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反省の方法 ~それは事実か解釈か~

夜の授業を終えて家路につく道すがら、車の窓を開けるとあちらこちらからカエルの鳴き声が聞こえます。

代掻きと田植えを終えた田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声です。

人によってはうるさいと感じるのかもしれませんが、私は田舎で生まれ育った人間なので、子どもの頃からこの鳴き声を聞きながら育ちました。

大人になった今でも、春になってこのカエルの鳴き声を聞いていると、とても安らいだ気持ちになります。

「三つ子の魂百まで」というのは、本当にその通りですね。

私はこれからも春が来るたびにこの鳴き声に安らぎを感じるのだろうと思います。

少雪の影響を受けることなく今年も豊作に恵まれますようにと願っています。

 

前回のブログでは、

・反省とは、客観的視点から自分の過去の振る舞いを振り返り、改善点を見出しそれを現実に反映させること

・起きた出来事を記録し、それを読み返すことで客観的視点から自分の振る舞いを振り返ることが出来ること

という内容を綴りました。

反省の方法 ~本当にそこにリンゴはあるか~

もちろんただ、出来事を記録するだけでも良いのですが、より客観的な視点を得るためには、記録の仕方にはコツがあります。

ここまでが前回の内容です。

今回は、より客観的視点を得るための出来事の記録の仕方について綴ります。

 

例えばある日、こんなことがあったとします。

<ケース1>

職場の同僚の何人かが、向こうの方でヒソヒソと話をしている。

自分の悪口を言われているのではないか、と感じてすごく嫌な気持ちになった。

<ケース2>

朝、子どもに「おはよう」と挨拶をしたら、返事が返ってこなかった。

無視されたように感じて、怒ってしまい喧嘩になった。

ケース1、ケース2のような出来事があって、それを記録したとします。

確かにこれらは一つの出来事なのですが、さらに三つの段階に分けることが出来ます。

三つの段階、それは、事実、解釈、行動または結果の三つです。

 

ケース1で言えば、このように分けられます。

事実:同僚が向こうの方で、ヒソヒソ話をしている

解釈:自分の悪口を言っているのではないか

結果:嫌な気持ちになる

ケース2は以下のようになります。

事実:朝、子どもに挨拶をしたら返事が返ってこなかった

解釈:自分を無視している

行動:腹が立って喧嘩になる

先日の記事と関連づければ、この「事実」とは客観のことであり、「解釈」が主観です。

人は誰でも自分自身の主観から完全に自由になることは出来ないのですが、この主観、つまり解釈が、起きた出来事を、事実のままに客観的に見ることを邪魔するのです。

起きた出来事をただ記録するだけでは、それが誰の目にも客観的な事実なのか、自分の解釈が介入し事実と主観が混然一体となった自分自身の創作物なのか、を判別することはできません。

しかし一つの出来事を、事実、解釈、行動または結果の三要素に分類することで、

自分の解釈がその行動や結果を引き起こしていること、そしてその出来事に対して別の解釈の余地があること、そしてその別の解釈を採用していれば別の行動または結果に繋がっていたこと、

これらのことに自覚的になることが出来るのです。

先ほどのケース1で言えば、自分以外の誰かの噂話をしているのかも、という解釈もあり得ますし、ケース2で言えば、お子さんがなにか他の考え事をしていて聞こえていなかった、という解釈もあり得ます。

このような別の解釈をしていたら、嫌な気持ちになる、とか、腹を立てて喧嘩になる、とは別な行動が起こったはずです。

 

ただ起きた出来事を記録するだけでも、それなりに客観的な視点を得ることはできるのですが、

このように起きた出来事を、事実、解釈、行動の三要素に分類するだけで、起きた出来事を、自分の主観と客観に分けることが出来るので、より客観性を獲得できるようになります。

そして、その三つの段階に分けた記録を後から読み直すときに、自分が事実に分類し客観的であると思い込んでいたことの中にも、まだ自分の主観が混入していることに気が付き、より客観的視点から自分の、解釈と行動の傾向性を振り返ることが可能になります。

そして必要とあれば、その傾向性を自分の意志で変えていくことも可能になります。

つまり、過去を振り返り自分の振舞いの中に改善点を見出し、現実に反映させるという、「反省」が可能になるということです。

 

今日の内容のまとめです。

・起きた出来事を、事実、解釈、行動または結果の三つに分類し記録する。

・三つに分類し記録することで、自分自身の事実に対する解釈と行動の傾向性を自覚することが出来る。

・その後、記録を読み返すことで、記録したときには客観的事実であると思えたことの中にも、自分の解釈が混ざっていることに気が付き、より客観的に振り返ることが出来る。

ご自身の振る舞いを客観的視点から振り返る際に、ぜひ試してみて頂きたい方法です。

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反省の方法 ~本当にそこにリンゴはあるか~

数日暑い日が続きましたが、今日は朝から五月らしい気持ちの良い風が吹いています。

田植えも始まり、車の窓を開け田舎道を走っていると、どこからか風に乗って土の匂いが香ってきます。

風の肌触り、空気の匂い、空の色、咲いている花。

年齢を重ねる中で、そのような季節の変化に気づき、味わえるようになったのだなぁと感じます。

若いころは年齢を重ねることを単に喪失と考えていましたが、歳を重ねるというのは得るものもたくさんあることに気づいてからは、今までの認識が変わりました。

十年後も年を重ねることで、こんなことが得られたと思えるように、日々を重ねていきたいものです。

 

前回のブログでは、

危機的状況において過去を振り返りご自身を責めてみても、自分で自分のパフォーマンスを下げてしまうこと、

過去を振り返り自分自身を責める「後悔」ではなく、過去の自分の振る舞いに改善点を見出し、今の状況に反映させる「反省」をすることが大切であること、

という内容を綴りました。

生き延びるために必要なこと ~後悔と反省~

それでは具体的に「反省」とはどうすることなのか?

今日はそのことを考えてみたいと思います。

 

反省とは、客観的視点に立って、過去の自分の振る舞いを振り返り、その中に改善点を見出すこと、そしてそれを現状に反映させること。

これを繰り返していければ、人間のパフォーマンスはどんどん向上します。

論理的にはそうなのですが、事はそう簡単ではありません。

なぜなら「客観性」を保つことが難しいからです。

それが何であるかを考えるとき、それが何でないかを考えることで、それ自体に対する理解が深まる、ということがあります。

そこでまず「客観」とその反意語「主観」の定義を見てみたいと思います。

客観:当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考える事。またその考え。

主観:その人ひとりのものの見方。(デジタル大辞泉より引用)

主観と客観の一致を、またはその不一致を論理的に確かめる方法はありません。

例えば今自分の目の前にリンゴが見えているとします。

ここで考えてみて頂きたいのですが、「見えていること」、が「そこに存在していること」を担保していると言えるでしょうか?

「見えていること」はあくまでも、自分にとっての主観です。

だから「見えていること」を以って、そのリンゴが本当にそこに存在しているかどうかを、つまり自分の主観が客観的に真であるかどうかを言い切ることは出来ません。

その客観性を確認しようと思うならば、論理的には自分という人間から脱出して、自分自身を含めて客観視する必要があるのですが、そのようなことは物理的に不可能です。

つまり主観を脱して、完全な客観を得る事は出来ないということです。

それ故に誰の考えの中にも必ずその人にとっての主観が紛れ込んでいます。

私の書いていることの中にも、自分ではそうと気づかずにたくさんの主観が紛れ込んでいるはずです。

過去を振り返り反省するのがそれほど容易ではないのは、今見てきたように「客観性」を確保することが難しいからです。

しかし、完全な客観性を得ることはできませんが、ある程度の客観性を確保することは可能です。

それは何をする事かと言えば、「出来事を記録すること」と「後でそれを読み返すこと」です。

 

先日のブログで「私」という人間はさまざまな人格要素がコミュニティを形成したものである、と綴りましたが、

生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

「私」というコミュニティのメンバーには「過去の私」も含まれます。

「今の私」から見れば「過去の私」は他者であるということ、つまり「出来事を記録した私」は、「それを読み返す私」から見れば、他者であるということです。

先日、ライティングに関する本を読んだのですが、その中のアドバイスに「書いた文章は一晩寝かせること」というものがありました。

作文であれ、ブログ記事であれ、ラブレターであれ、書いている真っ最中は「なんて素晴らし文章だ!」、と思えても、

一晩経って読み返してみると、書き手と読み手の間にあまりにも温度差がありすぎて、お寒い文章に感じられる、そんな経験を持っている方も多いのではないでしょうか?

これがまさに『「記録した私」と「読み返す私」は他者である』ということの意味です。

「今の私」と「過去の私」は他者である、と言ってもそこは一人の人間ですから完全に分断されているわけではありません。

だから完全な客観性を得ることは不可能ですが、出来事を記録し、それを読み返すことで、ある程度の客観的視点を獲得することが可能です。

つまり「記録すること」と「読み返すこと」で、私たちは客観的に反省出来るということです。

 

今日の内容をまとめると、以下のようになります。

「反省」には客観的視点が必要であるが、主観と客観を完全に分けることは物理的に不可能である。

しかし、「出来事を記録すること」と「それを読み返す」ことで、ある程度の客観性が確保できるため、過去の自分の振る舞いを振り返り改善点を見出す、ということが可能になる。

 

出来事を記録し、それを読み返すだけでも、ある程度の客観的視点は得られますが、さらに客観性を高めるためには、記録の仕方にコツがあります。

次回はその記録の仕方について。

続きます。

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生き延びるために必要なこと ~後悔と反省~

コロナ禍で働き方、営業形態の変更を余儀なくされている方が増えていますが、私も先日初めてオンライン授業というものを経験しました。

分かったことは、想像には限界がある、ということです。

どんなに頭であれこれと事前に考えてみても、実際にやってみると想像を超えて様々な不具合が起きるものです。

ただ私の想像力が貧弱なだけかもしれませんが、実践することの大切さを改めて感じた出来事でした。

技術的な面の不具合とは別に、何かが伝わりきらない、そんな印象も受けました。

私はやはり対面で子どもと話したいです。

 

ここ数回、危機的状況を生き延びるために必要なこととは何か、というテーマで考察を展開してきました。

生き延びるために必要なこと ~災害ユートピア~

生き延びるために必要なこと ~ホモサピエンスの生存戦略~ 

生き延びるために必要なこと ~「私」というコミュニティ~

災害が起きたときに、「災害ユートピア」と呼ばれる助け合いのコミュニティが立ち上がること。

それは血縁関係を超えた大規模なコミュニティを形成する、というホモサピエンスの生存戦略に由来すること。

そしてコミュニティは他者との間にだけ存在するものではなく、「私」という存在も一つのコミュニティであること。

そのような内容でここ三回綴って参りました。

 

お子さんの不登校や引きこもりに悩まれている親御さんのお話を聞かせていただくことがありますが、私の知る限りですが、皆さんご自身を責める気持ちを抱えていらっしゃいます。

「私が悪かったんです」

「バカな親でした」

「子どもに申し訳ない」

そのような言葉を口にされる方が多いです。

私はそのような言葉をお聞きするたびに、「そんなことはありません。」とお伝えします。

そのようにご自身を責める言葉を口にされることで、ご自身が、そしてお子さんが力を取り戻すことは無いと考えるからです。

 

私たちの先祖は、血縁関係を超えたコミュニティを形成し、他者と協力関係を築き上げることで、他の人類が滅ぶ中を生き延びて今の繁栄に至ります。

そして「私」という一人の人間も一つのコミュニティであると書きました。

「私」というコミュニティの住人の中には、今現在の人格要素だけではなく、今まで生きてきた人格要素、つまり「過去の自分」や、これから生きることになるであろう人格要素、つまり「未来の自分」も含まれます。

自分自身が危機的状況にあればあるほど、「私」というコミュニティに属する「過去の自分」を責め苛むのではなく、「私」を構成するフルメンバーで協力し合い事態に当たることが肝要だと私は考えます。

自分を責めるような言葉を、ご自身に投げかけても、それで人のパフォーマンスが向上することはありません。

これは、組織に置き換えてみると話が分かりやすいかもしれません。

問題が発生したとき犯人探しがはじまり、しっぽ切りを行い、なぜそのような問題が起きるに至ったのかを考察しようとしない組織がありますが、その組織はきっとまた同じような問題を引き起こすでしょう。

なぜなら、問題の本質が何であったか、その考察が為されていないことに加え、次に切られるのは自分かもしれない、とメンバーが恐怖に駆られてしまい、創造的なアイディアが生まれてこなくなるからです。

そのうような対応で危機的状況を脱することはできません。

危機的状況を生き延びるために必要なことは、コミュニティのメンバーを責める事ではありません。まず協力することです。

 

それでは具体的にどうすることが必要なのか?

後悔ではなく、反省をするということです。

後悔と反省、似ている言葉ですが、私の中では定義が違います。

後悔:過去を振り返り自分自身を責める事

反省:過去を振り返り自分の行動に改善点を見出すこと

先ほど書いたように、後悔が人のパフォーマンス向上に資することはありません。

自責の念に駆られるとき、人の身体は硬直し、呼吸が浅くなり、さらに気分が沈み込み、良いアイディアも浮かんでこなくなるからです。

それに加えて、自分のことで自責の念に駆られる親御さんを見て、お子さん自身も自責の念からパフォーマンスが下がってしまいます。

危機的状況であればあるほど、自分自身のパフォーマンスを下げるようなことをしてはいけないのです。

危機的状況では、後悔ではなく反省を。

それでは、反省するとは具体的にどうすることをいうのでしょうか?

また長くなってしまいましたので次回に続きます。

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変化の時代 ~なぜ考えられないのか?~

前回、前々回のブログでは、

・時代が変化し、良い大学に入って、良い会社に入れば一生安泰という時代は終わったこと

・これからは一人一人が考えることが求められる時代であること

・考えるために必要なのは、「知識」と「理解力」であること

について綴りました。

前々回の記事:変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

前回の記事:変化の時代 ~考えるために必要なこと~

考えることが大切な時代なのですが、日本人はもともと考える事が苦手な国民です。

歴史を振り返って見ればそれは明らかです。

学生時代に、歴史の授業で、遣隋使、遣唐使という言葉を習ったことがあると思います。

政治や法律、文化や宗教、さまざまな分野で日本は、昔から中国大陸、朝鮮半島の真似をし続けてきました。

明治維新、戦後復興では、その物まねの対象が西欧文明に変わっただけで、物まねをするという身の処し方はそのままでした。

つまり、どこかの国で成功している事例を真似することは得意でも、自分たちで考え何かを生み出すということが、日本人はずっと苦手な国民だということが分かります。

なぜ日本人は考えることが苦手なのでしょうか?

歴史が関与するような長い時間スケールで考えたときに、その理由は気候風土や島国であること、などの地理的な条件が関与してくるのだと思いますが、

もっと短い時間スケールでその理由を考えたとき、その答えはズバリ「考える」という訓練をしていないからです。

 

~学校の授業でやっていること~

前回のブログで、頭の使い方はピラミッド型の三層構造になっている、という話を綴りました。

下から数えて、第一層は「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」。

知識の蓄積が理解力を下支えし、理解力が「考える」を下支えする、そのような三層構造になっていると私は考えます。

つまり、「覚える」、「理解する」という頭の使い方の先に、「考える」というさらに高度な頭の使い方があるのです。

ここで学校の授業を思い出してみてほしいのですが、学校の授業でやっている頭の使い方は、「覚える」、「理解する」、「考える」のうちどれでしょうか?

例えば、漢字を「覚える」。

例えば、英単語を「覚える」。

例えば、三角形の合同の証明方法を「理解する」。

例えば、英文法のルールを「理解する」。

例えば、オームの法則を「理解する」。

学校の授業でやっていることを振り返ると、そこで行っている頭の使い方はほとんどが、「覚える」と「理解する」であることが分かります。

その授業のやり方は、試行錯誤を要する「考える」とは違い、非常に効率的に子どもを一定水準まで知的に成長させることが出来るのですが、

それを繰り返すだけでは、いつまでも「考える」ことが出来るようにはならないでしょうし、

人から教えられたことを「覚える」、「理解する」という作業ばかりをこなし続けることで、もっと何かを知りたいという知的好奇心がそがれてしまう恐れもあります。

 

以上のように短期的時間スケールで見たときに、日本人が考えることが苦手な理由は、そもそも「考える」という頭の使い方をしていないことが原因であることが分かります。

このような事を書くと、学校教育批判と捉えられるかもしれませんが、私は学校は、改善すべき点はあるものの、素晴らしい学びの場であると考えています。

先ほども述べたように、「考える」ためには、知識の蓄積と理解力の涵養は不可欠ですし、学力だけでなく、社会性も身に着けられる場所であると考えています。

学校で「考える」という頭の使い方をしていないなら、これから学校でそういう時間を作ればいいじゃないか、という意見もあるかと思いますが、

小学校教員の約55%、中学校教員の約80%が月の残業時間が100時間を超えている現状で、それを学校に求めるのは無理な話です。

「考える」訓練は、それが具体的に何なのかが分かれば、学校でやらずともご家庭で行えることです。

次回は「考える」訓練について。

続きます。

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変化の時代 ~考えるために必要なこと~

先日、子どもが生まれてから初めて、奥さんの実家の魚沼に行ってきました。

息子は、お義父さんとお義母さんにかわいがってもらってニコニコご機嫌に過ごしておりました。

私が田舎で生まれ育った人間だからかもしれませんが、山も川も美しく、人も穏やかな田舎はいいなぁ、とつくづく思いました。

田んぼを覆っていた雪も解け、もうじき田起こしが始まることでしょう。

あの土のにおいが漂ってくると、私は春だなぁと感じます。

久しぶりにのんびりとした時間を過ごせた気がします。

 

~考えるとは何か?~

先日のブログでは、

いい大学に入って、いい会社に入って、そこで定年まで勤めあげる、というキャリアパスは成り立たなくなった、

一人一人がどう生きていけばよいのかを考えなければならない時代になった、という内容を綴りました。

「考える」というのは何の気なしに使っていることの多い言葉ですが、それでは具体的に「考える」とはどうすることを言うのでしょうか?

「考える」とは、目の前の出来事に懐疑の目を向け、自分なりに仮説を立て、その真偽を検証するという一連のプロセスのことを言います。

その検証結果が真であるならば、それが新たな定説となり、それが偽であるならば新たな仮説を立て、再度検証するというプロセスに進みます。

つまり、「考える」とは疑うことから始まるのです。

それではなぜ人は疑うことが出来るのでしょうか?

 

~頭の使い方三層構造~

私は頭の使い方は、ピラミッド型の三層構造になっているのではないかと考えています。

第一層が「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」です。

子どもたちと一緒に学習していて気づいたことですが、なぜそのようになるのか、その理由が理解できれば覚える必要がなくなることが沢山あります。

例えば、英語のテストを受けることを考えてみましょう。

なぜそのような言葉の並びになるのか、英文法を理解できていない人は、一言一句違わず言葉の並びを覚えてテストに臨まねばなりません。

文法を理解してる人は、なぜそのような言葉の並びになるのか、そのルールが分かっているのですからそのような苦労をせずとも、

主語の後には助動詞がきて、その後ろに動詞の原形、副詞句を付け加えるという英語のルールに照らし合わせて問題を解いていけます。

つまり「理解する」ことが出来れば、「覚える」ことをせずとも済むわけです。

こうして考えると、「理解する」ことは頭の使い方として、「覚える」より一階層上位の頭の使い方であることが分かります。

ただし、「理解する」はたくさんの「覚える」に支えられていることも忘れてはいけません。

たとえば、ひらがなや漢字、アルファベットを覚えなければ、そもそも文章が読めない訳ですから、「理解する」こともできないのです。

同様のことが「考える」にも言えます。

第一層の「覚える」と第二層の「理解する」が、第三層の「考える」を支えているということです。

「覚える」を「知識」と、「理解する」を「理解力」と言い換えるならば、知識の蓄積と理解力の涵養が、疑うことと、仮説を立てること、検証することを可能にしているのです。

何の知識もなしに、理解する力もなしに、人は何かを懐疑し、仮説を立て、それを検証することなどできないからです。

 

人が考えるために必要なもの、それは、知識と理解力であると綴りました。

自分のことを含めですが、日本人は、義務教育9年、高校で3年、人によっては大学で4年、教育を受けているにも関わらず、考えることが苦手な人が多いように思います。

それは何故なのでしょうか?

また、考えるために必要な知識ですが、それもただ頭の中に入っていればいいというわけではありません。

頭の中に知識が入っていたとしても、それが使える状態になっているものと、そうでないものがあるように私は感じています。

使える状態の知識とはどのようなものか、使えない状態とはどういうものか?

次回はそのような内容を綴ってみたいと思います。

続きます。

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変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

お陰様で、先日息子が生後四か月を迎えることが出来ました。

日に日に大きくなり、出来ることも増えてきました。

生まれたばかりの頃は、呼びかけても無表情でポカーンとしていましたが、最近は笑顔で応えるようになってきました。

近頃は、自分の手でおもちゃをつかんでべろべろ舐めまくるという遊びにハマっているようです。

自分の子どもが生まれてから、前にも増して子どもが子どもらしくのびのびと生きられる世の中であってほしい、という思いが強くなりました。

伸び行く子どもの姿から学び取ることが多い日々を過ごしています。

 

~変化の時代~

私がまだ子どもだった頃のことです。

良い学校を出て、大きな会社に入って、そこで定年まで働いて、老後はマイホームでのんびりと過ごす。

そんなキャリアパスが現実味を持って語られておりました。

高度経済成長の終焉、バブルの崩壊、新自由主義の台頭を経て、そのようなキャリアプランは過去の遺物と化してしまいました。

今、働く人の4割弱が非正規雇用者で、年金だけで生活できずアルバイトをされている高齢者も沢山見かけるようになりました。

安定した雇用環境があればこそ、消費も増え、家庭を持ち、家を建てることもできたでしょうが、そのようなことがもう当たり前にかなわない時代に突入してしまいました。

いい学校、いい会社というキャリアパスが崩壊したのなら、もう学んだって意味がないじゃないか、という言葉も聞えてきます。

私はそうは思いません。

 

~考えることが必要な時代~

どう生きるべきか?

一昔前の日本は、その道筋を社会が用意してくれていました。

せっせと受験勉強に精を出し、いい学校に入り、いい会社に入り、年功序列で賃金があがり、

という流れに身を任せていれば、個々人が深く考えずとも生きていける時代でした。

今の世の中は、その大きな流れがもう機能を果たしてはいません。

身を任せていれば目的地まで連れて行ってくれるベルトコンベヤーは、もうその動きを止めてしまいました。

そんな時代であればこそ、私は学ぶ必要があるのと考えています。

なぜならば、一人一人が考えなければならない時代に突入したからです。

 

「考える」「考える」と綴ってきましたが、それでは「考える」とは具体的にどのようにすることでしょうか?

「考える」ために必要なこととは何でしょうか?

続きます。

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敬意と信頼 ~届く言葉、届かぬ言葉~

新年度。

一緒に学習をしてきた子どもたちが、それぞれ新生活に旅立っていきました。

若い頃は見送られる側でしたが、年を重ね気が付けばいつの間にか見送る側に変わっていました。

10代、20代の頃は年を重ねることを喪失と考えていましたが、年を重ねるほどに、見えなかったものが見えるようになり、

気づけなかったことに気が付けるようになった自分を発見し、年を重ねることを楽しめるようになりました。

今の自分の中には、10代の自分も、20代の自分も、30代の自分も同居してるようなイメージです。

様々な立場から、子どもたちに対して多層的な関わり合いが出来たら、そんな風に思います。

 

~聞き届けてもらうには~

「届く言葉、届かぬ言葉」というタイトルでここ数回綴ってきました。

上から目線の「勉強しなさい!」という正論は、子どもたちに届くことはありません。

むしろ逆効果になっている、そんなことさえ感じます。

「勉強しなさい!」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

そんな前々回のブログの内容を受けて、前回は私の体験を綴りました。

「立派じゃなくても大丈夫」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

子どもたちの前で話すことになったはいいのですが、人前で話すような立派なエピソードもない。

苦肉の策でひねり出したのが、立派なエピソードなど一つもない自分でもちゃんと生きていけているから大丈夫、そんな内容の話でした。

こんな内容で果たして聞いてもらえるのか、半信半疑の状態で臨んだのですが、意外や意外、子どもたちは真剣に聞いてくれました。

あの話は確かに届いていたと感じます。

届く言葉、届かぬ言葉、一体何が違うのでしょうか?

 

~敬意と信頼~

届かぬ言葉には無くて、届く言葉にあるもの。

私は二つあるように感じます。

それは、敬意と信頼です。

敬意と信頼。

辞書を引けばそれぞれに意味があるのでしょうが、私は以下のような意味合いで使っています。

敬意:自分自身の都合を一旦わきに置いて、相手を大切に思う気持ち。

信頼:言葉を尽くして伝えれば、きっと分かってくれるという相手を信じる気持ち。

上から目線の正論を語るとき、私たちは相手を「困った人」「正すべき人」という前提で見ています。

そこには、相手を大切に思う敬意も、「きっと分かってくれるはず」という信頼もありません。

その前提が無意識的に相手に伝わるから、言葉を聞き届けてもらえなくなるのでしょう。

私の苦し紛れの話がなぜ耳を傾けてもらえたか?

それは決して意図したわけではありませんが、「自分が立派な人だと思われたい」という自己都合を捨て、

思春期の真っただ中、生き方に迷い、不安を抱える高校生に「大丈夫なのだ」という安心感を与えたい、

そんな相手を思う気持ち、敬意が伝わったからではないかと、振り返って思います。

 

敬意と信頼を持って相手に向き合うこと。

その大切さは、日々子どもたちと学習するときにも強く感じます。

何度説明しても理解してもらえないとき、「もう理解してもらうのは無理かもしれない」と、諦めそうになることもあります。

ただ、その気持ちで言葉を発しているときは、本当に相手に言葉が届きません。

子どもたちは集中力も途切れがちで、眠たそうな顔をし始めます。

一方で諦めることなく、「言葉を尽くせば伝わるはず」と敬意と信頼感を持って話し続けていると、

不思議なことに、子どもたちも自分の話に対して前のめりになってくるのです。

 

届く言葉、届かぬ言葉。

二つを分けるものは、発話者が相手に対して抱いている前提なのだと私は感じます。

ご家庭で、もしご自身の言葉がお子さんに届いていないと感じられるならば、

上から目線の正論ではなく、ぜひ敬意と信頼を持った言葉がけを心掛けてみてください。

すぐに効果が出るものではありませんが、お子さんの対応もきっと変わっていくことと思います。

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「勉強しなさい!」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

ついこの前年が明けたと思っていたら、もう三月も終わり。

30歳を過ぎたあたりからでしょうか、時間の経過を早く感じるようになりました。

今は受験生の指導も一区切りし、ややゆったり目のスケジュールで過ごせています。

お陰様で今年担当した受験生は、すべて志望校に合格できました。

ただ、振り返ればまだまだやれることはあった、そんな思いも残っています。

満足したら終り、そう自分に言い聞かせ続けようと思います。

 

~「勉強しなさい!」は逆効果~

お子さんの将来を心配するが故に、親御さんが度々口にする言葉が、「勉強しなさい!」です。

ただ、親御さんから「勉強しなさい」と言われて、勉強するようになった中高生を、私は今まであまり見かけたことがありません。

むしろ逆効果になっているんじゃないか、と思うことさえあります。

そんなことを書きながら、私自身がこの仕事を始めたばかりの頃、子どもたちに対して、

度々「勉強しなさい!」と言っていました。

言われたときは「はい!」と返事をするものの、やはりその声掛けで勉強するようになった子はあまりいませんでした。

これをやれば成績が上がるはずなのに、やりなさいと言ってもやらない。

何でなのか訳が分からず、悩むことが度々ありました。

 

~正論は届かない~

そのころの私は、まだまだ人間に対する理解が浅かったのだなぁ、と今になれば思います。

人間はコンピューターのプログラムではありません。

指示をしたからとて、決してその通りに動くわけではない。

そんな簡単なことも分かっていませんでした。

「届く言葉、届かぬ言葉」とタイトルに記しましたが、

どういう言葉が届くのかを一言で言い表すことは難しいですが、

届かない言葉を一言で言い表すことは出来ると私は思います。

それは、上から目線の正論です。

私が人間の器が小さいだけかもしれませんが、人様から正論を言われるとカチンっとくることがあります。

私だけでしょうか?

私だけではないと思うのですが、いかがでしょうか?

ましてや、大人から精神的自立を果たそうと葛藤する思春期の中高生に対して、

上から目線の正論が聞き入れられる可能性は極めて低いと私は自分の経験に照らしても思います。

 

届かぬ言葉は上から目線の正論。

それでは届く言葉とは何か?

届く言葉は本当に多様で、一言で言い表せるのもではありません。

ただ、自分の経験上、これは、と思うものはあるので、次回はそのことを綴ろうと思います。

続きます。

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「私が悪かったんです、、、」~不登校は誰の問題か?~

お子さんの不登校に悩まれる親御さんのお話を聴かせていただいていると、

「私が悪かったから、、、」

「私が至らなかったから、、、」

と、ご自身を責めていらっしゃる方が多いと感じています。

前回のブログでは、

「私が悪かった」という時の「私」とは私がすべて自己決定してきたものではなく、

私を取り巻く自己決定できない様々な要因、

例えば、生まれた時代、生まれた国、生まれた家、天災、事故、ケガ、病気など、

私を取り巻く様々な環境から強く規定されるものであるということを綴りました。

「私が悪かったんです、、、」 ~「私」を規定するもの〜

科学技術が進歩した現代では、もちろん自己決定できることも増えてきたとは思いますが、

それでも自分の力では決定することのできない様々な要素があり、

その様々から好むと好まざるに関わらず様々な影響を受け、

日々をどうにか生きているのが私たち人間ではないでしょうか?

今日のブログでは、私たちを取り巻く環境と不登校の関係を見ていきたいと思います。

 

~父という環境~

児童精神科医の佐々木正美先生は著書「抱きしめよう、わが子のぜんぶ」の中で、以下のように述べておられます。

“子育てというと、どうしてもお母さんにばかり責任の矛先が言ってしまいがちですが、

私は子どもがうまく育たない家庭の責任の80%は父親のほうにあるのではないかと感じています。”

子育ての問題の80%は父親の方に問題がある。

私もこの間父親になったばかりなので、そんな風に言われると辛いのですが、

私の子どもの頃を思い返してみると、父が仕事で疲れ果てて帰ってくると、

母もつられて元気がなくなり、家の雰囲気全体が重くどんよりとしてしまっていたことをよく覚えています。

父親の状態が母親に伝わり、その母親の雰囲気が子どもに伝わり、家の雰囲気が重苦しいものになる。

私にはそんな思い出があります。

今書きながら思い出しましたが、ゲーム依存が起こりやすいご家庭の特徴として、

ダメなものをダメと叱る父性が不足しているという傾向があります。

そういうことを考えると確かに、子育てにおける父親の影響は本当に大きいと感じます。

子育てにおける問題の80%は父親に問題がある。

そうであるならば、「お父さん、しっかりしてくださいよ!」と注意すれば解決でしょうか?

そういう話ではありません。

「私は、私と私の環境である。」という前回のブログの言葉を思い返せば、

父である「私」も「私の環境」から様々な影響を受け、今の「私」として在る訳です。

それでは「父」を取り巻く環境、つまり大人の社会が不登校とどのように関係しているのかを見ていきたいと思います。

 

~不登校が増えた時期~

不登校問題に長年関わってこられた臨床心理学者の高垣忠一郎さんは、著書「共に待つ心たち」の中で以下のように述べておられます。

“73年にオイルショックがあり、高度成長の時代が終わって低成長の時代に入りました。

企業は競争に勝ち抜くために、減量経営といって従業員の首を切ったり長時間過密労働を強めていきました。

その75年以降登校拒否は急増しているのです。”

また文部科学省が作成した、「不登校の子どもの割合の推移」のグラフを見ると、

バブル経済が崩壊し、不良債権を抱えた銀行の破綻やリストラが相次いだ1991年~2001年にかけて、その割合が急増していることが分かります。

これら二つの現象は、日本の経済が疲弊し、大人の労働環境が悪化することと同期して起きていると言えます。

つまり、大人の社会から余裕が失われ、そのしわ寄せが子どもたちの世界に波及し、不登校という現象が増加しているということです。

私は仕事柄、不登校になった子どもたちと接する機会がありますが、彼らの特徴として、感受性が豊かだったり、人一倍優しい性格だったり、ということが挙げられます。

そのような才能や人間的魅力を抱えた子たちだからこそ、大人の社会の余波を受け、ピリピリとした雰囲気が漂う教室にいられなくなってしまうのではないでしょうか?

 

~不登校は個々の家庭の問題か?~

今まで見てきたことから考えるならば、不登校というのは、すべてがそうとは言い切れませんが、

個々のご家庭の問題であるというより、大人の社会の問題の反映と言えるのだと私は感じます。

だから、お子さんの不登校に悩まれる親御さんにお伝えしたいのは、どうぞご自分を責めないでください、ということです。

感じるものに感じ入る豊かな感性と、人を思いやる想像力と優しさを持つがゆえに、

過度に競争的な教室のストレスに耐えられなくなっている子が多いように私は感じています。

そのような才能や人間的魅力を備えているのは、今までの親御さんの素晴らしい子育てがあったからこそ、ではないでしょうか?

だからどうぞ、「私が悪かったから、、、」などとご自身を責めないでください。

 

バブル崩壊以降、ずっと「経済成長、経済成長!」と声高に連呼し、まるで経済が成長すればありとあらゆる問題が一挙に解決するかのような政治的主張を、

私たちは絶えず耳にしてきましたが、一向に景気は良くならず、経済も成長しているようには思えません。

成長する余地もない経済を成長させようとして、その中で苦しむ人を作り出しているようにさえ感じます。

加えて世界の人口が今70億人を超え、環境の悪化、資源の枯渇が危惧されている今、成長することが本当に人間の幸福に寄与するのか、私は疑問でなりません。

そういう大人の社会が抱える様々な問題が、めぐりめぐって子どもたちを生きづらい環境に追いやっているのではないでしょうか?

不登校は子どもたちの問題ではなく、私たち大人が引き起こしている問題。

私はそう確信しています。

変わるべきは、子どもたちではなく、まず大人です。

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「私が悪かったんです、、、」 ~「私」を規定するもの〜

数日春のような暖かな日々が続いています。

日が長くなるだけで、暖かくなるだけで、天気がいいだけで、私は幸せな気持ちになります。

冬の間ずっと晴天が続く太平洋側に住んでいたこともありますが、

この幸せは、灰色の冬がある日本海側に住んでいるからこそ感じられるものなのでしょうね。

 

~「私が悪かったんです、、、」~

お子さんの不登校に悩まれている親御さんのお話を伺っていると、

「私が悪かったんです、、、」

とご自身を責めておられる方が多いです。

しかし親御さんがご自身を責めて辛そうにしているその姿を見て、お子さんは、

「自分のせいで、、、」

と自身を責め、状況はさらに悪化してしまう場合もあります。

自分を省みる視点を持つことは決して楽なことではありません。

どうしても自分自身の至らなさに目が行きやすく、

「なんであんなことしかできなかったのか」

という気持ちになることが多いからです。

それでもお子さんのためにその視点からご自身を省みる親御さんの姿に、

私は強さを感じるとともに尊敬の念を抱くことさえあります。

しかし、「私が悪かった、、、」という時の「私」とは、

私が私の意志で、私の独力で作り上げてきたものなのでしょうか?

 

~「私は、私と私の環境である」~

先日読んだ本の中に、スペインの哲学者である、オルテガ・イ・ガセットの言葉が載っていました。

「私は、私と私の環境である」とオルテガは言います。

「私」とは、私たちが自分自身の意志のみで作り上げてきたものでしょうか?

私たちは私たちの身に起きるありとあらゆる出来事を、

自分自身で選び取って生きてきたのでしょうか?

科学技術が発達し人間に不可能なことなど無いと万能幻想が肥大化した現代では、

自分の人生に起きるありとあらゆることは自己決定できるなどと勘違いしてしまいがちですが、

それは違います。

例えば、生まれた時代、生まれた国、生まれた家、天災、病気、事故、戦争。

「私」という存在は、私が自己決定することが出来ない、さまざまな要素によって規定されているのです。

自分を取り巻く環境から完全に独立した「私」などというものはあり得ないということです。

それが、「私は、私と私の環境である」という言葉の意味です。

親御さんが「私が悪かった、、、」と仰るときの「私」も私と私の環境が作り上げてきたもの。

そうであるならば、今自分を取り巻く状況の原因を「私」にのみ求めることなど出来るのでしょうか?

 

「私」であることを決めてきたのは、私の意志もあるでしょうが、

私は「私」を取り巻く「環境」の方が、大きな影響力を持つように感じます。

今の「私」を考える際に、私の環境を抜きに語ることはできません。

次回は子どもたちを取り巻く「環境」について考えてみたいと思います。

続きます。

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