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課題の分離 ~それはだれの課題か?~

ここしばらく、アドラー心理学の知見についてシェアしております。

前回の記事では、

「あんたのためを思って言ってるのよ!」は、「あんた」のためではなく、「私」のために発せられる言葉なのではないか?

という内容を綴りました。

今回は「課題の分離」という考えについて。

 

=「それは誰の課題か?」=

アドラー心理学には「課題の分離」という言葉があります。

人が生きていく中で、解決していかなければいけない課題が様々あります。

学校の課題、仕事、家族や友人などの人間関係、様々な課題があります。

その様々な課題が誰が負うべき課題かを明確にして、自分と他者の課題を区別しましょう、というのが「課題の分離」の考え方です。

例えば、お子さんが宿題をしない、持ち物を確認しない、部屋を掃除しない。

そういう決断をすることで、その最終責任を引き受けるのは誰でしょうか?

宿題をしないことで、“お子さんが”学校の勉強がわからなくなる。

持ち物を確認しないことで、“お子さんが”忘れ物をして困る。

部屋を掃除しないことで、“お子さんが”探し物が見つからなくて困る。

こうして考えてみると、例に挙げた三つの決断の最終責任を引き受けるのは、親御さんではなくお子さんであることが分かります。

そうであるならば、それは親が立ち入るべき課題ではなく、子どもの課題であるといえます。

人間関係で起きるトラブルの多くは、他者の課題に踏み込んでしまうこと、自分の課題に踏み込ませてしまうこと、によって引き起こされるのではないでしょうか?

「親しき中にも礼儀あり」という言葉もありますが、どんな人間関係にも適切な距離感が必要で、誰の課題かを明確にするだけで、人間関係は驚くほどシンプルになる、とアドラーは述べています。

他者の課題に踏み込まない、自分の課題に踏み込ませない。

これを意識することが、一見複雑に見える人間関係を解きほぐす上で大切になってくるのだと私は考えます。

次回に続きます。

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「あんたのためを思って言ってるのよ!」 ~課題の分離~

アドラー心理学の知見についてシェアしております。

原因論と目的論のお話から派生して、過去というのは客観的事実ではなく主観的に意味付けされた物語のようなものであること、

だから原因論に縛られて、ご自身を責めたりなさらないでください、と書いてきました。

一度話が逸れましたが、またアドラー心理学のお話に戻りたいと思います。

今回は「課題の分離」というお話について。

 

=「あんたのためを思って言ってるのよ!」=

お子さんが宿題をやらない。

忘れ物が減らない。

部屋が汚い。

そんな時、お子さんを心配するがゆえに、

ついつい「勉強しなさい!」と言ったり、持ち物チェックをしてあげたり、代わりに部屋を掃除してあげたり。

そんな親御さんも多いのではないでしょうか?

かくいう私も、子どもたちと一緒に勉強しているとき、問題の解き方が間違っていると、

「いやいや、それ違うでしょ。」などとついつい口をはさんでしまうことがあります。

そんな時に自分の心の中を省みてみると、それは子どものためではなく、

「せっかく教えたところを間違わないでほしい」という自分の都合である場合が多いように思います。

「あんたのために言ってるのよ!」

自分自身を含め、大人が子どもに対して口にしがちな言葉ですが、

実はその言葉は「あなた」のためではなく、「私」のために発せられている言葉。

そんなことはないでしょうか?

続きます。

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客観的視点を得るために

前回、前々回と、原因論の立場で語られる「過去」とは、

客観的事実ではなく主観に基づいて編集される物語のようなもの。

そういう側面もあるのでは、と綴ってきました。

否定的意味付けをした「過去」を自分に繰り返し語り聞かせ続けることで、

現状の自分に対する認識が悪化し、その結果また悪い意味付けをしてしまう。

そんな負のループに陥らないためにも、現状の自分に対する客観的視点を得る必要があります。

自分の認知に対する認知をメタ認知といいますが、メタ認知するためにはどうしたらいいのか?

私は、話を聴ける人に聴いてもらうことをお勧めします。

 

=聴いてもらうことの意味=

自分に対する客観的視点を得るためにおすすめなのは、

他者に話を聴いてもらうことと綴りましたが、話を聴ける人とはどんな人でしょうか?

的確なアドバイスを出来る人のことでしょうか?

確かにそれも大切なことだとは思いますが、まずはその人の話に丁寧に耳を傾けられる人です。

以前ブログで傾聴について書きましたが、

話を聴くことの三大原則、頷き、おうむ返し、沈黙で見守る、このことを理解している人。

「聴く」とは何か?

それが私が思う話が聴ける人です。

話が聴ける人に、自分を映す鏡になって聴き続けてもらうことで、

自分が自分に不当に課していた悪い意味付けを客観視できるようになれます。

その結果、自分のイメージを悪くする負のループから抜け出せるようになっていくのです。

 

=新しい意味付けを得る=

話を聴いてもらうことで、自分自身に課していた否定的意味付けに気づけると書いてきました。

聴いてもらうことの効用はそれだけではありません。

他者に話を聴いてもらうことで、否定的意味付けに代わる新しい意味付けを手にすることができます。

「過去」とは、現在の自分自身に対する認識を正当化するために意味付けを施した物語のようなもの、と述べてきましたが、

自分自身に対する否定的意味付けに気づきその呪縛から自由になることで、

現在の自分自身に対する認識の仕方が少しづつ良いものに変化して行きます。

現状の自分に対する認識が良いものに変化していけば、自分自身の過去に対する認識の仕方も変わってきます。

新しく肯定的意味付けをされた「過去」という物語が出来上がることで、

その新しい物語を自分の拠り所として生きていけるようになる。

これも話を聴ける他者に話を聴いてもらうことの効用です。

 

=子どもたちが望むもの=

以前にもブログに書いたかもしれませんが、私の両親は共働きで父も母も大変忙しい人たちでした。

私自身高校に馴染むことが出来ず辛い気持ちを抱えていたのですが、

仕事から疲れて帰ってきた両親を見ていると、そんな話はとても出来ませんでした。

自分の辛い気持ちを押し込めて、家の雰囲気が少しでも明るくなるようにと、わざとお道化てみせたり。

これも恣意的に作り出された「過去」なのかもしれませんが、私にはそんな記憶があります。

そういう自分の経験からも、子どもたちが望むもの、それは親御さんの笑顔なのではないか、と私は考えます。

そうであるならば、原因論に囚われて自分が作り出した否定的「過去」でご自身を責める事、苦しめる事。

それはお子さんの望みとは対極にあるものではないでしょうか?

もし今、ご自身の今までに否定的な意味付けをされ苦しんでいらっしゃるならば、どうぞご自身を責めないでください。

子どもたちが望むもの、それは大好きな親御さんの笑顔なのですから。

 

予定ではアドラー心理学の用語である「課題の分離」について記すつもりだったのですが、

原因論にとらわれて苦しい気持ちになっている方にどうしても伝えたいとの気持ちから、少し寄り道をすることに致しました。

次回は予定通り「課題の分離」という概念について紹介し、子どもを自立させるとはどういうことかを考えてみたいと思います。

続きます。

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過去という名の物語 ~現在が過去を規定する~

ここ数回、アドラー心理学の知見をシェアしております。

原因論と目的論について綴ってきましたが、お子さんの不登校について悩まれている親御さんの中には、

「私の育て方が悪かったから、、、。」と原因論の立場からご自身を責めていらっしゃる方が多いと感じています。

前回のブログでは、原因論の根拠となる「過去」は、必ずしも客観的事実ではなく、

目の前の人に「私はこういう人間です」と認識してもらうという目的を果たすために、

選択的に回想される主観的事実、物語のようなものであると綴りました。

他者に対して過去を物語るとき同様、

私たちが頭の中で自分の過去を回想するときも、ある目的を持って思い返しているのではないか?

今回はそんな話を綴って参ります。

 

=現在が過去を規定する=

辛い気持ちを抱えているとき、辛い過去を思い出しやすい。

幸福感を抱えているとき、幸せな過去を思い出しやすい。

そんな経験はありませんか?

人は現状に対する認識を正当化するように過去を回想する。

学術的根拠はありませんが、私は自分の経験からそのように感じます。

自分の現状に対して、しんどい、辛い、そういう感情を抱いているならば、

そのしんどさや辛さを合理的に説明するのに都合の良いエピソードを選択的に回想する。

例えば、今自分がこんなに辛いのは、あのとき自分があんな振る舞いをしたからだ、とか。

逆に、現状に対して幸福感や充実感を抱いているならば、

その幸福感や充実感を合理的に説明するのに都合の良いエピソードを回想する。

例えば、今こんなに充実感を抱けるのは、あの時にあの人があんな風に自分に接してくれたからだ、とか。

つまり、客観的事実としての過去が存在するのではなく、その時その時の自分の現状認識が過去を規定している。

私は自分自身の経験からそのように考えます。

 

=負のループに陥らないために=

そうであるならば、原因論に縛られて過去を振り返り自分を責めてみても、

現在の自分に対する認識がどんどん悪くなり、

さらにその悪化した現状認識を正当化するように、自分の過去にさらに悪い意味付けをしてしまう。

そんな負のループに陥ってしまうのではないでしょうか?

今現在の自分自身に対する認識が、過去の意味付けを規定するならば、

ご自身を責めるよりもまず、ご自身の現状に対する認識に偏りがないかを客観視し、

その偏った認識を少しずつバランスの取れたものに変化させていけば良いのではないでしょうか?

認知に対する認知をメタ認知といいます。

つまり、自分はどういう認知の仕方の癖があるのかを認知する、ということです。

認知の仕方の癖を客観的視点から認知し、その偏りに補正をかけていくことで、

自分自身に対する認識がどんどん悪くなっていくという負のループに陥らずに済むのです。

 

当たり前の話ですが、人は365日、24時間自分という人間と一緒にいます。

常に一緒にいるこの「自分」という枠を離れて自分を客観視するのは、決して簡単なことではありません。

自分の認知の仕方に対する認知を得るには、自分自身を客観的に振り返るには、どうすれば良いか?

次回は、そんな内容を綴ろうと思います。

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「過去」という名の物語

前回はアドラー心理学の原因論と目的論について綴りました。

原因論に囚われて「私の育て方が悪かったからこうなった」と、親御さんがご自身を責めることで気持ちが沈み込み、

それに同期するようにお子さんの状態も沈みこんでいく。

そういう原因論の負のループに陥らないためにも、目的論という別の視点化から状況を眺めてみることで、違う対応方法が見えてくる。

前回はそのようなお話を綴りました。

そもそも原因論で語られる「過去」というものは、客観的事実ではなくその人の主観が作り出した物語なのではないか?

今日はそのようなお話を綴ります。

 

=過去は前未来形で語られる=

フランスのジャック・ラカンという頭のとても良い哲学者が以下のように述べています。

「私たちの過去の記憶は、前未来形で語られる」

前未来形とはフランス語の文法用語で、英語で言うところの未来完了形のことです。

未来の一時点を想起して、その時にはすでにこのような状態である、という内容を述べるために用いられる表現です。

例を挙げましょう。

I will have finished my homework when my friends come.

訳:友人たちが来る頃には、私は宿題を終えていることでしょう。

友人がやってくるという未来の一時点を想像し、その時までに私は宿題を終えた状態になっているだろう、と表現しているわけです。

これが前未来形、未来完了形です。

 

=「過去」という名の物語=

話は戻ってジャック・ラカンの言葉について。

人は過去の自分について物語るとき、すでに話し終えた未来の一時点を想像して、

自分は「これこれこういう人間です」と相手に理解してもらうために、選択的に自分の過去を回想する。

ジャック・ラカンはそう述べています。

例えば、目の前の人に清廉潔白な人だと思ってもらう、という目的を遂げるために、

自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に清廉潔白さを印象づけるエピソードだけを語る。

例えば、目の前の人に邪悪な人間だと思ってもらう、という目的を遂げるために、(その人から嫌われたい何かしらの理由があるのでしょうね。)

自分が既に話し終えた未来の一時点を想像して、自分の過去から選択的に邪悪さを印象づけるエピソードだけを語る。

清廉潔白でないエピソード、邪悪でないエピソードなど山ほどあるにも関わらず、

話し終えたときに、目の前の人にこういう人だと思ってもらうという目的を遂げるために、

無意識的にエピソードを選りすぐり、自分の過去から一筋のストーリーを紡ぎ出して語る。

私たちが過去を物語るとき、そのような操作が自分でも気づかぬ間に為されているのです。

そういう視点に立って考えてみると、人の過去とは客観的事実ではなく、

ある目的を遂げるために編まれた主観的事実でしかない、とも言えるのではないでしょうか。

ちょっと長くなりましたので、続きは次回に。

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参考図書:疲れすぎて眠れぬ夜のために 内田 樹 著

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原因論と目的論 ~不登校の目的~

先日、友人からアドラー心理学の読書会に招待してもらいました。

アドラー心理学について書いた書籍「嫌われる勇気」はだいぶ前に出版されたものですが、

今でも本屋さんの目立つ位置に置かれているロングセラーです。

一度では到底理解できず、私は三回読み返しましたが、読書会を機にもう一度読み返してみました。

「嫌われる勇気」をはじめ、アドラー心理学の書籍には、子どもを自立に導くためのたくさんのヒントがあると感じます。

様々気づくことがあったので、今回はアドラー心理学を通して子どもたちを自立に導く方法について綴ってみようと思います。

=原因論と目的論=

アドラー心理学の祖であるアルフレッド・アドラーは、フロイト、ユングとともに有名な心理学者で、

かつてはともに学び合う仲でしたが、それぞれの学説の違いから袂を分かつに至ります。

その一つが原因論と目的論です。

フロイトの心理学では、過去の出来事(トラウマ)が原因となって今の問題が起きている、という原因論の立場をとります。

例えば、ある人が人との関わりを持とうとしないのは、過去に人間関係で痛い目にあった心の傷があるから、というのが原因論の考え方です。

一方アドラーが唱えるのが目的論です。

今の問題行動はある目的を果すためになされている、という考え方を取ります。

例えば、ある人が人との関わりを持とうとしないのは、人との関わり合いを避けることで自分は傷つかずにいられる、という目的を果たすため。

これが目的論の考え方です。

=トラウマは存在しない?=

原因論ではなく目的論を採用するアドラー心理学では、過去の出来事が原因で今の問題が起きているという、トラウマの考え方を否定します。

ただ現在では脳科学の研究が進み、虐待や育児放棄を受けて育った人は、

偏桃体の大きさが肥大し、ストレスに対する感受性が高くなる、

などの研究成果も明らかになっているので、私はトラウマを完全には否定できないと考えます。

しかし、不登校の子どもとの関わりを考えるとき、問題を原因論ではなく、目的論で捉えることで見通しが良くなる、そんな場合も多いように感じます。

=問題行動の目的=

不登校、夜遊び、摂食障害、自傷行為、依存症。

子どもたちの問題行動の多くは、多くの親御さんが「私が悪かったんです、、、。」と仰るように、原因論の立場から語られることが多いと感じます。

そして親御さんはご自身を責めて気持ちが沈み込む。それに同調するようにお子さんの状態も沈んでいく。

そんな場合が多いように感じます。

同じ問題行動を目的論の視点から眺めてみるとどうなるでしょうか?

子どもたちは問題行動を通じてどんな目的を果たそうとしてるのでしょうか?

それは親御さんの関心を得るということです。

子どもはじめ他者に優越することで親の関心を引こうとするが、それが失敗に終わると今度は他者より劣等することで関心を引こうとする。

アドラーはそのように述べています。

問題行動を起こすことで子どもたちは親御さんの関心を得ようとしている。

目的論の立場から眺めてみると、そういう解釈もできる訳です。

=目的論的解決策=

そうであるならば、子どもたちが示す問題行動をやめさせるために、何をすればよいのかが自ずと見えてきます。

それは、子どもたちが求めているものを与えてあげること。

子どもたちに関心を示してあげることです。

原因論的観点からご自身を責めて親御さんが辛い顔をしていても、問題行動だけを力ずくで押さえつけても、

それだけでは子どもたちの問題行動は解決しません。

なぜこの子はこのようなふるまいをするのか、目的論的観点に立ってその子が抱えている問題を分かろうとし続ける姿勢。

それが子どもたちの問題行動を解決するために、とても重要であると私は考えます。

関心を示すというと、子ども自身の問題にあれこれと口をはさんだり、先回りして手助けしたり、

そういうふるまいを想像される親御さんもいらっしゃるかのしれませんが、

アドラーは「課題の分離」という言葉で、そういうふるまいは好ましくないものとして明確に否定しています。

次回はこの「課題の分離」という考え方について。

続きます。

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母性とは何か ~受容と包摂~

前回のブログで、気持ち一杯になって動けなくなった子どもにまず必要なのは、

母性的優しさで受け容れる事、包み込んであげること、とお伝えしました。

私の考える母性とは、受容と包摂なのですが、この言葉だけでは抽象的過ぎて何のことだかわかりづらいと思います。

あくまでも一例に過ぎませんが、私の考える母性の表現の具体例を挙げてみたいと思います。

1、スキンシップ

お子さんが中学生や高校生になっていると、もう抱っこするとか一緒にお風呂に入るとかは難しいと思いますが、

例えば肩を揉んであげる、足をマッサージしてあげるとか、お子さんと肌を触れ合わせる機会を増やしてみる事をお勧めします。

スキンシップをするとオキシトシンというホルモンが分泌され、お互いにリラックスして幸せな気持ちになることが知られています。

2、好きなご飯を作ってあげる

お子さんの好きなご飯を作ってあげてください。

自分の好きなご飯を手間をかけて作ってもらうことは、

「この人は自分に関心を持ってくれているのだな」

という非言語的メッセージとして子どもに伝わります。

料理することに関して私が読んでとても感銘を受けた本があります。

この本を読んで私は料理は愛情表現なのだなと強く感じました。

ここ:食卓から始まる生教育 内田 美智子 著

誰かに大切にしてもらえて初めて、人は自分を大切に思えるようになるのだと感じました。

もし良かったら読んでみてください。

3、話を聴く

これは以前からブログで書いていることです。

話を聴くというのは、アドバイスという形で自分の意見を相手に押し付けることではありません。

相手を、分かりきる事ができない自分とは異なる他者として尊重し、

分かり切れないと分かりつつ、それでも分かろうとすることです。

具体的にどうすることか。

以前書いたブログを御覧ください。

「聴く」とは何か?

4、勇気づけ

これはアドラー心理学の知見です。

褒めるも叱るも評価の言葉であり、言葉をかけられた人に対して絶対的な安心感を与えるものではありません。

勇気づけとは、そのような評価の言葉ではなく、その人の存在に感謝する言葉です。

例えば、お子さんが朝起きてきたら、

「今日も○○の元気な顔が見られてうれしい」とか、

家の手伝いをしてくれたら、

「助かったよ、ありがとうね」とか、

ご飯をきれいに全部食べてくれたら

「おいしそうに食べてくれてうれしかったよ」とか、

その人の行為を評価するのではなく、その人の存在や行為に対して感謝や喜びを伝えることです。

以上私が考える母性の具体例を綴ってみました。

このような接し方を通じて子どもたちの心に安心感が生まれやがて立ち上がっていく、

そういう事例が多いです。

一朝一夕で変わることはありませんが、続けることでゆっくりゆっくりお子さんが変化していきます。

どうぞご無理のない範囲で試してみてください。

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参考図書:ここ:食卓から始まる生教育 内田 美智子 著

アドラー心理学入門 岸見 一郎 著

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優しさって何だろう? ~寛容さと厳しさ~

昨日のブログでは、優しさについて綴りました。

優しさには、受容する母性的優しさと、区別する父性的優しさがあり、

その両方がバランスして初めて優しさとして機能する。

寛容さと厳しさ、二つあって初めて優しさなのだ。

そんな内容を綴りました。

今の日本には、子どもを叱るという父性的優しさが欠如しています。

感情的になって子どもに怒りをぶつけることはあっても、

理路整然とダメなものはダメ、こうしなさいと諭す父性的優しさがありません。

また子どものやりたいようにやらせています、と言いながら、

それが母性的優しさを装った無関心であることも多いように私は感じます。

感情的に怒ることも、無関心も、意識の矢印が自分自身に向かっていて、子どもの方を向いていません。

子どもたちはその大人の無関心を敏感に感じ取り、わざと関心を引くために問題行動を起こす場合も多いのです。

母性的優しさ、父性的優しさ、優しさにはこの二種類がありますが、

先日も綴りましたが、心の中に自分は自分であって大丈夫なのだという安心感があるからこそ、

人間は外の世界に関心を持ち、一歩を踏み出していけるようになるのです。

その安心感が足りない時に、まず必要なのは、受け容れること、母性的優しさで包摂してあげることです。

それでは、母性的優しさで受け容れる、包み込むとは、具体的にどんなふるまいをすることでしょうか?

続きます。

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