前回はアドラー心理学の原因論と目的論について綴りました。
原因論に囚われて「私の育て方が悪かったからこうなった」と、親御さんがご自身を責めることで気持ちが沈み込み、
それに同期するようにお子さんの状態も沈みこんでいく。
そういう原因論の負のループに陥らないためにも、目的論という別の視点化から状況を眺めてみることで、違う対応方法が見えてくる。
前回はそのようなお話を綴りました。
そもそも原因論で語られる「過去」というものは、客観的事実ではなくその人の主観が作り出した物語なのではないか?
今日はそのようなお話を綴ります。
=過去は前未来形で語られる=
フランスのジャック・ラカンという頭のとても良い哲学者が以下のように述べています。
「私たちの過去の記憶は、前未来形で語られる」
前未来形とはフランス語の文法用語で、英語で言うところの未来完了形のことです。
未来の一時点を想起して、その時にはすでにこのような状態である、という内容を述べるために用いられる表現です。
例を挙げましょう。
I will have finished my homework when my friends come.
訳:友人たちが来る頃には、私は宿題を終えていることでしょう。
友人がやってくるという未来の一時点を想像し、その時までに私は宿題を終えた状態になっているだろう、と表現しているわけです。
これが前未来形、未来完了形です。
=「過去」という名の物語=
話は戻ってジャック・ラカンの言葉について。
人は過去の自分について物語るとき、すでに話し終えた未来の一時点を想像して、
自分は「これこれこういう人間です」と相手に理解してもらうために、選択的に自分の過去を回想する。
ジャック・ラカンはそう述べています。
例えば、目の前の人に清廉潔白な人だと思ってもらう、という目的を遂げるために、
自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に清廉潔白さを印象づけるエピソードだけを語る。
例えば、目の前の人に邪悪な人間だと思ってもらう、という目的を遂げるために、(その人から嫌われたい何かしらの理由があるのでしょうね。)
自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に邪悪さを印象づけるエピソードだけを語る。
清廉潔白でないエピソード、邪悪でないエピソードなど山ほどあるにも関わらず、
話し終えたときに、目の前の人にこういう人だと思ってもらうという目的を遂げるために、
無意識的にエピソードを選りすぐり、自分の過去から一筋のストーリーを紡ぎ出して語る。
私たちが過去を物語るとき、そのような操作が自分でも気づかぬ間に為されているのです。
そういう視点に立って考えてみると、人の過去とは客観的事実ではなく、
ある目的を遂げるために編まれた主観的事実でしかない、とも言えるのではないでしょうか。
ちょっと長くなりましたので、続きは次回に。
参考図書:疲れすぎて眠れぬ夜のために 内田 樹 著