前回のブログで気持ち一杯で動けなくなった子どもを受け容れるとは、好き放題させることではない、と綴りました。
受け容れるとは何かを考える上で、優しさとは何かを考える必要があります。
優しさとは何でしょうか?
私は優しさには二種類あると考えます。
母性的優しさと父性的優しさです。
母性的優しさは、受け容れる、包み込む、というイメージ。
父性的優しさは、区別する、教化する、というイメージです。
抽象的で分かりづらいので、具体例を挙げてみたいと思います。
例えばお子さんが学校で先生に叱られて帰ってきたとします。
その時に、「先生に叱られて辛かったね。もう大丈夫だよ。」と子どもの気持ちを汲み取り味方をしてあげるのが、母性的優しさ。
一方で、「先生の言う通りだ。なんでそんなことをするんだ!」と子どもにルールを教えるために叱るのが父性的優しさです。
具体的にどのような理由で叱られたのか、その出来事がどういう文脈で起きたのかなど、詳しくわからなければ、どういう対応が適切かは判断できません。
しかし、優しさにはこの二種類があり、片方だけでは優しさとして機能せず、両方が必要なのだということです。
昨日のブログに書いた、ゲームやネットを好き放題使わせる、欲しいものは何でも買い与える、暴言、暴力に対して抗わない、などの対応は、
母性的優しさの過剰と捉えられるのかもしれませんが、それは違います。
これらの対応は優しさではありません。
無関心です。
なぜこれらの行為を許容してしまうのかと言えば、そうさせておく方が楽だからです。
その無関心を感じ取りこちらに関心を向けてもらおうと、子どもたちの行動はエスカレートしていくのです。
それでは、これらのケースで母性的優しさ、父性的優しさとはどのように発揮されるのでしょうか?
例えばゲーム依存について考えてみます。
母性的優しさであれば、なぜその子がゲームに没頭してしまうのか分かろうとすることです。
その子がどのような気持ちでその行為をしているのか、関心を持って耳を傾けることです。
父性的優しさであれば、ゲームばかりしているのは当然身体に悪いわけですから、
力ずくで取り上げるなどの、ダメなものはダメとルールを子どもにしっかりと教える事です。
どちらの方法も表現方法は違えど、子どもに関心があることでは共通しています。
この両方がバランスしていて、初めて優しさとして機能するのです。
だからお子さんが、自分を害するような問題行動をしているときは、父性的優しさでダメなものはダメと伝え、
そのうえで母性的優しさで、その子がどうしてそのような訴えをしてくるのか分かろうとする、という二段構えの対応が必要になってきます。
ダメなものはダメと伝える過程で、お子さんと感情的なぶつかり合いが起きるかもしれませんが、それも必要なことです。
自分に関心を持ってくれているのだというメッセージとして、子どもたちに届くはずだからです。
続きます。