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不死身の特攻兵 〜何故人は学ばなければならないか〜

先日、仕事が早く終わった夜に、お盆に録りためていたNHKスペシャルを見ました。

番組が扱っていた内容は第二次世界大戦です。

録りためていたものの一つに、特攻隊を扱った番組がありました。

特攻とは何だったのか?

何故あのようなことをしなければならなかったのか?

自分でもはっきりと理由が分かりませんが、私は特攻というものを知りたいし、知らなければいけないという気持ちを持っています。

それはもしかしたら、無謀な作戦を強いられて死ななければならなかった若者たちの声に耳を傾けたい、という願望なのかもしれません。

番組を機に手に取ったのが、劇作家の鴻上尚史さんが書かれたこの一冊です。

「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」

特攻作戦を9度命じられて、9度とも生きて帰ってきた特攻兵がいました。

鴻上さんはその特攻兵、佐々木友次さんの話を耳にして、どうしても会ってみたいと強く望むようになります。

なぜ、今とは比べ物にならないほどに同調圧力の強い時代背景の中、

しかも軍隊という上位者に絶対服従の組織において、上官の決死の命令に抗って生きて帰ろうと思ったのか。

その興味が鴻上さんを突き動かし、実際に佐々木さんの住む北海道に赴き、5度インタビューをしています。

本書はそのインタビューの内容に加え、様々な先行資料に基づいた、美化されていない特攻の現実が描かれています。

私がこの本を読んでいる間、終始感じ続けていたのは日本人の非論理性です。

論理的に破綻すると精神主義に逃げ込む悪癖、と言い換えてもいいかもしれません。

飛行機というものは空を飛ぶのですから、当然構造的に軽くなければいけません。

故に多くの戦闘機はアルミなどの柔らかい軽金属で出来ています。

片や、特攻機が突撃する空母は堅固な鋼鉄で出来ています。

特攻作戦が現実味を帯び始めたとき、多くのベテランパイロットたちはそれを、

「コンクリートの壁に生卵をぶつけるようなもの。卵は粉々になるが、コンクリートは汚れるだけ。」

つまり戦果は期待できない、非論理的である、と主張しました。

その主張に対して陸軍の航空技術研究所は、論理的に反論できないと見るや、

「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と反論にもならない反論で返します。

そしてこの非論理性は、軍内の一部組織だけの性向ではありませんでした。

戦犯として処刑された東条英機首相は、帝国議会で以下のように発言しています。

「申す迄もなく、戦争は、畢竟、意志と意志との闘いであります。

最後の勝利は、あくまでも、最後の勝利を固く信じて、闘志を維持したものに帰するのであります。」

軍の飛行学校を訪れ、学生にどうやって敵機を撃ち落とすかと質問した際には、

学生が「高射砲でこのように打って、、、」と説明し始めるとそれを遮り、

「違う。精神で落とすのだ。」と答えたそうです。

また東條首相はたびたび、

「負けたと思った時が負けなのだ。負けだと思わなければ負けない。」

という言葉を繰り返し使っていたそうです。

重ねて言えば、この非論理性は軍部などの指導層に限られたものではありませんでした。

その性質は国民にも広く共有されていました。

本書の中で先日亡くなった歴史研究家の半藤一利さんの著書、「そして、メディアは日本を戦争に導いた」の記述が引用されています。

それによれば、第二次世界大戦から遡って、日露戦争開戦前、戦争に対するメディアの論調は、

「帝政ロシア断固撃つべし」と「戦争を避けて外交交渉を」に二分していました。

この二つの論調に対する国民の対し方は、正反対のものとなりました。

戦争反対を唱える新聞は大きく部数を下げた一方で、戦争賛成派の新聞の部数はどんどん伸びていったのです。

この体験からメディアは戦争翼賛は儲かることを学び、それ以降戦争に協力的な傾向を強めていくことになります。

商売のために伝えるべきを伝える責任を放棄したメディアの態度は言うまでもなく論外ですが、

私がここでより問題視したいのは、現実的に考えれば、まともに戦って敵うはずもないロシアという強国に対して、

「外交交渉を以って臨むべし」という至極まっとうな主張を展開したメディアに強い忌避反応を示した、国民の態度です。

これは、見たくないものでも目を逸らさず直視し論理的に考える、という態度で事に臨むのではなく、

情緒的に自分を満足させてくれるようなものを無批判に妄信してしまう非論理性を表している、と私は考えます。

こういうことを書くと、日露戦争で日本はロシアに勝ったじゃないかという反論があるかもしれませんが、

日露戦争で日本はロシアに勝ったわけではなく、負けなかっただけです。

それが証拠に、ロシアは戦後日本に賠償金を支払ってはいません。

戦争中に第一次ロシア革命が起きていなければ、短期戦の後にアメリカが講和のテーブルを用意してくれなければ、

日本がロシアに負けることがなかったかどうかは大いに疑問です。

だから「帝政ロシア断固撃つべし」などというのは非論理的で無責任な妄言だと私は考えるのです。

前途有望な若者たちを特攻に追いやったものとは何だったのでしょうか?

近視眼的に見れば、それは航空技術研究所や東條英機首相のような、非論理的な指導層だったのかもしれません。

しかしもっと包括的に考えれば、見たいものだけを選好し、論理的に考える事を忌避した日本人の国民性が、

特攻などという非論理的で、残酷な作戦を実現せしめた一番の原因なのだと私は考えています。

本書を読んでいて私は沈鬱さの中に一つの希望を見つけました。

それは以下の記述(「つらい真実 虚構の特攻隊神話」より引用された箇所)です。

「体当たり特攻への志願・自発性の度合いは、当然にもその有効性を信じる度合いと並行した。

種別的に見れば、回天特攻(一人乗りの人間魚雷)のそれが最後まで最も高く、ついで海軍特攻機、陸軍特攻機の順となる。

時期的には、特攻開始の初期ほど高く、後ほど低くなる。

また実戦経験や技術練度の高い者や高学歴者ほど批判的であり、年齢も学歴も低いものほど、積極的であった。」

本書の別の個所では、生きて帰った特攻兵を隔離再教育する施設「振武寮」で教官を務めていた少佐の、少年飛行兵に対する言葉も紹介されています。

「12,3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。

あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、その代わり小遣いをやって、

うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、

自然とそういう人間になっちゃうんですよ。」

教養のない少年兵は洗脳するに容易く、経験や学歴のある人間は特攻作戦に対して批判的であった。

私が希望を感じたのはこの点です。

学問や経験を通じて学んだ人間は懐疑することができますが、

逆に教養や経験を持たない人間は容易く人の言いなりになってしまう。

先ほど引用した記述はこのことを示しています。

ここから「なぜ人は学ばなければならないのか?」という表題の問いに対する答えが導き出されます。

それは「懐疑するため」です。

人が学ぶ理由は様々あっていいと思います。

その中には、社会的に上昇したいから、という功利的な理由があってももちろん良いわけですが、

「懐疑出来る人間になるため」というのは、

間違いなく人が学ばなければならない理由のうちで、欠くことの出来ないものの一つです。

9度特攻に出撃し、9度生きて帰ってきた佐々木友次さんの話に戻ります。

鴻上さんのインタビューの中で、なぜ生きて帰って来られたのかについて様々な理由を話されていますが、

その中の一つに上官の言葉がありました。

佐々木さんが所属した特攻隊の岩本隊長は、当時陸軍のエースパイロットとして数々の爆撃を成功させていた人物でした。

その岩本隊長が、出撃前の作戦会議にて以下のように佐々木さんたち下士官に命じます。

「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで撃沈できる公算は少ないのだ。

(中略)

これぞという目標を捉えるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それは命を大切に使うことだ。

決して無駄な死に方をしてはいかんぞ。

(中略)

出撃しても爆弾を命中させて帰ってこい。」

明らかに上層部の命令に違反するこの隊長の言葉が、出撃のたびに佐々木さんの脳裏を過り、

それがこの無謀な作戦に対する懐疑に変わり、

体当たりではなく爆撃して生還する、という行動に駆り立てた一因であったと佐々木さんは語っています。

「論理的に考え懐疑することの大切さ」、そして「懐疑するために学びが必要であること」、

今までも一緒に学ぶ子どもたちに伝えてきたことですが、本書を読んでこれからもそのことを伝えていかねば、という思いを一層強くしました。

特攻に対して批判的な発言をすることは死者に対する冒涜である、という考え方もあるかもしれません。

私はそうは思いません。

慰霊というのは、先人の行いを無批判に賛美することだけをいうのではないはずです。

そこに改善すべきを見出し、次の世代に知恵として伝えること、繋いでいくことも私は慰霊であると考えます。

何故学ばなければならないか?

それは懐疑できる人間になるため。

一緒に学ぶ子どもたちにこれからも伝えていこうと思います。

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複眼的思考 ~事実を事実として認識するために~

外を歩いていると、あちこちで花が咲き出して、日本海側特有の灰色の冬から、色彩の春へと季節が変わりつつあることを実感します。

桜の蕾も膨らんできて、開花の日がもう間近といった感じです。

新年度早々ですが。ありがたいことに家庭教師の枠がすべて埋まったため、一旦新規生徒さんの募集を止めさせて頂きました。

お子さんの不登校、引きこもりに関するご相談は受け付けておりますので、お気軽にお問い合わせください。

 

10代後半から20代前半にかけて、私は今にも増して思慮の浅い人間でしたので、

数学や理科の知識を身につけさえすれば、人間の何たるか、世界の何たるか、を理解できると思い、理学部に進学し学んできました。

あの時のあの選択があったから、今の自分でいられる訳で、だからそのことを全く後悔はしておりませんが、

理科や数学ばかりを学んだところで(学び足りないからということもありますが)、私の目には世界は依然謎だらけにしか見えませんでした。

私は昨年40歳になりました。

まだまだ学び足りない人間ではありますが、10代後半から20代前半のあの頃から見れば、

少しは人間が、世の中が分かる様になったと、自分本位の痛々しい勘違いという可能性も加味しつつ、そのように思っております。

それでは若かりし私に足りなかったものとは何でしょうか?

私はもう一つの視点だと考えます。

 

中一の数学で習う立体図形に三角錐というものがあります。

パーティーの時に使うクラッカーを逆さまにしたような、底面が円形で先端が尖った立体図形です。

三角錐は、真上から見たら円、真横から見たら三角形に見えます。

どちらの見え方も事実ですが、どちらも事実の一部でしかありません。

三角錐を円や三角形としてではなく、三角錐として観察するためには、真上からの視点と、真横からの視点の両方が必要になります。

真上からの視点、真横からの視点、この二つがあって初めて事実を事実のままに認識できる、ということです。

 

つまり10代後半から20代前半の私は、三角錐を真上からのみ眺めて、それで世界を、人を理解しようとしていた、ということです。

理科や数学の取り扱う領域は理論です。

しかし人間は、そしてその人間が作り出した世界は、いつも論理的に振る舞うわけではありません。

例えば、コロナ禍で在庫は十分にあるとアナウンスされても、トイレットペーパーやレトルト食品を買い溜めたり、

そんなことをすれば数年から十数年身体の自由を失い、他者の生存権を奪うことになると知りながら、殺人を犯すに至ったり、

法に抵触することを知りながら、自分の知り合いや身内に便宜を図ってしまったり、

人間というのは、必ずしも論理的ではなく、むしろ情緒的な生き物であると言っていいと思います。

私に足りなかったものは、情緒という視点でした。

人間や社会を理論の観点からしか眺めていなかったから、三角錐を円と思い込み、

「分からない、分からない」と呻いていたのが、若い頃の私であったように思います。

私に人間の情緒的な側面を理解させてくれたのは、文学であり、人間心理であり、歴史であり、音楽であり、映画であり、人との対話でした。

このような経験を経て、私の中に情緒的な視点が生まれたため、以前よりは人を社会を少しは理解出来る様になったのだと思います。

だからと言って私は、理論を否定し情緒を手放しで賛美するつもりもありません。

何故ならば、過度に情緒的でベタベタとへばり付くような人間関係が災厄を引き起こすということも、日常生活には少なくないからです。

情緒的な視点のみでは、また人を世界を見誤ることになります。

大切なのは理論と情緒のバランスであり、二つの視点を持ち続けるということです。


長くなりましたので、次回に続きます。

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「私はそういう人間ではありません」 ~補集合による自己理解~

 

私は仕事柄、高校生から進路の相談を受けることがとても多いです。

高校生というのは発達心理学の用語で言えば青年期という時期に当たります。

発達心理学では、各年代に達成するべき心理的課題というものがあるのですが、青年期の課題は自我の確立です。

自我の確立。

難しい言葉ですが平たく言えば、自分はこういう人間です、と言える自己像を確立することです。

青年期は、親や周りの大人の価値観から脱し、自分なりの価値観を形作る時期です。

かつては所属する共同体において従うべき価値観が共有されていたため、ある年齢に達した人間はこう生きるべきという明確な指針が存在しました。

だから自分は一体何者なのかなどと言う問い自体が発生することはありませんでした。

しかし、そのような共同体が解体し、社会的に共有された生き方の指針は姿を消しました。

加えてグローバル化が進みこれだけ社会の価値観が多様化した時代に、自分とはこういう人間である、と言い切れる自己像をを確立することは、そう容易い仕事ではありません。

かく言う私もかつて、大学院に進学したものの、本当に自分はこの生き方でいいのかと迷い悩み、うつ病を患った経験があります。

悩みの真っただ中にあるときは、なぜ自分だけがこのように苦しい思いをしなければならないのか、と思っていましたが、

後に様々な人の話を聴いたり、本を読んだりすると、この「自分で自分が分からない」という症状は、決して私に固有の悩みではなかったことが分かりました。

例えば、夏目漱石は三十代の頃文学の研究でロンドンに滞在しているときに、神経衰弱になって下宿に引きこもっていた時期がありました。

また哲学者の竹田青嗣先生も若かりし頃、精神的に不安定な時期を経験され、それが自身と哲学とをつなぐきっかけとなったとご自身の著書の中で記しておりました。

名だたる先賢の経験と、平凡な私の実体験を併記することは大変おこがましいことではありますが、

つまりは青年期の自我の確立というのは、誰にとっても大仕事なのだということです。

自分は一体何者なのかを知るには、一つには自分の過去の経験や指向性を省みて、自分の中にどのような才能があるのかを考える、という方法があると思います。

自分という人間の内面を掘り起こすことによる自己理解も確かに一つの手段であると思います。

しかし、それは基本的に自分という人間の枠組みの中でのみ行われることなので、結局自分本位の的外れの結論に陥ることも多々あり得ます。

もしその方法で行き詰まりを感じているのであれば、もう一つの自己理解の方法を試してみるのも一手と思います。

 

ここで話は一端数学に飛びます。

数学の集合論で、全体集合、部分集合、補集合という言葉が出てきます。

図示すれば以下のようなものです。

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Uが全体集合、Aがある共通項を有する要素が集まった部分集合、そしてその集合Aの外側を、集合Aの補集合と言います。

例えば全体集合が動物であり、その中に猫の部分集合があるならば、その外側の補集合は猫以外の動物ということになります。

この集合の概念を使ってもう一つの自己理解の方法を考えてみたいと思います。

世界という全体集合の中に、私という部分集合があり、その外側には自分以外という補集合が広がっているとします。

先ほど述べた自分の内面を掘り起こすという自己理解の仕方は集合論で言えば、

自分の中に一体どのような要素が存在するのかを明確にすることで、世界の中の自分という人間の輪郭を明確にするというものです。

これも確かに一つの自己理解の方法です。

しかしそれは先ほど述べたように、自己完結型のプロセスになりがちなため、自分本位の的外れは結論に至ってしまうリスクがあります。

私の考えるもう一つの自己理解の仕方とは、自分は何者ではないかを知ることを通して自分が何者かを迂回的に知るという方法です。

集合論に引き寄せて言うならば、自分という集合の外側の補集合の要素を明確にすることによって、自分という集合の輪郭が事後的に浮き彫りになるという形の自己理解です。

他者と自分とを比較し、他者の中にはあり自分の中にはない要素を把握することで、自分が何者でないかを理解し、その結果自分が一体何者であるかが迂回的に分かる、というわけです。

社会心理学者で40年以上にわたりラジオで悩み相談を受けてきた加藤諦三先生は、著書の中で、悩んでいる人には共通点があると記しています。

それは「私はそういう人間ではありません」という一言が言えないということだそうです。

自分が一体どのような人間でないかが分からないから、自分がどういう人間かも分からず、悩み続けることになるというわけです。

だから自分が何者ではないかを理解することは、自分が何者であるかを理解し心穏やかにその人らしく生きるためにはとても大切なことなのです。

この自己理解の方法は、先ほどの自分の内面を掘り起こすという自己理解の方法とは異なり、

他者という自分の外側にある対象を介在させることで自分という人間を客観視できるため、

希望的観測を挟まないより正確な自己理解に達することができるという利点があります。

自分が認識している世界は決してありのままの世界を映しとったものではありません。

私自身を含め、人は世界を自分の見たいように見るものです。

だから自己完結した自己理解の方法は多くの場合、その正確性を損なう可能性が高いと言えます。

誰も世界をありのままには認識できないという前提のもと、より正確に世界を認識する方法があるとするならば、

それは他者という客観を介在したものである必要があります。

 

高校生は、進学か就職か、進学するなら専門学校か大学か、就職するならどのような仕事か、自我の確立がまだ未完了なまま、大切な選択を迫られる時期です。

これだけ価値観が多様化し、今までの価値観がそのまま通用しなくなってしまった時代、大人でさえどのように生きるべきか悩んでいる人がたくさんいます。

そんな時代に生きる若者の人生の指針を見つける手助けをする、というのは我々大人の大切な仕事の一つであると私は考えます。

だから仕事を通じて、彼らと一緒にいかに生きるべきかを考えていこうと思っています。

もし、お子さんがそのような選択で悩まれているならば、一度「自分は一体何者なのか?」という問いを離れ「自分は一体何者ではないのか?」という問いかけをしてみる事をお勧めします。

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環境問題と不登校 〜無限の価値増殖ゲームが壊したもの〜

こちらは、マルクスの資本論を経済学者でマルクス研究家の斎藤幸平さんが解説した一冊です。

何やら書き込まれているマジック書きは決してマルクスのサインではありません。

気を付けていたのにとうとう我が家のまるくちゅ君にやられてしまいました。

一読して今二回目を読んでいるところなのですが、自分の気づきをまとめるためにアウトプットしてみようと思います。

私はことある毎に、不登校は個々のご家庭の問題ではなく、社会の構造が生み出す問題であると言ってきました。

理由は至極簡単です。

もし個々のご家庭の問題であるならば、なぜ同時多発的に日本国内で十数万人の子どもたちが学校に行くことを拒否するのでしょうか?

十数万人子どもの親御さんが一斉に育て方を間違えたからでしょうか?

そんなはずはありません。

だから不登校とは、個々のご家庭の問題ではなく社会の構造が生み出す問題なのです。

それではここで言う社会の構造とは何でしょうか?

私は環境問題を解決したいと思い大学と院で環境問題の研究をしてきました。

そして今、紆余曲折を経て不登校という社会問題に微力ながら取り組んでおります。

取り組んでみて分かったことは、環境問題も不登校も根は同じだということです。

環境問題と不登校に共通する「根」とは、何でしょうか?

私は資本主義であると考えます。

資本主義とは、お金からモノやサービスを生み出し、そのモノやサービスを売買することで、元手のお金を増やしていく、無限に続く価値増殖ゲームです。

地球が蔵する資源が仮に無限大であったとするならば、この価値増殖ゲームはこれから先も永久に続いてくことでしょう。

しかし、この地球上に存在するものは、石油も金もダイヤもレアメタルも人の命も、一見無限に見える水や空気でさえ、ありとあらゆるものが有限です。

無限に続く価値増殖ゲームをありとあらゆるものが有限である球体の上で展開する、この根源的な矛盾がいたるところに軋みとして現れています。

その軋みとは、森林破壊や大気汚染のような環境破壊であり、うつや依存症や過労死などのメンタルの問題であり、高齢者や子どもの虐待であり、コミュニティの崩壊であり、途上国の児童労働であり、戦争であり、テロリズムであり、ウイルス禍です。

そして私は不登校もその軋みの一つであると考えています。

魚が水の中で泳いでいることに無自覚であるように、私達は皆どのような価値観を血肉化して日々生活しているかに対して無自覚です。

現代の日本に生きる私たちは、「成長」という言葉に何の疑問も挟まず、良きものという判断を下す傾向にありますが、それは果たして本当でしょうか?

「成長」を無批判に是とできたのは、地球は無限に広いという無邪気な前提条件を私たちが信じていられたからです。

確かに地球はかつて無限に広かったかもしれませんが、人口が77億にまで膨れ上がった今、その前提条件はもうすでに破綻しています。

前述の通り、私達は成長を良きものとする価値観を深く内面化して生きていて、しかもそのことに対して無自覚です。

その価値観はどこに由来するかと言えば、無限の価値増殖を志向する資本主義という金儲けゲームです。

私達は、この価値増殖ゲームに好むと好まざるに関わらず巻き込まれていて、その価値観があまりに内面深く食い込んでいるが故に、それ以外の価値観があることさえ忘れてしまっているのではないでしょうか?

資本主義が蔓延する以前の社会は定常経済でした。成長など志向していませんでした。

本書の中でも紹介されていますが、世界のGDPは18世紀半ばまではほぼ横ばいで推移していたのです。

それが産業革命以降急激に上昇し、GDPの推移を表すグラフの傾きは今やほぼ無限大になっています。

ほぼ定常であった経済活動が産業革命以降急激に拡大し、有限な地球の上で、無限増殖を志向する金儲けゲームが展開されている。

この矛盾が先ほど列挙したような様々な問題を引き起こしています。

その矛盾に抗うためにまず必要なこと。

それは、今私たちが無自覚に取り込まれているゲームがどのようなルールで運用され、どのような矛盾を孕んでいるかに自覚的になることです。

自分がどのようなゲームに知らない間に参加させられていて、それによって何を失ってきたかが分かれば、その無理筋のゲームから一定程度距離を取ることが出来るはずです。

マルクスは、資本主義が社会が蔵するあらゆる富を、お金で買わなければ手に入れられない商品に変えてしまうことを、

分業によって労働者を無力化し労働の内容から疎外してしまうことを、

コミュニティが崩壊し人間が何ともつながりを持たない砂粒と化してしまうことを、今から150年も前に予見していました。

本書を読んでいてその先見性に驚くばかりです。

有限な世界で展開される無限増殖ゲームから距離を置くためには、まずそのゲームの仕組みを知ることです。

無限増殖ゲームに世界が食い破られてしまう前に、別の生き方を探し出さなければいけない。

その第一歩として本書はぜひ手に取って頂きたい一冊です。

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停滞期を乗り越えるために ~意味を見出すことの意味~

昨日所用で、外を歩いていると、蝉の声に勢いがなくなっているように感じました。

確かにもうお盆ですものね。

夜になるとあちこちから秋の虫の鳴き声も聞こえてくるようになりました。

学生時代はこの時期になると、終わっていない宿題をどうしようと、焦燥感に駆られていたものです。

24時間テレビを見ては、世の中には頑張っている人もたくさんいるのだから俺も頑張ろうと自分を鼓舞してみたりしましたが、

結局それも長続きせず、宿題が全部終わらぬまま新学期を迎えてしまう、というのが私の夏休みのいつものパターンでした。

その話を一緒に勉強している子たちにすると、「それでよく卒業できましたね!」と驚かれます。

私が学生だった頃は、色んなことが良くも悪くも今より緩い時代だったように思います。

今の子たちは、私達の頃に比べ要求されるものが多くなり、大変だなぁと感じることが多いです。

みんな本当に頑張っています。

 

昨日のブログでは、人の成長は一次関数のように直線的に実現するのではなく、

階段を上るように、停滞期が続いた後、ある日突然ブレイクスルーが訪れるという形で実現する、という内容を綴りました。

人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

多くの人は、人間は一次関数的に何かに取り組んだら取り組んだだけ成長すると勘違いしていて、

取り組んでも取り組んでも何の成果も感じられない時期がしばらく続くと、その取り組みをやめてしまい、

自分は結局このような人間である、成長できない人間である、という諦念を抱いてしまいます。

そのような成長に対する勘違いが、人の成長を拒んでいるように私は感じています。

停滞期に自分自身を見限ってしまう、そのような状態に陥らないために、大切なことは三つあります。

1、人の成長は一次関数ではなく、階段状に果されることを知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対するフィードバックをしてもらうこと

昨日は1について綴りました。

今日は2について。

 

人は意味のないことを延々とやり続けられるものではありません。

自分のやっていることに意味を見出せるからこそ、それを続けることができるのです。

自分のやっていることに意味を見出せれば、成長を実感できない停滞期が続いたとしても、

それをやり続け、最後には成長を感じられるようになるわけです。

そして何か一つのことで成長を感じられれば、人の成長は停滞期とブレイクスルーを繰り返すという形をとることが実体験として分かり、

他のことでも、停滞期に心折れることなく取り組み続け、成果を得られるようになるのです。

だからその人がやっていることの意味を周りの人間が明確化してあげるというのは非常に大切なことです。

子どもの学習に関してもそれは当てはまります。

多くの子どもは学習する意味など考えたこともなく、周りの大人からやれやれと言われるがままに学習に取り組んでいて、

一体自分は何のためにこんなことをしなければならないのかと、疑問を持っている子はたくさんいます。

しかし、大人がその意味を明確にしてあげれば、彼らの学びに対する姿勢も変わってきます。

 

学習することの意味、これはいくつもいくつもあると思いますが、一つの例として、「人は知っている範囲内でしか考えられない」という話をしたいと思います。

例えば雷という自然現象があります。

あの現象の原理は中学で習う電磁気と気象の知識があれば理解できます。

急速に発達する積乱雲の中で上昇気流に煽られた氷の粒がぶつかり合うことで雲が静電気を溜め込み、

雲と地上との間の電圧差がある一定値を超えたときに空気中で起こる放電現象、それが雷という自然現象です。

これも中学の歴史で習うことですが、17世紀に俵屋宗達によって描かれた風神雷神図屏風を見ると、昔の人たちが雷という自然現象をどのように理解していたかが良くわかります。

雲の上に太鼓を持った雷様が住んでいて、それが大暴れするときに雷という自然現象が起こる、というのがその時代の人たちの雷の理解の仕方です。

科学技術が進歩し、人間の知っている範囲が広がったからこそ、現代人はその原理をより合理的に考えられるようになったわけです。

これは「人は知っている範囲内でしか考えられない」ことの好個の例です。

 

私の実体験も一つ。

高校生の子たちと一緒に学習していると、「もう勉強やだ!学校辞めたい!」などという言葉が飛び出してくることがあります。

テスト勉強に追われ頭が一杯になっているからこそ、そんな言葉が飛び出してくるのかもしれません。

その気持ちはとても良くわかるのですが、その言葉を受けて私が、

「高校は義務教育じゃないから辞めようと思えば辞められるよ。でも辞めてどうするの?」

などとちょっと意地悪いことを聞くと、彼らの多くは言葉が出なくなります。

なぜどうしていいか分からないのでしょうか?

これもやはり「人は知っている範囲内でしか考えられない」からです。

まだあまりものを知らないからこそ、そのあとの選択肢を考えられなくなるのです。

知れば知るほど、様々な選択肢を考えられるようになり、自分が生きたいように生きられる可能性も高まっていくのです。

だからこそ人は学ぶ必要があるのです。

 

私が学生だった20年ほど前までは、偏差値の高い大学に入って、大企業に就職して、結婚し、ローンを組んで家を建て、定年までその企業の一員として働くという、

社会に広く共有された目指すべき一つの生き方がありました。

しかし、今その生き方はもう成り立たない時代になっています。

そうであるならば、勉強して大学に入ったって意味がないのではないか?

そういう意見も一緒に学んでいる子どもたちから聞かれますが、私はむしろ逆だと思います。

社会が生き方の指針を失った時代だからこそ、自分で考えて生きていける人になるために、学ばなければならない。

私はそのように考えています。

なぜなら、人は知っている範囲内でしか考えることが出来ないからです。

 

私が考える学ばなければならない理由、説明の仕方はいくつもあるのですが、上に書いたことがその一つです。

このように、学ぶ意味、そして自分が置かれた時代背景を理解できれば、子どもの学ぶことに対する意識は相当変わってきます。

だからその子の周りにいる大人が、その子より一段高い視点から学ぶことの意味を明確化してあげることは非常に重要です。

そしてその意味を実感出来れば、成長のための停滞期を乗り越え、ブレイクスルーを経験できるのです。

そしてそのことが一つの成功体験としてその人の中に記憶され、さらに学びたいという意欲を掻き立てることになるのです。

 

今日も長くなってしまいましたので、3に関してはまた次回とさせて頂きます。

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

8月14日、お盆二日目の朝です。

今年はコロナウイルスの影響で帰省を控える方が多いからでしょう、いつもより静かなお盆を過ごしております。

私の家もいつもなら東京に住む姉とその子どもたちが帰省してきて、ワイワイガヤガヤの日々を過ごしているはずなのですが、

今年は帰省取りやめなので、甥っ子、姪っ子に会えずちょっぴり残念です。

来年は一緒に花火をして遊べるといいなぁ。

昨日息子は実家の庭に大きなプールを出してもらって水遊びをしていました。

じじちゃん、ばばちゃんにたくさん遊んでもらって満足気な顔をしていました。

 

一緒に学習している子どもから、勉強しても成績が上がらない、という話をされることがあります。

考えられる原因は二つあります。

一つはやり方が間違っている。

もう一つは成長に対する勘違いです。

今日は二番目の人の成長に関する勘違いについて。

 

中学二年生の数学で、一次関数というものを学びます。

y = ax + b という形の関数で、そのグラフは傾きaが0より大きければ右上がりの坂道ような形になります。

人の成長に対する勘違い。

それは、多くの人は人間の成長は一次関数のように実現されると考えていることです。

例えば一時間何かの学習に取り組めば、一時間に見合う形で成長を感じられるはずである、ということです。

しかし、自分自身を含め多くの子どもと学習する中で、人はそのような形では成長しないと私は確信しています。

それでは、人の成長とはどのような形で実現するものなのでしょうか?

 

高校生になると、y = [x] という関数を学びます。

これはガウス関数と言ってそのグラフは右上がりの階段のようになります。

私が考える人の成長は、このガウス関数のような形で実現します。

つまり、階段の踏み段のように、いくらやっても成長を感じられない平坦な時期がしばらく続いた後、

今までできなかったことがある日簡単に出来るようになる、階段を一段登るような瞬間が突然訪れる、

人の成長というのはそのような形で訪れるものだということです。

 

だから何かに取り組み始めたからといって、それがすぐに何かしらの実を結ぶなどということはほとんどありません。

しばらくは何の変化も感じられないような時期が続きます。

そして多くの人はこの期間に何かに取り組むことをやめてしまい、いつまでもこの階段状の成長を体験することが出来ず、

自分はこういう人間なのだ、結局ダメなのだと、自分自身に対する諦念を強く握りしめ、ついにはそれを手放せなくなってしまうのです。

このような状態に陥らないために必要なことが三つあります。

1、人の成長が階段状であると知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対してフィードバックをしてもらうこと

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

まず、一つ目ですが、人の成長は一次関数ではなく階段状に実現すると知ることです。

人の成長が一次関数のように実現すると確信したまま、やってもやっても成果らしいものが感じられない日々が続けば、

その人はその努力をもう続けなくなってしまうでしょう。

しかし、人の成長が一次関数ではなく、階段のように実現すると知っていれば、その何の成果も感じられない日々にも意味を見出すことが出来るはずです。

いつか成長の時が訪れるという確信があれば、たとえ大変な事であっても投げ出さずに取り組み続けることが出来るものです。

だから、何かをやり続けるために、まずは人の成長は階段状であること、続けることでいつか成果を感じられる日が必ず来るとことを知ることが大切なのです。

 

ちょっと長くなりましたので、今日はここまで。

2と3についてはまた次回とさせて頂きます。

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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人を成長に導く叱り方 ~叱るのは誰のためか?~

子どもと接するとき、または会社勤めをされていて後進を指導するとき、

ある行動に対して、それはどうしても直してほしい、改善してほしいと感じる場面があるかと思います。

その際に苦言を呈する、叱るということが必要になる場合もありますが、人を叱るということが苦手な人は多いと思います。

その苦手意識というのは叱り方を知らないことに起因しているのではないでしょうか?

今日は叱ることについて考えてみます。

 

まず叱るというのは、誰のために行うことでしょうか?

それは相手のためです。

自分のどこに問題点があったのか、その人のためにフィードバックして、成長を促してあげるのが叱るという行為の目的です。

たびたび、叱っているようで、実はそれが自分のイライラした感情のはけ口にしかなっていない、という場合を目にしますが、

それは自分のストレス発散のためになされる行為なので「叱る」ではありません。

その行為は何なのかといえば、「怒る」です。

怒るのは、自分のイライラした感情を発散して自分がスッキリすりために行うことです。

つまり、怒るのは相手のためではなく、自分のためなのです。

そして怒られた相手は、この行為が自分のためではなく、怒っているその人自身のための行為であることに気づき、

その言葉から耳を背けたり、受け流すようになります。

だから怒ったとしても、怒った側の感情は一時的にすっきりしますが、問題点はそのまま放置されるので、また同じことでイライラして怒らなければならなくなります。

「叱る」は相手の成長のため。

「怒る」は自分のストレス発散のため。

いくら言っても相手の行動が改まらないと思う場合、まず自分が今まで行ってきたことが、「叱る」と「怒る」のどちらであったのか、自己省察してみてはと思います。

 

叱るとは何かを明確にしたところで、今度は叱り方について考えてみましょう。

例えばお子さんが、学校からの配布物を親御さんに見せ忘れていた、という場合を考えてみます。

その時に、叱る側の人間が指摘するべきは、改善してほしい行動です。

具体的にどのような行動を改善してほしいのか、その部分を冷静に相手に対して指摘することです。

この場合であれば、学校からの配布物をすぐに見せるようにしてほしい、と相手に冷静に伝えることです。

「どうしていつもそうなの!だいたいこの前だって☆□〇※!」などと怒り始めてしまうと、相手はその言葉を受け流してしまうので、その行動は変わりません。

だからまず、相手の改善してほしい行動を冷静に具体的に指摘することです。

そして叱る際にもし時間があったらやってほしいのが、サンドウィッチにして叱るということです。

サンドウィッチというのは、何かで何かを挟み込むことの例えなのですが、何で何を挟み込むのでしょうか?

それは良い点と良い点で改善点を挟みこんで相手に伝えるということです。

ある事柄に対する人間の印象というのは、同じ強さでその人の中に刻まれるものはありません。

ある事柄の最初と最後が強く印象として残ります。

これを利用して、良い点と良い点で挟み込んで相手に改善してほしい点を伝えれば、相手もその言葉を受け取りやすくなります。

例えば先ほどの配布物の例で言えばこうなります。

「昨日は、夕飯のあと食器を洗ってくれてありがとう。助かったよ。

でも一つあなたに直してほしいことがあるんだけど。

学校からの配布物はもらったらすぐに見せてほしいの。

学校からの連絡が分からないととても困るから。

お願いしますね。

それから今日もお弁当を残さず全部食べてくれて嬉しかったよ、ありがとう。」

例えばこんな風に伝えると、改善点を指摘する場合でも、その人の良い点で挟み込んでいるため、相手の受け取る印象はだいぶ変わってきます。

しっかりと改善点は指摘しつつも、相手には「あなたの良いところも私はしっかりみていますよ」というメッセージが強く伝わります。

ここまでする時間がなかったら、いきなり改善してほしい行動を伝えて、最後に良い点、感謝している点を伝えるだけでも、相手の受け取りかたは全然違うものになります。

このように伝える順番で相手の印象は大きく変わりますので、ぜひ試してみてください。

 

それからもう一つ、叱る際に頭に入れておきたいことは、相手の行動の背景を分かろうとすることです。

どうしてそのような周りが困る行動をし続けてしまうのか、その背景を理解しようとすることです。

頭では分かっていても理屈にかなわないような行動をしてしまうとき、その当人も気づけていない苦しさを抱えている場合があります。

その人が抱えているそうせずにはいられない背景を分かろうとすることです。

分かろうとするとは具体的にはその人の言葉に耳を傾けてあげることです。

それでその人の抱える苦しさが聴き手に分かるようになるわけではありません。

それでも、自分の抱える事情も理解してくれようとしているのだという姿勢が相手に伝わります。

自分のことを分かろうともせずに、自身の要求だけを突き付けてくる人間の言葉と、

苦言は呈しつつも自分の抱える苦しさ、事情を分かろうとしてくれる人の言葉。

一体どちらが耳を傾けてもらえるでしょうか?

自分のことを理解しようとしてくれる人の言葉であればこそ、叱られる側もその言葉に耳を傾けようとするのではないでしょうか。

 

本日のまとめ。

・叱るのは相手の自己成長のため。自分の行為が相手のためか自分のためか自己省察を。

・叱るときは、改善してほしい行動を冷静に伝える。相手の良い点で改善してほしい点を挟んで伝えると、受け取る印象が良くなる。

・自分の要求だけを伝えるのではなく、相手がそのようなふるまいをしてしまうその背景を理解しようとすること。

ご家庭でお子さんに対して、または会社で後進を指導する際に、ぜひ試してみてください。

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「どう書けばいいか分かりません」 ~読書感想文の書き方

最近心掛けていることに、朝しっかりと朝日を浴びる、というものがあります。

朝日を浴びることで、セロトニンの分泌が促され、心穏やかに過ごせるのだそうです。

加えてセロトニンを材料に作られる眠りを誘発する物質、メラトニンの合成も促され、夜の眠りが改善します。

詳しくはまた日を改めてブログに書かせて頂きますが、ここ数日試してみてとても良い気がしています。

朝起きてカーテンを開けてⅠ5分ほど太陽光を浴びる、ただそれだけです。

良かったら試してみてください。

 

コロナウイルスの影響で、今年は夏休みが例年より遅いスタートとなっていますが、

新潟市内では小学生はもうすでに夏休み、中学生も間もなく夏休みといった学校が多いです。

夏休みなると決まって出される宿題が読書感想文です。

この時期にご家庭にお邪魔していると、「読書感想文どうすればいいですか?」、「書き方が分かりません」という質問を度々受けます。

どうして読書感想文を書くのに皆苦労するのでしょうか?

それは文章の型を知らないからです。

本日は読書感想文の書き方について。

 

様々な文章には型というものがあります。

例えば物語であれば、起承転結。

論説文であれば、序論、本論、結論。

学術論文であれば、概要、背景、方法、結果、考察。

それぞれの文章にはそれぞれの型があります。

読書感想文を書くときに途方に暮れてしまう理由は、この型を知らないからです。

それでは読書感想文の型とはどのようなものでしょうか?

 

読書感想文は、作文を読む人に、自分が読んだ本にはどのような内容が書いてあり、

自分はそれをどのように感じ、この本からどのようなことを学んだのかを伝えるために書く作文です。

この読書感想文の目的が分かっていれば、自ずと読書感想文の型は決まってきます。

私がお勧めする読書感想文の型は、これです。

image0 (2)

字が汚くてすみません。

この紙に必要なことを記入していくと、それが読書感想文の型となり、スムーズに作文を仕上げることが出来ます。

それではこの紙をどう使うのか、説明していきます。

 

まず本を読んでいるときに、印象に残った箇所を三つピックアップしておきます。

そして、本を読み終わったらこの紙を自分で作ってください。

( )でくくってある文章は書き方の説明ですので、書かなくて結構です。

次に、この紙を埋めていきます。

内容1~3には、自分が本を読んでいて印象に残った内容を書きます。

いつ、どこで、誰が、どんなことを言っていたとか、その本に書いてあった内容を作文の読み手に対して説明する箇所です。

次に、それぞれの枠の右隣に、その内容に対して、自分がどのように感じたか、どういうことが印象に残ったか、自分なりの解釈を記入します。

最後に、一番右側のまとめの欄に、解釈1~3に記した内容を要約し、結局自分はこの本からどのようなことを学び、どのように自分の日常生活に生かしていきたいのか、をまとめとして記します。

このようにまずこの紙をすべて記入してから、原稿用紙に向かってください。

 

作文を書くのになぜ時間がかかってしまうかと言えば、書きながらどういう作文にしていこうか構成を考えるからです。

構成を考えるという作業と、書くという作業が同時進行になってしまうが故に、書くことに時間がかかってしまうのです。

まずこの紙を記入し構成を考えてから原稿用紙に向かえば、もう書くべきことは決まっているので、休みなく一度に書き上げることが出来ます。

もしお子さんが一人で、この紙を埋められないならば、親御さんがお子さんに対して質問をしてあげるといいと思います。

「どこがおもしろかった?」とか「どこが印象に残った?」とか、「それはどうして?」とか、親御さんが質問してあげることで、お子さんの思考は深まっていきます。

それから、最後の三つの解釈を要約するところですが、物事を要約することで人間は抽象的な思考が出来るようになってきます。

三つの解釈に共通するものは何か、要するに何を言っているのか、物事の本質を観取する訓練にもなります。

少し難しいかもしれませんが、ぜひ挑戦させてみてください。

 

夏休みはいつもより自由に使える時間がたくさんあります。

子どもにはぜひ、たくさん本を読んで、言葉を豊かにし、情緒を育んでほしいと思います。

お子さんの読書感想文を書く際に役立てて頂けたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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人を理解することの難しさ ~理解を困難にする三つの構造~

昨日は激しい雨が降り続き、各地で避難勧告や避難指示が出ていた新潟ですが、

今日は一転、梅雨が明けたような夏らしい青空が広がっています。

山の向こうには入道雲が立ち上っておりました。

私はあれを見ているとなんだか力が湧いてきます。

梅雨明けは間近ですね。

 

日本に心理療法を導入した臨床心理学者の河合隼雄さんは著書の中で以下のように述べています。

“一般の人は人の心がすぐ分かると思っておられるが、人の心がいかに分からないかということを、確信をもって知っているのが専門家の特徴である。”

私自身、仕事で誰かの話を伺っているときも、日常生活を送っていても、他者を理解するということの難しさを痛感する場面が多々あります。

人の話を聴くことのプロでさえ、「人の心が分からない」と言っているわけですから、人の心を理解するというのは、一大事なわけです。

それでは、何が人の心を理解することを難しくしているのでしょうか?

人の心を理解する上での困難さ、具体的には以下の三つがあります。

一、感情を表出することへの抵抗感

二、内的枠組みの違い

三、言語的枠組みの違い

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

一、感情を表出することへの抵抗

人の話を聴くときに、聴く側の人間が「それでは何でも話してください」と言ったところで、本当に何でも話してもらえるわけではありません。

そこには感情を表出することへに抵抗感があるからです。

感情というのは、その人の人間性の深い部分から沸き上がてくるものです。

それを相手に語るというのは、何一つ包み隠さない生身の自分を相手の前に晒すということです。

そこには当然、こんなことを言ったら笑われるのではないか、変に思われるのではないかという不安感が伴います。

また子どもの頃から、人前で泣いてはいけないとか、兄弟で喧嘩をしてはいけないとか、ある種の感情の表出を制限されて育った場合、

寂しさ、悲しさ、怒りなどの感情を感じたり、表現することが難しくなっている場合もあります。

どんな感情を表現しても、笑われたり、怒られたりしない、安心安全な場があって初めて人は感情を表に出すことが出来ます。

人を理解するとき、その安心安全の場をいかに作るかという難しさがまずあります。

 

そして安心安全の空間を作れたとしても、まだ人の理解を難しくする構造があります。

 

二、内的枠組みの違い

人は同じ経験をしても、必ずしも同じように感じるわけではありません。

例えば、遊園地でジェットコースターに乗った場合、そのスリルを楽しいと感じまた乗りたいと思う人もいれば、

乗り物酔いをして気持ち悪くなったり、怖いと感じたりして、もう二度と乗りたくないと思う人もいます。

花畑を散歩しても、その美しさに魅了されてまた来たいと思う人もいれば、退屈で退屈で一刻も早く帰りたいと思う人もいます。

このように、人は必ずしも同じ経験から同じ感情を導き出すわけではありません。

人の話を聴く際に、話し手が自分なら悲しいと感じるような出来事について話していても、それを話し手は悲しいと感じているとは限りません。

この内的枠組みの違いが、人と人の理解を難しくする第二の構造です。

 

人と人が理解することを難しくする構造、もう一つあります。

 

三、言葉の枠組みの違い

言葉というのは人と人が理解に達するためにとても便利な道具ですが、言葉という道具が内包する問題点が、相互理解を妨げる場合もあります。

その問題点とは、言葉に対して投影するイメージにはずれがあるということです。

ある言葉に対して抱くイメージは同一言語話者であれば、大まかには同じなのですが、

細かく深く他者を理解しようと試みるとき、そのイメージのずれが問題になってきます。

同じ言葉を用いていても、人によってその言葉に投影するイメージ、意味の幅、ニュアンスが微妙にずれているということがあります。

また同じ感情を抱いていたとしても、それを表す言葉が人それぞれに違うという場合があります。

今仮に、AさんとBさんの二人が会話しながら全く同じ感情を抱いてしたとして、

Aさんはそれを「寂しい」という言葉で表現し、Bさんがそれを「悲しい」と表現した場合、

AさんとBさんは自分たちが全く同じ感情を共有しているとは気が付けないでしょう。

一人一人がある言葉に投影するイメージがそれぞれに異なるため、

同じ感情に別の名前を付けていたり、別の感情に同じ名前を付けているということが起こり得ます。

この言葉の枠組みの違いが人と人が理解することを難しくする三つ目の構造です。

 

今見てきたように、人が人を理解するというのは、決して簡単なことではありません。

そんなにも理解することが難しいのならば、人を理解することは不可能なことなのでしょうか?

私はそうは思いません。

もちろん完全に他者を理解することは、大変に難しいことであると思いますが、

人を理解することの難しさを知るのことで、人をより良く理解できるようになると私は考えます。

長くなってしまいましたので続きは次回に。

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