前々回のブログでは、
・学校教育の意味を見出だしづらいのは、学校教育というシステムが万人に等しく教育の機会を与える素晴らしいシステムだから
・「学校教育は洗脳」というフレーズを近頃するが、学校教育がなければ世の中にもっとひどい洗脳が横行する
・学校教育は、さまざま改善点はあるものの、子どもたちの思考の幅を広げてくれる素晴らしいシステムである
という内容を綴りました。
それでは、学校教育で教えられている科目を学ぶことで一体何が得られるのか、もっと具体的に考えていきたいと思います。
今日は英語について。
英語を学ぶことで人はいったい何を得られるのでしょうか?
高校生の頃に私が考えていたこと。
・海外旅行のときに便利
・外国人と友達になれる
・女の子にモテそう
最後は別の要素も絡んでくるので一概には言えませんが、それ以外はまさにその通りです。
ただ、これ以外にも英語を学ぶ意味があります。
=構造主義という考え方=
人は自由に思考を繰り広げているように見えて、実は様々な構造に思考を制約されながら生きている。
その構造とは、例えば無意識、例えば社会階層、例えば身体運用法、例えば使用する言語。
これらの構造の中で制約を受けながら思考しているのであって、決して自由自在に思考しているわけではない。
そう主張するのが構造主義という哲学の考え方です。
人の思考を制限するものの中に「言語」が含まれています。
使用言語が人の思考を規定するとは、どういうことでしょうか?
=言語は思考=
著書「大事なものは見えにくい」の中で臨床哲学者の鷲田清一先生は、
“思考は言葉によって編まれるが、それは単に思考形成の手段ではなく、言葉自体が一つの思考である”
という趣旨のことを述べておられます。
例えば日本語で「お金がない」という表現をしますが、
同じ意味合いを英語では、「I have no money.」と表現します。
日本語で所持金を聞かれて「私は0円を持っています。」と答える人はいないと思います。
これは「無」という状態を、文字通り「何も無いこと」と捉える日本語話者と、
「0という状態が存在する」と捉える英語話者の思考の違いを表す良い例だと思います。
また日本語では向き合う他者との関係性によって、一人称が「私」、「俺」、「僕」と変化しますが、英語では一貫して「I」が使われます。
鷲田さんの言葉をお借りすれば、これは“言葉が違えば他者とのまみえ方まで違う”ということを教えてくれます。
=多言語を学ぶ意味=
人は様々な構造の中で思考して生きているのであって、何事にもとらわれることなく、自由自在に思考しているわけではない。
そしてその人間の思考を縛る構造の一つが言語であり、言語によって思考の様式がことなること、他者との交わり方のルールさえも異なること、を見てきました。
こうしてみると、他言語を学ぶことは、海外旅行に便利とか、外国の人と繋がれるとか、様々な意味もあると考えられますが、
母語とは異なる思考の方法を身に着けるという意味もあると言えることがわかります。
それは、単言語話者と複数言語話者が同時に同じ景色を見ていたとしても、複数言語話者は、一つの景色を二つの世界観で眺められることを意味しています。
他言語を学ぶことによって得られるもの、それは単言語話者では持ちえない、二つ目の視点なのだと思います。
この文章を綴りながら、一緒に学ぶ子どもたちにそのように感じてもらえるよう、私自身がもっと学んでいかねば、との思いを新たにしました。
次回は歴史を学ぶことで得られるものについて考えてみたいと思います。
=参考図書=
寝ながら学べる構造主義 内田 樹 著
大事なものは見えにくい 鷲田 清一 著