前回、前々回と、原因論の立場で語られる「過去」とは、
客観的事実ではなく主観に基づいて編集される物語のようなもの。
そういう側面もあるのでは、と綴ってきました。
否定的意味付けをした「過去」を自分に繰り返し語り聞かせ続けることで、
現状の自分に対する認識が悪化し、その結果また悪い意味付けをしてしまう。
そんな負のループに陥らないためにも、現状の自分に対する客観的視点を得る必要があります。
自分の認知に対する認知をメタ認知といいますが、メタ認知するためにはどうしたらいいのか?
私は、話を聴ける人に聴いてもらうことをお勧めします。
=聴いてもらうことの意味=
自分に対する客観的視点を得るためにおすすめなのは、
他者に話を聴いてもらうことと綴りましたが、話を聴ける人とはどんな人でしょうか?
的確なアドバイスを出来る人のことでしょうか?
確かにそれも大切なことだとは思いますが、まずはその人の話に丁寧に耳を傾けられる人です。
以前ブログで傾聴について書きましたが、
話を聴くことの三大原則、頷き、おうむ返し、沈黙で見守る、このことを理解している人。
それが私が思う話が聴ける人です。
話が聴ける人に、自分を映す鏡になって聴き続けてもらうことで、
自分が自分に不当に課していた悪い意味付けを客観視できるようになれます。
その結果、自分のイメージを悪くする負のループから抜け出せるようになっていくのです。
=新しい意味付けを得る=
話を聴いてもらうことで、自分自身に課していた否定的意味付けに気づけると書いてきました。
聴いてもらうことの効用はそれだけではありません。
他者に話を聴いてもらうことで、否定的意味付けに代わる新しい意味付けを手にすることができます。
「過去」とは、現在の自分自身に対する認識を正当化するために意味付けを施した物語のようなもの、と述べてきましたが、
自分自身に対する否定的意味付けに気づきその呪縛から自由になることで、
現在の自分自身に対する認識の仕方が少しづつ良いものに変化して行きます。
現状の自分に対する認識が良いものに変化していけば、自分自身の過去に対する認識の仕方も変わってきます。
新しく肯定的意味付けをされた「過去」という物語が出来上がることで、
その新しい物語を自分の拠り所として生きていけるようになる。
これも話を聴ける他者に話を聴いてもらうことの効用です。
=子どもたちが望むもの=
以前にもブログに書いたかもしれませんが、私の両親は共働きで父も母も大変忙しい人たちでした。
私自身高校に馴染むことが出来ず辛い気持ちを抱えていたのですが、
仕事から疲れて帰ってきた両親を見ていると、そんな話はとても出来ませんでした。
自分の辛い気持ちを押し込めて、家の雰囲気が少しでも明るくなるようにと、わざとお道化てみせたり。
これも恣意的に作り出された「過去」なのかもしれませんが、私にはそんな記憶があります。
そういう自分の経験からも、子どもたちが望むもの、それは親御さんの笑顔なのではないか、と私は考えます。
そうであるならば、原因論に囚われて自分が作り出した否定的「過去」でご自身を責める事、苦しめる事。
それはお子さんの望みとは対極にあるものではないでしょうか?
もし今、ご自身の今までに否定的な意味付けをされ苦しんでいらっしゃるならば、どうぞご自身を責めないでください。
子どもたちが望むもの、それは大好きな親御さんの笑顔なのですから。
予定ではアドラー心理学の用語である「課題の分離」について記すつもりだったのですが、
原因論にとらわれて苦しい気持ちになっている方にどうしても伝えたいとの気持ちから、少し寄り道をすることに致しました。
次回は予定通り「課題の分離」という概念について紹介し、子どもを自立させるとはどういうことかを考えてみたいと思います。
続きます。