コロナ禍で働き方、営業形態の変更を余儀なくされている方が増えていますが、私も先日初めてオンライン授業というものを経験しました。
分かったことは、想像には限界がある、ということです。
どんなに頭であれこれと事前に考えてみても、実際にやってみると想像を超えて様々な不具合が起きるものです。
ただ私の想像力が貧弱なだけかもしれませんが、実践することの大切さを改めて感じた出来事でした。
技術的な面の不具合とは別に、何かが伝わりきらない、そんな印象も受けました。
私はやはり対面で子どもと話したいです。
ここ数回、危機的状況を生き延びるために必要なこととは何か、というテーマで考察を展開してきました。
災害が起きたときに、「災害ユートピア」と呼ばれる助け合いのコミュニティが立ち上がること。
それは血縁関係を超えた大規模なコミュニティを形成する、というホモサピエンスの生存戦略に由来すること。
そしてコミュニティは他者との間にだけ存在するものではなく、「私」という存在も一つのコミュニティであること。
そのような内容でここ三回綴って参りました。
お子さんの不登校や引きこもりに悩まれている親御さんのお話を聞かせていただくことがありますが、私の知る限りですが、皆さんご自身を責める気持ちを抱えていらっしゃいます。
「私が悪かったんです」
「バカな親でした」
「子どもに申し訳ない」
そのような言葉を口にされる方が多いです。
私はそのような言葉をお聞きするたびに、「そんなことはありません。」とお伝えします。
そのようにご自身を責める言葉を口にされることで、ご自身が、そしてお子さんが力を取り戻すことは無いと考えるからです。
私たちの先祖は、血縁関係を超えたコミュニティを形成し、他者と協力関係を築き上げることで、他の人類が滅ぶ中を生き延びて今の繁栄に至ります。
そして「私」という一人の人間も一つのコミュニティであると書きました。
「私」というコミュニティの住人の中には、今現在の人格要素だけではなく、今まで生きてきた人格要素、つまり「過去の自分」や、これから生きることになるであろう人格要素、つまり「未来の自分」も含まれます。
自分自身が危機的状況にあればあるほど、「私」というコミュニティに属する「過去の自分」を責め苛むのではなく、「私」を構成するフルメンバーで協力し合い事態に当たることが肝要だと私は考えます。
自分を責めるような言葉を、ご自身に投げかけても、それで人のパフォーマンスが向上することはありません。
これは、組織に置き換えてみると話が分かりやすいかもしれません。
問題が発生したとき犯人探しがはじまり、しっぽ切りを行い、なぜそのような問題が起きるに至ったのかを考察しようとしない組織がありますが、その組織はきっとまた同じような問題を引き起こすでしょう。
なぜなら、問題の本質が何であったか、その考察が為されていないことに加え、次に切られるのは自分かもしれない、とメンバーが恐怖に駆られてしまい、創造的なアイディアが生まれてこなくなるからです。
そのうような対応で危機的状況を脱することはできません。
危機的状況を生き延びるために必要なことは、コミュニティのメンバーを責める事ではありません。まず協力することです。
それでは具体的にどうすることが必要なのか?
後悔ではなく、反省をするということです。
後悔と反省、似ている言葉ですが、私の中では定義が違います。
後悔:過去を振り返り自分自身を責める事
反省:過去を振り返り自分の行動に改善点を見出すこと
先ほど書いたように、後悔が人のパフォーマンス向上に資することはありません。
自責の念に駆られるとき、人の身体は硬直し、呼吸が浅くなり、さらに気分が沈み込み、良いアイディアも浮かんでこなくなるからです。
それに加えて、自分のことで自責の念に駆られる親御さんを見て、お子さん自身も自責の念からパフォーマンスが下がってしまいます。
危機的状況であればあるほど、自分自身のパフォーマンスを下げるようなことをしてはいけないのです。
危機的状況では、後悔ではなく反省を。
それでは、反省するとは具体的にどうすることをいうのでしょうか?
また長くなってしまいましたので次回に続きます。