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おふくろさんよ、おふくろさん ~母という存在~

私は歌が好きです。

学生時代はギターを弾きながら街角で歌っていたこともあります。

聞かされるほうはたいそう迷惑だったことと思います。

若気の至りというやつですね。

恐ろしい。

それはさておき、ある時ふと気が付いたことがあります。

 

=母の歌=

母に捧げるバラード 海援隊

秋桜 山口百恵

アンマー かりゆし58

Mother  ジョン・レノン

おふくろさん 森進一

愛をこめて花束を Superfly

ヨイトマケの歌 美輪明宏

東京だよおっ母さん 島倉千代子

パッと思い出しただけでも、母を題材にした歌の多いこと。

歌という感情がストレートに出やすい表現方法において、これだけ「母」を題材にしたものが多い。

父を題材にした歌もあるにはありますが、それほど多くないように感じます。

 

=「母」という特別な存在=

父への思い、母への思い。

どちらが強いかと問われれば、大きな声では言えませんが、私は母への思いのほうが強いかもしれません。

でもそれは、私だけではないようです。

父の日と母の日の贈り物が、それぞれどれだけの市場規模を調べてみました。

父の日 1825億円

母の日 2377億円

ともに第一生命の調査結果を参照しました。

父の日より母の日のほうが、30%ほど大きな数字です。

金額の多寡で人の心を測れるわけではありませんが、一つの指標にはなり得るかと思います。

やはり、人にとって母という存在は特別なものがあるように感じます。

 

=母の力=

子どもたちの困難な状況。

例えば、不登校、家庭内暴力、夜遊び、摂食障害、リストカット、ネット依存。

そのような状況下でお母さまが、またはお母さんの役割を担っている方が、

当事者意識を持ってお子さんに寄り添うことで状況が改善に向かう。

私はそのような事例をいくつも見てきました。

お母さんが信じる力が子どもにエネルギーを注ぎ、困難から立ち上がる。

それは何も今という時代に限ったことではありません。

歴史上の偉人・天才と呼ばれる人たちの幼少期を調べてみると、そのような事例がたくさんあります。

次回以降はそんな事例をいくつかご紹介していこうと思います。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

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受け身 ~負ける練習~

 

相田みつをさんの著書に「受け身」というエッセイがあります。

柔道の基本は受け身。

受け身とは、負ける練習。

人の前で投げ飛ばされる練習。

人の前で恥をさらす練習。

柔道ではまず初めに負け方を教える。

それは、生きていると格好よく勝つことよりも、無様に負けることのほうが多いからだ。

受け身が身に付けば人生の達人だ。

若者よ、頭と体の柔らかいうちに受け身をしっかり身に着けておけ。

失敗なんか気にするな。

負けることをうんと学んでおけ。

そしてわが身を通して受け身を、負け方を身に付けてはじめて、

人の心の痛みに寄り添える人間になれるんだ。

そのような内容のエッセイです。

人は成功するよりも失敗から多くを学びます。

そして思い通りにならない経験をするからこそ、人に優しい眼差しを向けることができるようになります。

つまり人間的に成熟することができるのです。

自分の今までの経験を振り返っても、大きく成長できたとき、そこには試みがあり、しくじりがありました。

そして傷ついたときに自分の傍らにいてくださる方たちから、優しさというものを学ばせて頂きました。

試みる経験が人に多くの学びをもたらしてくれるのですが、実際に子どもたちと一緒に学んでいると、間違うことを極端に怖がる子が多いです。

「自分で考えてごらん」と言っても間違うことが嫌だから、解き方を教えてもらうまで何もしようとしない子さえいます。

なぜこんなにも試みることに及び腰になるのでしょうか?

 

=なぜ試みられないか?=

子どもと向き合うとき、私たち大人は無意識に二つの眼差しで子どもたちを見ています。

一つは、しっかりと基準を満たせているか、ルールを守れているかを見る、評価の眼差し。

もう一つは、その子の言葉に感情に寄り添い包み込む、共感の眼差し。

これは父性と母性と言い換えてもいいかと思います。

私たち大人が、子どもと対峙するときそれとは意識せずにこの二つの視点から子どもを見ています。

児童精神科医の佐々木正美先生は著書の中で、子どもにまず必要なのは母性である、と述べておられます。

まず子どもたちに必要なのは、評価の眼差しではなく、共感の眼差しであるということです。

しかし、今の子どもたちが置かれた環境を見てみれば、常に評価の眼差しに晒されていることが分かります。

学校の成績、習い事の成績、部活の成績、家の手伝いをしているか否か、バイト先での仕事の出来不出来。

大人が定めた基準の中で、それを満たすことが出来ているか、役に立っているかどうか。

子どもたちを取り巻く世界は、共感ではなく評価の眼差しに満ちています。

そういう評価に常に晒されている子どもたちの心の中に、果たして安心感はあるでしょうか?

例えば、私は小心な人間なので面接試験の前は不安に駆られます。

でもそれは私だけではないはずです。

このように評価というものは人から安心感を奪ってしまうのです。

そんな安心感のない状態で未知の何かに一歩を踏み出してみようなどという考えが浮かぶでしょうか?

子どもたちが何かを試みる事ができない理由、それはこの安心感の欠如だと私は考えます。

 

=共感の眼差し=

人は新たな何かを試みるから、そこから何かを学びます。

当然失敗のリスクも伴いますが、人はそこから多くを学び取ります。

だけど今、大変皮肉なことでありますが、

子どもたちの成長を願って様々な評価を課してきた私たち大人の振る舞いが、

子どもたちを学びから遠ざけてる、という事態が起きているのです。

そこには「学びとはデザインできるもの」という私たちの思いあがった考えがあるように思います。

その子にとっての学びがいつ何時その子に訪れるか、それはコントロールできるものではありません。

その人にとっての深い学びとは、偶然がもたらすものなのです。

なぜなら人は学び取る前に、それを学ぶ意味を知ることが出来ないからです。

その概念がない世界に生きている人間が、その概念を得ることで世界がどのように変わるかをその概念を得る前に想像することは、原理的に不可能です。

だから人はそれを学び取った後で、「私はこれを学んだことでこのような事が得られたのだな」と、初めて知ることができるのです。

話がちょっと逸れてしまいそうなので、軌道修正しますが、学びとはコントロールできるものではなく、偶然がもたらすもの、ということ。

その偶然に自分の身を投じていくためには、心の中に安心感が必要なのですが、今子どもたちは、

過剰な評価の眼差しにさらされ、未知に対して自分を開いていくことが出来なくなっている。

つまり、学べなくなっているということです。

今の子どもたちに必要なもの、それは評価の眼差しではありません。

その子の存在を認め、受け容れる共感の眼差しです。

その眼差しに見守られ、心の中に安心感が芽生えるからこそ、人は未知へと自分の身を投じてけるのです。

そしてその先で、偶然に、あくまで偶然に、その人にとっての大きな学びが起こります。

子どもたちは今頑張っています。

部活に、勉強に、アルバイトに。

今頑張っていないように見える子だって、頑張れなくなるまでに大人の期待に応えようと精一杯頑張ってきたはずなのです。

子どもたちの成長を願うならば、どうか、評価の眼差しではなく、温かい共感の眼差しで子どもたちを見守ってあげてください。

その眼差しが子どもたちの、学びたい、成長したい、という気持ちを育てていくことになるです。

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生きづらい時代と自己肯定感

臨床心理学者で若者の不登校、引きこもりの問題に長年携わっておられる高垣忠一郎さんの著書を紹介致します。

生きづらい時代と自己肯定感 高垣 忠一郎 著

高垣さんは、定義が曖昧な「自己肯定感」という言葉を、「自分が自分であって大丈夫と思える感覚」と定義しています。

「自分のことが好き」とか「自分は素晴らしい」ではなく、「自分であって大丈夫」という表現が言い得て妙だと思います。

自己肯定感というのは様々ダメなところもあるけれど、そんな自分に対しても「まぁいいじゃないか」と思えることであり、

自分のダメなところをひた隠し、優れた部分しか見ようとしない自己愛とは全く別のもです。

自己嫌悪の強い人ほど、それを見ないふりして理想的な自己像に縋り付くもの。

だから自己愛と自己嫌悪は同じコインの裏表の関係なのです。

それでは自分の至らなさを受け容れて人間的に成熟するという苦痛を伴うプロセスを避け、

自分の優れた一面にしか目を向けない自己愛の中に逃げ込んでしまうのは何故なのでしょうか?

日本にはもともと「個」という考えが希薄でした。その概念が登場するのは明治時代に入ってからと言われています。

明確な「個」という概念を持たない日本人は共同体の中である役割を演じることで、不確かな自分という存在に確かさを見出してきました。

しかしグローバリズムの流れを受けて、拠り所としていた家族、地域、会社などの共同体は次々と解体されてしまいます。

個を支える強い宗教も存在しない日本では、砂つぶのようにバラバラになった人々が自分の存在を担保する術を失ってしまいました。

自分が存在することの意義を確かめるために私たち現代の日本人が寄りかかっているもの、それが他者からの承認です。

しかし人の評価のような移ろいやすいもので、自分の存在に絶対的な安心感を抱けるはずもありません。

そういう心に根ざす自分の存在に対する根源的な不安が、「生きづらい」という言葉で表現される世の中の雰囲気の正体なのではないかと私は思います。

そしてその不安感と対峙することを避けるために、自己愛という虚構に逃げ込む人が増えているのでしょう。

大人の社会に漂うこの根源的な不安感が、子どもたちに影響を及ぼさない訳はありません。

思春期というのは、親の価値観から脱皮して自分という人間を形作っていかなければならない、ただでさえ不安定な時期。

その不安定な自分のままで、未知の世界に足を踏み込めぬと自分の殻に閉じこもる子どもが増えるのも無理からぬことなのだと思います。

だから不登校や引きこもりというのは、個人の問題でも、個別のご家庭の問題でもありません。

社会全体の不安感が引き起こしている問題なのだと私は考えます。

この問題の解決の糸口は、子どもが変わることではありません。

まずは大人が変わることです。

社会に漂うこの不安感はどこから来るのか?

自分たちはどのような価値観に依拠して生きているのか?

そしてその価値観は誰が握りしめさせたものなのか?

社会の雰囲気に流されることなく、そういう問いを自分に投げかけ続け、一人一人が気づいていくことでしか、この問題は解決を見ないだろうと思います。

なぜ子どもたちは引きこもるのか?

この不安感はどこからやって来るのか?

なぜ評価や競争の世界に依拠して生きてしてしまうのか?

高垣さんの著書は、そういう問いに対峙するための見取図を与えてくれる一冊でした。

もしよかったら手に取ってみてください。

目次

1、自己肯定感ってなんやろう?

2、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感の来歴

3、自己肯定感と「自己愛」そして「自分を愛する心」

4、競争社会と自己肯定感

5、現代の社会情勢と自己肯定感

6、自己肯定感のいま 命の世界と自己肯定感

7、自己肯定感を育てるために

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世間のモノサシ、命のモノサシ ~まど・みちおさんの詩に思う~

私たちは日々評価の世界に身を置き生きています。

大人は、会社という組織で働き、その評価に応じて役職を割り当てられ、給与をもらい生活しています。

子どもは、学業成績によって、部活動の成績によって、世間からの評価を受け生きています。

評価とは何でしょうか?

評価・・・ある事物や人物について、その意義、価値を認める事。(大辞泉より)

意義や価値とは、国が変われば時代が変われば、コロコロと変わりゆくものでしかありません。

しかし、子どもたちと一緒に学習をしていると、その意義や価値の中で評価されようと一生懸命頑張る子、評価されないことで自信を失い投げやりになっている子に度々出会います。

子どもだけではありませんね。

かつて子どもだった頃そういう評価のモノサシを当てられながら育ってきた私たち大人も、世間から評価に一喜一憂しながら生きてるのではないでしょうか?

=世間のモノサシ、命のモノサシ=

私たちは、二つの価値を生きているのではないでしょうか?

だけど、片方の価値がワーワーキャンキャン喧しいために、もう一つの価値に気づきづらくなっている。

それが現代の日本なのだと私は感じています。

私は自然の中に身を置くことが好きです。

山の中や人気のない海に身を置くことが好きです。

晴れた夜にゴロリと横になって星空を眺めていると満ち足りた気持ちになります。

そういう場所で時間を過ごしていると、世間のモノサシがスーっと自分から遠ざかっていくのを感じます。

そういう場所で時間を過ごしていると、社会の中で役割を付与された「人間」ではなく、

霊長目ヒト科ヒト属に所属するヒトという生き物なのだという感覚が静かに沸き上がってくるのです。

普段自分が縛り付けられている世間のモノサシが遠ざかり、命のモノサシの中で生きているヒトという生き物という実感が沸き上がってきて、不思議な安心感を覚えます。

先ほど私たちは二つの価値を生きていると書きましたが、二つのうちのもう一つ、それは今自分がここに生きていること、それ自体が持つ価値です。

評価のモノサシが社会のあちらこちらに張り巡らされ、自分がただここにいる事それ自体に価値があるなどとはなかなか信じがたい世の中ですが、

私が好きな詩人のまど・みちおさんは、詩の中でその価値をこんな風に表現されています。

ぼくが ここに      まど・みちお

ぼくが ここに いるとき

ほかの どんなものも

ぼくに かさなって

ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば

そのゾウだけ

マメがあるならば

その一つぶの マメだけ

しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として

今自分がここに「いること」は、ほかの誰にも代替不可能な価値があるのだと、まど・みちおさんの詩は語っています。

そして評価のモノサシ、世間のモノサシから離れ、ただここに「いること」の価値を感じられたとき、私たちは自分の存在に大きな安心感を抱くことができるのではないでしょうか?

=「自分が自分であって大丈夫」=

心理学者として、臨床心理士として長年不登校や引きこもりの子どもたちと関わってこられた高垣忠一郎さんは、

その著書の中で自己肯定感という定義のあいまいな言葉を、「自分が自分であって大丈夫」と思える気持ち、と定義づけています。

この気持ちが育まれるのはいったいどのような環境でしょうか?

評価というのは脅しにも似ています。

評価とは、この基準を満たせなければあなたは不要という脅しのメッセージにもなり得ます。

そのようなメッセージに満ちた世界で「自分が自分であって大丈夫」などという気持ちになれるでしょうか?

不登校の子どもたちと接していて思うのは、彼らは人一倍感受性が豊かな子が多いということです。

その「感受性豊か」という才能ゆえに、評価のモノサシ、脅しのメッセージに満ちた世の中に息苦しさを感じて動けなくなっているのではないでしょうか?

人が新しい世界に一歩足を踏み入れてみようと思えるのは、自分が自分に対して安んじていられるからです。

不慣れな世界に足を踏み入れて、そこで否定されたら失敗したら自分という人間の価値が大きく揺らいでしまう。

そんな不安定な気持ちを抱えたままで、人は未知の世界に足を踏み入れることはできません。

だから、もし今目の前に、気持ち一杯になって動けなくなっている子がいるならば、周りの大人がその子のためにせねばならないことは、

世間の発する評価の声に負けないくらいの声量で、「あなたはあなたであって大丈夫」という声を掛け続けてあげることです。

「自分が自分であって大丈夫」という感覚が心に根差しているからこそ、評価のモノサシを相対的なものと捉え、未知の世界に一歩踏み出していけるのです。

そして私自身がそうであったように、自分が自分であることに不安を抱える子どもたちに向けて、「あなたはあなたであって大丈夫」というメッセージを投げかけるという経験が、

評価の世界で汲々と生きる大人自身に「ただここにいること」の価値を思い出させてくれるのかもしれません。

先日読んだ、まど・みちおさんの詩にそんなことを思いました。

参考図書:ポケット詩集

共に待つ心たち 高垣 忠一郎 著

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意味が分からないことの意味

学校教育は決して洗脳などではなく、子どもたちの考える土台を築き世界観を広げてくれる素晴らしい内容であること。

そして国語、英語、社会、理科、数学、それぞれを学ぶことで一体何が得られるのか、どんな意味があるのかを数回に分けて考えてきました。

「学校教育は洗脳」という洗脳

世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

電卓があっても数学を学ばねばならない理由

ここまで書き綴ってきたすべてをひっくり返すようなことを書きますが、意味が分かることは必ずしも良いことばかりではありません。

意味が分からないことにも大切な意味がある。

今日はそのような内容を綴ってみたいと思います。

 

=意味が分かってしまうことの罪=

考える事はとても大切なことですが、その一方で考えることには辛さも伴います。

なぜなら「考える」とは、今までの自分の思考の枠組みを解体し、再度組み立てなおすこと。

今までの自分を壊し、再構築する作業だからです。

当然脳みそには多大な負荷がかかります。

だから、気が付くと考える事を無意識的に避けていた、そんな経験が私には多々あります。

例えば、本を読むときがそうです。

今まで読み慣れたジャンル、今まで読み慣れた書き手の本は読んでいても知的に負荷がかからないが故に、無意識的にそういう本を選んでしまう自分がいます。

そういう本を読み続けていても、脳みそがくたびれることはありません。

だからスラスラ読めてしまいます。そして読み終えた達成感も味わえます。

その一方で、確認できることは沢山ありますが、新たに得られるものはそれほど多くはありません。

簡単に意味が分かってしまうことの罪、それはその人の世界観があまり広がらないということです。

 

=それを学ぶことの意味は事後的にしか分からない=

“それを学び取ることの意味は学んだあとで初めてわかる。”

これは、内田樹さんの著書「先生はえらい」から教えて頂いたことです。

赤ちゃんが周囲の大人から言葉を学び取るとき、言葉を学ぶ意味を知っているでしょうか?

言葉を学び取ることで私にはこのような良きことがある。

そんな風に考えて言葉を学び取っているのでしょうか?

違いますよね。

言葉を学び取ることで、家族と会話が出来るようになる、本を読むことが出来るようになる、友達に手紙を書けるようになる。

言葉を学び取ることで得られるもの、それは言葉を学び取ったあとで初めて分かるものです。

学び取る内容がその人の人生観をガラリと変えてしまうほどクリティカルな内容であればあるほど、それを学び取る前の人間にはそれを学ぶ意味は分からない。

そういう構造になっているのではないでしょうか?

だからこれを学び取ることで自分には何が得られるのか?容易に想像できる事柄よりも、

これを学ぶことで一体何が得られるのかよくわからないもの方が、その人に大きな学びをもたらすということもあるのです。

 

=成熟は葛藤を通じて果される=

意味が分かるからこそ、人はモチベーションが上がります。

その一方で意味が分かってしまうことで失われるものもあります。

その一つが葛藤する時間です。

意味の分からなさの中で揺れ動き葛藤することで、人は成熟を果たしていきます。

例えば、ここに中学生の少年A君がいたとします。

A君は野球が大好き。部活動を毎日頑張っています。

そんなA君に対して親は、部活よりも学校の勉強を頑張れと言います。

ところが部活の先生はみんなで一緒に部活をがんばろうと言ってきます。

このように親と先生の言うことが割れているとき、少年A君はその相反する二つの考えの間で揺れ動き悩みを抱えます。

でもその葛藤のプロセスの中で、

親は、勉強を頑張って世の中の役に立つ大人になれ、と言っている、

先生は、みんなで部活を頑張ることで仲間と協力して生きていける大人になれ、と言っている、

そうか要するに親も先生も俺に大人になれと言っていたのか!、と分かるときが来るわけです。

このように一見相反する物事の中に共通項を見出せるようになるのは、物事を見る視点が高くなったから、より広い世界を一望俯瞰できる広い視野を得たからです。

そしてそれが人間として一段成熟を果たした瞬間なのです。

意味の分からなさを抱えたまま、相反する物事の中で揺れ動き葛藤することを通じて、人は一段一段大人への階段を上っていくのです。

意味の分からなさが人を葛藤させ、このような成熟のプロセスを駆動する力になる。

だから意味が分からないことにも大切な意味があるのです。

 

学ぶことの意味についてずっと綴って参りましたが、意味が分からないことにも大切な意味がある。

私はそう考えます。

何でも効率よく手にいれようとする近視眼的発想が瀰漫した世の中では、

意味が分からないという状態に耐え切れず、理解できないことを簡単に視界の外に追いやってしまいがちですが、

子どもたちには、その意味の分からなさ、気持ちの片付かなさを切り捨てることなく大切に抱えてほしいと思います。

なぜならばその意味の分からなさ、気持ちの片付かなさの中で、揺れ動き葛藤するなかで人は大人になっていくからです。

お問合せはこちらからどうぞ。

参考図書:先生はえらい 内田 樹 著

街場の教育論 内田 樹 著

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電卓があっても数学を学ばねばならない理由

学校教育は洗脳などではなく、子どもたちの世界観を広げてくれる素晴らしい内容。

「学校教育は洗脳」という洗脳

それでは学校教育を通して得られるものとは何か?

そんな内容でここ数回ブログを綴っております。

国語を学ぶことで得られるもの、英語を学ぶことで得られるもの、歴史を学ぶことで得られるもの、と私の考えを綴ってきました。

世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

今回は数学、理科を学ぶことで得られるものについて。

=「こんなこと勉強してなんか意味あるんですか?」=

子どもたちと一緒に学んでいると、度々そう問われることがあります。

特に言われる頻度が高いのが、数学、理科かもしれません。

「三角比?」

「微分積分?」

「四則演算出来ればいいでしょ!」

「電磁誘導?」

「酸化還元?」

「これ何に使うんですか?」

表面的なことにばかり目を奪われていると、個別の知識は役に立たないように見えるのかもしれません。

三角比、微分積分、酸化還元、電磁気。

それらを学ぶことによって得られるもの。

個別の知識それ自体を得ているのはもちろんですが、もっと汎用的な能力が得られます。

それは論理的思考力です。

腕立て伏せの動作は日常生活ではなかなか行いませんが、腕立て伏せで鍛えた筋肉は日常生活の役に立つように、

数学や理科の問題を通して論理的思考を繰り返すことで身に着けた論理的思考力は、日常生活で非常に役に立つものです。

論理的思考方法の代表例として、演繹法と帰納法を紹介したいと思います。

=演繹法=

広く認められているルールと目の前で観察される事柄からある結論を導き出すことを演繹法と言います。

例えば、二つの三角形がぴたりと重なり合うには、どのような条件が必要でしょうか?

これは三角形の合同条件と言って、中学校二年生の数学で学ぶ内容です。

三つあります。

1、三辺がそれぞれ等しい。

2、一辺とその両端の角がそれぞれ等しい。

3、二辺とその間の角がそれぞれ等しい。

この三角形の合同条件は広く認められたルールです。

さて、今目の前に二つの三角形、△ABCと△DEFがあったとします。

そしてその二つの三角形の三辺の長さを測ってみるとそれぞれ長さが等しいことがわかりました。

これは目の前で観察される事柄です。

三角形の合同条件という広く認められているルールと目の前で観察される事柄を照らし合わせれば、

今目の前にある二つの三角形△ABCと△DEFは合同、つまりぴったりと重なり合うという結論が導きだせることが分かります。

今の話の流れをまとめれば、

三角形の合同条件(ルール)+三角形ABCと三角形DEFの三辺の長さがそれぞれ等しい(観察事項)→二つの三角形は合同(結論)

となり、これは演繹法で考えていることが分かります。

上の例のように演繹法は数学の証明問題などで度々用いられる論理的思考法です。

=帰納法=

目の前で観察される複数の事柄から共通項を見出し、それを元に仮説を立てる。

この思考法を帰納法といいます。

18世紀、オーストリアの司祭であるグレゴリー・メンデルは、黄色のえんどう豆と緑色のえんどう豆を交配すると何色になるのか、という実験を行いました。

実験の結果、すべてが黄色になりました。

この結果を受けてメンデルは、えんどう豆の色を決める遺伝子には、豆を黄色にするものと、緑色にするものがあり、

その特徴の現れやすさには優劣関係がある、という新たな仮説を立てました。

これは現在、遺伝法則の一つである優勢の法則として知られています。

この思考方法は、

黄色と緑のえんどう豆を交配するとすべてが黄色のえんどう豆になる、という観察される事実から、

ある遺伝形質(今の例では豆の色)を決める遺伝子が複数存在する場合、それらには発現のしやすさに優劣がある、という新たなルールを導き出しました。

これは帰納法の思考方法になっていることがわかります。

このように帰納法とは、理科の分野で良く用いられる論理的思考方法なのです。

=論理的思考力=

上で見てきたように、私たちは数学、理科で教わる内容を通じて、知らず知らずのうちに論理的思考の訓練をしていることがわかります。

論理的思考力が必要なのは、何も数学や理科の分野に限ったことではありません。

例えば社会人になって人前でプレゼンをするときなど、演繹法や帰納法を使って話を筋道立てて進めていくことが出来れば、

自分のプロジェクトに周りから共感や協力が得らやすくなるでしょう。

また誰かの話に耳を傾けるとき、その話の流れが論理的思考の型としておかしくないか、論理的に破綻がないかどうか判別できれば、

悪い人間が持ちかけてくる悪い話に騙されることも無くなるでしょう。

このように、数学や理科を学ぶことを通じて得られる論理的思考力とは、決して数学や理科の範囲にとどまるものではなく、

私たちの生活に広く深く根差したとても汎用的な能力であることがわかります。

三角関数、微分・積分など、取り扱う個別の事柄はもしかしたら大人になって使わない人のほうが多いかもしれません。

ただそれらの事柄を学ぶ過程で身に着ける論理的思考力を必要としない人は、まずいないと言っていいと思います。

私が考える、数学・理科を学ぶ意味。

それはこのようなとても汎用的な力である論理的思考力を鍛え、社会の中で役立てていくためです。

続きます。

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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

学校教育は洗脳などではなく、子どもたちの考えるための土台を築く素晴らしい内容であること。

そしてその素晴らしさに気づき辛いのは、学校教育が万人に等しく教育の機会を与える、非常によくできたシステムであるから、と述べてきました。

「学校教育は洗脳」という洗脳

前回は他言語を学び取ることで、私たちが何を得ているのかを考えてみました。

世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

今回は私も大好きな歴史を学び取る意味を考えてみたいと思います。

 

=愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ=

歴史を学び取る意味。

その第一は先人のトライ&エラーから学べるということです。

例えば1600年、関ケ原の戦い。

西軍の大将石田三成は豊臣秀吉の遺言を忠実に守り、言っていること、やっていることは論理的に正しいのですが、

その正しさばかりを振りかざす態度から、周囲の武将たちに嫌われ、人心は離れていってしまいます。

一方東軍の徳川家康。

秀吉の遺言を破り、やりたい放題にも関わらず、豊臣恩顧の大名たちまで味方に引き入れ、戦に勝利、天下統一を果たします。

石田三成が見逃し、徳川家康に見えていたもの。

それは人間は理屈ではなく、感情で動くということです。

三成より家康の方が人間に対する理解が深かったということですね。

このように過去の歴史を振り返ることで、先人たちが積み重ねてきた膨大な試行錯誤から、

今を生きる私たちはたくさんのことを学び取ることが出来るのです。

 

=文脈の中で物事を見る力=

二つ目は文脈の中で物事を見る力を養えることです。

1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦。

1941年、パールハーバーへの奇襲作戦から太平洋戦争開戦。

アメリカ、イギリス、中国、オランダ、フランス。

世界を敵に回してなぜ日本はこのような無謀な戦争に突入したのでしょうか?

日中戦争、太平洋戦争という二つの事柄だけを見ていたのでは、その理由は見えてくることあありません。

日清戦争、日露戦争という二つの大国を相手にした戦争で勝利したことで、日本国内では軍部がその発言権を増し、武力をもって政党政治を無力化し中国に対して強硬な態度を強めていったこと。

日本が中国でその存在を増すことを嫌ったアメリカが、日本に対して石油や物資の輸出を取りやめたこと。

打開策として南方に進出した日本に対して、ABCD包囲網を敷き経済封鎖を図ったこと。

そういう流れまで見たときになぜ日本はあのような無謀な戦争に突き進んでしまったのか、その真意が初めて見えてきます。

目の前で起きた出来事の理由とは、その出来事自体だけを見ていても分かりません。

その出来事がどういう背景をもとに起きたのか、そこまで考えて初めて見えてくるものです。

歴史を学ぶことで、このような文脈の中で物事を見るという力が養われるのです。

 

=今を客観視する力=

三つ目は今という時代を客観視する目を養えることです。

国政選挙の度ごとにその低い投票率が話題に上りますが、そもそも日本では一定の納税額以上の25歳以上の男子にしか、選挙権が認められていませんでした。

ようやく20歳以上の男女に選挙権が認められたのは、終戦後の1945年のことでした。

また今はブログ、SNS、さまざまなイベントなどで、自分たちの考えを世の中に対して自由に発言できますが、

以前の日本では1925年に制定された治安維持法によって、政府の考えに反する発言や活動は厳しく監視され、

違反者は特別高等警察に逮捕され、蟹工船を記した小林多喜二のように拷問を受けたり処刑されたりしていました。

今私たちに当たり前に与えられている、男女平等の選挙権、集会、結社、発言の自由は、歴史を振り返れば決して当たり前のことではないと気づけます。

そして一人一人が、この勝ち得た権利を大切に守ろうとする強い意志を持ち続けねば、また失われる可能性があるということにも。

そういう視点は今という時代しか知らない人には決して持ちえないものです。

 

私が考える歴史を学び取る意味。

1、先人のトライ&エラーから学ぶことが出来ること

2、文脈の中で物事を見る力を養えること

3、今という時代を客観視する視点を持てること

これはあくまでも私が考える意味でしかありません。

子どもたちと一緒に勉強していると度々、学ぶことの意味が分からないという質問を受けます。

人は意味が分からないことには十分な力を発揮できないものです。

だから周りの大人は、子どもにその意味を伝える必要があるのです。

そのためにもまずはご自身で一度なぜ学ぶのかを考えてみてほしいのです。

そしてそういう大人の自ら考える姿が、子どもたちを学びの世界へと誘うことに繋がると私は考えます。

次回は、数学、理科を学ぶことで得られるものについて考えてみたいと思います。

お問合せはことらからどうぞ。

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世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

前々回のブログでは、

・学校教育の意味を見出だしづらいのは、学校教育というシステムが万人に等しく教育の機会を与える素晴らしいシステムだから

・「学校教育は洗脳」というフレーズを近頃するが、学校教育がなければ世の中にもっとひどい洗脳が横行する

・学校教育は、さまざま改善点はあるものの、子どもたちの思考の幅を広げてくれる素晴らしいシステムである

という内容を綴りました。

それでは、学校教育で教えられている科目を学ぶことで一体何が得られるのか、もっと具体的に考えていきたいと思います。

今日は英語について。

 

英語を学ぶことで人はいったい何を得られるのでしょうか?

高校生の頃に私が考えていたこと。

・海外旅行のときに便利

・外国人と友達になれる

・女の子にモテそう

最後は別の要素も絡んでくるので一概には言えませんが、それ以外はまさにその通りです。

ただ、これ以外にも英語を学ぶ意味があります。

 

=構造主義という考え方=

人は自由に思考を繰り広げているように見えて、実は様々な構造に思考を制約されながら生きている。

その構造とは、例えば無意識、例えば社会階層、例えば身体運用法、例えば使用する言語。

これらの構造の中で制約を受けながら思考しているのであって、決して自由自在に思考しているわけではない。

そう主張するのが構造主義という哲学の考え方です。

人の思考を制限するものの中に「言語」が含まれています。

使用言語が人の思考を規定するとは、どういうことでしょうか?

 

=言語は思考=

著書「大事なものは見えにくい」の中で臨床哲学者の鷲田清一先生は、

“思考は言葉によって編まれるが、それは単に思考形成の手段ではなく、言葉自体が一つの思考である”

という趣旨のことを述べておられます。

例えば日本語で「お金がない」という表現をしますが、

同じ意味合いを英語では、「I have no money.」と表現します。

日本語で所持金を聞かれて「私は0円を持っています。」と答える人はいないと思います。

これは「無」という状態を、文字通り「何も無いこと」と捉える日本語話者と、

「0という状態が存在する」と捉える英語話者の思考の違いを表す良い例だと思います。

また日本語では向き合う他者との関係性によって、一人称が「私」、「俺」、「僕」と変化しますが、英語では一貫して「I」が使われます。

鷲田さんの言葉をお借りすれば、これは“言葉が違えば他者とのまみえ方まで違う”ということを教えてくれます。

 

=多言語を学ぶ意味=

人は様々な構造の中で思考して生きているのであって、何事にもとらわれることなく、自由自在に思考しているわけではない。

そしてその人間の思考を縛る構造の一つが言語であり、言語によって思考の様式がことなること、他者との交わり方のルールさえも異なること、を見てきました。

こうしてみると、他言語を学ぶことは、海外旅行に便利とか、外国の人と繋がれるとか、様々な意味もあると考えられますが、

母語とは異なる思考の方法を身に着けるという意味もあると言えることがわかります。

それは、単言語話者と複数言語話者が同時に同じ景色を見ていたとしても、複数言語話者は、一つの景色を二つの世界観で眺められることを意味しています。

他言語を学ぶことによって得られるもの、それは単言語話者では持ちえない、二つ目の視点なのだと思います。

 

この文章を綴りながら、一緒に学ぶ子どもたちにそのように感じてもらえるよう、私自身がもっと学んでいかねば、との思いを新たにしました。

次回は歴史を学ぶことで得られるものについて考えてみたいと思います。

 

=参考図書=

寝ながら学べる構造主義 内田 樹 著

大事なものは見えにくい 鷲田 清一 著

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「あの時があったから」 ~踏まれて踏まれて強くなる~

昨日、友人が開催する映画の上映会のスタッフを務めさせて頂きました。

三連休の中日、たくさんの方たちにご来場頂き、大盛会のうちに終わることができました。

本当にありがとうございました。

昨日の映画「ずっと、いっしょ。」は、3組のご家族の生まれること、生きること、死にゆくこと、を描いたドキュメンタリー映画です。

映画「ずっと、いっしょ。」

血のつながりがない五歳の息子さんにその事実を伝える男性と、死産を乗り越え出産に立ち向かうその奥さんの物語。

42年間連れ添った奥さんを亡くした悲しみから抜け出せず苦しむ男性と、それを支えるご家族の物語。

18トリソミーという先天性の病を持って生まれた男の子、そしてその事実を受け容れ、病とともに生きるご夫婦の物語。

それぞれに困難を抱えながらも、それでも生きようとする登場人物の姿に、人間のしなやかな強さを感じました。

映画の上映後、会場で、監督、脚本、撮影をされた郷田トモさんからのお手紙が紹介されました。

“生きていれば、否応なしにさまざまな困難が身に降りかかりります。

それでも、この映画に登場されるご家族はそれを受け容れともに生きていらっしゃる。

皆さんも生きる中で何かしらの困難が降ってきたとき、この映画を思い出して頂けたら嬉しいです。”

言葉が正確ではありませんが、このような趣旨のメッセージを頂きました。

自分自身の経験を思い出しながらその言葉を聞いておりました。

プロフィールにも書いておりますが、私は心身のバランスを崩し辛い時期がありました。

家族、友人をはじめ周りの人たちに支えて頂き今の自分があります。

その時は正直、「なんで俺だけが」「何も悪いことはしていないのに」「あいつのせいで」とか、恥ずかしい話ですが毎日のように思っていました。

幼い人間ですね。

ただ、家族に囲まれ、友人に恵まれ、仕事に恵まれ、元気になった今、振り返ると「あの時があったから」という気持ちになります。

両親をはじめ周りの人の支えのお陰で心身を壊すまで、私の人生は順風満帆でした。

ただそれを自分の力と過信し調子に乗っていたのだと今になれば思います。

あのまま何事もなく生き続けていたら、私は人の心の痛みにも気づけない本当に鼻もちならない人間になっていたことでしょう。

自分自身が身体を壊したからこそ、思うようにならず苦しんでいる人の姿に心を寄せることの出来る自分になれました。

だから「あの時があったから」という気持ちが湧いてきます。

苦しみの真っ最中にはこんな風に思えるようになるなんて想像もつきませんでしたが、

不思議なことにあの苦しかった時間さえ、今の自分を成す大切な一部と思える自分がいます。

子どもの頃に読んだ漫画「裸足のゲン」の冒頭で、ゲンのお父さんが、

「踏まれて踏まれて強くなる麦のような人間になれ」と言っていたのを思い出します。

艱難辛苦はその最中にはただただ辛いだけですが、そのプロセスが人を強く優しくしてくれる。

今回の映画から、郷田監督のメッセージから、そんなことに改めて気づかせて頂いた一日でした。

ご来場頂いた皆さんに、一緒にスタッフとして働いてくれた皆さんに、本当に感謝します。

ありがとうございました。

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子どもたちを自立に導くために

アドラー心理学の知見である「課題の分離」について綴っております。

その決断をすることで最終的に責任を負うのは誰か?

この観点から、それが誰の課題であるかを判別する。

すると、他者の課題に踏み込むことがなくなり、自分の課題に踏み込ませることがなくなり、

複雑に見える人間関係の悩みがシンプルになっていく。

「課題の分離」という考え方には、そのような効用があると綴りました。

 

=結末を経験させる=

人間関係がシンプルになる以外にも、「課題の分離」には大切な意味があります。

むしろ子育てについて言うならば、こちらのほうが重要なのかもしれません。

それが「結末を経験させる」ということです。

多とば先日の例、宿題をしない、持ち物を確認しない、部屋の掃除をしない、を考えてみましょう。

宿題をしないことで起こり得る結末は、学校の勉強がわからなくなる。

持ち物を確認しないことで起こり得る結末は、必要な活動ができなくなって困る。

部屋を掃除しないことで起こり得る結末は、探し物が見つからず困る。

そういった結末を自分自身で経験して、気づき、考え、学ぶ中で人間は成長していきます。

「宿題をしなさい」と口を挟むこと、持ち物を確認してあげること、子どもの代わりに部屋を掃除してあげること。

親御さんがお子さんの課題に踏み込むことで、短期的にはお子さんが不利益を被らずに済むわけですが、

ここで考えて頂きたいのは、「子どもを教え導くことの目的は何か?」ということです。

 

=子育ての目的=

私が考える子育ての目的は「自立させること」だと考えます。

親御さんを含め、私も、学校の先生も、子どもたちに関わる全ての大人が、子どもたちより早くこの世からいなくなる可能性が高いわけです。

それならば、自分がこの世からいなくなっても、子どもたちが困らずに生きていけるようにすること、

それが大人の大切な仕事なのではないでしょうか?

子どもの課題を肩代わりすることで、短期的に子どもたちは困らずに済みますが、

それではいつまでたっても大人に依存した状態から抜け出すことが出来ません。

子どもたちと関わることの最終目的は、「あなたはもう必要ありません」という状態になってもらうこと、自立してもらうことです。

そのためにも周りの大人は、子どもの課題と自分の課題を分離し、

きっと、失敗するかもと思っても結末を経験させてあげる、見守る勇気が必要なのかもしれません。

日々お子さんと関わる中で、この「課題の分離」という考え方をぜひ意識してみてください。

お子さんを自立に導くために。

 

「課題の分離」のためには、大人にも見守り、結末を経験させてあげる勇気が必要なのだと考えます。

ただ、「課題の分離」という概念は、「これはあなたの課題だから私は知らない。」、

「自分で何とかしなさいよ。」と突き放すことではありません。

子どもたちが自分の力で課題に立ち向かうために、私は心の中に安心感があることだ必要不可欠であると考えます。

心の中に安心感があるからこそ、人は未知のものに立ち向かっていけるのです。

次回はその安心感を育むための接し方「勇気づけ」という概念について綴ろうと思います。

続きます。

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参考図書:嫌われる勇気 岸見 一郎 著

アドラー心理学入門 岸見 一郎 著

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