家庭内暴力。
夜遊び。
ネット・ゲーム依存。
このようなお子さんの理不尽な行動に悩まれている親御さんもいるかと思います。
なぜ子どもたちはこのような、自分を、他者を害するような理不尽なふるまいをするのでしょうか?
理屈で考えてみても理解できない行動の裏には、感情が絡んでいる場合があります。
私は相田みつをさんの著書が好きで以前よく読んでおりましたが、相田さんの著書に、
“人は理屈で動くのではない、人は感じるから動く。
だから理動という言葉はなく、感動という言葉があるのだ。”
という内容のエッセイがありました。
人を強く動かすもの、それは理屈ではなく、感情です。
そして感情が人を強く突き動かす場合、本人はその感情に気が付いていない場合が多いです。
その抱え込んだ感情は何でしょうか?
私は寂しさだと感じます。
抱え込んだ寂しさを理解してもらえないことで、その気持ちがやがて怒りに転化し、
自分や他者を害するような理不尽な行動に走らせてしまうのではないでしょうか?
=駅の子=
先日私はNHKスペシャルで「駅の子」という番組を見ました。
第二次世界大戦の終戦直後、
親を失くし戦争孤児となった子どもたちが、日本中の駅で暮らしていました。
彼らは「駅の子」と呼ばれ、物乞い、窃盗、靴磨きなどをして生き延びていました。
終戦直後、大人たちは自分のことで精一杯。
誰も「駅の子」を助けてくれる大人はいません。
助けてくれないどころか、社会の風紀を乱す存在として忌み嫌われ、
差別されたり、蹴飛ばされたり、棒で叩かれたり、まるで野良犬のように扱われたそうです。
その番組の中で小倉勇さんという方が、ご自身の体験を語っておられました。
小倉さんは福井県で戦争中に親を失くし、その後は親せきの家に預けられていましたが、
親せきからの言葉の暴力に耐えかね家出し、駅の子となりました。
二年弱にわたり全国を転々とする中で、身体を壊しほぼ視力を失いました。
行動を共にしていた友達のカメちゃんは、孤独感にやられて線路に飛び込み自ら命を絶ちました。
「なんで自分だけがこんな思いをしなければならないんだ!」
「これから徹底的に社会に逆らって生きてやる!」
小倉さんはそう思ったそうです。
その後京都の伏見にある保護施設で保護された小倉さん。
そこでも先生に対してずっと反抗的な態度をとり続けていました。
ある日、一人の先生が小倉さんを銭湯に連れて行ってくれました。
小倉さんは全国を転々とする間に疥癬(かいせん)と呼ばれる皮膚の病気にかかっていました。
そんな自分の背中を先生は洗い流してくれた。
本当にうれしかったそうです。
「まじめにならないかん」
小倉さんはそう思ったそうです。
小倉さんはこうも仰っていました。
「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えていた、着るものもなかった、寒かったしね。だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」
=新たな視点を得ること=
お子さんの理不尽なふるまいに対して、
そばで対応される親御さんも怒りがわいてくることがあるかと思います。
私自身、子どもたちと接していて、「一体何なんだ!」という気持ちが沸き上がってくることもあります。
ただ、「その理不尽なふるまいの裏には抑え込んだ寂しさがある」という視点があると、
目の前のお子さんの振る舞いもまた違って見えるのではないでしょうか?
そしてそういう理不尽な振る舞いは誰にでもぶつけてくるものではありません。
この人ならば、こんな振る舞いをしても受け入れてくれる。
そういう深い信頼のある人だからこそ、子どもは理不尽な行動を通して怒りや寂しさをぶつけてきます。
これらの視点を持つことで、お子さんのふるまいの見え方が少し変わってくるのではないでしょうか?
「寂しさがそうさせている」という視点があれば、
必要なのは、怒りに怒りで対応することではなく、受け容れてあげることなのだと気づけるのではないでしょうか?
価値観が変わるとは、新たな視点をえること、新たな言葉を得ることです。
「寂しさ」という感情が人を理不尽な行動に駆り立てる。
この視点があれば今までと違った対応ができると思います。
それではなぜ子どもたちは心に寂しさを抱えるに至るのでしょうか?
そういう風に考えていくと、不登校、引きこもり、問題行動というのは、
個人の問題ではなく、社会全体の問題なのだと私は強く感じます。
「だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」
終戦当時の小倉さんの言葉は、現代を生きる子どもたちの気持ちを代弁しているようにさえ聞こえます。
この言葉に自分はどう応えていけばいいのか。
考え行動していかなければと思います。