人にとって「母」とは特別な存在。
幼少期、客観的に見れば決して良くない状況にも関わらず、子どもを見限ることなく、
才能と可能性を信じ、寄り添い続けた「母」の存在で立ち上がった二人の偉人、
エジソンと坂本龍馬の事例を紹介致しました。
「世の人は我をなんとも言わば言え、我が為すことは我のみぞ知る」
今回は歴史上の偉人でもなんでもない全く持って凡庸な人間ですが、
苦しい時、つらい時、思い返せば母の言葉に支えられていた、私自身の経験を綴りたいと思います。
=「学校に行きたくない」=
高校時代、一体何度この言葉を口にしたかわかりません。
私は高校が大の苦手でした。
私は生まれてからずっと山の中の小さな学校、全校生徒10数人の中で育ちました。
高校進学と同時に、バスに揺られ40分、新潟県新発田市の公立高校に通うこととなりました。
一体何が苦手だったのか、今でもよく分からないのですが、山の中の小さな学校で自由気ままに過ごさせてもらっていた私は、
「みんなで同じことをやりましょう」という無言の同調圧力の中で、「そこからはみ出しちゃいけない」と苦しくなっていたように思います。
高校時代は楽しかったと話す方もいらっしゃいますが、私にとっては二度と戻りたくない時間です。
高校は私にとって一刻も早く出ていきたい場所でした。
ただ、楽しく通っている同級生もいたので、これはあくまでも私個人の主観の話です。
=「お前には滑り止めの学校もないんだぞ!」=
学校にいる間中精神的にしんどい。
そんな状況で授業の内容が頭に入ってくるはずもありません。
私の学業成績はずっと下から数えたほうが早い順位でした。
私には二歳年上の姉がおり、同じ高校に通っていたのですが、姉はとても学業優秀で成績はいつも学年で10位以内。
「お前の姉ちゃんは良くできるのになぁ」
先生や同級生からそんな言葉をかけられる度に、腹立たしさと屈辱感でいっぱいになりました。
兄弟、姉妹で比較されるというのは本当に嫌なものです。
お子さんに対してそのような言葉がけはされないほうがいい、と私が親御さんに伝えるのは、実体験があるからです。
高校三年生になっても私の成績は相変わらずで、テストの度に赤点ばかり。
数学に至っては0点を取ったことさえありました。
業を煮やした担任の教師が、朝礼で言った一言。
「お前には滑り止めの学校も無いんだぞ!」
「わざわざみんなの前でそんなことを言わなくてもいいだろう、、、」と心の中で思っていました。
20年も前のことを今でも覚えているのですから、そうとう腹立たしかったのだと思います。
=「お前は大丈夫」=
母は「勉強しなさい!」の類の言葉をほとんど言わない人でした。
その代わり学校に馴染めず、成績の振るわない私に、
「お前はやれば出来る子だから大丈夫」
そう言い続けてくれました。
いろんな人から「お前はダメ!」というメッセージを浴びた高校時代でしたが、母から「大丈夫」と言われると大丈夫な気がしてくるのが不思議でした。
子どもにとって母親の言葉はそれだけ強い力を持つということなのでしょう。
精神的にしんどい日々でしたが、さすがにこのままではまずいと思い勉強をし始めたのは、高校三年生の春からでした。
高校一年生、二年生の貯金が全くないような状態で始めた受験勉強でしたが、
それでも地道に努力を続けていく中で少しずつ成績は上向いていき、なんとか地方の小さな国立大学に現役で滑り込むことができました。
学校に合格報告に行ったときのこと。
「え?受かったの!?」と言って驚いた担任の教師の顔を今でもよく覚えています。
汚い言葉を書いてすみませんが、心の中で「ざまぁ見やがれ!」と叫んでいました。
=信じてくれる人=
客観的に見れば何一つ大丈夫である要素など無かったと思います。
いつまでたっても学校には馴染めない、赤点ばかり取ってくる。
それでも私に「大丈夫」と言い続けてくれた母の言葉があったおかげで、私は自分で自分を見限らずにいられたのだろうと思います。
子どもにとって一番身近な環境とは、その子の周りにいる大人がその子に対して抱く前提です。
子どもは周りの大人が自身に対して抱く前提を信じ、良くも悪くもその前提どおりの振る舞いをするように私には感じられます。
だから、世間一般の価値観で見れば決して良くない状態であったとしても、
自分の可能性を信じ「大丈夫」という前提を抱いて見守ってくれる大人がいることが子どもにとってとても大切なのです。
その前提で接してくれる誰かの存在が、苦しさを抱え動けなくなっている子どもに力を注ぎ、やがてその子は立ち上がっていく、
自分自身の経験に加えて、私は今までそのような事例をたくさん見させて頂きました。
だから、今お子さんがどんなに困難な状況にあったとしても、親御さんが当事者意識を持って寄り添ってくれる限り大丈夫。
私はそう言い切れるのです。