先日お邪魔したご家庭のお庭で、梅の花が咲いているのを見かけました。
きれいだなぁ、としばし見とれてしまいました。
若いころは、決して花に目を止めることなどない人間でしたが、しみじみときれいだと感じました。
また先日、ふきのとうの天ぷらを頂いたのですが、昔は苦くて苦くて食べられなかったはずなのに、
その時はその苦みを春の味として美味しく感じる自分がいました。
そのような自分自身の変化に、人は変わり続けるもの、昨日の自分と今日の自分は決して同じ自分ではない、などということ感じました。
こんな風に日々自分の変化を感じ取れるならば、年を重ねていくことも楽しいものだと思います。
お子さんの将来を案じるが故に親御さんが度々口にするのが、「勉強しなさい!」という言葉ですが、
親御さんからそういう言葉がけをされて勉強するようになった子どもを私はほとんど見たことがありません。
むしろ逆効果になっている事例をたくさん見てきました。
人は、言葉を投げかければ必ずそれを受け取ってくれるわけではありません。
言葉には、届く言葉、届かぬ言葉があります。
届かぬ言葉。
私の知る限りですが、それは上から目線の正論です。
これは受け取ってもらえない言葉の典型と言っても過言でないと思います。
それでは届く言葉とはどんなものでしょうか?
~「立派じゃなくても大丈夫」~
私は以前、高校にお邪魔して子どもたちに働くことについてお話をする機会を頂いたことがあります。
高校生に一体何が話せるだろう?
人前で話すからには、何か立派なエピソードを話さなければと考え、あれこれ自分の今までを振り返っておりました。
、、、振り返れど、振り返れど、立派なエピソードなど一つも浮かんで来はしません。
思い出されるのは、穴があったら入りたいと思うような恥ずかしいことばかり。
あの人にも、この人にも迷惑ばっかりかけたなぁ、、、。
私は過去を振り返ればそのような思い出しかありません。
いつもいつも誰かに迷惑をかけ、それを許してもらいながら生きてきた気がします。
どうしようかと困り果てた挙句考え付いたのが、「立派じゃなくても大丈夫」という話でした。
人生を振り返って立派なエピソードが一つもないような人間でさえちゃんと生きていけている。
だから立派じゃなくても大丈夫、苦し紛れに思いついたのはそのような話でした。
こんな話で大丈夫なのかと半信半疑のまま当日を迎えました。
高校一年生を前にして、自分の高校時代の話をしました。
自分は高校が大嫌いだったこと、勉強も何にも分からなくて成績もひどかったこと、夢も何もなかったこと。
自分がいかに立派でないかを話した後に、それでも今こうして生きているから大丈夫だよ、と話して締めくくりました。
話し終えた後に、周りで聞いてくれていた人から、「子どもたちが真剣に聴いていましたよ」と教えて頂きました。
緊張しながら話していたので、きっと下手くそな話であったと思いますが、確かに子どもたちの反応は良かったと感じました。
「届く言葉、届かぬ言葉」というタイトルで綴っておりますが、自分自身の手ごたえとして、あの話は確かに「届く言葉」であったと感じます。
届く言葉、届かぬ言葉。
両者は一体何が違うのでしょうか?
続きます。