先日、家庭教師でお邪魔したご家庭で、授業を終え帰ろうと階段を下りているときに、足を滑らせて、お尻を痛打してしまいました。
もう夜遅かったのに「うわぁっ」とか大きな声をあげてお騒がせしてしまいました。
ここ数日、お尻に二枚湿布を張って生活していたら、かなり良くなりました。
ただの打撲だったようです。
授業を何件もこなしてきっと頭が疲れていたのだろうと思います。
年のせいではないはずです、たぶん、きっと。
皆さんも階段の上り下りにはくれぐれも気を付けてください。
先日のブログでは、「退歩を学べ ~ロボット博士の仏教的省察~」という本の中から、示唆に富む一つのエピソードをご紹介しました。
著者の森政弘さんが、本田技研の創業者、本田宗一郎さんと車の構造について話していた時のことです。
車が走るためには、アクセルとブレーキという二つの相反する機能が調和する必要がある、アクセルだけでもブレーキだけでも車は走ることが出来ない。
これは示唆的で汎用性に富む考え方で、一般化するならば以下のようになります。
二つの相反する対立概念が調和することで、一つの機能を果たす。
子どもの成長に関しても、これと同じような構造があると私は考えます。
長年子どもの引きこもり、不登校の問題に携わってこられた心理学者の高垣忠一郎先生は、著書「生きることと自己肯定感」の中で、
「共感の眼差し」「評価の眼差し」という二つの眼差しから子どもを見つめることが必要であると書かれています。
この「評価の眼差し」「共感の眼差し」で子どもを見つめるとは、具体的にどうすることを言うのでしょうか?
私なりに定義をしてみました。
評価の眼差し:あるルールを元に子どもに良い悪いの判断を下し、評価する視点
共感の眼差し:子どもの感じ方をありのままに認め、受容する視点
具体的な事例をもとに考えてみましょう。
例1:近所を散歩していたら大きな犬が近寄ってきて、子どもが怖がって泣き出した場合
評価の眼差しで接するならば、「そんなことで怖がって泣いたらダメ。もっと強くなりなさい!」などという言葉がけになるでしょう。
同様のケースに共感の眼差しで臨むならば、「怖かったねぇ、お母さんがそばにいるから大丈夫だよ」というような言葉がけになるでしょうか。
例2:テスト勉強を頑張ったのだけれど、思うような成績が得られなかった場合
評価の眼差しで接するならば、「こんな点数では○○高校には入れないから、もっと頑張りなさい」という対応になるでしょう。
共感の眼差しでは、「悔しいよなぁ、でも一生懸命頑張ったことが素晴らしいよ、次はきっと結果が出るよ」というような対応になります。
このように全く同じ状況でも、どちらの眼差しからその状況に接するかによって、対応が全く変わってきます。
評価の眼差しとは父性的な視点、共感の眼差しとは母性的な視点、と言い換えることが出来ると思います。
これらのうちどちらかが大事で、どちらかが不要という話ではありません。これらがバランスしていることが大切なのです。
共感の眼差しばかりが優位になり、評価の眼差しが欠如した場合、子どもは現状に甘んじるようになり、いつまでも成長のための努力が出来なくなってしまうでしょう。
評価の眼差しが優位になり、共感の眼差しが欠如している場合、子どもは自分の感じ方に自信が持てず、他者評価に依存的になってしまうことでしょう。
つまり、前回のブログの車のアクセルとブレーキの話同様、この相反する二つの視点が調和して初めて子どもは健やかに成長していくことが出来るということです。
「評価の眼差し」、「共感の眼差し」。
この二つがバランスして初めて子どもは健やかに成長をしていくことが出来る、というのが今日のまとめです。
それでは実際に今、日本の子どもたちに向けられる、大人の、社会の眼差しはどのようなものになっているのでしょうか?
次回に続きます。