外を歩いていると、あちこちで花が咲き出して、日本海側特有の灰色の冬から、色彩の春へと季節が変わりつつあることを実感します。
桜の蕾も膨らんできて、開花の日がもう間近といった感じです。
新年度早々ですが。ありがたいことに家庭教師の枠がすべて埋まったため、一旦新規生徒さんの募集を止めさせて頂きました。
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10代後半から20代前半にかけて、私は今にも増して思慮の浅い人間でしたので、
数学や理科の知識を身につけさえすれば、人間の何たるか、世界の何たるか、を理解できると思い、理学部に進学し学んできました。
あの時のあの選択があったから、今の自分でいられる訳で、だからそのことを全く後悔はしておりませんが、
理科や数学ばかりを学んだところで(学び足りないからということもありますが)、私の目には世界は依然謎だらけにしか見えませんでした。
私は昨年40歳になりました。
まだまだ学び足りない人間ではありますが、10代後半から20代前半のあの頃から見れば、
少しは人間が、世の中が分かる様になったと、自分本位の痛々しい勘違いという可能性も加味しつつ、そのように思っております。
それでは若かりし私に足りなかったものとは何でしょうか?
私はもう一つの視点だと考えます。
中一の数学で習う立体図形に三角錐というものがあります。
パーティーの時に使うクラッカーを逆さまにしたような、底面が円形で先端が尖った立体図形です。
三角錐は、真上から見たら円、真横から見たら三角形に見えます。
どちらの見え方も事実ですが、どちらも事実の一部でしかありません。
三角錐を円や三角形としてではなく、三角錐として観察するためには、真上からの視点と、真横からの視点の両方が必要になります。
真上からの視点、真横からの視点、この二つがあって初めて事実を事実のままに認識できる、ということです。
つまり10代後半から20代前半の私は、三角錐を真上からのみ眺めて、それで世界を、人を理解しようとしていた、ということです。
理科や数学の取り扱う領域は理論です。
しかし人間は、そしてその人間が作り出した世界は、いつも論理的に振る舞うわけではありません。
例えば、コロナ禍で在庫は十分にあるとアナウンスされても、トイレットペーパーやレトルト食品を買い溜めたり、
そんなことをすれば数年から十数年身体の自由を失い、他者の生存権を奪うことになると知りながら、殺人を犯すに至ったり、
法に抵触することを知りながら、自分の知り合いや身内に便宜を図ってしまったり、
人間というのは、必ずしも論理的ではなく、むしろ情緒的な生き物であると言っていいと思います。
私に足りなかったものは、情緒という視点でした。
人間や社会を理論の観点からしか眺めていなかったから、三角錐を円と思い込み、
「分からない、分からない」と呻いていたのが、若い頃の私であったように思います。
私に人間の情緒的な側面を理解させてくれたのは、文学であり、人間心理であり、歴史であり、音楽であり、映画であり、人との対話でした。
このような経験を経て、私の中に情緒的な視点が生まれたため、以前よりは人を社会を少しは理解出来る様になったのだと思います。
だからと言って私は、理論を否定し情緒を手放しで賛美するつもりもありません。
何故ならば、過度に情緒的でベタベタとへばり付くような人間関係が災厄を引き起こすということも、日常生活には少なくないからです。
情緒的な視点のみでは、また人を世界を見誤ることになります。
大切なのは理論と情緒のバランスであり、二つの視点を持ち続けるということです。
長くなりましたので、次回に続きます。