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ワーキングメモリーとその鍛え方

人間の認知機能の一つにワーキングメモリー(以下WMと表記)があります。

WMとは脳内にインプットされた情報を短期間保持し、それらに何らかの操作を加え新しい情報として出力する能力のことです。この機能はコンピューターのCPU(中央演算処理装置)に例えられます。

例えば誰かが「8+14-7の答えは?」と読み上げたとき、脳内に8、14、7という情報を保持し、8と14の和22を求め、そこから7を引き15という数字を出力する。これがWMの機能です。

学習に困難を抱えたお子さんはこのWMが弱い場合が多いです。音声情報や視覚情報を脳内に一旦保持してそれを処理することが苦手なため学習に困難を抱えることになるのです。

またWMは学力だけではなく、社会的スキルとも関連しています。例えば人と話している時、目の前の人の発する音声情報だけでWMが一杯になってしまうと、その人の声のトーンや表情まで読み取る余裕が無くなり、その状況に相応しくない返答をしてしまうという事が起こるのです。

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このようにWMは学力や社会的スキルなど人が生きる上で重要な要素と深く関連した認知機能なのです。

それではお子さんのWMが弱い場合はどうすればよいのかと不安になる親御さんも多いかと思いますがどうぞご安心ください。WMを鍛える方法があります。

その方法のいくつかをご紹介致します。

・紙に12+4-9などの計算を書いてお子さんに数秒間提示した後、その紙を隠して暗算させる

・24586などの数字を読み上げた後、読み上げた順序とは反対に復唱させる

・親御さんが短い物語を創作して聞かせ、その話の内容を要約させる

・算数の文章問題を読み上げて、その計算結果を暗算させる

こんな練習を行うことでお子さんのWMをご家庭で鍛えることができます。

学力にもソーシャルスキルにも深く関わるWM。たとえそれが現状で弱かったとしてもご家庭で鍛えることが可能です。是非ご紹介した方法を試してみて下さい。

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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

私の母は私が小学生の頃から畑で野菜を育てています。

二週間くらい前でしょうか、目が出たばかりだったミニトマトが、先日畑に行くと20センチくらいまで伸びていました。

植物の伸びようとする力、生きようとする力にしみじみと感じ入るものがありました。

一つ一つの生命には生きようとする力、伸びようとする力が内在している。

そうであるならば、それを支える人間にできることは、適切な環境を整えてあげる事。

そしてその環境は、決してその生きようとする意志を歪ませるようなものであってはならない。

グングン伸びゆくトマトに、一緒に学習している子どもたちの姿が重なって見えました。

私は彼らにとって適切な環境を提供できているのだろうか?

そんな問いが浮かんで来ました。

 

先日のブログでは、

子どもが、明るく元気で聞き分けのいい「良い子」を演じるのは、周囲の期待に応えるため、評価を得るため、であること、

本来の自分の願望を押し殺し、無理に良い子を演じ続けることで、周囲に対して怒りや憎しみが堆積し、それが限度を超えたとき、動けなくなること、

について綴りました。

「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

引きこもりや不登校をすべてこのストーリーで説明することはできません。

あくまでも私の知る限りでは、このようなケースが多くみられるということです。

評価の眼差し過剰な社会で、評価を得るために無理をし続けてきた結果動けなくなった子ども。

その子どもに必要なものとは、何でしょうか?

 

お子さんが動けなくなったとき、多くの親御さんが取られる態度は、𠮟咤激励して学校に行かせようとすること、だと思います。

一時的にそれで乗り越えられたとしても、その状態が長続きすることはありません。

またしばらくすると動けない状態に戻るお子さんが多いです。

今までずっと頑張ってきたお子さんに必要なのは、さらに頑張ることではなく、まずは休むことです。

一口に休むと言っても、ただ休んでいればいいわけではありません。

休むためにも押さえておかなければならないことがあります。

 

動けなくなったお子さんに必要なもの。

その子が今どのようなプロセスにいるかによってそれは変わってくるのですが、

ここでは動けなくなった最初期に必要なものについて考えてみたいと思います。

私の考える必要なもの、以下の三つです。

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

1、責められないこと

たとえ学校を休んでいても、休んでいることに罪悪感を抱くような環境であれば、休めていることにはなりません。

「いつまで休んでいるつもりなの!」、「明日は学校に行きなさいよ!」などの言葉がけや、お子さんの顔を見るたびにため息をついたりする態度など、

休んでいる期間が長くなるにつれ、そばにいる親御さんもイライラが募ってついついこのような言動をとってしまいがちなのですが、

休んでいることに罪悪感を抱いてしまうような環境に身を置いても、それはただ学校に行っていないというだけで、休めていることにはならないのです。

それでは、どうするか?

2に続きます。

 

2、共感的な態度

評価の眼差しが過剰になった世界に必死に適応しようとして、疲れて動けなくなってしまった。

そのような状態のお子さんには共感的な態度で接することが必要です。

共感的な態度で接するとは、どのようなものをいうのでしょうか?

共感の示し方は様々だと思います。

例えば、お子さんの身体をマッサージしてあげるとか、

嫌がらないのであれば、頭を撫でてあげるとか、

好きな食べ物を作ってあげるとか、

お子さんのしてくれたほんのちょっとしたことにでも「ありがとう」と言い続けるとか、

返事が返ってこなくても毎朝「おはよう」と声をかけ続けるとか、

もし話をしてくれるようになったら、お子さんの話に共感的に耳を傾けるとか、

その方法は本当にさまざまだと思います。

そういう態度で接し続けることで、評価や競争の世界で強張っていたお子さんの気持ちが徐々に和らいでいきます。

 

3、力を奪うものから遠ざけること

2で共感を示すことが大切と述べましたが、共感を示すことは、言いなりになることではありません。

心穏やかに休むためには、力を奪うようなものから、お子さんを遠ざける必要があります。

そのためには、「ダメなものはダメ」と毅然とした態度をとることも必要です。

お子さんの力を奪うものとはなんでしょうか?

大人でも子どもでも、直面したくない現実から目をそらすために、別の世界に逃避してしまうことがあります。

それが一時的であれば問題はありませんが、その逃避状態が常態化してしまうのは問題です。

逃避状態の常態化とは、何かに依存することです。

依存する対象は人により様々ですが、大人であれば、アルコール、ギャンブル、薬物などがありますし、

子どもであれば今一番気を付けなければいけないのは、ネットとゲームです。

ネット・ゲーム依存症になると、ゲームのこと以外考えられなくなり、ご飯も食べずに一日中やり続け、自分の意志で止められなくなったり、ひどくなると幻覚や幻聴、歩行困難などの症状が出ることもあります。

このような状態に至っては、心穏やかに休むことは不可能です。

そのような状況にならないために、お子さんの力を奪うものから適切な距離を取らせることが必要です。

 

評価の眼差し過剰の社会で疲弊したお子さんが、心穏やかに休むために必要な環境について考えてきました。

私が考える心穏やかに休むために必要なものは

1、責められないこと

2、共感的な態度

3、力を奪うものから遠ざけること

の3つです。

それでは、お子さんのそばで支援する親御さんが、1のような状態に至らず、2のような態度でお子さんと向き合うために必要なものとは何でしょうか?

そしてなぜ子どもはゲームやネットの世界に居場所を見出そうとしてしまうのでしょうか?

今日はまた長くなってしまいましたので、次回以降考えてみたいと思います。

続きます。

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反省の方法 ~本当にそこにリンゴはあるか~

数日暑い日が続きましたが、今日は朝から五月らしい気持ちの良い風が吹いています。

田植えも始まり、車の窓を開け田舎道を走っていると、どこからか風に乗って土の匂いが香ってきます。

風の肌触り、空気の匂い、空の色、咲いている花。

年齢を重ねる中で、そのような季節の変化に気づき、味わえるようになったのだなぁと感じます。

若いころは年齢を重ねることを単に喪失と考えていましたが、歳を重ねるというのは得るものもたくさんあることに気づいてからは、今までの認識が変わりました。

十年後も年を重ねることで、こんなことが得られたと思えるように、日々を重ねていきたいものです。

 

前回のブログでは、

危機的状況において過去を振り返りご自身を責めてみても、自分で自分のパフォーマンスを下げてしまうこと、

過去を振り返り自分自身を責める「後悔」ではなく、過去の自分の振る舞いに改善点を見出し、今の状況に反映させる「反省」をすることが大切であること、

という内容を綴りました。

生き延びるために必要なこと ~後悔と反省~

それでは具体的に「反省」とはどうすることなのか?

今日はそのことを考えてみたいと思います。

 

反省とは、客観的視点に立って、過去の自分の振る舞いを振り返り、その中に改善点を見出すこと、そしてそれを現状に反映させること。

これを繰り返していければ、人間のパフォーマンスはどんどん向上します。

論理的にはそうなのですが、事はそう簡単ではありません。

なぜなら「客観性」を保つことが難しいからです。

それが何であるかを考えるとき、それが何でないかを考えることで、それ自体に対する理解が深まる、ということがあります。

そこでまず「客観」とその反意語「主観」の定義を見てみたいと思います。

客観:当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考える事。またその考え。

主観:その人ひとりのものの見方。(デジタル大辞泉より引用)

主観と客観の一致を、またはその不一致を論理的に確かめる方法はありません。

例えば今自分の目の前にリンゴが見えているとします。

ここで考えてみて頂きたいのですが、「見えていること」、が「そこに存在していること」を担保していると言えるでしょうか?

「見えていること」はあくまでも、自分にとっての主観です。

だから「見えていること」を以って、そのリンゴが本当にそこに存在しているかどうかを、つまり自分の主観が客観的に真であるかどうかを言い切ることは出来ません。

その客観性を確認しようと思うならば、論理的には自分という人間から脱出して、自分自身を含めて客観視する必要があるのですが、そのようなことは物理的に不可能です。

つまり主観を脱して、完全な客観を得る事は出来ないということです。

それ故に誰の考えの中にも必ずその人にとっての主観が紛れ込んでいます。

私の書いていることの中にも、自分ではそうと気づかずにたくさんの主観が紛れ込んでいるはずです。

過去を振り返り反省するのがそれほど容易ではないのは、今見てきたように「客観性」を確保することが難しいからです。

しかし、完全な客観性を得ることはできませんが、ある程度の客観性を確保することは可能です。

それは何をする事かと言えば、「出来事を記録すること」と「後でそれを読み返すこと」です。

 

先日のブログで「私」という人間はさまざまな人格要素がコミュニティを形成したものである、と綴りましたが、

生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

「私」というコミュニティのメンバーには「過去の私」も含まれます。

「今の私」から見れば「過去の私」は他者であるということ、つまり「出来事を記録した私」は、「それを読み返す私」から見れば、他者であるということです。

先日、ライティングに関する本を読んだのですが、その中のアドバイスに「書いた文章は一晩寝かせること」というものがありました。

作文であれ、ブログ記事であれ、ラブレターであれ、書いている真っ最中は「なんて素晴らし文章だ!」、と思えても、

一晩経って読み返してみると、書き手と読み手の間にあまりにも温度差がありすぎて、お寒い文章に感じられる、そんな経験を持っている方も多いのではないでしょうか?

これがまさに『「記録した私」と「読み返す私」は他者である』ということの意味です。

「今の私」と「過去の私」は他者である、と言ってもそこは一人の人間ですから完全に分断されているわけではありません。

だから完全な客観性を得ることは不可能ですが、出来事を記録し、それを読み返すことで、ある程度の客観的視点を獲得することが可能です。

つまり「記録すること」と「読み返すこと」で、私たちは客観的に反省出来るということです。

 

今日の内容をまとめると、以下のようになります。

「反省」には客観的視点が必要であるが、主観と客観を完全に分けることは物理的に不可能である。

しかし、「出来事を記録すること」と「それを読み返す」ことで、ある程度の客観性が確保できるため、過去の自分の振る舞いを振り返り改善点を見出す、ということが可能になる。

 

出来事を記録し、それを読み返すだけでも、ある程度の客観的視点は得られますが、さらに客観性を高めるためには、記録の仕方にコツがあります。

次回はその記録の仕方について。

続きます。

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「勉強しなさい!」その前に

人は誰でも依存状態から人生をスタートさせます。

何もできない無力な赤ん坊としてこの世に生まれてきます。

その状態から、成長し自分の足で歩いていけるようにすること、その状態に導くのが大人の大切な仕事であると私は考えます。

自立。

それは具体的にどんな状態なのでしょうか?

=自立とは何か?=

一人で何でもできること、他者と関係を持たずとも生きていけること、それは自立ではなく孤立というのかもしれません。

私の考える自立とはそういうものではありません。

自分を信頼し、他者を信頼し、緩やかに相互依存できる人間関係を複数持ち合わせている状態。

自立とは緩やかな相互依存を通じてた果たされるものであると考えます。

そうであるならば自立の基礎にあるのは、他者に対する信頼感であるはずであり、さらにその基礎にあるのは、自分自身に対する信頼感です。

自分自身の存在に安心感を抱けるからこそ、他者との人間関係に一歩を踏み出していける、私はそう考えます。

親御さんの発する「勉強しなさい!」という言葉。

これは自分の力を頼りに生きていける状態なってほしいという願いが込められた言葉です。

でもそれが親子の関係(それは他者との関係性の基礎となるものですが)を悪くするならば、子どもは果たして自立していけるのでしょうか?

=doの自信とbeの自信=

精神科医の水島広子さんは、人間の自信にはdoの自信とbeの自信がある、と著書の中で述べています。

doの自信。

英語のテストで100点が取れる、100メートルを○○秒で走れる、友達が○○人もいる、これらは行為や所有のレベルの自信です。

これらは、それをできなくなれば、それを持てなくなれば、崩れてしまう極めてもろい自信です。

beの自信。

○○ができる、○○を所有している、などとは関係なく自分自身の存在に対する自信、安心感、それがbeの自信です。

これは常に自分自身とともにある自信です。

能力や所有物が無くなっても消えない自信。

自分自身に対してこういう気持ちを持てること。

それが他者との意人間関係に踏み出すための最初の一歩になり、そして緩やかな相互依存的人間関係を築けるようになること、つまり自立につながるのではないでしょうか。

=beの自信を育てるために=

そうであるならば、「勉強しなさい!」の前にかける言葉があるのではないでしょうか。

beの自信を育てる言葉がけ。例えばどんなものがあると思われますか?

子どもに対して感謝する言葉、子どもの存在を喜ぶ言葉、そういう言葉がけが、子どもの中にbeの自信を育てていくのではないでしょうか。

例えば、

「いつも元気でいてくれてうれしい」

「お弁当きれいに食べてくれてうれしい、ありがとう」

「あなたの顔を見ていると幸せな気持ちになるよ」

これは○○ができたからとか、○○を所有しているからとか、そういうことに関係ない存在に対する感謝と喜びの言葉がけです。

最初は恥ずかしいかもしれません。

お子さんも受け取ってけれないかもしれません。

それでも親御さんからのこういう言葉がけは、お子さんの中に自分という存在に対する安心感を育んでいきます。

「勉強しなさい!」という言葉に込められた願いはなんでしょうか?

それはお子さんに自立してほしい、自分の足で立って生きて行ってほしい、そういう願いではないでしょうか?

でもその言葉がけが、お子さんから自分自身に対する安心感を奪い、将来の自立を妨げているとしたら、、、?

自立とは緩やかな相互依存を通じて果されるもの。

そうであるならば他者のために○○ができるというdoの自信も大切です。

でもdoの自信を持つために、すでに持っているdoの自信が力を発揮するために、その基礎に必要なのは自分自身に対する安心感、beの自信なのだと考えます。

「勉強しなさい」

その前に、

「ありがとう」、

「うれしい」、

そんなお子さんのbeの自身を深める言葉がけを始めてみませんか?

お子さんの将来の自立のために。