前回のブログでは、子どもたちからの、
「こんなこと勉強しても大人になってから使わないでしょう!」
という言葉を受け、私の考えを綴りました。
二つあるのですが、その一つ目が、
「それを学ぶ前の人間に、それを学ぶ意味は分からない」
ということでした。
今回は二つ目を綴ります。
推敲の段階では二つと思っていましたが、よくよく考えると前回の考えと地続きだなという気もしてきて、
二つに分ける必要がなかったのだなと後から気づきました。
とりあえず綴ります。
~汎用的学び~
子「なんだこれ、訳わからん!」
私「簡単ではないよね。」
子「もうやりたくない!だいたい大人になって二次関数使う人なんているんですか?」
私「使う人より使わない人のほうが圧倒的に多いかもね。」
子「じゃあこんなん勉強しても意味ないじゃないですか!」
私「いやいや、あのねぇ、、、」
今授業中のやり取りを一部再現してみましたが、
ここに書いたように、この手の質問を受けるのは、理科や数学を学習している時が多いです。
確かに二次関数を大人になってから利用する人はごく一部の限られた人かもしれません。
しかし、私たちは数学や理科を通じて、日常生活に欠くことのできないもっと汎用的能力を涵養しているのです。
それは論理的にものを考える力です。
それは、日常生活で腕立て伏せの動作をすることは稀であっても、腕たせ伏せで鍛えた筋肉が日常生活で大いに役立つこと、とよく似ています。
つまり学んでいる題材それ自体を実際に使うことはなくとも、その題材を通して養った力は大いに役に立つということです。
論理的に考える力は、誰かに物事を説明するとき、誰かから物事の説明を受けるとき、必要不可欠な力です。
それを持たなかったために、論理的に破綻してるような嘘くさい詐欺に引っ掛かるなどということさえある訳です。
数学、理科だけではありません。
詳しくは割愛しますが、例えば歴史を学ぶことで、文脈の中で出来事を見る力を、
英語を学ぶことで、日本語とは別の思考方法を私たちは学んでいるのです。
~意図せず何かを学んでいる~
上で、私たちは題材それ自体に加え、もっと汎用的な能力を身に着けているという話を綴りました。
もう一歩論を進めれば、何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている、でもそれが何なのかをうまく認識できない。
そんな学びもあるのではと私は考えます。
それを感じるのが、文章読解力です。
文章読解力というものが、本を読むことで確かに身につくことは、よく知られていることですが、
それがなぜなのかをうまく説明できるでしょうか?
何を身に着けたから私たちは文章を読み取れるようになったのでしょうか?
文章を読むことでたくさんの言葉を知ったからでしょうか?
難解な論説文を読んで論の展開の仕方を学んだからでしょうか?
時代の風雪に耐え読み継がれてきた古典に触れて、情緒が豊かになったからでしょうか?
そのどれもが確かにその通りなのですが、そのどれもがこの疑問に対して十分な答えを与えてくれているようには思えません。
一体何が身に着いたから文章が読み取れるようになったのかをうまく説明できないけれど、
読書を重ねることで確かに文章を読み取れるようになる。
それを通じて一体何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている。
そのような学びもあるのだということです。
何を学び取っているのかをうまく説明できないのは、前回のブログに書いた通り、
私自身がまだ何かを学び取れていない証拠なのだろうと思います。
別の話をするつもりが、一周回ってもとの話に戻ってしまいました。
前回と地続きと申し上げたのはそういうことです。
何故なのかは分からないけれど、それを通じて確かに人間の生きる力が向上する、そのような学びが存在するということです。
それが今に至るまで消えることなく学問として残り続けるということは、そこに何かしらの人類史的意味があるという証なのであり、
たとえ今の未熟な自分がその意味を上手く咀嚼できないからといって、簡単に切り捨ててはいけない。
様々な事例を挙げて説明してきましたが、要するに私が言いたいことはそういうことです。
いくつかの歴史的、地政学的要因が相まって今まで日本は豊かさと安全を享受してきました。
豊かで安全な社会であれば人は未熟なままでも生きていけるので、学ぶことの意味が分かりづらくなってしまったのだと思います。
ただその豊かさと安全が未来永劫続くとは思えない雰囲気が漂ってきていると私は感じます。
(昨今大人の世界にも広がる「学び」ブームもその空気を肌で感じているからこそ、でしょう。)
人口爆発、資源の枯渇、環境破壊、大国の右傾化など、今までと同じ暮らしを妨げるであろう要素はいくつもあります。
これからは好むと好まざるに関わらず、変化を求められる時代になっていくのでしょう。
だからこそ私は、子どもたちに学びを通じて考える力を身に着け、人間的成熟を果たしていってもらいたいと考えています。
ご家庭でもしお子さんから、
「こんなもの大人になっても使わない!」
と言われた時に参考にして頂けたら、と思います。