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仕事は誰のためにある? ~自分探しの問題点~

先日ある人から、「随分早起きですね。」と言われました。

メールの返信の時間を見てのことでしょう。

私もともとは早起きの人間ですが、最近それにさらに拍車がかかりました。

理由は簡単です。

息子がものすごく早く起きるからです。

現在5時40分。

今朝も彼が私のほほをパシパシと叩いてきて目が覚めました。

今も何やら隣室でガタガタキャーキャー一人で遊んでいます。

元気でなにより。

お父さんは眠い。

 

先日のブログでは、将来の職業を考えるときに高校生が度々口にする

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

というような問が働くことに対する悩みをより深くしているのではないか、という内容を綴りました。

「何がしたいか分からない」 ~問いの立て方の間違い~

その理由は、仕事とは何なのかを考えてみればわかります。

 

仕事というものはどのようにしてこの世に生まれるのでしょうか?

仕事は他者の求めと同時にこの世に生まれます。

困難を抱えている他者、必要性を満たしてほしい他者。

その存在があって初めて仕事は生まれます。

つまり仕事というのは他者との関わりの中で生じるものだということです。

その前提を確認すれば、

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

という問立ての何が問題であるかが分かってきます。

なぜこれらの問が問題か?

それはこれらの問いに、他者が登場しないからです。

他者との関わりの中で生じてくる仕事について考える際に、他者という存在を思い浮かべることなく、

自分の中を掘り下げ探求することに終始するそれらの問立てには、働くことに対する根本的な勘違いがあると私は考えます。

例えば、明日仕事が休みで、その日に何をするか考える時に、「何がしたい」とか「何が好き」で考えることには何の違和感もありませんが、

仕事は休みの日に何をするか考える事と同じ種類の話ではありません。

休みの日に何をするかは自分事ですが、働くということになるとそこには他者が関わってくるからです。

 

例えばお寿司屋さんに入って、「すみません、鉄火巻きください」と注文した時、

店員さんから「すみませんお客さん、今日私鉄火巻きの気分じゃないので違うもの注文してもらえます?」

と返ってきたら「この人何言ってるんだろう?」と思うのではないでしょうか?

困難を抱えた他者、要求を満たしてほしい他者にとって、その人が「何をしたい」とか「何が好き」とか「何が向いている」とか、はっきり言えばほとんど関心の無いことなのです。

仕事とは、自分という人間の殻から一歩踏み出して、他者のために何が出来るのかを考え、それを実行する行為です。

自分の殻を一歩踏み出したその先にあるのが仕事というものです。

だから、「何がしたい?」「何が好き?」「何が向いている?」という問は、その意識の向け方が逆方向である点で、全くずれているため、

それらの問を投げかけ続けたところで、働くことに対する悩みは解決するどころかより深くなるばかりなのではないかと私は感じています。

 

仕事が他者との関わり合いの中で生まれるものである以上、

自分の殻に閉じこもって自分探しに明け暮れてみても、そこに答えを見出せる可能性は低いのではないか、と綴りました。

それでは、どのような問立てをすれば、自分が働くことにたいするイメージが明瞭になってくるのでしょうか?

続きます。

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「何がしたいか分からない」 ~問いの立て方の間違い~

今朝の新潟市は晴天。

今日は30℃を超える暑さになりそうです。

先週末も晴天が広がっていました。

週末は仕事で海の方に行く機会があるのですが、サーフィンやバーベキューをして楽しむ方たちがたくさんいました。

ガラガラだった水族館の駐車場にも車がたくさん停まっておりました。

日常が少しずつ戻りつつあることを感じます。

このまま何事もなく穏やかな日々に戻れますようにと願います。

 

高校生の子たちと一緒に勉強していると、しばしば受ける問が、職業選択に関わるものです。

「何がしたいか分からない」

「何が好きか分からない」

「何が向いているか分からない」

職業選択に関して彼らの口から発せられる問は総じてこのようなものです。

私の知る限り、高校生の段階で将来の方向性が明確に定まっている子はほとんどおりません。

みんなこのような問の中で、ぐるぐると悩んでいる印象を受けます。

学校で行われているキャリア教育で、しばしばこのような問が子どもたちに対して向けられているので、彼らはこの問の中に囚われてしまっているのかもしれません。

かつて自分もそのような問の中を、キョロキョロと彷徨い歩く学生だったので、適正検査の類は色々受けてきました。

ある適正検査に、自分に最も向いてない仕事が、パイロットと書いてあり、「確かに俺も俺の操縦する飛行機には乗りたく無いなぁ」と深く納得したことを今でもよく覚えていますが、

大人になった今、このような問を耳にすると思うことは、その問の立て方があなたの悩みを深くしているのではないか?ということです。

その問立てから思考をスタートさせることが、働くことを複雑にしているのではないかと思うのです。

 

例えば「何がしたいか分からない」という問について言えば、「それでいいんじゃないですか」というのが私の答えです。

「何がしたいか分からない」という問いの裏には「自分は将来○○がしたい」という夢があるべきという前提があるのですが、

その「将来○○がしたい」という夢だって勘違いである可能性があるわけです。

例えば、スキーをしたことがある人が「スキーをしたい」と言ったとき、その「スキーをしたい」という願望が勘違いである可能性は極めて低いと言えるでしょう。

しかし、映画監督をやったことがない人が「映画監督になりたい」と言ったとき、実際にやったことがないわけですから、

その「映画監督になりたい」という願望は勘違いであった、やってみたらとんでもなくつまらなかった、という結末を迎える可能性だって大いにある訳です。

決して私は夢を持つことを否定するわけではありません。

将来の夢がある子はそれに向かって頑張ってほしいと心から思います。

ただその「やってみたい」はそれはまだやったことがない場合もあり、本人の勘違いである可能性を捨てきれないので、

それがあってもなくてもそれほど大きな違いはないのではないか、と私は考えるのです。

だから「何をしたいか分からない」と言われたとき、私の答えは「それでいいんじゃないですか」になるのです。

 

大人が子どもに向けて問いかける、

「将来の夢は何?」

「あなたは何が好き?」

「何が自分に向いていると思う?」

といった類の問いかけが、子どもたちの働くことに対する悩みをさらに深めているのではないか?と私は考えています。

なぜらな、働くことと、これらの問はそもそもそれほど関係がないからです。

それは仕事というものが何なのかを考えてみればわかります。

続きます。

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「それで人は幸せになるか」 ~速さが奪ったもの~

先日、だいぶ前に読んで強く感銘を受けた一冊を読み返しておりました。

こちらの一冊です。

「スローライフ 緩急自在のすすめ」 筑紫哲也 著

この本の冒頭部分にこんな言葉が出てきます。

「道徳なき経済は罪悪である、経済なき道徳な寝言である。」

江戸時代後期の思想家、二宮尊徳の言葉です。

一昔前の小学校の校庭には、薪を担ぎながら本を読む氏の子ども時代の銅像があったものです。

「経済」と「道徳」とは度々対置して語られる言葉ですが、

どちらか一方が大切で、どちらか一方が不要なわけではなく、その両方に功罪があり、

相反するものを自分の中に併せ持つことが大切である、ということをこの言葉は伝えています。

物事の功罪、その両面を把握して、初めてそれが何であるかを理解したことになるのだと思います。

 

動けなくなった子どもにまず必要なことは、

1、責められないこと

2、受容的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざけること

の三つであると以前のブログで綴りました。

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

3の力を奪うものとは、今でいえば具体的にはゲームやネットへの依存です。

ネット依存のほぼ9割を占めると言われているのが、ゲーム依存です。

先日のブログでは、依存症とはどのようなもので、なぜ人は依存してしまうのか、を考えてみました。

「そこしか居場所がなかった」 ~なぜ依存するのか~

ゲームの世界に依存するのは、そこに彼らが居場所を見出すからです。

それではなぜ彼らは家庭や友人関係などの現実世界に居場所を見出せず、ゲームの世界に居場所を見出すに至るのでしょうか?

 

「それで人間は今より幸せになれるのでしょうか?」

今はもう故人となってしまいましたが、先ほど紹介した本の著者であるニュースキャスターの筑紫哲也さんを、15歳の時にテレビで初めて拝見して以来私はずっと尊敬しています。

筑紫さんが、グローバル化を提唱するあるアメリカの著述家の基調講演会にて講演者に投げかけた質問が「それで人は幸せになるのか」というものです。

「それで~」の「それ」とはグローバル化のことです。

グローバル化とは一言で説明するならば、それはしばしばアメリカ化と同義なのですが、世界の均質化のことです。

そのグローバル化を強力に推し進めたツールがIT(情報技術)です。

情報技術は確かに私たちの暮らしを劇的に便利にしました。

今回のコロナ禍で、在宅勤務が可能になったのも、こうして大手メディアに属さない私のような一個人が情報発信ができているのも、確かにITがもたらした果実です。

でもそれで本当に私たちは幸せになったと言い切っていいでしょうか?

 

生活が便利になることと、人の幸せはイコールでしょうか?

例えば産業革命で私たちの社会は、飛躍的に便利になり、人類の生産性は著しく向上しました。

しかしその陰で、朝から晩まで工場内で児童労働に従事させられ、学校にも行けず、遊ぶ時間も奪われた子どもたちは、果たして幸せになった言えるのでしょうか?

ITによって私たちの暮らしは便利に、スピーディーに、効率的になりました。

しかしそれは私たちに本当に果実のみをもたらしたのでしょうか?

ここで私が問いたいのは、二宮尊徳の説く物事の功罪です。

 

「手段の自己目的化」という言葉があります。

私たちはある目的を達成するために、ある手段を採用しますが、

その手段を採用し続けているうちに、それを採用し続ける事自体が目的になること、

これが手段の自己目的化という現象です。

例えば、痩せるという目的のために、ジョギングするという手段を採用して、それが快に変わりいつの間にかジョギングすること事態が目的になる。

これは限度を越さない限りにおいて、自分を利する手段の自己目的化です。

同じように痩せる目的のために、食事の回数を減らすという手段を採用して、十分体重が減ったにも関わらず、再び太るという不安から食事の回数を減らし続けてしまう。

これは自分を害する手段の自己目的化と言えるでしょう。

 

便利さと幸せの話をしているところでした。

便利さは確かに、ある程度の範囲において私たちの幸せに資するものでしょう。

しかし私たちは、「幸せ」という目的のために採用した「便利さの追求」という手段を採用し続けること自体が目的になり、

「ある程度の範囲」を超え、自分自身を害する手段の自己目的化の落とし穴にはまってはいないでしょうか?

今回のタイトルに書きましたが、便利さ、効率、速さが私達から奪ったものがあります。

それは心の穏やかさです。

それが便利さの「罪」の部分であると私は考えます。

便利さ、効率、速さを追求するなかで、私たち大人は心の穏やかさを奪われ、子どもたちに受容的な態度で接することが出来なくなりました。

だから動けなくなった子どもたちがゲームの世界にしか居場所を見出せないということが起きてしまうのです。

 

不登校という現象と大人社会の出来事は密接に関わっています。

先日のブログで紹介しましたが、1970年代中ごろ、オイルショックに端を発する大人社会の変化が、それまで微減し続けていた不登校の人数を劇的に押し上げるということが起こりました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~」

オイルショックの後も、私たちの社会は低成長時代に入りこそすれ、一貫して成長、拡大、効率を追求してきました。

先日子どもと一緒に読んでいた英語の長文問題の中で知ったのですが、1909年の世界人口は17億人、1960年代は約35億人ほどだったそうですが、2020年の今、その数は77億を超えるに至りました。

環境問題を扱う本によく書いてあることですが、私たちは今一年間で地球が供給できる資源の1.4倍を(地球上の人間がみな日本人と同じ生活を求めるならば2.4倍を)消費して生きているのだそうです。

地球は無限に広く資源は無限に存在する、などと無邪気に信じてこられた時代はとうの昔にもう終わりました。

それにも関わらず、手段の自己目的化の罠にはまり抜け出すことが出来なくなっている私たち大人。

まるで、有毒ガスが発生した際に鳴き声を上げて人間に危機を知らせてくれる炭鉱のカナリアのように、

そのことに違和感を持つことが出来る豊かな感受性を持った子どもたちが、不登校という現象を通じて、私たち大人に問題を提起してくれている。

不登校という現象の中に私はそのような構造を見ます。

だから変えるべきは子どもたちではありません。

変わるべきは私たち大人です。

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「そこしか居場所がなかった」 ~なぜ依存するのか~

昨日は奥さんの実家がある魚沼市へ家族で行ってきました。

息子におじいちゃんの畑でいちご狩りをさせる事と、おばあちゃんが手入れしている庭のバラが見ごろなのでそれを見に行くことが今回の目的です。

息子は、おじいちゃんとおばあちゃんに一杯かわいがってもらって、採ったばかりの大きないちごを口いっぱいに頬張って、終始幸せそうな顔をしていました。

バラが満開の庭で、ボーっと椅子に座っていると蜂がせっせと蜜を集めに来ていたり、バラの花びらの中で小さなアマガエルが休憩していたり、

そこでは人間の理性が作り出した時間にではなく、それぞれの生き物がそれぞれの時間に従って、それぞれの命を生きている姿がありました。

私はやっぱりああいう自然豊かな中で生きていきたい人間なのだなぁと再確認しました。

 

前々回のブログで紹介した動けなくなった子どもに必要なもの、私が考えるものは以下の三つです。

1、責められないこと

2、受容的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざける事

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

3の力を奪うものとは、今でいえば具体的にはゲームとネットです。

前回のブログでは、ネット依存の大半を占めるゲーム依存とはどのようなものかをご紹介しました。

脳が壊れる ~ゲーム依存という病気~ 

お子さんが動けなくなったときに、なぜ受容的な態度で接することが出来ず、責めてしまうのか、そしてなぜ子どもたちはゲームの世界に依存してしまうのか?

これらは別々に起きている事柄ではなく、関連して起きていると私は考えます。

 

先日、NHKのクローズアップ現代でゲーム依存が特集されていました。

番組内でゲーム依存からの回復を目指している20代の青年や、学校のいじめが原因で引きこもり、ゲームに依存するようになった高校生の話が紹介されていました。

彼らが異口同音に口にしていたのは「そこしか居場所がなかった」ということです。

 

精神科医の泉谷閑示さんはその著書「『普通がいい』という病」の中で、依存症とは、代償行為が量的に増加し自分の意志では止められなくなったもの、と説明しています。

本当に欲しいものが得られないが故に、質的に異なる何かで対象への渇きをごまかそうとするけれど、それは本来質的に異なるものであるから、いつまでも満足が得られず、

代償行為の量が増加し、その結果脳が壊れ、自分の意志ではその行為を止められなくなってしまうのが依存症の構造である、ということです。

それでは、依存症に陥る人たちが本当に求めていたものとは何でしょうか?

ゲーム依存に陥った人たちの「そこしか居場所がなかった」という言葉がすべてを教えてくれてます。

彼らが本当に欲していたものは、「人との繋がり」や「他者からの関心」でしょう。

 

番組中で、ゲーム依存になり一年半部屋に引きこもっていた男の子とその親御さんのエピソードが紹介されていました。

お子さんの引きこもりとゲーム依存に悩んでいた親御さんは、精神保健福祉士の八木真佐彦さんのもとを訪れ、CRAFTと呼ばれるプログラムをお子さんに対して行うようになりました。

CRAFTとは、今までお子さんにかけていた否定的な言葉を、肯定的な言葉、受容的な言葉に変えていくというものです。

例えば、お子さんが皿を洗っておいてくれたら「皿を洗ってくれてありがとう」とか、本当に些細なことに対しても肯定して受け止める言葉がけを行うように心がけたそうです。

そうし続けるうちに、家の中の雰囲気が変わり、お子さんも部屋から出てきて自分の気持ちを語ってくれるようになり、今はもうゲームはしていないと紹介されていました。

この事例が示すように、本来得たいものが得られれば、病的に何かに依存する必要がなくなるということです。

人との繋がりや、周囲の大人からの関心が得られれば、ゲーム依存の状態から脱することが出来るのです。

それではなぜ、私たち大人は、子どもに対して関心を示し、受容的な態度で接することが出来なくなってしまうのでしょうか。

それは私たち大人から穏やかさを奪う構造があるからだと私は考えます。

また長くなりましたので、続きは次回。

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脳が壊れる ~ゲーム依存という病気~ 

先日、息子と一緒に本を読んでいたときのこと。

絵本の中に牛の絵が描いてあったので、

「ほら、牛さんだよ。モー!」

と言うと息子が、「んっ!」と言いながら私の顔を指さしてきました。

「いやいや、これはお父さんでしょ。そうじゃなくてこれは牛さんだよ、モー!」

と言うとまた、「んっ!」と言いながら私の顔を指さしてきます。

何でかなぁ、としばらく考えていたら、息子と一緒にいるときの私の口癖が理由だと分かりました。

「ちょっとちょっとやめてぇ、もー!」

「ああ、それ投げないで、もー!」

「そんなところ触らなくていいよ、もー!」

、、、普段の言葉に気を付けようと思った出来事でした。

 

前回のブログでは、動けなくなったお子さんに必要なものは、まず心穏やかに休むこと、と述べました。

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

休ませるといっても、ただ学校に行かず家にいるだけでは、休めていることにはなりません。

心穏やかに休むためには、必要なものがあります。

私が考える必要なものは以下の三つです。

1、責められないこと

2、共感的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざけること

学校に行かず家にいるお子さんを責めないこと。

受容的な雰囲気で接すること。

ゲームやネットなどの依存症に陥らないように気をつけること。

心穏やかに休むためには、この3つがそろっていること大切です。

それではなぜ、受容的な態度ではなく、お子さんを責めてしまうのか、そしてなぜお子さんはゲームの世界に依存するのか?というところで前回は終わりました。

なぜお子さんはゲームに依存するのでしょうか?

その理由を考える前に、今日はゲーム依存とは具体的にどのようなものかを考えてみたいと思います。

 

ゲーム依存、正式には「ゲーム障害」と言います。

2019年5月、WHOが新しい疾病として認定しました。

2017年のデータですが、日本には成人で421万人、中高生で93万人いると言われ、ネット依存のうち90%がゲーム依存であると考えられています。

ゲームに依存すると、日常生活に様々な問題が現れます。

その例を以下に示します。

・欠席、欠勤

・昼夜逆転

・朝起きられない

・ひきこもり

・イライラしてモノを壊す

・家族に暴力をふるう

上記に加え、症状がひどくなると、幻覚や幻聴の症状が現れたり、まっすぐ歩けなくなったり、長時間同じ姿勢でいるため、血栓ができてエコノミークラス症候群になったりする場合もあります。

 

それではなぜこのような問題が起きてしまうのでしょうか?

それはゲーム依存が人の脳を壊すからです。

人の行動は、脳の前頭前野と大脳辺縁系によってコントロールを受けています。

通常は、人間の理性を司る前頭前野の活動が優位で、本能や感情を司る大脳辺縁系の働きを制御しているのですが、

ゲーム障害になると、前頭前野の働きが不活発になり、大脳辺縁系の活動が優位になってしまうため、本能や感情に支配され、自制的ふるまいが出来なくなってしまうのです。

このように脳が壊れてしまうことが、問題行動を引き起こす原因です。

 

様々なお宅にお邪魔していると、特に男の子を持つ親御さんが、休みの日はずっとゲームしているけど、依存症ではないのか?と心配されている場合が多いです。

ゲーム依存の診断は専門医によって、以下の基準でなされています。

・ゲームのコントロールが出来ない

・他の生活の関心事、日常の活動よりゲームが優先される

・問題が起きているにも関わらず、ゲームを続けてしまう

・個人、家族、社会における学業上、職業上の機能を果たすことが出来ない

・上記4つがすべて当てはまり、その状態が12か月以上続く

このような基準により診断が下され、カウンセリングや認知行動療法による治療が始まります。

それでも改善が見られない場合は、数か月ネット環境の無い病院で入院治療が行われます。

 

ゲーム依存の兆候としては以下のようなものがあります。

・使用時間がかなり長くなった

・朝起きられない

・絶えずゲームのことが気になる

・他のことに興味を示さない

・注意すると激しく怒る

・使用時間や内容などについて嘘をつく

・課金が多い

ゲーム依存は病気です。

もし上記のような兆候が見られる場合は、まず専門機関に一度ご相談されてみる事をお勧めします。

新潟ですと、下記の医療機関で依存症の相談が出来ます。

さいがた医療センター ゲーム・インターネット依存外来

 

動けなくなったお子さんが陥りやすいゲーム依存とはどのようなものかについて見てきました。

それではなぜ、子どもたちはゲームの世界に閉じこもるようになるのか、次回はその背景を考えてみたいと思います。

続きます。

参考図書:ネット依存症 樋口進 著

参考サイト:ゲーム障害の症状、治療法

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「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

今日の新潟市、晴天が広がり少し動くと汗ばむくらいです。

先ほど家族で家の近所を散歩してきました。

息子は、タンポポがお気に入りらしく、花を摘んでは花びらをむしって喜んでおりました。

河川敷を歩いたのですが、川から吹く風が心地よく、のんびりと過ごすことが出来ました。

 

前回のブログでは、不登校、引きこもりという現象が増加する裏には、大人社会の構造変化がある、というお話を綴りました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~

気持ち一杯になって動けなくなったお子さんに対してどのような接し方をしたらいいのか。

それを考える前に、なぜ動けなくなるのかをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

なぜならそれが、動けなくなったお子さんに対してどう接すればよいか、のヒントになると考えるからです。

以前のブログで、子どもと接するときに必要なのは、「評価の眼差し」、「共感の眼差し」の二つである、と綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

子どもが健全に成長するためには、この二つの眼差しがバランスしていることが大切なのですが、

ここ何回かに分けて書いてきた通り、今は評価の眼差しが過剰になっている時代です。

そんな時代の中で、今まで元気で明るく聞き分けのよい良い子だったのに、何かのきっかけで動けなくなる。

私の知る限りですが、引きこもりや不登校にはそのようなケースが多いように感じます。

それでは彼らはなぜ動けなくなるのでしょうか?

 

子どもというのは本来わがままな生き物です。

私には今もうすぐ一歳半になる子どもがいますが、彼は、自分の願望が通らなければギャンギャンと大声をあげて泣いて怒ります。

接しているこちらは本当に大変だなぁと感じることも多々ありますが、あれが本来の子どもの姿なのでしょう。

だからどんな子どもの中にも、わがままで自分勝手にやりたいという願望はあるのです。

もちろん成長するなかで、それを抑え、周囲と折り合いをつけて生きる事を学ぶのはとても大切なのですが、

まだ小さいうちからその我慢が過剰になって、自分の願望を押し殺し、一生懸命周りの大人の期待に応えようとしているのが、明るく元気で聞き分けのよい良い子の姿です。

それではなぜ彼らは「良い子」を演じるのでしょうか?

それは、彼らを取り巻く世界が共感性に乏しく、過剰な「評価の眼差し」に満ちているからです。

もし自分の願望を素直に表現して、周囲の期待に応えず評価を得られなければ、自分は見捨てられてしまうんじゃないか?

そのような不安を子どもに抱かせる雰囲気が社会に蔓延しているからこそ、彼らは無理をして「良い子」を演じているのです。

 

自分の願望を押し込めて無理に「良い子」を演じ続けていれば、いつかその子は自分に対してそのような我慢を強いる周囲に怒りや憎しみを持つようになるでしょう。

「良い子」を演じるその仮面の裏側で、彼らは沢山の闇を抱え込んでいるのではないでしょうか?

その怒りや憎しみが外へ向かえば、暴力や夜遊びなどの問題行動になるでしょうし、それが内へと向かえば、自分の殻に閉じこもり引きこもることになるのでしょう。

私の実感としては、今は怒りや憎しみが外へ向かう子よりも、内へ内へと向かい動けなくなる子の方が多いように感じます。

ここに書いていることは、私の経験を元にしたものであり、もちろん例外もあるかと思います。

しかし、私の知る限りにおいて考えてみると、不登校、引きこもりの増加という社会現象の裏側には、

このような評価の眼差し過剰な社会の中で、子どもたちが評価を得られず、期待に応えられず、見捨てられたらどうしよう、という不安を抱え込んでいる、

このような構造があるように感じられます。

 

このように「評価の眼差し過剰な社会」の中で、評価されることに、期待に応えることに疲れて動けなくなった子どもたち。

このような構造が認識できれば、自ずと彼らに必要なものが見えてきます。

長くなりましたので、また次回。

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二つの眼差し ~不登校の社会背景~

早いもので5月も後半に入りました。

街はウイルス禍から少しづつその日常を取り戻し始めているようです。

子どもたちに話を聞くと、学校も6月から再開されるとか。

喜んでいる子、もうちょっと休みたがってる子、不安そうな子。

その表情は様々です。

高校生の時の自分だったらどうかと考えてみました。

きっとまたあの沈鬱な日々に戻るのかと、深いため息をついていただろうと思います。

あの環境は私にとって本当に苦痛以外の何物でもありませんでした。

学校再開に不安な表情を浮かべる子の姿に昔の自分が重なって見えました。

 

前回のブログでは、

社会のあらゆる組織に株式会社の運営ルールが適用されるようになっていること、

しかし、医療、教育、行政など、そのルールを適用してはならない領域があること、

そして、その理由を教育を例に取って考えてみました。

二つの眼差し ~株式会社化する社会~

それでは、その社会の株式会社化から学校は守られているのでしょうか?

私の考える答えは否です。

先日のブログで私は、社会の株式会社化は、2000年代前半くらいから始まったのでは、と綴りましたが、

日本における不登校の歴史を考えると、それはもっと以前から始まっていたのだと分かります。

 

日本で不登校(当時は登校拒否と呼ばれていました)が報告され始めたのは、1960年代に入ってからのことです。

その当時は、母子分離不安論、自己像脅威論、自我未成熟論など、その原因を個人に帰する考えが主流でした。

しかし、1970年代半ばに、それまで緩やかに減少傾向であった不登校の数が急増すると、その原因を学校という構造の問題と考える、学校病理論が主張されるようになります。

それでは1970年代半ばに何があったのでしょうか?

そこを考えてみると不登校を生み出す社会構造が理解出来ます。

 

1973年、第四次中東戦争に端を発するオイルショックが日本経済を襲います。

その年を境に日本は不況に突入し、戦後の高度経済成長の時代から、低成長の時代へと移り変わっていきます。

その影響が社会に色濃く出始めたのが1975年です。

翌年春の新規採用者数が40%減、有効求人倍率は前年の半分にまで落ち込みました。

中高生の子どもを持つ中高年の雇用環境も悪化します。

企業は大量の配置転換や出向を実施、一時休業や希望退職者を募る会社も現れます。

そのような大人の社会の変化は当然、子どもたちの社会にも変化をもたらします。

将来に対する不安を受けてでしょう、この年代からいわゆる「受験競争」と言われるものが苛烈になってゆきました。

社会構造の変化によって、大人の世界も子どもの世界も、生き残り競争が激化し始め、それとリンクして子どもたちの不登校は急増した。

それが1970年代半ばに起きたことです。

※参考図書:共に待つ心たち ~登校拒否、ひきこもりを語る~ 高垣忠一郎 著

 

社会の構造変化が、大人社会に生き残り競争をもたらし、その結果子どもたちの社会も過度に競争的になり、不登校という現象になって現れる。

この構造はその当時から今までずっと続いています。

つまり社会の株式会社化の影響を受けて、教育の現場にも過剰な評価の眼差しが持ち込まれてしまっている。

日々子どもたちと関わる中で私はそのように感じています。

その証拠に、少子化の影響を受け子どもの数は減っているのに、不登校の数は増えています。

つまり、苛烈な競争を煽られるような環境に身を置くことを拒む子どもが増えているのです。

 

このように過度に競争的で、評価の眼差しに偏った社会の構造が、子どもたちの不登校を引き起こす要因になっています。

それでは、競争に晒されること、評価されることに疲れ、動けなくなった子どもたちに必要なものとは何でしょうか?

長くなりましたので、また次回。

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二つの眼差し ~株式会社化する社会~

前回のブログでは、子どもの健全な成長には、評価の眼差し、共感の眼差し、この二つのバランスが必要である、という内容を綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

それでは実際に子ども見つめる、社会の眼差し、私たち大人の眼差しはどのようになっているのでしょうか?

考えてみたいと思います。

 

私が尊敬する思想家の内田樹先生は、「株式会社化する社会」という言葉で現代日本社会の趨勢を表現しています。

これは、構成要員が、社会の様々な領域に株式会社の運用ルールを適用すれば、万事がうまく運んでいく、という信憑に取りつかれた社会のことです。

株式会社の運用ルール、私が考えるものは以下の三つです。

一、競争と評価

二、トップダウンによる意志決定

三、効率とスピードを重視

この社会の流れは私が記憶している限り、2000年代前半にアメリカ初の新自由主義が日本に侵入してきて以来のことだと思います。(実はもっと古いのですが、それはまた次回)

注:新自由主義・・・政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し社会に行き渡るとする。(デジタル大辞泉より)

この新自由主義の発想のもと、郵便事業の民営化、労働者派遣法の改正など様々な規制緩和が実施されました。

その流れの中で、いつの間にか日本全体に、すべての組織は株式会社のルールに準じて運用されるべき、という「信仰」が根付いてしまったのだと私は感じています。

さて、その信仰は、命題として真と言えるのでしょうか?

私は違うと考えます。

その反例を示します。

世の中には、株式会社の運用ルールに馴染まない組織というものがあります。

私が考えつくものは、医療、宗教、行政、農林漁業、そして教育です。

これらの領域に株式会社の運用ルールを持ち込んではダメなのです。

何故ダメか、教育と株式会社の運用ルール一、二、三を関連づけて、その理由を見ていきたいと思います。

一、競争と評価

これはもう先日のブログで考察したことですが、子どもが成長するためには、評価の眼差しに加え共感の眼差しが必要です。

競争を煽り、評価するだけでは、他者評価に依存し自分の考えを持てない子どもになってしまいます。

二、トップダウンによる意志決定

子どもが成熟するためには葛藤が必要です。

そして子どもが葛藤するために必要なのは、いろいろな大人が少しずつずれたことを言える環境です。

あの人はああ言うけれど、この人はこう言う。

様々な大人の言うことのずれの中で、子どもは葛藤し、自分なりの価値観を獲得していきます。

これが成熟というプロセスです。

トップダウンの意志決定がなされる組織では、このずれは忌避されます。

そこには単一の価値観しか存在し得ません。

そしてそのような環境下で、子どもの葛藤、成熟など期待できるはずもありません。

三、効率とスピードを重視

子どもを育てたことのある親御さんや、子どもに携わる仕事をされている方ならすぐにわかることと思いますが、

子どもがある状態からある状態へ直線的に成長するなどということはあり得ません。

子どもの成長とは、様々なトライ&エラーを繰り返しながらあっちへぶつかり、こっちへぶつかりするプロセスを通じて果されるものです。

だから、親は、教育に携わる人間は、そのトライ&エラーのプロセスを待ってあげる必要があるのです。

「待つ」というプロセスが不可欠な領域に「スピード」や「効率」などという発想を持ち込んでいいはずがありません。

子どもは工業製品ではないのです。

 

教育を取り上げて具体的に見てきましたが、先ほど挙げた五つの分野、人が人らしく心穏やかに生きていくために、必要不可欠なものばかりです。

株式会社とは、その性質上儲けがなければ存続し得ない組織です。

「儲けが立たなくなったから私どもはトンズラします」でそのサービスを止められてしまっては、その後私たちの生活が成り立たなくなってしまうのです。

だからこれらの分野は株式会社の運用ルールを適用してはいけないのです。

今見てきたように、教育という分野に株式会社の運用ルールを持ち込んではならないのですが、それでは今、実際の教育の現場はどのようになっているでしょうか?

株式会社化から守られているのでしょうか?

残念ながらそうはなっていない、と私は感じています。

長くなりましたので続きは次回。

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二つの眼差し ~共感と評価~

先日、家庭教師でお邪魔したご家庭で、授業を終え帰ろうと階段を下りているときに、足を滑らせて、お尻を痛打してしまいました。

もう夜遅かったのに「うわぁっ」とか大きな声をあげてお騒がせしてしまいました。

ここ数日、お尻に二枚湿布を張って生活していたら、かなり良くなりました。

ただの打撲だったようです。

授業を何件もこなしてきっと頭が疲れていたのだろうと思います。

年のせいではないはずです、たぶん、きっと。

皆さんも階段の上り下りにはくれぐれも気を付けてください。

 

先日のブログでは、「退歩を学べ ~ロボット博士の仏教的省察~」という本の中から、示唆に富む一つのエピソードをご紹介しました。

著者の森政弘さんが、本田技研の創業者、本田宗一郎さんと車の構造について話していた時のことです。

二つの眼差し ~何が車を走らせるのか?~

車が走るためには、アクセルとブレーキという二つの相反する機能が調和する必要がある、アクセルだけでもブレーキだけでも車は走ることが出来ない。

これは示唆的で汎用性に富む考え方で、一般化するならば以下のようになります。

二つの相反する対立概念が調和することで、一つの機能を果たす。

子どもの成長に関しても、これと同じような構造があると私は考えます。

長年子どもの引きこもり、不登校の問題に携わってこられた心理学者の高垣忠一郎先生は、著書「生きることと自己肯定感」の中で、

「共感の眼差し」「評価の眼差し」という二つの眼差しから子どもを見つめることが必要であると書かれています。

この「評価の眼差し」「共感の眼差し」で子どもを見つめるとは、具体的にどうすることを言うのでしょうか?

私なりに定義をしてみました。

評価の眼差し:あるルールを元に子どもに良い悪いの判断を下し、評価する視点

共感の眼差し:子どもの感じ方をありのままに認め、受容する視点

具体的な事例をもとに考えてみましょう。

例1:近所を散歩していたら大きな犬が近寄ってきて、子どもが怖がって泣き出した場合

評価の眼差しで接するならば、「そんなことで怖がって泣いたらダメ。もっと強くなりなさい!」などという言葉がけになるでしょう。

同様のケースに共感の眼差しで臨むならば、「怖かったねぇ、お母さんがそばにいるから大丈夫だよ」というような言葉がけになるでしょうか。

例2:テスト勉強を頑張ったのだけれど、思うような成績が得られなかった場合

評価の眼差しで接するならば、「こんな点数では○○高校には入れないから、もっと頑張りなさい」という対応になるでしょう。

共感の眼差しでは、「悔しいよなぁ、でも一生懸命頑張ったことが素晴らしいよ、次はきっと結果が出るよ」というような対応になります。

このように全く同じ状況でも、どちらの眼差しからその状況に接するかによって、対応が全く変わってきます。

評価の眼差しとは父性的な視点、共感の眼差しとは母性的な視点、と言い換えることが出来ると思います。

これらのうちどちらかが大事で、どちらかが不要という話ではありません。これらがバランスしていることが大切なのです。

共感の眼差しばかりが優位になり、評価の眼差しが欠如した場合、子どもは現状に甘んじるようになり、いつまでも成長のための努力が出来なくなってしまうでしょう。

評価の眼差しが優位になり、共感の眼差しが欠如している場合、子どもは自分の感じ方に自信が持てず、他者評価に依存的になってしまうことでしょう。

つまり、前回のブログの車のアクセルとブレーキの話同様、この相反する二つの視点が調和して初めて子どもは健やかに成長していくことが出来るということです。

 

「評価の眼差し」、「共感の眼差し」。

この二つがバランスして初めて子どもは健やかに成長をしていくことが出来る、というのが今日のまとめです。

それでは実際に今、日本の子どもたちに向けられる、大人の、社会の眼差しはどのようなものになっているのでしょうか?

次回に続きます。

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二つの眼差し ~何が車を走らせるのか?~

お陰様で先日、我が家の息子は一歳五か月になりました。

だいぶ意志の疎通が出来るようになってきて、「お父さんはどこだ?」と聞くと、私の顔を指さしてくれるようになりました。

仕事が早く終わった日は、家に帰って一緒にお風呂に入ります。

一緒に湯船につかりながらあれこれおしゃべりしていると、これ以上望むものは無いなぁと思えます。

早く大きくなってほしいような、まだ赤ちゃんのままでいてほしいような、複雑な気持ちです。

生まれてきてくれたことに、親にしてもらえたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

先日仕事の合間に、頭を休めたくなって、川辺に行きしばらくボーっと一人流れを見つめておりました。

ボーっとしているときというのはあれやこれやと様々思い出されてくるものです。

その時、だいぶ前にいつもお世話になっている車屋さんから借りた本のことを思い出しました。

その中にあったエピソードがとても示唆に富む話で、これはいろいろなことに通じる概念だなぁと思い、いつかブログに書こうと思っていたのでした。

お借りしたのは「退歩を学べ ~ロボット博士の仏教的省察~」という本です。

著者の森政弘さんは、東京工業大学の名誉教授で、工場の製造ラインで使われているロボットアームや、心臓手術に欠かすことが出来ない人工心肺の自動制御システムなどの研究に携わってこられた日本のロボット研究の第一人者です。

森さんは、研究の傍ら三十年以上にわたり禅の修行を行ってこられました。

その中で得られた仏教的視点から、「退歩」という考えの必要性を訴えます。

森さんは、進歩至上主義が行き詰まりを見せる今の世の中を、部屋に迷い込んでしまいそこから脱出するためにガラス窓にぶつかり続けるハエに例えます。

ハエは脱出するために前に進むことばかりを考えているが、いったん退き全体像を眺めてみれば、ガラス窓の隙間に気が付き出ていけるものを、その視点が得られずにいつまでも同じことを繰り返してしまう。

このハエのように前に進むことばかりを考えて行き詰っている人間の世界も、「退歩」を学ぶことで再び前進できる、と森さんは主張します。

これだけでも相当示唆に富むお話なのですが、私がより深い感銘を受けたのは、本田技研の創業者、本田宗一郎さんとのエピソードです。

ある日森さんと本田さんは、車の構造についてお話されていました。

本田さんからこのような問いが投げかけられます。

「走るために必要なのはアクセル、止まるにはブレーキ、これで良いか?」

この問いに森さんは「それでよい」と答えたのですが、本田さんから以下のように叱り飛ばされたと言います。

「君な、アクセルだけで走れるのなら、あそこに停めてある私の車のブレーキを外してやるから、それに乗って走ってこい」

そう言われて初めて著者は、車が走るためにはアクセルとブレーキの両方が必要不可欠であることに気が付きます。

アクセルとブレーキ、この相反する二つの作用がバランスして、初めて車は走ることができるということです。

これは何も車の制御だけに言えることではありません。

次回に続きます。

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