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「あなたのためを思って」 ~愛と欲望~

前回のブログでは、関心の矢印という話を綴りました。

「あなたのためを思って」

「それくらい自分で」

いずれの言葉も、相手のためを思っている言葉のようではありますが、

その実本当に考えているのは、相手のことではなく自分のこと。

つまり関心の矢印が相手ではなく、自分の方を向いている言葉。

そんなことはないでしょうか?

精神科医の泉谷閑示さんは、その著書「普通がいいという病」の中で、愛と欲望を次のように定義しています。

愛:相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち

欲望:相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ち

「あなたのためを思って」という言葉には、親切を装いつつも、相手を自分の希望通りに変えようとする気持ちが、

「それくらい自分で」という言葉には、相手の自立を促しているように見せかけて、やはり相手を自分の思い通りに変えようとする気持ちが、

つまり相手をこちらの思い通りにしたいという欲望があるのではないでしょうか?

子どもたちは、その関心の矢印が自分の方向を向いていない言葉に寂しさを覚えますが、

お父さん、お母さんを困らせたくないから、その気持ちは心の中に抑圧されます。

我慢して我慢して、その我慢が限界になったときに、それが問題行動として発露するのではないでしょうか。

それでは「欲望」ではなく、「愛」とは何でしょうか?

「愛」の定義は、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちでした。

「相手が相手らしく」に気づくためには、相手に関心を持つ必要があります。

関心の矢印を相手に向ける必要があるということです。

例えば、この子はどんな遊びが好きか、どんな食べ物が好きか、今日の顔色はどうか、声のトーンはいつもと違わないか、目の表情は生き生きとしているか、など。

つまり相手を分かりきることなどできない、自分とは異なる他者として尊重し、関心を持つこと、分かろうとすることから、「愛」は始まるのだと私は考えます。

続きます。

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子どもたちが求めているもの

前回のブログで、子どもたちの寂しさに手を当てるような対応が必要と綴りました。

では具体的にどうすることなのか?

考えてみたいと思います。

親御さんがよく言われる言葉に「あなたのためを思って言っているのよ」というものがあります。

私自身、両親からたびたび言われた言葉でもあります。

一方で「それくらい自分んでやりなさい」「それくらい自分で考えなさい」など、それに類した言葉もよく聞かれます。

これも私自身が言われてきた言葉です。

人と人との関係性には距離感というものがあります。

家族との距離感、友達との距離感、学校の先生との距離感、部活の先輩との距離感、などなど人間歓迎には遠近があるものです。

人間関係の距離感で言えば、「あなたのためを思って」は近く、「それくらい自分で」は遠い、という印象を受けがちですが、

それは遠い近いという量の問題ではなく、そもそも人間関係の質が違うのかもしれません。

遠い、近いという表現ではなく、関係性が薄いという表現が適切かもしれません。

「あなたのためを思って」という言葉も、「それくらい自分で」という言葉も、関心の矢印が子どもにではなく、自分に向いているのです。

だから、関係性が近いとか遠いではなく、希薄という表現が適当なのだと思います。

子どもはその関心の矢印が自分にではなく、親自身に向かっていることを敏感に察知して、

その寂しさを紛らわすために何かに依存したり、問題行動を起こして周囲の関心を自分に集めようとしたりするのはないでしょうか?

そのような振る舞いを通じて、子どもたちが訴えているもの、それは「こっちを見て!」という切実な願いだと私は考えます。

続きます。

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なぜ依存するのか? ~本当にほしいもの~

前回、前々回のブログでは、

・WHOが、ゲームに依存して生活に支障をきたす状態を「ゲーム障害」という疾患として認定したこと。

・中国や韓国ではその対策が進んでいるにも関わらず、日本ではそれが問題であることさえ認識されていないこと。

・私自身が日々子どもと接していて、イライラしやすい、集中力がない、目がうつろなどの子どもたちが増えている印象を持っていること。

・健康よりお金を重視するような世の中の雰囲気だからこそ、大人が考えなければいけない問題であること。

を綴りました。

ゲーム障害に限らず、アルコール依存、買い物依存、ギャンブル依存などの依存症には共通の構造があります。

それは、本当に欲しているものが得られず、それを代償行為で満たそうとするが、そもそも本来求めているものと質が違うため、どんどん量的に増大していく、という構造です。

それでは何かに依存してしまう人が本来求めているもの、その「質」とは何でしょうか?

インターネット・ゲームに依存していしまう子どもが、そこで得られるものの一つは、一緒にチームを組んでプレイする人たちからの承認、繋がりだと言われています。

本来ならば、学校や家庭の中で得られるはずの承認や繋がりが様々な理由から得られず、それを求めてゲームの中に没頭してしまう。

そういう側面があるのです。

ゲームに依存してしまう子どもが求めているものは、繋がり、ぬくもり、関心、承認。そいういったものではないでしょうか?

それが得られないから、ゲームという代償行為で満たそうとするけれども、それは本来ほしいものとな全く手触りの違う別の何かのため、満足が得られず、どんどん量的に増大していってしまうのです。

ゲームに依存しているなら、子どもにゲームをやめさせればいい、取り上げればいい。

それも確かに必要な対応です。

私は、ダメなものはダメと親が子どもに対して毅然とした態度で接することも、愛情表現の一つであると考えます。

ただ力で押さえつけるだけでは、夜遊び、自傷行為、家庭内暴力など、別の形で自分の心の苦しさを表出することになるでしょう。

子どもが本来求めているもの、それは周囲の人からの関心、ぬくもり、承認です。

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そういう、その子の心が抱え込んだ寂しさに手を当ててあげるような対応が、根本的な解決のためには必要だと私は考えます。

続きます。

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ゲーム障害 ~子どもを食い物にする国

昨日はWHOが正式にインターネット・ゲームの依存を「ゲーム障害」という疾患に認定したという事を紹介しました。

私は日々学習を通じて子どもと接する仕事をしておりますが、イライラしていたり、目がうつろだったり、集中力が持続しないなどの状態にある子どもの割合が増えているように感じています。

ある研究結果によると、テレビゲームを一時間した後の血液中のドーパミン量の増加は、覚せい剤を静脈注射した時のそれに匹敵する数値なのだそうです。

しかし、人間の身体は同じ強さの刺激を受けていると、それを刺激とは認識しなくなるという性質があります。臭いにおいのする場所にいると、それを臭いと感じなくなるのもその一例です。

同じ量の刺激ではもう満足感が得られなくなって、さらなる強い刺激を求めて、さらにその行為に没頭するようになる、これが依存症の仕組みです。

日本に先んじてインターネット・ゲームの依存症が社会問題になっている中国や韓国では、矯正施設が設けられたり、午前0時~午前6時までの間16歳未満のネットアクセスを禁じる法律が施行されるなど、対策が講じられています。

その一方で、日本では、インターネット・ゲームに関してこれといった対策も講じられておらず、その危険性さえ把握していない大人も多いのが現状です。

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昨日も書きましたが、日本のゲーム業界の市場規模は、1兆3800億円(2016年)に達し、過去最高を記録しています。そしてその75%をしめるのが、依存症の危険性が高いとされているオンラインゲームです。

たとえ健康を害したとしても、それが経済成長に資するなら、政治的に正しいとされる風潮が瀰漫している昨今の日本では、公的な規制の動きはしばらく出てくることはないでしょう。

だから、人頼みにするのではなく、まずは子どもたちと一番身近に接する親御さんがこの問題を知って、一人一人考えて行動していくしかないのだと私は考えます。

日本では唯一となるネット・ゲーム依存症の専門外来を持つ久里浜医療センターのホームページをご紹介させて頂きます。

もしお子さんのネット・ゲーム依存傾向を心配されているようならば、ぜひ一度ご覧になってみてください。

久里浜医療センターホームぺージ

続きます。

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「ゲーム障害」新たな疾患に認定へ

2018年6月19日付けの朝日新聞で、WHO(世界保健機関)が、インターネット・ゲームをやり続け、日常生活に支障が出る状態を「ゲーム障害」として新たな疾患に認定、との記事を掲載されていました。

ゲーム障害は、

・ゲームをする時間を自分でコントロールできない。

・ゲーム以外の出来事や関心事の優先順位が低くなる。

・日常生活に支障をきたしてもゲームを優先する。

などの症状が12ヶ月以上続いた場合に診断が下されるそうです。

知られざるゲーム障害の実態

厚生労働省の調査によれば、日本人の421万人、中高生の52万人がインターネットやゲームに依存した「ゲーム障害」の疑いがあると推計されています。

アメリカをはじめとする20か国からなるゲーム団体は、ゲームと依存症の関係について否定的な立場を取っていますが、中国や韓国では、日本よりも早くネット・ゲーム依存が社会問題化し、すでに死者も出ています。

ゲーム業界の市場規模は2016年の段階で1兆3801億円にまで達し、その75%は依存症になるリスクが高いネットゲームの収入が担っています。

健康とお金を天秤にかけたとき、お金のほうが重要視されるのが、昨今の世の風儀ですが、ゲーム業界もまた然りという事なのでしょう。

次を担う世代から搾取してでも、今目先の利益が確保できればそれでいい、という発想。

本当にそれでいいのでしょうか?

私には疑問でなりません。

続きます。

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世間のモノサシ、自分のモノサシ

前回のブログでは、

・ひきこもることは必ずしも悪いことではない。

・周囲の大人が適切なケアをしてあげれば有意義な時間になり得る。

・自分の世界観を深めることで、二つ目の言葉、二つ目の視点が得られる。

という内容を綴りました。

 

=価値とは何か?=

今、目の前に大きなカバンと小さなカバンがあったとします。

どちらのカバンに価値があると思われますか?

収納性というモノサシで測れば、大きなカバンのほうが価値があるでしょう。

携行性というモノサシで測れば、小さいカバンのほうが価値があるでしょう。

経済的価値というモノサシで測れば、値段の高い方が価値があるでしょう。

思い出深さというモノサシで測れば、それにまつわるエピソードが多いほうが価値があるでしょう。

観察している対象は何も変わっていないのに、どういうモノサシでそのモノを測るかによって価値というものは簡単に入れ替わることがわかると思います。

絶対不変の価値などというものはなく、どういうモノサシを採用するかによって、価値というものはコロコロと移り変わっていく、そういうものだということです。

 

=世間のモノサシ、自分のモノサシ=

大人でも子どもでも、世間一般の価値観から距離を置くというのは、結構勇気のいることだと思います。

こんな事したら、こんなこと言ったら、周りの人から変に見られるのじゃないか?

自分を含めそんな風に気になる方は多いと思います。

ただ、価値というものは絶対不変のものではないし、世間一般に信じられている考え方、世間のモノサシがいつも必ず正しいとも限りません。

横並びの発想で、みんなで足並みそろえて断崖絶壁に向かって行進していた、歴史を振り返ればそんな事例は枚挙に暇がありません。

そんな時代にさえ、世間の価値観に流されず、世の中と適切な距離をとっていたが故に大惨事を免れた、そんな人間もいるわけです。

そういう人はその他大勢と一体何が違うのか?

それは世間一般のモノサシとは異なる自分なりのモノサシ、もう一つの視点を持ちえたか否か。

それが両者を分けるもの、私はそう考えます。

 

世の趨勢に流されることなく、自分の価値観を信じて決断を下せる人間。

それは一人思索にふける時間、自分の世界観を深める時間、ひきこもる時間を経験してきた人ではないでしょうか?

世間のモノサシと自分のモノサシ、どちらが正しくてどちらが間違っているのか?単純に判じることは難しいと思います。

正しい正しくないという話とは別に、物事を測り取るモノサシの種類を増やすことで、目の前の事柄をより多角的に検証することができるようになる。

だから世の中全体が危険な方向に向かってしまっても、自分を信じて生きていけるようになる。

その価値観は一人の時間を持つからこそ得られるもの。

私はそう考えます。

ひきこもることは決して何かを失うだけではありません。

その子の周りにいる大人が、適切なサポートをしてあげればかけがえのない時間にだってなり得るのです。

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ひきこもれ

例えばトイレに入ったとき。

例えばお風呂に入っているとき。

例えば黙々とジョギングをしているとき。

例えばカフェでボケーっとしているとき。

ずっと考えていても分からなかったことの答えが分かったり、ずっと悩んでいたことの解決策を思いついたり。

私にはそういう経験がたくさんあります。

一人でいる時を「独りぼっち」と悪くとらえる向きもありますが、

私にとって一人で思索にふける時間は本当に豊かな時間です。

 

=「ひきこもる」は悪か?=

世間一般にひきこもることは、良くないこととされています。

例えば、勉強がわからなくなる、社交性が損なわれる、昼夜逆転生活になる、ネット・ゲーム依存症になる、体力が落ちる。

さまざまな弊害が挙げられます。

確かに周囲の大人が適切なケアをしてあげなければ、今挙げたような弊害に陥りやすいと思います。

ただ、私は必ずしも悪いことばかりではない、むしろ得られるものもあると考えます。

私自身、その場の雰囲気に合わせるのがつらくて仕方なかったけれど、それでも我慢して学校に通い続けた高校三年間でした。

辛さに耐えながら我慢して通ってはいましたが、授業の内容などろくに頭に入ってきませんでした。

私のように無理して通い続けても何も得るものがないならば、むしとそういう場所から退いて一度ひきこもってみるのもありなのではないでしょうか?

周りにいる大人が適切な配慮さえしてあげれば、ひきこもることによって得られるものはたくさんあると感じます。

 

=複眼で見よ=

昭和を代表する思想家の吉本隆明さんは、著書「ひきこもれ」の中で、ひきこもることでその人の中に「第二の言語」が育つと述べています。

「第二の言語」とは他者とコミュニケーションをとるための言語ではなく、自分が碑文の内面深くとコミュニケーションをとるための言語。

“自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉”、“内臓に響いてくるような言葉”それが第二の言語であると、吉本さんは述べています。

それは世の中と対峙するときに、世間一般の視点とは別の二つ目の視点を得ることと同義なのだと思います。

例えば、三角錐という立体があります。

底面が円で先端が尖がっている、工事現場に置かれているコーンのような形をした立体です。

三角錐は真上から観察すれば円に見えます。

真横から観察すれば、三角形に見えます。

三角錐を三角錐として認識するためには、真上からの視点と真横からの視点を同時に持ち合わせなければいけません。

これと同じように、ある事柄をたった一つの視点から眺めていたのでは、真実とかけ離れた認知をしてしまうのではないでしょうか?

ある事柄を真実のできるだけ近い形で認知するためには、複数の視点からその対象を観察する必要があるのです。

自分自身と深く対話するひきこもる時間を持つことによって、第二の言語、二つ目の視点が得られ、物事を立体的に、より真実に近い形で認知できるようになる。

私はそう考えます。

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・・・だけど本当に欲しかったのはぬくもりですよ。

家庭内暴力。

夜遊び。

ネット・ゲーム依存。

このようなお子さんの理不尽な行動に悩まれている親御さんもいるかと思います。

なぜ子どもたちはこのような、自分を、他者を害するような理不尽なふるまいをするのでしょうか?

理屈で考えてみても理解できない行動の裏には、感情が絡んでいる場合があります。

私は相田みつをさんの著書が好きで以前よく読んでおりましたが、相田さんの著書に、

“人は理屈で動くのではない、人は感じるから動く。

だから理動という言葉はなく、感動という言葉があるのだ。”

という内容のエッセイがありました。

人を強く動かすもの、それは理屈ではなく、感情です。

そして感情が人を強く突き動かす場合、本人はその感情に気が付いていない場合が多いです。

その抱え込んだ感情は何でしょうか?

私は寂しさだと感じます。

抱え込んだ寂しさを理解してもらえないことで、その気持ちがやがて怒りに転化し、

自分や他者を害するような理不尽な行動に走らせてしまうのではないでしょうか?

 

=駅の子=

先日私はNHKスペシャルで「駅の子」という番組を見ました。

第二次世界大戦の終戦直後、

親を失くし戦争孤児となった子どもたちが、日本中の駅で暮らしていました。

彼らは「駅の子」と呼ばれ、物乞い、窃盗、靴磨きなどをして生き延びていました。

終戦直後、大人たちは自分のことで精一杯。

誰も「駅の子」を助けてくれる大人はいません。

助けてくれないどころか、社会の風紀を乱す存在として忌み嫌われ、

差別されたり、蹴飛ばされたり、棒で叩かれたり、まるで野良犬のように扱われたそうです。

その番組の中で小倉勇さんという方が、ご自身の体験を語っておられました。

小倉さんは福井県で戦争中に親を失くし、その後は親せきの家に預けられていましたが、

親せきからの言葉の暴力に耐えかね家出し、駅の子となりました。

二年弱にわたり全国を転々とする中で、身体を壊しほぼ視力を失いました。

行動を共にしていた友達のカメちゃんは、孤独感にやられて線路に飛び込み自ら命を絶ちました。

「なんで自分だけがこんな思いをしなければならないんだ!」

「これから徹底的に社会に逆らって生きてやる!」

小倉さんはそう思ったそうです。

その後京都の伏見にある保護施設で保護された小倉さん。

そこでも先生に対してずっと反抗的な態度をとり続けていました。

ある日、一人の先生が小倉さんを銭湯に連れて行ってくれました。

小倉さんは全国を転々とする間に疥癬(かいせん)と呼ばれる皮膚の病気にかかっていました。

そんな自分の背中を先生は洗い流してくれた。

本当にうれしかったそうです。

「まじめにならないかん」

小倉さんはそう思ったそうです。

小倉さんはこうも仰っていました。

「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えていた、着るものもなかった、寒かったしね。だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」

 

=新たな視点を得ること=

お子さんの理不尽なふるまいに対して、

そばで対応される親御さんも怒りがわいてくることがあるかと思います。

私自身、子どもたちと接していて、「一体何なんだ!」という気持ちが沸き上がってくることもあります。

ただ、「その理不尽なふるまいの裏には抑え込んだ寂しさがある」という視点があると、

目の前のお子さんの振る舞いもまた違って見えるのではないでしょうか?

そしてそういう理不尽な振る舞いは誰にでもぶつけてくるものではありません。

この人ならば、こんな振る舞いをしても受け入れてくれる。

そういう深い信頼のある人だからこそ、子どもは理不尽な行動を通して怒りや寂しさをぶつけてきます。

これらの視点を持つことで、お子さんのふるまいの見え方が少し変わってくるのではないでしょうか?

「寂しさがそうさせている」という視点があれば、

必要なのは、怒りに怒りで対応することではなく、受け容れてあげることなのだと気づけるのではないでしょうか?

 

価値観が変わるとは、新たな視点をえること、新たな言葉を得ることです。

「寂しさ」という感情が人を理不尽な行動に駆り立てる。

この視点があれば今までと違った対応ができると思います。

それではなぜ子どもたちは心に寂しさを抱えるに至るのでしょうか?

そういう風に考えていくと、不登校、引きこもり、問題行動というのは、

個人の問題ではなく、社会全体の問題なのだと私は強く感じます。

「だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」

終戦当時の小倉さんの言葉は、現代を生きる子どもたちの気持ちを代弁しているようにさえ聞こえます。

この言葉に自分はどう応えていけばいいのか。

考え行動していかなければと思います。

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「褒めて育てる」の落とし穴

褒めることでお子さんが伸びていく。

普段から子どもに誉め言葉をかけるように意識している。

そういう親御さんもいらっしゃることと思います。

ただ、「褒めて育てる」にも注意点があります。

 

=褒めて伸ばすの落とし穴=

例えばテストでいい点を取ったときに、部活動で良い成績を修めたときに、

「よく頑張ったね」と褒める。

それ自体は素晴らしいことと思います。

と同時にそれだけでは不十分でもあります。

何が不十分なのか?

褒めることのいったい何が落とし穴なのか?

それは、ある条件を満たさなければ自分は受け容れられない、

そんな印象をお子さんに抱かせてしまう場合があるからです。

テストでいい点を取らなければ、部活動でいい成績を修めなければ、

自分はお父さんお母さんに受け容れてもらえない。

そんな印象をお子さんに与えてしまう場合があるからです。

 

=誉め言葉+○○の言葉=

お子さんを褒めて育てることは素晴らしいことですが、

それだけでは不十分な場合があります。

ここでちょっとイメージしてみてください。

自分の身近な人から次の言葉をかけられる場面を想像してみてください。

「この難しい仕事をこんなに早く終わらせてすごいね」

「いつも元気でいてくれてありがとうね」

どちらの言葉がけがうれしいという気持ちが強いですか?

一つ目の言葉は、自分の能力に対する承認の言葉。

二つ目の言葉は、自分の存在に対する承認の言葉。

どちらの言葉がうれしいという気持ちが強いですか?

きっと二つ目の言葉と答える人が多いと思います。

誰だって自分がここにいることを喜ばれたら嬉しいと思うのです。

これが誉め言葉にプラスするもの。

「感謝の言葉」とでも言えばいいでしょうか。

 

=根っこを伸ばす言葉がけ=

木になぞらえるならば、誉め言葉で伸びていくのは枝や葉っぱです。

感謝の言葉で伸びていくのは、根っこです。

誉め言葉でどんなに枝葉を広げていっても、根っこの浅い木はいつか倒れてしまいます。

逆に根っこの深い木は安心して枝葉を広げ、大きな木へと成長していくことができるでしょう。

私たち大人はついつい目に見える枝葉の成長に一喜一憂してしまいがちですが、

枝葉が伸びることよりも、目に見えない根っこがしっかりと成長していることのほうが、

何倍も大切だと私は考えます。

子どもたちは、お父さん、お母さんに喜ばれたいと思っています。

お父さん、お母さんが自分の存在を喜んでくれている。

それは子どもに深い自信を与えるのだと思います。

もし今、お子さんがなんだかちょっと元気がない。

そんな風にお感じになるならば、誉め言葉に加えて感謝の言葉がけを試してみてください。

最初は気持ち悪がって素直に言葉を受け取ってくれないかもしれません。

それでもどうか忍耐強く感謝の言葉がけを続けてみてください。

効果が出るには時間がかかるかもしれません。

でも着実にお子さんの自信の根っこは深く深くなっていくはずです。

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「私が悪かったんです、、、。」

「私が悪かったんです、、、。」

以前、お子様の不登校で悩むお母様から、こんな風に言われたことがあります。

皆と同じようにふるまえず苦しんでいるお子さん。

そのお子さんを思う気持ち故の自責のお言葉だったのかもしれません。

 

=自分を責めること=

過去を思い返して、どうしてあんなことをしてしまったのだと自分を責めること。

私がよくしてしまいがちなことです。

知らず知らずのうちにやってしまうことです。

過去を振り返って自分自身を責めているうちに、どんどん自分で自分の活力を奪っていた、自分で自分を追い詰めていた。

私にはそんな経験があります。

 

=子どもが親に望むもの=

私の家庭は両親共働きで、父も母も大変忙しい人たちでした。

仕事が終わって帰ってくると、家の中で疲れた表情を浮かべている。

そんなことの多い家庭でした。

そのような時、私は本当は親に聴いてもらいたい辛い気持ちがあっても、

その気持ちは表に出さず、家の中の沈んだ雰囲気を和ませようと、

わざと明るくおどけて見せることが多かった気がします。

そうすることで、きっと私は両親に笑顔でいてほしかったのかもしれません。

子が親に望むもの、親が子に望むもの。

実はそれは同じなのかもしれません。

子どもが親に臨むもの、それは親御さんの笑顔ではないでしょうか。

 

=後悔と反省=

自分自身の過去を振り返ったときに、

今の自分から見れば本当に未熟で至らないことばかりやっていた、

そんな気持ちになることが多々あります。

と同時に、その時々で、自分に出来うる最良の選択を積み重ねてきたじゃないか。

そう自分を労ってあげる自分もいます。

そしてよりよく生きるために、改めるべきは改めていこうと思う自分も。

後悔とは、過去を振り返って悔いること、自分自身を責めること。

反省とは、過去を振り返って、自分自身の振る舞いの中に改善点を見出すこと。

後悔は人から生きるエネルギーを奪いますが、反省はより良く生きるためのエネルギーになります。

ほんの僅かかもしれませんが、昨日の自分よりより良く生きていけるよう、

後悔ではなく、反省を重ねていける自分であろう、そう思います。

=労うこと=

自分で自分を責めることで、人はエネルギーを失っていく。

子どもたちが望んでいるもの、それは親御さんが笑顔でいてくれること。

そうであるならば、過去を悔いてじぶんを責める親御さんの姿に、きっと子どもたちは心を痛めることでしょう。

過去を悔いて自分自身を否定するではなく、改めるべきは点は改めるという視点で自分自身を振り返ること。

そして日々を精一杯生きる自分自身に労いの言葉をかけること。

ご自身にそのように優しさを持って接することで生まれる心のゆとりが、お子さんの辛さを受け止める受け皿となり、

ゆっくりゆっくりかもしれませんが、お子さんの中に立ち上がる力が満ちていくきっかけとなるはずです。

どうぞご自身を責めずにいてくださいね。

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