本書は、臨床心理士の村中直人さんが、心理学的、脳科学的、社会学的視点から「叱る」という行為について論考を展開した一冊です。
「叱る」という行為が持つ依存性、これが私にとってこの本を読んだ一番の収穫でした。
まず本書における「叱る」を定義をご紹介したいと思います。
叱るとは、言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールする行為
これが本書における「叱る」の定義です。
まず「叱る」という行為を叱られる側に視点に立って考えてみたいとおもいます。
その定義上、「叱る」には叱られる側のネガティブ感情が伴います。
このネガティブ感情は脳の扁桃体と呼ばれる部分が活動することで引き起こされるのですが、扁桃体が活発に活動している時、理性的にものを考える脳の部位である前頭前野の活動が低下することが知れらています。
つまり、叱られている時にはネガティブ感情に圧倒されているために、表面上「ごめんなさい」「もうしません」などとその場を逃れるための回避行動をとるだけで、理性的な学習が出来なくなるのです。
それ故になぜ自分が叱られたのか、そうならないためにはどうすれば良いかを学ぶことができず、また同じような振舞いを繰り返してしまいまた叱られることになるのです。
つまり叱られる側の人間においては、叱られる→ネガティブ感情からの回避行動→学習しない→叱られる→、、、という負のループが回り続けることになります。
今度は「叱る」を叱る側の視点から見てみたいと思います。
「叱る」という行為がやめられない理由は二つあります。一つには自己効力感の充足、もう一つには処罰感情の充足です。
まず一つ目の「自己効力感の充足」について。
「叱る」という行為は、相手の中に強いネガティブ感情を引き起こすため、叱られる側は叱る側が問題視している行動を即座に辞めざるを得なくなります。
それが叱る側からすると劇的な効果があるように感じられーしかしその多くは叱られる側の回避行動によるものなのですがー結果として自分は状況をコントロールできるという悪い意味での自己効力感をもたらします。
自分は状況をコントロールできるという感覚(自己効力感)は人に快の感情をもたらします。つまり「叱る」を通じて叱る側は「快」という報酬を得ているのです。
次に二つ目の「処罰感情の充足」について。
「水戸黄門」や「大岡越前」などの勧善懲悪の物語が繰り返し語られ続けていることや、古代ローマでは罪人を処刑することが一つのエンターテイメントとして人々に消費されていたことからも明らかなように、処罰は人に「快」をもたらします。
「叱る」の定義に戻って考えるなら、相手にネガティブ感情を植え付ける行為は一種の処罰であるため、「叱る」ことで人には「処罰感情の充足」が起こり、そこからやはり「快」という報酬を得ているのです。
事実、人を処罰した時には脳内で報酬系回路が活性化し、人に快感をもたらすドーパミンが分泌されるという報告があるそうです。
一つ目の「自己効力感の充足」も二つ目の「処罰感情の充足」も人に「快」という報酬をもたらします。人には報酬が得られる行動を繰り返そうとする性質があります(学習強化)。それ故に人は「叱る」がやめられなくなるのです。
叱る側の中で起きていることをまとめると以下のようになります。
叱る→状況の劇的な変化→自己効力感の充足または処罰感情の充足→「快」という報酬→叱る→、、、、。
「叱る」について叱られる側と叱る側の中で起きていることを見てきましたが、叱られる側でも叱る側でも負のループが発生することが分かりました。
そしてこれが「叱る」の質の悪さなのだと私は感じるのですが、叱られる側の負のループと叱る側の負のループがまるで歯車の様にがっちりとかみ合って回り続け「叱る依存」の構造を深刻化させてしまうのです。
この「叱る依存」が家庭内で起これば、その先に待っているのは虐待でしょう。またこれが会社内で起こればパワハラになるでしょう。どちらの場合も叱る側、叱られる側の双方にとって悲劇です。
もちろん叱ることが必要な場面があることを認めないわけにはいきません。しかしそれは自分自身や他者を害する行為などのごく限られた場面であり、それ以外の多くの場合では、今まで述べてきたような「叱る依存」という負のループが回ってしまい、状況は悪化していくことになります。
このような「叱る依存」から抜け出すにはどうすれば良いか、という内容はぜひ書籍を手に取ってご自身で読んで頂きたいのですが、私はこの「叱る」という行為がもたらす快、それ故に生じる依存性という着眼点を得るだけでも、「叱る依存」に陥ることをかなり防げるのではないか、と感じました。
一人の親として、子どもと関わる仕事に携わる身として、「叱る」がもつ依存性に自覚的でありたいと感じました。