先日のブログでは、情緒と理性がバランスして初めて人は人らしく生きられるはずなのに、
今の世の中では、理性が重視され、情緒が軽視される傾向にあるのではないか、と綴りました。
理性と情緒、どちらが人を突き動かすのか?
先日のブログでも綴りましたが、それは時に理性であり、時に情緒であり、時に両方であったり、
どちらであると断言することは難しいものだと思います。
そしてその両方があって初めて人は社会の中で他者と協力しながら生きていけるのだと思います。
そういう断りを書いたうえで、私は人をより強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であると考えます。
=なぜ理不尽な事件が日々起きるのか?=
テレビのニュースを見ていると、毎日のように誰が誰を殺したとか、殺伐としたニュースが流れてきます。
法を犯すようなことをすれば、その後どうなってしまうのか、知識として知らない人はいないはずです。
つまり論理の部分ではしっかりと理解しているにも関わらず、人は一線を超えてしまうということです。
もし人間をより強く突き動かすものが、情緒ではなく理性であるなら、
なぜこのような事件が起きるのでしょうか?
=言葉が無いということ=
私は相田みつをさんのエッセイ作品が好きです。
その中に、“感動とは感じて動くと書くんだなあ”というモノがあります。
もし人間が理屈で動く生き物であるならば、この世の中には「理動」という言葉だってあっていいはずですが、
私が知る限りそのような言葉はありません。
それを表す言葉が存在しないということは、そのような概念が存在しないということです。
つまり根源的に人を突き動かすものは理性ではないということです。
=なぜ宗教は存在し続けるのか?=
日本人は、一神教の国々に比べ、寛容な宗教観を持っている民族ですが、
それでも人生の節目節目には神仏に手を合わせ、日々の安寧を願う習慣を持っています。
そして大切な人との別れなど、自分一人では受け容れられないほどの悲しみを背負ったとき、
私たちはそのようなものに頼り、心の危機を回避しようとします。
論理の世界で考えれば、神仏のような存在を証明することはできません。
それでも、私たちは人生の節目に、悲しみに、喜びに、そのような存在に手を合わせ祈る生き物なのです。
もし情緒ではなく、理性のほうが人を強く突き動かすならば、なぜ宗教というものが存在し続けているのでしょうか?
=言葉では語り得ぬもの=
言語というのは、論理的な脳が統御する他者と意思疎通を図るためのツールです。
もし人間が言葉を使ってありとあらゆる自分の感情を他者に伝えることができるなら、
なぜこの世に芸術は存在するのでしょうか?
言葉だけでは語り得ぬ何かが心の中に在るからこそ、人は歌い、踊り、絵を描き、
語り得ぬその何かを懸命に表現しようとするのではないでしょうか?
その何かが、言語化し切ることが出来ない、人の情緒というものではないかと私は考えます。
“人間は考える葦である”という言葉を残し、数学や物理学の分野で多大な功績を遺したパスカルは、以下のように語っています。
“理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。
それを認めるところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない”
人間を強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であるにも関わらず、
理性が重視され、情緒が軽視される世の流れに私は違和感を覚えます。
世の流れを受け、公教育が理性重視の傾向に流れたとしても、ご家庭でお子さんの情緒を育むことは可能です。
次回は私が考える情緒を育む育て方について綴っていこうと思います。
続きます。