新年度。
一緒に学習をしてきた子どもたちが、それぞれ新生活に旅立っていきました。
若い頃は見送られる側でしたが、年を重ね気が付けばいつの間にか見送る側に変わっていました。
10代、20代の頃は年を重ねることを喪失と考えていましたが、年を重ねるほどに、見えなかったものが見えるようになり、
気づけなかったことに気が付けるようになった自分を発見し、年を重ねることを楽しめるようになりました。
今の自分の中には、10代の自分も、20代の自分も、30代の自分も同居してるようなイメージです。
様々な立場から、子どもたちに対して多層的な関わり合いが出来たら、そんな風に思います。
~聞き届けてもらうには~
「届く言葉、届かぬ言葉」というタイトルでここ数回綴ってきました。
上から目線の「勉強しなさい!」という正論は、子どもたちに届くことはありません。
むしろ逆効果になっている、そんなことさえ感じます。
そんな前々回のブログの内容を受けて、前回は私の体験を綴りました。
子どもたちの前で話すことになったはいいのですが、人前で話すような立派なエピソードもない。
苦肉の策でひねり出したのが、立派なエピソードなど一つもない自分でもちゃんと生きていけているから大丈夫、そんな内容の話でした。
こんな内容で果たして聞いてもらえるのか、半信半疑の状態で臨んだのですが、意外や意外、子どもたちは真剣に聞いてくれました。
あの話は確かに届いていたと感じます。
届く言葉、届かぬ言葉、一体何が違うのでしょうか?
~敬意と信頼~
届かぬ言葉には無くて、届く言葉にあるもの。
私は二つあるように感じます。
それは、敬意と信頼です。
敬意と信頼。
辞書を引けばそれぞれに意味があるのでしょうが、私は以下のような意味合いで使っています。
敬意:自分自身の都合を一旦わきに置いて、相手を大切に思う気持ち。
信頼:言葉を尽くして伝えれば、きっと分かってくれるという相手を信じる気持ち。
上から目線の正論を語るとき、私たちは相手を「困った人」「正すべき人」という前提で見ています。
そこには、相手を大切に思う敬意も、「きっと分かってくれるはず」という信頼もありません。
その前提が無意識的に相手に伝わるから、言葉を聞き届けてもらえなくなるのでしょう。
私の苦し紛れの話がなぜ耳を傾けてもらえたか?
それは決して意図したわけではありませんが、「自分が立派な人だと思われたい」という自己都合を捨て、
思春期の真っただ中、生き方に迷い、不安を抱える高校生に「大丈夫なのだ」という安心感を与えたい、
そんな相手を思う気持ち、敬意が伝わったからではないかと、振り返って思います。
敬意と信頼を持って相手に向き合うこと。
その大切さは、日々子どもたちと学習するときにも強く感じます。
何度説明しても理解してもらえないとき、「もう理解してもらうのは無理かもしれない」と、諦めそうになることもあります。
ただ、その気持ちで言葉を発しているときは、本当に相手に言葉が届きません。
子どもたちは集中力も途切れがちで、眠たそうな顔をし始めます。
一方で諦めることなく、「言葉を尽くせば伝わるはず」と敬意と信頼感を持って話し続けていると、
不思議なことに、子どもたちも自分の話に対して前のめりになってくるのです。
届く言葉、届かぬ言葉。
二つを分けるものは、発話者が相手に対して抱いている前提なのだと私は感じます。
ご家庭で、もしご自身の言葉がお子さんに届いていないと感じられるならば、
上から目線の正論ではなく、ぜひ敬意と信頼を持った言葉がけを心掛けてみてください。
すぐに効果が出るものではありませんが、お子さんの対応もきっと変わっていくことと思います。