先日、子どもが生まれてから初めて、奥さんの実家の魚沼に行ってきました。
息子は、お義父さんとお義母さんにかわいがってもらってニコニコご機嫌に過ごしておりました。
私が田舎で生まれ育った人間だからかもしれませんが、山も川も美しく、人も穏やかな田舎はいいなぁ、とつくづく思いました。
田んぼを覆っていた雪も解け、もうじき田起こしが始まることでしょう。
あの土のにおいが漂ってくると、私は春だなぁと感じます。
久しぶりにのんびりとした時間を過ごせた気がします。
~考えるとは何か?~
先日のブログでは、
いい大学に入って、いい会社に入って、そこで定年まで勤めあげる、というキャリアパスは成り立たなくなった、
一人一人がどう生きていけばよいのかを考えなければならない時代になった、という内容を綴りました。
「考える」というのは何の気なしに使っていることの多い言葉ですが、それでは具体的に「考える」とはどうすることを言うのでしょうか?
「考える」とは、目の前の出来事に懐疑の目を向け、自分なりに仮説を立て、その真偽を検証するという一連のプロセスのことを言います。
その検証結果が真であるならば、それが新たな定説となり、それが偽であるならば新たな仮説を立て、再度検証するというプロセスに進みます。
つまり、「考える」とは疑うことから始まるのです。
それではなぜ人は疑うことが出来るのでしょうか?
~頭の使い方三層構造~
私は頭の使い方は、ピラミッド型の三層構造になっているのではないかと考えています。
第一層が「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」です。
子どもたちと一緒に学習していて気づいたことですが、なぜそのようになるのか、その理由が理解できれば覚える必要がなくなることが沢山あります。
例えば、英語のテストを受けることを考えてみましょう。
なぜそのような言葉の並びになるのか、英文法を理解できていない人は、一言一句違わず言葉の並びを覚えてテストに臨まねばなりません。
文法を理解してる人は、なぜそのような言葉の並びになるのか、そのルールが分かっているのですからそのような苦労をせずとも、
主語の後には助動詞がきて、その後ろに動詞の原形、副詞句を付け加えるという英語のルールに照らし合わせて問題を解いていけます。
つまり「理解する」ことが出来れば、「覚える」ことをせずとも済むわけです。
こうして考えると、「理解する」ことは頭の使い方として、「覚える」より一階層上位の頭の使い方であることが分かります。
ただし、「理解する」はたくさんの「覚える」に支えられていることも忘れてはいけません。
たとえば、ひらがなや漢字、アルファベットを覚えなければ、そもそも文章が読めない訳ですから、「理解する」こともできないのです。
同様のことが「考える」にも言えます。
第一層の「覚える」と第二層の「理解する」が、第三層の「考える」を支えているということです。
「覚える」を「知識」と、「理解する」を「理解力」と言い換えるならば、知識の蓄積と理解力の涵養が、疑うことと、仮説を立てること、検証することを可能にしているのです。
何の知識もなしに、理解する力もなしに、人は何かを懐疑し、仮説を立て、それを検証することなどできないからです。
人が考えるために必要なもの、それは、知識と理解力であると綴りました。
自分のことを含めですが、日本人は、義務教育9年、高校で3年、人によっては大学で4年、教育を受けているにも関わらず、考えることが苦手な人が多いように思います。
それは何故なのでしょうか?
また、考えるために必要な知識ですが、それもただ頭の中に入っていればいいというわけではありません。
頭の中に知識が入っていたとしても、それが使える状態になっているものと、そうでないものがあるように私は感じています。
使える状態の知識とはどのようなものか、使えない状態とはどういうものか?
次回はそのような内容を綴ってみたいと思います。
続きます。