校生の時は本当に数学が苦手で、

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことは今でもはっきり覚えています。

そして学校自体にうまく馴染めなかったことも相まって、自己嫌悪の感情を強く抱いていた高校時代でした。

 

学校とは本来どういう目的で作られた場でしょうか?

子どもの学力や社会性、自尊感情を育て、自立を促す場であるはずです。

今の学校教育には、七、五、三という言葉があります。

小学生の三割、中学生の五割、高校生の七割が授業の内容を理解できていない、という現状を表す言葉です。

この状態で学力、自尊感情が育まれていると言えるでしょうか?

またテストをして他の子と競わせることに重きを置く今の入試制度で、

他の誰かと協力して何かをなしてゆく社会性が果たして身につくのでしょうか?

日本で学制が敷かれた明治五年の地政学的状況を考えれば、

今のような学校の形を取らざるを得なかったのかもしれませんが、

今そのシステムは、日本の現状との間で大きな齟齬を来していると感じます。

 

学校というシステムが様々な問題を抱えているなかで、

子どもたちの可能性を伸ばすために一生懸命努力しておられる学校の先生方を私は知っています。

そして様々な制約のある中で試行錯誤されている先生方を尊敬もしています。

今すぐには無理でも、やがてこの国の教育はゆっくりと変化していくでしょう。

ただ、関わる人間が多い組織ほど、急に変わることができないものです。

もしお子さんが現状に強い苦しさを抱えているなら、そこから避難することだと思います。

学校で経験できることの多くは、実は学校以外でも経験できます。

学習したいと思うなら、図書館で本を読んだっていいし、塾や家庭教師も選択肢の一つと思います。

社会性を身に着けたいのならば、アルバイトやボランティア活動に参加してみてもよいと思います。

それから日本には、高卒認定試験という制度があり、それに受かれば専門学校、大学を受験することができます。

高卒認定試験について

学校から避難したとて、何一つ人生の選択肢はせばまりません。

大丈夫です。

 

人生いろいろ、子どももいろいろ。

そうであるならば、学びの場もいろいろであるべきなのに、たった一つの受け皿しか用意されていない。

それが不登校という「問題」を作り出している。

そういう側面もあると私は考えます。

日本という国は、その地理的、歴史的背景から、多様さに対して不寛容な国です。

ただこれからは交通、通信の手段が発展し人や情報の移動がどんどん容易になっていく時代。

社会が寛容さを身につけざるを得ない状況になっていくでしょう。

この社会が成熟し、自分と異なる他者に対する寛容さを持ちえたとき、

この国から不登校という「問題」がなくなるのではないでしょうか。

不登校という「問題」を通じて私たち大人に問題提起してくれている子どもたち。

それに私たち大人はどう応えていけばいいのでしょうか?

変わるべきは子どもではなく、まず私たち大人です。

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学校と納豆の等価性 ~人生いろいろ、学校もいろいろ~

ここ数回、変なタイトルでブログを書いております。

前々回、前回の記事では、

・「納豆嫌い!」は怒られないのに、なぜ「学校嫌い!」は怒られるのか?

・学びの場は学校しかない、という価値観が不登校という問題をつくる

・情報処理の仕方、感受性の強弱によっては学校にいること自体が苦痛になる子がいる

ということを書いてきました。

日本の教育について考えてきましたが、海外の教育はどのようになっているのでしょうか?

オランダでは、公的な学校教育以外のさまざまな代替教育が普及しています。

例えば、イエナプラン教育、シュタイナー教育、ダルトン教育などです。

そこでは、異年齢の子が少人数のグループを作って学んだり、時間割を自分たちで決めたり、

知識だけでなくモノづくりや身体表現、芸術表現を学んだり、

自分が学んだことを同じグループの子たちに発表することに重きが置かれていたり。

日本の学校とはだいぶ雰囲気が異なることが感じ取れると思います。

またドイツ、スイス、オランダでは、小学校卒業時に、進路が大きく分かれます。

ドイツの例を見てみましょう。

ドイツは、日本でいう小学校4年生を終えた段階で中等教育が始まり、

その進路は、ギムナジウム、総合制学校、実科学校、基幹学校に分かれます。

ギムナジウムは9年間あり、大学への進学を目的としています。

実科学校、基幹学校はそれぞれ6年、5年の期間があり、

そこでは職業訓練が行われ、技術者や公務員、職人の育成に当たっています。

約半数の子どもがこのコースに進学するそうです。

卒業者は職人として仕事に就くか、職業専門学校へ進学します。

総合制学校は、大学へも職業専門学校へも進学でき、約3割の子どもたちがこのコースを選択します。

ドイツでは、職人や技術者の社会的地位が高く、生活も安定しやすいのだそうです。

本人も希望せずその適正もないのに、誰かれ構わず大学進学を目指させる日本と違い、

その子の適性に応じて様々なキャリアパスが用意されているのです。

フィンランドでは、グループ学習が重要視されています。

一クラスは24人で子どもたちは4~5人のグループに分かれて学習します。

そこではできる子ができない子に教え、助け合い学びあうことが重視されています。

学力だけでなく、お互いに助け合うという社会性も同時に身につくため、

フィンランドでは、いじめが少なく、不登校という問題も存在しないそうです。

また先生は皆大学院の修士卒で、大きな裁量権を与えられ、人事考課もなく、子ども一人一人に合った学習方法を自分で選択することができます。

中央で決めた画一的学習内容を、どんな特性を持った子どもにも画一的に指導しようとする日本の教育とは対称的です。

オランダ、ドイツ、フィンランドとヨーロッパの国々の教育について見てきましたが、実際にそれで学力は付いているのかという疑問があります。

PISAと呼ばれる国際的な学力調査のテストがあります。

3年ごとに15歳の子どもの数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力を問うテストです。

紹介したいずれの国々も、世界の72の国と地域から54万人が参加するこのテストで、すべての分野において上位15位以内に入っています。

つまりその教育方法でしっかりと結果が出ているということです。

今日は世界の国々の教育について紹介しました。

ここから分かることは、教育とは必ずしも正解ではなく、試みであるということです。

世界中でさまざまな教育方法が試行錯誤されています。

日本の教育だってそうです。

それはあくまで試みであり、決して正解ではないのです。

そうであるならば、その一つの試みに適応することが苦手というそれだけの理由で、

私たちはそんなに自分を責める必要があるのでしょうか?

続きます。

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学校と納豆の等価性 ~「学校嫌い!」はなぜ怒られるのか?~

私たちが悩みを抱えて苦しんでいるときというのは、

得てして「○○であるべき」という価値観に縛られているときではないでしょうか?

不登校も同じだと思います。

「学校に行くべき」という価値観が、お子さんを、親御さんと苦しめている。

そういう面があると私は感じます。

 

今は何の苦も無く食べられますが、私は以前納豆が苦手でした。

納豆が苦手であったときに、納豆が苦手であるという理由から誰かに叱責されたことはありませんでした。

話は変わって、私は高校生のときにとにかく学校が嫌いで、毎日行きたくないと思っていました。

ある朝父親に、「学校に行きたくない」と告げると、「ふざけるな!」と怒鳴りつけられました。

私と同じように、学校行きたくないと告げると、親御さんから叱責されたというお子さんは多いです。

「納豆嫌い」も「学校嫌い」も何かが嫌いという点において何ら変わりはないはずなのに、このように全く異なる対応を取られるという不思議。

納豆が嫌いでも誰から叱責されることもないのに、学校が嫌いというとなぜこんなにも怒られてしまうのでしょうか?

それは、納豆には変わりがあるが、学校には変わりがないから、だと思います。

納豆がなくても、そのほかのもので栄養補給を代替できますが、学校以外でその機能を代替する場が日本にはない。

そう思っている人は多いと思います。(私は全くそうは思いませんが。)

だから「ふざけるな!」と怒られるのかもしれません。

私は学校に行けないことが問題なのではなく、この学校以外に変わりが効かないという状態に問題があるのだと考えます。

続きます。

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