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人を成長に導く叱り方 ~叱るのは誰のためか?~

子どもと接するとき、または会社勤めをされていて後進を指導するとき、

ある行動に対して、それはどうしても直してほしい、改善してほしいと感じる場面があるかと思います。

その際に苦言を呈する、叱るということが必要になる場合もありますが、人を叱るということが苦手な人は多いと思います。

その苦手意識というのは叱り方を知らないことに起因しているのではないでしょうか?

今日は叱ることについて考えてみます。

 

まず叱るというのは、誰のために行うことでしょうか?

それは相手のためです。

自分のどこに問題点があったのか、その人のためにフィードバックして、成長を促してあげるのが叱るという行為の目的です。

たびたび、叱っているようで、実はそれが自分のイライラした感情のはけ口にしかなっていない、という場合を目にしますが、

それは自分のストレス発散のためになされる行為なので「叱る」ではありません。

その行為は何なのかといえば、「怒る」です。

怒るのは、自分のイライラした感情を発散して自分がスッキリすりために行うことです。

つまり、怒るのは相手のためではなく、自分のためなのです。

そして怒られた相手は、この行為が自分のためではなく、怒っているその人自身のための行為であることに気づき、

その言葉から耳を背けたり、受け流すようになります。

だから怒ったとしても、怒った側の感情は一時的にすっきりしますが、問題点はそのまま放置されるので、また同じことでイライラして怒らなければならなくなります。

「叱る」は相手の成長のため。

「怒る」は自分のストレス発散のため。

いくら言っても相手の行動が改まらないと思う場合、まず自分が今まで行ってきたことが、「叱る」と「怒る」のどちらであったのか、自己省察してみてはと思います。

 

叱るとは何かを明確にしたところで、今度は叱り方について考えてみましょう。

例えばお子さんが、学校からの配布物を親御さんに見せ忘れていた、という場合を考えてみます。

その時に、叱る側の人間が指摘するべきは、改善してほしい行動です。

具体的にどのような行動を改善してほしいのか、その部分を冷静に相手に対して指摘することです。

この場合であれば、学校からの配布物をすぐに見せるようにしてほしい、と相手に冷静に伝えることです。

「どうしていつもそうなの!だいたいこの前だって☆□〇※!」などと怒り始めてしまうと、相手はその言葉を受け流してしまうので、その行動は変わりません。

だからまず、相手の改善してほしい行動を冷静に具体的に指摘することです。

そして叱る際にもし時間があったらやってほしいのが、サンドウィッチにして叱るということです。

サンドウィッチというのは、何かで何かを挟み込むことの例えなのですが、何で何を挟み込むのでしょうか?

それは良い点と良い点で改善点を挟みこんで相手に伝えるということです。

ある事柄に対する人間の印象というのは、同じ強さでその人の中に刻まれるものはありません。

ある事柄の最初と最後が強く印象として残ります。

これを利用して、良い点と良い点で挟み込んで相手に改善してほしい点を伝えれば、相手もその言葉を受け取りやすくなります。

例えば先ほどの配布物の例で言えばこうなります。

「昨日は、夕飯のあと食器を洗ってくれてありがとう。助かったよ。

でも一つあなたに直してほしいことがあるんだけど。

学校からの配布物はもらったらすぐに見せてほしいの。

学校からの連絡が分からないととても困るから。

お願いしますね。

それから今日もお弁当を残さず全部食べてくれて嬉しかったよ、ありがとう。」

例えばこんな風に伝えると、改善点を指摘する場合でも、その人の良い点で挟み込んでいるため、相手の受け取る印象はだいぶ変わってきます。

しっかりと改善点は指摘しつつも、相手には「あなたの良いところも私はしっかりみていますよ」というメッセージが強く伝わります。

ここまでする時間がなかったら、いきなり改善してほしい行動を伝えて、最後に良い点、感謝している点を伝えるだけでも、相手の受け取りかたは全然違うものになります。

このように伝える順番で相手の印象は大きく変わりますので、ぜひ試してみてください。

 

それからもう一つ、叱る際に頭に入れておきたいことは、相手の行動の背景を分かろうとすることです。

どうしてそのような周りが困る行動をし続けてしまうのか、その背景を理解しようとすることです。

頭では分かっていても理屈にかなわないような行動をしてしまうとき、その当人も気づけていない苦しさを抱えている場合があります。

その人が抱えているそうせずにはいられない背景を分かろうとすることです。

分かろうとするとは具体的にはその人の言葉に耳を傾けてあげることです。

それでその人の抱える苦しさが聴き手に分かるようになるわけではありません。

それでも、自分の抱える事情も理解してくれようとしているのだという姿勢が相手に伝わります。

自分のことを分かろうともせずに、自身の要求だけを突き付けてくる人間の言葉と、

苦言は呈しつつも自分の抱える苦しさ、事情を分かろうとしてくれる人の言葉。

一体どちらが耳を傾けてもらえるでしょうか?

自分のことを理解しようとしてくれる人の言葉であればこそ、叱られる側もその言葉に耳を傾けようとするのではないでしょうか。

 

本日のまとめ。

・叱るのは相手の自己成長のため。自分の行為が相手のためか自分のためか自己省察を。

・叱るときは、改善してほしい行動を冷静に伝える。相手の良い点で改善してほしい点を挟んで伝えると、受け取る印象が良くなる。

・自分の要求だけを伝えるのではなく、相手がそのようなふるまいをしてしまうその背景を理解しようとすること。

ご家庭でお子さんに対して、または会社で後進を指導する際に、ぜひ試してみてください。

不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「どう書けばいいか分かりません」 ~読書感想文の書き方

最近心掛けていることに、朝しっかりと朝日を浴びる、というものがあります。

朝日を浴びることで、セロトニンの分泌が促され、心穏やかに過ごせるのだそうです。

加えてセロトニンを材料に作られる眠りを誘発する物質、メラトニンの合成も促され、夜の眠りが改善します。

詳しくはまた日を改めてブログに書かせて頂きますが、ここ数日試してみてとても良い気がしています。

朝起きてカーテンを開けてⅠ5分ほど太陽光を浴びる、ただそれだけです。

良かったら試してみてください。

 

コロナウイルスの影響で、今年は夏休みが例年より遅いスタートとなっていますが、

新潟市内では小学生はもうすでに夏休み、中学生も間もなく夏休みといった学校が多いです。

夏休みなると決まって出される宿題が読書感想文です。

この時期にご家庭にお邪魔していると、「読書感想文どうすればいいですか?」、「書き方が分かりません」という質問を度々受けます。

どうして読書感想文を書くのに皆苦労するのでしょうか?

それは文章の型を知らないからです。

本日は読書感想文の書き方について。

 

様々な文章には型というものがあります。

例えば物語であれば、起承転結。

論説文であれば、序論、本論、結論。

学術論文であれば、概要、背景、方法、結果、考察。

それぞれの文章にはそれぞれの型があります。

読書感想文を書くときに途方に暮れてしまう理由は、この型を知らないからです。

それでは読書感想文の型とはどのようなものでしょうか?

 

読書感想文は、作文を読む人に、自分が読んだ本にはどのような内容が書いてあり、

自分はそれをどのように感じ、この本からどのようなことを学んだのかを伝えるために書く作文です。

この読書感想文の目的が分かっていれば、自ずと読書感想文の型は決まってきます。

私がお勧めする読書感想文の型は、これです。

image0 (2)

字が汚くてすみません。

この紙に必要なことを記入していくと、それが読書感想文の型となり、スムーズに作文を仕上げることが出来ます。

それではこの紙をどう使うのか、説明していきます。

 

まず本を読んでいるときに、印象に残った箇所を三つピックアップしておきます。

そして、本を読み終わったらこの紙を自分で作ってください。

( )でくくってある文章は書き方の説明ですので、書かなくて結構です。

次に、この紙を埋めていきます。

内容1~3には、自分が本を読んでいて印象に残った内容を書きます。

いつ、どこで、誰が、どんなことを言っていたとか、その本に書いてあった内容を作文の読み手に対して説明する箇所です。

次に、それぞれの枠の右隣に、その内容に対して、自分がどのように感じたか、どういうことが印象に残ったか、自分なりの解釈を記入します。

最後に、一番右側のまとめの欄に、解釈1~3に記した内容を要約し、結局自分はこの本からどのようなことを学び、どのように自分の日常生活に生かしていきたいのか、をまとめとして記します。

このようにまずこの紙をすべて記入してから、原稿用紙に向かってください。

 

作文を書くのになぜ時間がかかってしまうかと言えば、書きながらどういう作文にしていこうか構成を考えるからです。

構成を考えるという作業と、書くという作業が同時進行になってしまうが故に、書くことに時間がかかってしまうのです。

まずこの紙を記入し構成を考えてから原稿用紙に向かえば、もう書くべきことは決まっているので、休みなく一度に書き上げることが出来ます。

もしお子さんが一人で、この紙を埋められないならば、親御さんがお子さんに対して質問をしてあげるといいと思います。

「どこがおもしろかった?」とか「どこが印象に残った?」とか、「それはどうして?」とか、親御さんが質問してあげることで、お子さんの思考は深まっていきます。

それから、最後の三つの解釈を要約するところですが、物事を要約することで人間は抽象的な思考が出来るようになってきます。

三つの解釈に共通するものは何か、要するに何を言っているのか、物事の本質を観取する訓練にもなります。

少し難しいかもしれませんが、ぜひ挑戦させてみてください。

 

夏休みはいつもより自由に使える時間がたくさんあります。

子どもにはぜひ、たくさん本を読んで、言葉を豊かにし、情緒を育んでほしいと思います。

お子さんの読書感想文を書く際に役立てて頂けたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。

不登校、引きこもり、家庭教師のお問い合わせはこちらからどうぞ。

 

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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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人を理解することの難しさ ~理解を困難にする三つの構造~

昨日は激しい雨が降り続き、各地で避難勧告や避難指示が出ていた新潟ですが、

今日は一転、梅雨が明けたような夏らしい青空が広がっています。

山の向こうには入道雲が立ち上っておりました。

私はあれを見ているとなんだか力が湧いてきます。

梅雨明けは間近ですね。

 

日本に心理療法を導入した臨床心理学者の河合隼雄さんは著書の中で以下のように述べています。

“一般の人は人の心がすぐ分かると思っておられるが、人の心がいかに分からないかということを、確信をもって知っているのが専門家の特徴である。”

私自身、仕事で誰かの話を伺っているときも、日常生活を送っていても、他者を理解するということの難しさを痛感する場面が多々あります。

人の話を聴くことのプロでさえ、「人の心が分からない」と言っているわけですから、人の心を理解するというのは、一大事なわけです。

それでは、何が人の心を理解することを難しくしているのでしょうか?

人の心を理解する上での困難さ、具体的には以下の三つがあります。

一、感情を表出することへの抵抗感

二、内的枠組みの違い

三、言語的枠組みの違い

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

一、感情を表出することへの抵抗

人の話を聴くときに、聴く側の人間が「それでは何でも話してください」と言ったところで、本当に何でも話してもらえるわけではありません。

そこには感情を表出することへに抵抗感があるからです。

感情というのは、その人の人間性の深い部分から沸き上がてくるものです。

それを相手に語るというのは、何一つ包み隠さない生身の自分を相手の前に晒すということです。

そこには当然、こんなことを言ったら笑われるのではないか、変に思われるのではないかという不安感が伴います。

また子どもの頃から、人前で泣いてはいけないとか、兄弟で喧嘩をしてはいけないとか、ある種の感情の表出を制限されて育った場合、

寂しさ、悲しさ、怒りなどの感情を感じたり、表現することが難しくなっている場合もあります。

どんな感情を表現しても、笑われたり、怒られたりしない、安心安全な場があって初めて人は感情を表に出すことが出来ます。

人を理解するとき、その安心安全の場をいかに作るかという難しさがまずあります。

 

そして安心安全の空間を作れたとしても、まだ人の理解を難しくする構造があります。

 

二、内的枠組みの違い

人は同じ経験をしても、必ずしも同じように感じるわけではありません。

例えば、遊園地でジェットコースターに乗った場合、そのスリルを楽しいと感じまた乗りたいと思う人もいれば、

乗り物酔いをして気持ち悪くなったり、怖いと感じたりして、もう二度と乗りたくないと思う人もいます。

花畑を散歩しても、その美しさに魅了されてまた来たいと思う人もいれば、退屈で退屈で一刻も早く帰りたいと思う人もいます。

このように、人は必ずしも同じ経験から同じ感情を導き出すわけではありません。

人の話を聴く際に、話し手が自分なら悲しいと感じるような出来事について話していても、それを話し手は悲しいと感じているとは限りません。

この内的枠組みの違いが、人と人の理解を難しくする第二の構造です。

 

人と人が理解することを難しくする構造、もう一つあります。

 

三、言葉の枠組みの違い

言葉というのは人と人が理解に達するためにとても便利な道具ですが、言葉という道具が内包する問題点が、相互理解を妨げる場合もあります。

その問題点とは、言葉に対して投影するイメージにはずれがあるということです。

ある言葉に対して抱くイメージは同一言語話者であれば、大まかには同じなのですが、

細かく深く他者を理解しようと試みるとき、そのイメージのずれが問題になってきます。

同じ言葉を用いていても、人によってその言葉に投影するイメージ、意味の幅、ニュアンスが微妙にずれているということがあります。

また同じ感情を抱いていたとしても、それを表す言葉が人それぞれに違うという場合があります。

今仮に、AさんとBさんの二人が会話しながら全く同じ感情を抱いてしたとして、

Aさんはそれを「寂しい」という言葉で表現し、Bさんがそれを「悲しい」と表現した場合、

AさんとBさんは自分たちが全く同じ感情を共有しているとは気が付けないでしょう。

一人一人がある言葉に投影するイメージがそれぞれに異なるため、

同じ感情に別の名前を付けていたり、別の感情に同じ名前を付けているということが起こり得ます。

この言葉の枠組みの違いが人と人が理解することを難しくする三つ目の構造です。

 

今見てきたように、人が人を理解するというのは、決して簡単なことではありません。

そんなにも理解することが難しいのならば、人を理解することは不可能なことなのでしょうか?

私はそうは思いません。

もちろん完全に他者を理解することは、大変に難しいことであると思いますが、

人を理解することの難しさを知るのことで、人をより良く理解できるようになると私は考えます。

長くなってしまいましたので続きは次回に。

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やさしさに包まれたなら ~学びの場に必要なもの~

最近息子がジブリのサウンドトラックを気に入っていて、よく一緒に聴いています。

息子のお気に入りはトトロの「さんぽ」と崖の上のポニョのテーマソングです。

それらが流れるとニッコニコで踊り出します。

サウンドトラックの中に、魔女の宅急便のエンディング曲「優しさに包まれたなら」も収録されています。

久しぶりに聞いたのですが、歌詞にハッとする箇所がありました。

“やさしい気持ちで目覚めた朝は大人になっても奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて静かな木漏れ日のやさしさに包まれたならきっと

目に映る全てのことはメッセージ”

目に映るありとあらゆる物事から、自分に宛てられたメッセージを感じ取る。

その自分に向けられて発せられるメッセージに対する感受性が最大限に発揮されるために必要な条件、

それが“優しさに包まれたなら”。

なるほど確かにそうだよなぁ、と私は思わず唸ってしまいました。

 

ギリシャ哲学の礎を築いたソクラテス、そしてその弟子のプラトン。

儒教の祖である孔子。

仏教を打ち立てた釈迦。

そっち方面に疎い私はつい最近まで知らなかったのですが、現代まで脈々と語り継がれるこれらの思想を築き上げた、この4人、

実はほぼ同時代を生きていたのだそうです。

彼らが生きていたのは、紀元前500年前後。

なぜこの時代に、後世まで残るような思想が次々生まれたのでしょうか?

この時期は地球が温暖化し、農機具として鉄器が使われるようになり、農業生産性が著しく向上します。

農業生産性の向上によって余剰な収穫物が得られるようになり、それが貧富の差を生み出しました。

富める者は自分は働かず、貧しい使用人に労働をさせるようになります。

そしてそれらの人々は有り余る財力で、自分の周りに芸術家や学者を囲い込むようになりました。

こうして、食べるものにありつけず、飢える心配から解放された知識階級の人間たちの中から今日まで残るような思想が次々と生み出されることとなったのです。

飢える事の不安から解放され、将来に対する安心感があったからこそ、それらの知識人も思想を深めることが出来たのでしょう。

つまり人が思索を深め、何かを学び取るために必要なものの一つが安心感だということです。

 

思索を深め、何かを学び取るためには安心感が必要。

これは私自身の感覚ともとてもよく合致します。

私は今でこそ、高校生に数学を教えていますが、高校時代は本当に数学が分かりませんでした。

先生の言っていることが全然頭に入って来ないのです。

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことを今でもよく覚えていますし、

sin、cos、tanの意味が分かるようになったのは高校三年生の春です。

それくらい意味が分かりませんでした。

その後何とか、大学に入ったのですが、何を血迷ったのか私は理学部に入学します。

数学は意味不明でしたが、この意味不明の文字列の何たるかが分かれば、世界の秘密の一端を解明できるのではないかと思っていたのです。

そこには、分からないからこそ分かりたいという、ある種の飢えがあったのかもしれません。

しかし数学が出来ないままでは卒業できないと危機感を抱き、もう一度高校の数学を勉強し直すことにしました。

なんと教科書を開いて自分で読み進んでいくと、あんなに意味不明だったことが、「なんだ、そんなことだったのか」という具合にスラスラと意味が分かるのです。

結局大学では、数学の授業でも評定Aをとりましたし、今センター試験や共通テストの数学の問題を解けば9割方正答できます。

別に自慢がしたくてこのような事を書いているのではありません。

本題はこれからです。

 

私はプロフィールにも書いていますが、高校が大嫌いでした。

毎日毎日学校に行きたくなかったのですが、そんなこと言うと親に怒鳴りつけられるので、しょうがないから3年間イヤイヤ通っていました。

進学校だったので、勉強の出来不出来というたった一つのモノサシで自分を測られる感じや、

ちょっとでも周りと違うふるまいをすると変な奴みたいな扱いを受ける、同調圧力に満ちた雰囲気が窮屈でたまらなく嫌でした。

大学に入ってからは本当に自由でした。

気の合わないような人間と同じ空間にいる事を強要されたりもしないし、勉強の成績という単一の価値感で優劣を測られることもありません。

本当にのびのびと自分のしたいことに没入できる貴重な時間を過ごしました。

これらの現象から私が言いたいことは、どうしようもなく居たくない場所に居続けることによって、脳の活動はフリーズしてしまうということです。

そしてこれは別に私一人に限ったことではありません。

 

子どもたちと一緒に勉強していても、場の雰囲気がその子に与える影響を強く感じます。

具体的に書くことは控えますが、家の中の雰囲気が悪くなっていたり、学校での人間関係に心配なことがあったりすると、子どものパフォーマンスは一気に低下します。

テストの点が悪いと親に怒られると心配している子より、テストの点が良かろうが悪かろうが別に何も影響ない、という子の方が良く勉強するし、成績も良かったりという例も見てきました。

時代に名を刻む先人たちが思索を深めるために必要だったもの。

そして子どもたちが学びを深めるために必要とするもの。

人間の脳は定住生活を始めた1万2000年前からほぼ進化していないそうなので、きっとそれらは同じなのだと思います。

人が思索し、学びを深めるために必要なもの、それはまず安心感です。

不安感を抱いたり、分からないことを責められたりするような環境では、何かに集中することはできません。

子どもたちに良い学びを手渡したいともし親御さんが望まれるのならば、

誰かと競わせたり、不安感をあおるようなことではなく、どうぞまず安心感を抱けるような環境づくりをしてみてください。

自分に向けて発せらるあらゆるメッセージへの感受性を上げていけるのは、やさしさに包まれた安心感のある環境だからです。

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「全然話を聞いてくれない!」 ~贈り物と返礼の義務~

先日、息子にレゴブロックを買ってきました。

「こうやって遊ぶんだよ~」とか言いながら遊び方の説明をしていたのですが、レゴブロックって面白いんですね。

ちょっと息子より私がハマりそうな予感がします。

 

中高生の反抗期真っただ中のお子さんを持つ親御さんから、「私の話なんか全然聞かないんですよ!」という怒りの言葉を度々聞くことがあります。

私もそういう時期があって、親の話なんかろくに聞かなかったものですから、自分の過去の振る舞いを反省するとともに、現在進行形でその時期を過ごされている親御さんは大変だろうなぁと思います。

反抗期は親から自立を試み始める時期なので、仕方ないと言えば仕方ないのですが、私は子どもと接するなかで、それでも話を聞いてもらえるようになる方法はあると感じます。

今日はそんな内容です。

 

人からプレゼントをもらったとき、もらったままでお返しを送らないでいると、なんだか気持ちが落ち着かない、お返しをしなければ、という気持ちになることはありませんか?

プレゼントをもらった時だけでなく、例えば手紙をもらったとか、親切にしてもらったとか、そういう場合にも、なんだか気持ちが片付かない、お返しをしなければという気持ちになることがあります。

それは、人は贈り物を受け取ったとき、それを返さなければと感じる生き物だからです。

この「返さなければ」と感じる気持ちのことを返礼の義務と言います。

これはなにも具体的なもののやり取りに限った話ではありません。

例えば、人から挨拶をされて、タイミングが悪く挨拶を返せなかったときにも同じような気持ちの落ち着かなさを感じるのも、挨拶というのが本質的に相手への贈り物だからです。

 

挨拶というのはコミュニケーションの一種ですが、そこでは何の有用な情報も交換されていません。

「おはよう」に「おはよう」で、「こんばんは」に「こんばんは」で応じるだけ、同語反復がなされるだけで、そこでは一つも有用な情報が交換されることはありません。

それでも、挨拶というコミュニケーションが世界中から無くなることなく脈々と続いているのは、挨拶には情報交換以上の意味があるからです。

それは相手の存在を認め祝福するという意味です。

誰かに挨拶するという行為の中には、「私はあなたがそこに存在することを認めます。」という相手がそこに在ることを祝福する意味が込められています。

だからこそ、私たちは、知っている人に挨拶をして返事が返ってこなければそのことに深く傷つくし、初めて会った人に挨拶をして返事が返ってくればそこに喜びを感じるのでしょう。

こうして挨拶というコミュニケーションの意味を考えていくと、挨拶というのが有用な情報の交換以上の意味を持つ相手への贈り物であることが分かります。

 

挨拶が贈り物であるように、「誰かの話を聴く」というのも相手への贈り物です。

その人のために時間を割いて、その人の話に耳を傾けるというのは、挨拶以上にその人の存在に対する祝福になり得ます。

ここで「聴く」という漢字を用いたのは、私の中で「聞く」と「聴く」には意味の違いがあるからです。

「聞く」は英語で言えばhearの意味です。音声情報がなんとなく耳に入ってくるというニュアンスです。

そして「聴く」は英語で言えばlisten toに対応します。音声情報に対して注意を向けるというニュアンスです。

だから相手の話に注意を向ける行為は「聞く」ではなく「聴く」になるのです。

誰かにじっくり話を聴いてもらったとき、たとえ自分の気持ちを完全に分かってもらえなかったとしても、

注意深く自分の話に耳を傾け、自分の気持ちを分かろうとしてもらった、そのことが嬉しいと感じたことはないでしょうか?

それは話を聴くというのが、相手の存在を認め祝福する行為、贈り物であるからです。

 

人の話を聴くことが相手への贈り物であり、贈り物に対して返礼の義務を感じるのが人間という生き物であるならば、

自分の話を聴いてもらうために必要なことが何か、自ずと分かってきます。

それはまず、自分が相手の話を聴くことです。

この人の話を聴いてみようと思うのはどんな人でしょうか?

自分の話にあまり耳を傾けることもせず、自分の話したい事だけを話す人の話を聴きたいと思う人は少ないのではないでしょうか?

この人の話を聴いてみようと思うのは、その人が自分の話を聴いてくれたから、そんなことはないでしょうか?

私は子どもと接していてそのことを強く感じます。

自分に時間的な余裕がなくて、ここを復習してとか、あそこの予習をするようにとか、自分の要望ばかりを話しているとき、子どもは言葉の交換の回路を閉ざす傾向にあります。

逆に、まず自分が相手の話に関心をもって聴けているとき、子どもも私の話を関心をもって聴いてくれるということが多いです。

だからお子さんが話を聴いてくれないとお悩みの親御さんにおすすめしたいのは、まず親御さんがお子さんの話を聴くということです。

親御さんがお子さんの話に耳を傾けるようになれば、すぐにというわけにはいきませんが、きっとお子さんの聴く態度にも変化が出てくるはずです。

それでは、話を聴くときに一体どんなことに注意をすればいいのでしょうか?

長くなりましたので続きは次回。

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過保護と過干渉 ~自己中心性から抜け出すために必要なもの~

先日、授業中に子どもと本に書いてあったなぞなぞを考えていました。

本には相撲取りの絵が書いてあり、「取っても取っても無くならないものって何だ?」とありました。

まぁ普通に考えれば答えは相撲なのですが、その子の答えは、

「うーん、脂肪?」

なるほど!

お母さんと一緒に大笑いしてしまいました。

将来大物になる予感がします。

 

前回のブログでは、

働くことを考える際に発せらるべき第一の問は、「私は何がしたいのか?」ではなく、「この世界にはどのような困難を抱えた、またはどのような欲求を持った他者がいるのだろうか?」であること、

そして、仕事のやりがいとは、自分のしたいことをしてそこに充足を見出すという仕方ではなく、自分が何かを為したことで他者が喜んでくれる、その他者の満足のうちに見出すものであること、

という内容を綴りました。

仕事に関する第一の問、そしてそのやりがいについて

それでは、「私は何がしたいのか?」とか「私は何が好きか?」という自己中心性から脱却し、他者の抱える困難に、そして欲求に目を向け他者貢献できるようになるためには、何が必要なのでしょうか?

 

願望というのは満たされることで薄らいでゆきます。

食欲や睡眠欲などの生理的な願望は、満たされてもそれがまた不足すれば沸き上がってくるものですが、

それとは別に、心理的な発達過程で生じる願望というのは、満たされることで薄らいでゆきます。

例えば、以前読んだ子育ての本に、お母さんの口紅を塗りたがる小さな男の子の話が紹介されていました。

男の子が口紅を塗りたがるので、お母さんはダメと言い続けていたのですが、あるとき好きなだけ塗らせてあげたら、それ以降はもう口紅を塗りたがることはなかったそうです。

このように成長段階に応じて生じる願望というのは、満たしてあげることで薄らいでいきます。

自己中心性というのも、自分に注目してほしい、自分を大切に扱ってほしい、自分を認めてほしい、という願望です。

つまり、満たしてあげれば、全く無くなることはないですが、薄らいでゆきます。

それでは一体どうすればいいのでしょうか?

「過保護」と「過干渉」という言葉を軸に考えてみたいと思います。

 

児童精神科医の佐々木正美さんは「過保護」と「過干渉」を以下のように定義しています。

過保護:子どもの望むことを皆叶えてあげようとすること。

過干渉:親が望むものを子どもに与えること。

そして著書「子どもの心の育てかた」の中で以下のように述べています。

“子どもの望み通りにしてあげること、してあげすぎること、というのは「悪い」とされることがあります。なんでも子どもの言うことを聞いてやったら、子どもは依頼心ばかり強くなり、自立できなくなる、という意見です。

けれど、私はそんな事例を、本当に見たことがないのです。一見、そういう風に見えるケースというのは、過保護の結果ではなく、過干渉です。子どもに対して過剰に干渉し、そのあとから保護的な態度をとる、というケースがほとんどなのです。

子どもというのは、親の過剰な干渉を受けると欲求不満になってしまいます。強い不満の状態にいて、子どもが自立へのスタートを切れず、育児もうまくいかない、ということがあります。”

 

たとえば、子どもに対して、沢山おもちゃを買ってあげたとか、いろいろな場所へ旅行へ連れて行ってあげたとか、習い事に通わせてあげたとか、高等教育を受けさせてあげたとか、

そのうような一連の行為が、子ども自身の願望であり、それが叶えられたのであればその子の中の自己中心性は薄らぐことになるでしょうが、

それらが親の願望でしかなく、子どものほうが自分の願望を押し込めて親の願望に付き合わせられているのならば、いつまでも子どもの中に、自己中心性はくすぶり続けることになるでしょう。

そのような状態で、もう学校も卒業したのだから就職して他者貢献にやりがいを見出せと言われても、それは難しい話だと思います。

自己中心性から抜け出し、他者貢献に踏み出していけるようになるために必要なもの、それはまず子どもの自己中心性を周りの大人が満たしてあげることです。

 

自己中心性というのは、平たく言ってしまえば、「甘えたい」ということです。

自分を見てほしい、自分に注目してほしい、自分をほめてほしい、そのような願望が自己中心性を形作っているのです。

今回は働くということに注目して綴ってきましたが、そのことだけでなく親から自立するというプロセスにおいてお子さんに何か不都合が生じている場合、

この「過保護」と「過干渉」という視点から今までのご自身の振る舞いを振り返ってみると何か気づくことがあるのではないでしょうか?

もしその振る舞いが自分自身の願望によるものならば、そこにはまだ解消されていない自分自身の自己中心性があるのかもしれません。

その振る舞いはお子さんの願望に沿ったものなのか、それとも自分自身の願望に沿ったものなのか?

この問は決して他者にのみ向けられるものではありません。

一人の親として、沢山の子どもと関わる家庭教師として、まず私自身が問い続けなければならないことだと思います。

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仕事に関する第一の問、そしてそのやりがいについて

先日伺ったお宅で、親御さんとお子さんのお話させて頂く中で感じたことがありました。

変化はまず目に見えない形で起こる、ということです。

目に見える形で認識されたときに、人はそれを初めて変化と認識することが多いのですが、

それよりも随分前の段階でその人の中に既に変化が起きていることが多いということです。

目に見えないものをどうやって認識するのか?

「私には目に見えないものが見えるのです」などと如何わしいことを言おうとしている訳ではありません。

目に見えないものであってもそれをそれと認識する方法はあります。

それを説明し出すとまた長くなってしまいますので、別の機会に譲りますが、

その目に見えないレベルの小さな変化に気づける人間でなければ、との思いを一層強くした出来事でした。

 

先日のブログでは働くことを考える際に発せられる、

「何がしたい」、「何が好き」、「何が向いている」といった問の根本的なずれについて綴りました。

仕事は誰のためにある? ~自分探しの問題点~

仕事とは、困難を抱える他者、欲求を満たしてほしいと願う他者の誕生と同時に生まれるものです。

しかし「何がしたい」、「何が好き」、「何が向いている」などの問の中には、自分に対する視点ばかりで他者が登場することはありません。

他者との関わりの中で生まれる仕事に関して問う時に、そこに他者が存在しないことに私は大きな違和感を抱きます。

そのような問から仕事を考え始めることが、働くということを余計にわかりづらくしているのだと思います。

それでは働くことを考える際、私たちはどのような問いからスタートしたら良いのでしょうか?

 

私が考える、働くことについて考える際に、まず発せらるべき問は、

「この世界にはどのような困難をまたは欲求を抱える他者がいるのだろうか?」

そして「それに対して私は何が出来るだろうか?」

というものです。

仕事が、他者の困難を解決すること、他者の抱える欲求を満たすことである以上、まずここから始める以外にないはずです。

他者に対する視点を持って、その困難に、または欲求に対して自分に何が出来るのかを問うことから始めることが必要であり、

自分が何がしたいかとか、自分が何が好きかなどは、働くことと全く関係がないとは言わないまでも、決して第一に考えることではありません。

こういう風に書くと、「それは仕事に自分のやりがいなど求めるなということでしょうか?」という質問が来ることが多いのですが、それは違います。

仕事からやりがいを得る事はできます。

ただそのやりがいの獲得の仕方が、例えば休日に自分のやりたいことをやって「ああ、自分のやりたいことをやっていると、とてもやりがいを感じるなぁ」という分かりやすい獲得方法とは少し違うということです。

仕事のやりがいについて考えるとき、私には印象深いエピソードがあります。

 

昨年春に、イチロー選手がプロ野球選手を引退されましたが、その時の引退会見を聞いたときのことです。

イチロー選手は子どもの頃からプロ野球選手になることを夢見て、実際にその夢を叶えられた方です。

子どもの頃からの夢を叶えたのだから、きっと楽しいプロ野球人生だったのだろうと短絡的な私は考えていたのですが、

イチロー選手は「野球が楽しかったのは94年(プロ3年目)まで」と発言していました。

それ以降は結果を残さなければならないという重圧との戦いだったそうです。

子どもの頃からの夢を叶えた人でさえ、仕事は必ずしも楽しいものではなかったのです。

それなのに何故現役生活を28年も続けることが出来たのでしょうか?

同じ会見でこのようにも言っています。

「ファンの方無くしては自分のエネルギーは全く生まれない」

これが仕事のやりがいの獲得方法に対する答えです。

 

仕事のやりがいとは、「自分の好きなこと」「自分のしたいこと」をすることによって獲得するものではなく、「他者の喜びを通じて」獲得するものだということです。

「自分がそれを好きか」とか「自分がそれをしたいか」に関係なく、他者の求めに応える形でまず私が何かを為す。

その私が為したことによって他者の抱える困難が軽くなる、または欲求が満たされることによって他者が満足する。

その他者の満足のうちに自分の満足を得る。

仕事のやりがいとはこのように、他者の喜びを迂回するという仕方で獲得するものだということです。

そのためにはまず他者の喜びを自分の喜びと感じられる人間である必要があるのですが、そのような人間になるために私たちは何をすればいいのでしょうか?

長くなりましたので、続きは次回。

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仕事は誰のためにある? ~自分探しの問題点~

先日ある人から、「随分早起きですね。」と言われました。

メールの返信の時間を見てのことでしょう。

私もともとは早起きの人間ですが、最近それにさらに拍車がかかりました。

理由は簡単です。

息子がものすごく早く起きるからです。

現在5時40分。

今朝も彼が私のほほをパシパシと叩いてきて目が覚めました。

今も何やら隣室でガタガタキャーキャー一人で遊んでいます。

元気でなにより。

お父さんは眠い。

 

先日のブログでは、将来の職業を考えるときに高校生が度々口にする

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

というような問が働くことに対する悩みをより深くしているのではないか、という内容を綴りました。

「何がしたいか分からない」 ~問いの立て方の間違い~

その理由は、仕事とは何なのかを考えてみればわかります。

 

仕事というものはどのようにしてこの世に生まれるのでしょうか?

仕事は他者の求めと同時にこの世に生まれます。

困難を抱えている他者、必要性を満たしてほしい他者。

その存在があって初めて仕事は生まれます。

つまり仕事というのは他者との関わりの中で生じるものだということです。

その前提を確認すれば、

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

という問立ての何が問題であるかが分かってきます。

なぜこれらの問が問題か?

それはこれらの問いに、他者が登場しないからです。

他者との関わりの中で生じてくる仕事について考える際に、他者という存在を思い浮かべることなく、

自分の中を掘り下げ探求することに終始するそれらの問立てには、働くことに対する根本的な勘違いがあると私は考えます。

例えば、明日仕事が休みで、その日に何をするか考える時に、「何がしたい」とか「何が好き」で考えることには何の違和感もありませんが、

仕事は休みの日に何をするか考える事と同じ種類の話ではありません。

休みの日に何をするかは自分事ですが、働くということになるとそこには他者が関わってくるからです。

 

例えばお寿司屋さんに入って、「すみません、鉄火巻きください」と注文した時、

店員さんから「すみませんお客さん、今日私鉄火巻きの気分じゃないので違うもの注文してもらえます?」

と返ってきたら「この人何言ってるんだろう?」と思うのではないでしょうか?

困難を抱えた他者、要求を満たしてほしい他者にとって、その人が「何をしたい」とか「何が好き」とか「何が向いている」とか、はっきり言えばほとんど関心の無いことなのです。

仕事とは、自分という人間の殻から一歩踏み出して、他者のために何が出来るのかを考え、それを実行する行為です。

自分の殻を一歩踏み出したその先にあるのが仕事というものです。

だから、「何がしたい?」「何が好き?」「何が向いている?」という問は、その意識の向け方が逆方向である点で、全くずれているため、

それらの問を投げかけ続けたところで、働くことに対する悩みは解決するどころかより深くなるばかりなのではないかと私は感じています。

 

仕事が他者との関わり合いの中で生まれるものである以上、

自分の殻に閉じこもって自分探しに明け暮れてみても、そこに答えを見出せる可能性は低いのではないか、と綴りました。

それでは、どのような問立てをすれば、自分が働くことにたいするイメージが明瞭になってくるのでしょうか?

続きます。

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「何がしたいか分からない」 ~問いの立て方の間違い~

今朝の新潟市は晴天。

今日は30℃を超える暑さになりそうです。

先週末も晴天が広がっていました。

週末は仕事で海の方に行く機会があるのですが、サーフィンやバーベキューをして楽しむ方たちがたくさんいました。

ガラガラだった水族館の駐車場にも車がたくさん停まっておりました。

日常が少しずつ戻りつつあることを感じます。

このまま何事もなく穏やかな日々に戻れますようにと願います。

 

高校生の子たちと一緒に勉強していると、しばしば受ける問が、職業選択に関わるものです。

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

職業選択に関して彼らの口から発せられる問は総じてこのようなものです。

私の知る限り、高校生の段階で将来の方向性が明確に定まっている子はほとんどおりません。

みんなこのような問の中で、ぐるぐると悩んでいる印象を受けます。

学校で行われているキャリア教育で、しばしばこのような問が子どもたちに対して向けられているので、彼らはこの問の中に囚われてしまっているのかもしれません。

かつて自分もそのような問の中を、キョロキョロと彷徨い歩く学生だったので、適正検査の類は色々受けてきました。

ある適正検査に、自分に最も向いてない仕事が、パイロットと書いてあり、「確かに俺も俺の操縦する飛行機には乗りたく無いなぁ」と深く納得したことを今でもよく覚えていますが、

大人になった今、このような問を耳にすると思うことは、その問の立て方があなたの悩みを深くしているのではないか?ということです。

その問立てから思考をスタートさせることが、働くことを複雑にしているのではないかと思うのです。

 

例えば「何がしたいか分からない」という問について言えば、「それでいいんじゃないですか」というのが私の答えです。

「何がしたいか分からない」という問いの裏には「自分は将来○○がしたい」という夢があるべきという前提があるのですが、

その「将来○○がしたい」という夢だって勘違いである可能性があるわけです。

例えば、スキーをしたことがある人が「スキーをしたい」と言ったとき、その「スキーをしたい」という願望が勘違いである可能性は極めて低いと言えるでしょう。

しかし、映画監督をやったことがない人が「映画監督になりたい」と言ったとき、実際にやったことがないわけですから、

その「映画監督になりたい」という願望は勘違いであった、やってみたらとんでもなくつまらなかった、という結末を迎える可能性だって大いにある訳です。

決して私は夢を持つことを否定するわけではありません。

将来の夢がある子はそれに向かって頑張ってほしいと心から思います。

ただその「やってみたい」はそれはまだやったことがない場合もあり、本人の勘違いである可能性を捨てきれないので、

それがあってもなくてもそれほど大きな違いはないのではないか、と私は考えるのです。

だから「何をしたいか分からない」と言われたとき、私の答えは「それでいいんじゃないですか」になるのです。

 

大人が子どもに向けて問いかける、

「将来の夢は何?」

「あなたは何が好き?」

「何が自分に向いていると思う?」

といった類の問いかけが、子どもたちの働くことに対する悩みをさらに深めているのではないか?と私は考えています。

なぜらな、働くことと、これらの問はそもそもそれほど関係がないからです。

それは仕事というものが何なのかを考えてみればわかります。

続きます。

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