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「それを言っちゃぁおしめぇよ!」 ~子どもの学びを阻むもの~

私は映画「男はつらいよ」シリーズの寅さんが好きです。

子どもの頃、あんな風に生きられたらと心密かに憧れていたものです。

旅からふらりと帰ってきた寅さんが、夕ご飯の後家族を相手に一席講じる場面が映画に度々出てきます。

食卓の周りにはいつもの面子。

おじちゃん、おばちゃん、さくらにひろし、裏の会社のタコ社長。

寅さんは口上命の的屋稼業。

話始めるとエンジンがかかっちゃって、ついつい言わなくてもいいことをペロっと言ってしまいます。

「そんなこと言わなくてもいいじゃないか」とおばさんがしくしくと泣き始め、

それに怒ったおじさんが、「てめえみてぇなやつは出ていけ!」と言葉を投げつける。

売り言葉に買い言葉で寅さんが発する台詞が表題の「それを言っちゃぁおしめぇよ!」です。

 

=「それを言っちゃぁおしめぇよ」=

思っていても口に出していけないことが、この世の中にはあると私は思います。

現に映画の中ではそれを言ってしまったがために久々の一家団欒が家族喧嘩になっています。

だから「それは言わない約束でしょ?」という不文律に従って言わない方がいいことがこの世の中にはあるのです。

私が思う「それは言わない約束でしょ?」の一つは、大人が子どもに対して言う、

「学校が悪い」、「あの先生はダメ」という学校批判、先生批判の言説です。

学校で、子どもたちの間で、トラブルが起きると、わが子を叱るのではなく、

真っ先に批判の矛先を学校に向けるのが昨今の日本の風習です。

子どもにいじめはいけないよ、と言っている大人自身が寄ってたかって学校や先生をいじめている。

私の目にはそのようにも映るのですが、私の子ども時代は決してそうではありませんでした。

子どもの頃、家庭訪問の際に、うちの親は「悪い事したら厳しく叱ってくださいね」と確かに先生に言っていました。

親父に至っては「殴っていいよ」とさえ言っていました。

それだけ、「先生」という存在に社会が信頼を置いていた時代でした。

この様に、何かトラブルが起きたら、とりあえず学校のせいにする、先生のせいにするというのは、普遍的に正しい振る舞いではなく、

現代の日本という限定的時空間でのみ正しいと信じられている問題対処の方法です。

そして、その「学校が悪い」「先生が悪い」という大人の発する言葉が、子どもたちから学びの機会を奪っている。

そういう側面があるのではないかと私は考えています。

 

=「先生はえらい」という作り話=

人が何かを学び取りたいと思う人はどんな人でしょうか?

確かに反面教師という言葉はありますが、基本的に人は「この人は自分の知らない何かを知っている」と信じることなしに、人から何かを学び取ろうとは思えないものです。

今、「信じる」という言葉を使いましたが、その信憑は世間一般に広く認められた事実なのかもしれませんし、その人の単なる個人的思い込みのレベルでしかなのかもしれません。

でもそれは、思い込みでも幻想で構わないと私は考えます(その対象がカルト宗教の教祖などという場合は別ですが)。

「この人は自分の知らない何かを知っている先生だ!」と思い込んでいる人は、先生の咳払い一つにも、何かのメッセージを汲み取ろうとします。

「今このタイミング、この場所で発せられたこの咳払いには、何か重要な意味があるのではないか?」

「先生」というものを持った人間は、このような自問自答のモードに突入し、先生が教えてもいないことを自分でどんどん学び取り、人間的に勝手に成長していきます。

だから客観的に見れば、その辺にいる普通のおじさん、おばさんであったとしても、

当の本人が「この人は自分の知らない世界の秘密を知っている先生だ!」という信憑さえ抱いていれば、

そのおじさんとおばさんはその人にとっての先生として充分機能し得るのです。

ジャック・ラカンというとても頭の良い哲学者も以下のように言っています。

“人は知っているものの立場に立たされている間は常に十分に知っているのです。

誰かが教えるものの立場に立つ限り、その人が役に立たないということはありません。”

学びを担保しているのは、煎じ詰めれば教える側の技量や知識それ自体ではなく、「この人は自分の知らない何かを知っている」という先生に対する信頼である。

そうラカンは述べています。

特段立派でもなく心清いわけでもないこの私が、先生という立場を演じさせてもらっている事実からも、この言葉は十分信じるに足るものだと思います。

学びを担保するものが教壇の向こう側に立つ人間に対する信頼であるならば、

例えまだ先生の力量が伴わなくとも、例え先生への敬意がその人の個人的思い込みのレベルであったとしても、

「先生はえらい」という物語を社会で共有しているほうが、子どもたちはそこから多くを学び取ることができるのではないでしょうか?

「そんな作り話でいいんですか?」というご意見もありそうですが、そういう作り話を信じることで私たちの社会は回っています。

例えば、私たちが一万円札という紙切れには一万円分の価値がある、という作り話を信じているから、貨幣を介した経済活動は成り立っているわけです。

例えば、私は日本という国に住む日本人ですが、それは生物学的に日本人固有の特徴を持ってこの世に誕生したからではなく、

この時代この場所で生まれた人間を日本人と定める、という社会的に合意された作り話が、私を日本人足らしめているだけなのです。

このように世界のあちこちには作り話が織り込まれているわけですが、

それを信じることで日々の生活がスムーズになり、人間のパフォーマンスが向上するのであれば、私はそれが例え作り話の類であっても信じるに値すると考えます。

だから「先生はえらい」というのが例え作り話であったとしても、それが子どもの学びを促してくれるのであれば、私はそれを信じていたいと思うのです。

 

=子どもの学びを阻むもの=

学びを担保するものが、教壇の向こう側に立つ人間に対する信頼であるならば、

大人の言う「あの先生じゃねぇ、、、」「学校がダメなんだよ」という言葉が、子どもたちの学びを促す方向に作用することはあり得るでしょうか?

子ども頃の大人の言葉は、その子にとって大きな影響力を持ちます。

子どもたちの学びの場に対する信頼を損なうような発言を、周りの大人は控えるべきだと私は思います。

「自分は知らない」という認識を抱けない人間は、もう新たに何かを学ぶことをしないでしょう。

「自分はまだ何も知らない」という認識が、人を学びに駆り立てるのです。

だから人が学び続けるためには、「自分の無知」を認識させてくれる誰か、つまり先生が必要なのです。

しかし、私たち大人の物言いが、その学びに不可欠な「先生」を、子どもたちから奪っている、そういう側面がありはしないでしょうか?

確かに「ちょっとなぁ、、、」と思う先生もいます。

そういう場合でも、お子さんにそれを聞かせるのではなく、親御さん同士で話し合って必要あらば、学校に相談に行くという手段を取ればよいと思います。

例えそれが実を伴わない作り話のレベルであったとしても、そうと信じることで子どもたちの学びが促されるのであれば、

社会全体で「先生はえらい」という物語をもう一度信じてみる価値が、十分にあると私は考えます。

そしてそれが「やはり幻想であった」と言われぬように、私は日々努めていこうと思うのです。

参考図書:先生はえらい 内田 樹 著

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