先日、授業中に子どもと本に書いてあったなぞなぞを考えていました。
本には相撲取りの絵が書いてあり、「取っても取っても無くならないものって何だ?」とありました。
まぁ普通に考えれば答えは相撲なのですが、その子の答えは、
「うーん、脂肪?」
なるほど!
お母さんと一緒に大笑いしてしまいました。
将来大物になる予感がします。
前回のブログでは、
働くことを考える際に発せらるべき第一の問は、「私は何がしたいのか?」ではなく、「この世界にはどのような困難を抱えた、またはどのような欲求を持った他者がいるのだろうか?」であること、
そして、仕事のやりがいとは、自分のしたいことをしてそこに充足を見出すという仕方ではなく、自分が何かを為したことで他者が喜んでくれる、その他者の満足のうちに見出すものであること、
という内容を綴りました。
それでは、「私は何がしたいのか?」とか「私は何が好きか?」という自己中心性から脱却し、他者の抱える困難に、そして欲求に目を向け他者貢献できるようになるためには、何が必要なのでしょうか?
願望というのは満たされることで薄らいでゆきます。
食欲や睡眠欲などの生理的な願望は、満たされてもそれがまた不足すれば沸き上がってくるものですが、
それとは別に、心理的な発達過程で生じる願望というのは、満たされることで薄らいでゆきます。
例えば、以前読んだ子育ての本に、お母さんの口紅を塗りたがる小さな男の子の話が紹介されていました。
男の子が口紅を塗りたがるので、お母さんはダメと言い続けていたのですが、あるとき好きなだけ塗らせてあげたら、それ以降はもう口紅を塗りたがることはなかったそうです。
このように成長段階に応じて生じる願望というのは、満たしてあげることで薄らいでいきます。
自己中心性というのも、自分に注目してほしい、自分を大切に扱ってほしい、自分を認めてほしい、という願望です。
つまり、満たしてあげれば、全く無くなることはないですが、薄らいでゆきます。
それでは一体どうすればいいのでしょうか?
「過保護」と「過干渉」という言葉を軸に考えてみたいと思います。
児童精神科医の佐々木正美さんは「過保護」と「過干渉」を以下のように定義しています。
過保護:子どもの望むことを皆叶えてあげようとすること。
過干渉:親が望むものを子どもに与えること。
そして著書「子どもの心の育てかた」の中で以下のように述べています。
“子どもの望み通りにしてあげること、してあげすぎること、というのは「悪い」とされることがあります。なんでも子どもの言うことを聞いてやったら、子どもは依頼心ばかり強くなり、自立できなくなる、という意見です。
けれど、私はそんな事例を、本当に見たことがないのです。一見、そういう風に見えるケースというのは、過保護の結果ではなく、過干渉です。子どもに対して過剰に干渉し、そのあとから保護的な態度をとる、というケースがほとんどなのです。
子どもというのは、親の過剰な干渉を受けると欲求不満になってしまいます。強い不満の状態にいて、子どもが自立へのスタートを切れず、育児もうまくいかない、ということがあります。”
たとえば、子どもに対して、沢山おもちゃを買ってあげたとか、いろいろな場所へ旅行へ連れて行ってあげたとか、習い事に通わせてあげたとか、高等教育を受けさせてあげたとか、
そのうような一連の行為が、子ども自身の願望であり、それが叶えられたのであればその子の中の自己中心性は薄らぐことになるでしょうが、
それらが親の願望でしかなく、子どものほうが自分の願望を押し込めて親の願望に付き合わせられているのならば、いつまでも子どもの中に、自己中心性はくすぶり続けることになるでしょう。
そのような状態で、もう学校も卒業したのだから就職して他者貢献にやりがいを見出せと言われても、それは難しい話だと思います。
自己中心性から抜け出し、他者貢献に踏み出していけるようになるために必要なもの、それはまず子どもの自己中心性を周りの大人が満たしてあげることです。
自己中心性というのは、平たく言ってしまえば、「甘えたい」ということです。
自分を見てほしい、自分に注目してほしい、自分をほめてほしい、そのような願望が自己中心性を形作っているのです。
今回は働くということに注目して綴ってきましたが、そのことだけでなく親から自立するというプロセスにおいてお子さんに何か不都合が生じている場合、
この「過保護」と「過干渉」という視点から今までのご自身の振る舞いを振り返ってみると何か気づくことがあるのではないでしょうか?
もしその振る舞いが自分自身の願望によるものならば、そこにはまだ解消されていない自分自身の自己中心性があるのかもしれません。
その振る舞いはお子さんの願望に沿ったものなのか、それとも自分自身の願望に沿ったものなのか?
この問は決して他者にのみ向けられるものではありません。
一人の親として、沢山の子どもと関わる家庭教師として、まず私自身が問い続けなければならないことだと思います。