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価値観 ~国が変われば、時代が変われば~

前々回、前回のブログでは、「かくあるべし」という価値観が人を苦しめること、

そして今この国を覆う価値観は資本主義、拝金主義であること、と綴りました。

人を苦しめるほど強い力を持つ価値観ですが、それは決して絶対不変のものではありません。

時代が変われば、国が変われば、その価値観は様々に変化します。

いくつか例を挙げたいと思います。

現代の日本では、「働かざる者食うべからず」という諺にもあるように、働くこと、労働が美徳であると考えられています。

しかし、古代ギリシャでは、人々はそのような価値観を持っていませんでした。

古代ギリシャの人々が一番い重きを置いたのは、内省や瞑想を通じて自然界や宇宙の真理について考える「観照」という活動でした。

生活のために働くことは、観照活動を妨げ、人間を家畜のような動物的存在に留めおくものと考えられ、労働とは奴隷が行うものという価値観を持っていました。

シェイクスピアの作品に「ベニスの商人」があります。

舞台は中世イタリアの国際都市、ベニス。

貿易商を営むアントニオは、友人の結婚資金を工面するために、ユダヤ人の金貸しシャイロックからお金を借ります。

そのお金の貸し借りを通じて法とは、愛とは、友情とは、を問うというのが物語の主題です。

現在でも一時期ほどではないにしろ、いまだに就職先として銀行は人気があります。

しかし、ベニスの商人のなかでは、宗教上の理由もあるのかもしれませんが、金貸しのシャイロックは人々から蔑まれ、嫌われる存在として描かれています。

現代とは違い、当時のヨーロッパでは金融業とは、卑賤なものという社会的位置づけの仕事だったのです。

これも国が変われば、時代が変われば、価値観が変わることの一例です。

私は普段ほとんどテレビを見ませんが、NHKのBSプレミアムだけは好きでよく録画して見ています。

その中に「世界入りにくい居酒屋」という世界各国の地元の人から愛される居酒屋をめぐる番組があります。

東アジア、東南アジア、ヨーロッパ、中南米、北米、豪州、様々な国をめぐるのですが、

結構みんな平日の昼間から気の合う仲間たちと一緒に酒を飲んでいます。

どこの国かまでは忘れましたが、「俺たちは金はないけど時間はいっぱいあるんだ。アハハハッ」と楽し気に話す人が映っていました。

日本では仕事が優先され、家族や友人と過ごす時間は後回しにされがちですが、

諸外国の人は、お金儲けも大切かもしれないけれど、家族や仲間と一緒に食卓を囲む時間をそれ以上に大切にする、という価値観を持っていることが分かります。

人を苦しめるものが誰かの都合で押し付けられた価値観であること。

今日本を覆う価値観は「金になるか否か」を至上の価値とする資本主義であること。

前回、前々回とそのような内容を綴ってきました。

しかし今回見たように、そんなものは国が変われば、時代が変われば一変してしまう程度のものでしかありません。

だからその程度のものに縛りつけられて、そのルールに順応することが出来ない自分を責め苛む必要などないのです。

国が変われば、時代が変われば。

誰かの都合で押し付けられた価値観など、その程度のものでしかないのです。

続きます。

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価値観 ~金になればなんでもいい~

人が抱える悩みとは「かくあるべし」という価値観がもたらすもの。

そしてそれは結局力を持つ誰かの都合で決められたものでしかない。

昨日のブログではそのようなことを綴りました。

 

今の日本を覆う価値観。

それは資本主義です。

拝金主義と言い換えてもいいかもしれません。

効率的であるべし。

お金を儲けるべし。

競争に勝つべし。

一人一人の「こうしたい」「これが好き」という価値観を押しつぶすように、

資本主義は私たちに様々な「かくあるべし」という価値観を押し付けてきます。

資本主義が私たちに押し付けてくる価値観、そのいくつかを挙げてみたいと思います。

 

・GDPというモノサシ

GDP(国内総生産)の多寡が、その国に住む人の幸せを決めるかのような価値観があります。

その国の経済活動の活発さが、その国に住む人の幸福度を決めるという信仰です。

戦争に使われる武器を生産しても、

環境を破壊するような公共工事をしても、

未来に負の遺産を残すような原発を動かしても、

長い目で見たときに、必ずしも人の幸せに資することなき活動をしても、

それらの経済活動はすべてGDPとしてカウントされ、

それがまるで人の幸福度を表す指標であるかのように用いられています。

 

・実学志向

仕事柄、子どもたちの進路相談を受けることが多いです。

今の学生たちは、自分の進路を選択する際、自分がしたいことよりもそれがお金になるかどうかで進路を選択する場合が多いです。

自分の「○○が好き」「○○がしたい」という欲求に従うよりも、「お金になるか否か」という価値観に従って自分の将来を決める。

事の良否は一端脇に置いておいて、そのような傾向があります。

そしてそれは、そっくりそのまま私たち大人の傾向でもあります。

 

・安いもの=良いもの

私たちがものを買う際、知らず知らずこの価値観に縛られていることが多いのではないでしょうか?

たとえそれが環境汚染を引き起こすような生産方法で作られた食べ物だとしても、

たとえそれが生産者の健康を害するような労働環境で作られた服だとしても、

製品の値段さえ安ければそれでいいじゃないか。

その価値観が私たちの消費行動を気づかないうちに決めている。

そういうことが多いのではないでしょうか?

 

今見てきたように、本当に一人一人の幸せに寄与するかどうか分からない価値観を、資本主義は押し付けてきます。

そしてそれがその価値観のもとで生きる人を苦しめている。

私にはそんな事例が多いように感じられます。

 

私は前職で産業廃棄物処理工場で働いておりました。

そこには毎日毎日大量のゴミが運び込まれてきます。

その中には、便利な製品を作る過程で排出される有害物質がたくさんありました。

どんなに便利な製品を作っても、その裏では大量の有害物質が出ることを知りました。

まだ食べられるレトルト食品やアイス、まだ使えるマスクや入浴剤やホッカイロ。

製品自体には何の問題もないにも関わらず、在庫処分の名のもとに大量廃棄されていることを知りました。

確かにお金にはなるかもしれないけれど、果して自分のやっていることが人の幸せに寄与することと言えるのだろうか?

仕事をしながらずっと悩んだ末に、私は会社を辞めました。

 

資本主義という世界を覆う価値観。

それはそのシステムの中で力を持つ者から押し付けられた価値観でしかないのですが、

かつての私のように、その中で苦しみながら生きている人がとても多い。

これは単なる主観でしかないのかもしれません。

でも、今の世の中は私の目にはそのように映ります。

続きます。

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価値観 ~人を苦しめるもの~

様々、悩みを抱えていらっしゃる方のお話を伺っていると、

「かくあるべし」という価値観が人を苦しめているのだと感じることが多いです。

社会人とは○○であるべき

男とは○○であるべき

女とは○○であるべき

親とは○○であるべき

結婚するべき

子どもを産むべき

学校へ行くべき

みんなと仲良くするべき

私たちは、知らぬ間に様々な価値観を取り込み生きているのだと思います。

私は高校時代、最後に書いた「みんなと仲良くするべき」に苦しみました。

小学校、中学校と山の中の全校生徒10数人の集団で育った私は、

高校から生徒数1000人規模の大規模校を初めて経験しました。

1クラス40人弱の集団で、様々な人と分け隔てなく仲良くしようと頑張りましたが、

しんどくてしんどくて毎日本当に嫌でした。

小学校で習う唱歌に「友達100人できるかな」という一節がありますが、

この歌詞には「友達は多いほうがいい」「みんなと仲良くなるべき」という予断が含まれています。

大人になって分かったことですが、誰とでも仲良くなるなど無理なことです。

気の合う人もいれば、気の合わない人もいる。

いろいろな人と当たり障りなく過ごすことはできても、仲良くなることまでは無理。

それが当たり前なのだと、大人になって社会に出てから初めて知りました。

だから私は、友人関係で悩む子どもには、「無理してみんなと仲良くならなくてもいいんだよ」と伝えるようにしています。

それではなぜ、「誰とでも仲良くなるなんて無理だよ」と子どもに正直に教えないのでしょうか?

なぜ「みんなで仲良くやりましょう」と大人でも実現不可能な価値観を植え付けるのでしょうか?

それはその方が、システムをコントロールする人間にとって都合がいいからです。

学校で言うならば、みんなが仲良くしてくれていたほうが、先生にとって都合がいいからです。

私たちが知らず知らずのうちに握りしめ手放せなくなった「かくあるべし」という価値観には、

概してそのようなものが多いのではないでしょうか?

続きます。

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「お前は大丈夫」 ~私を支えた母の言葉~

人にとって「母」とは特別な存在。

幼少期、客観的に見れば決して良くない状況にも関わらず、子どもを見限ることなく、

才能と可能性を信じ、寄り添い続けた「母」の存在で立ち上がった二人の偉人、

エジソンと坂本龍馬の事例を紹介致しました。

「母はどんなときも私の最大の理解者だった」

「世の人は我をなんとも言わば言え、我が為すことは我のみぞ知る」

今回は歴史上の偉人でもなんでもない全く持って凡庸な人間ですが、

苦しい時、つらい時、思い返せば母の言葉に支えられていた、私自身の経験を綴りたいと思います。

 

=「学校に行きたくない」=

高校時代、一体何度この言葉を口にしたかわかりません。

私は高校が大の苦手でした。

私は生まれてからずっと山の中の小さな学校、全校生徒10数人の中で育ちました。

高校進学と同時に、バスに揺られ40分、新潟県新発田市の公立高校に通うこととなりました。

一体何が苦手だったのか、今でもよく分からないのですが、山の中の小さな学校で自由気ままに過ごさせてもらっていた私は、

「みんなで同じことをやりましょう」という無言の同調圧力の中で、「そこからはみ出しちゃいけない」と苦しくなっていたように思います。

高校時代は楽しかったと話す方もいらっしゃいますが、私にとっては二度と戻りたくない時間です。

高校は私にとって一刻も早く出ていきたい場所でした。

ただ、楽しく通っている同級生もいたので、これはあくまでも私個人の主観の話です。

 

=「お前には滑り止めの学校もないんだぞ!」=

学校にいる間中精神的にしんどい。

そんな状況で授業の内容が頭に入ってくるはずもありません。

私の学業成績はずっと下から数えたほうが早い順位でした。

私には二歳年上の姉がおり、同じ高校に通っていたのですが、姉はとても学業優秀で成績はいつも学年で10位以内。

「お前の姉ちゃんは良くできるのになぁ」

先生や同級生からそんな言葉をかけられる度に、腹立たしさと屈辱感でいっぱいになりました。

兄弟、姉妹で比較されるというのは本当に嫌なものです。

お子さんに対してそのような言葉がけはされないほうがいい、と私が親御さんに伝えるのは、実体験があるからです。

高校三年生になっても私の成績は相変わらずで、テストの度に赤点ばかり。

数学に至っては0点を取ったことさえありました。

業を煮やした担任の教師が、朝礼で言った一言。

「お前には滑り止めの学校も無いんだぞ!」

「わざわざみんなの前でそんなことを言わなくてもいいだろう、、、」と心の中で思っていました。

20年も前のことを今でも覚えているのですから、そうとう腹立たしかったのだと思います。

 

=「お前は大丈夫」=

母は「勉強しなさい!」の類の言葉をほとんど言わない人でした。

その代わり学校に馴染めず、成績の振るわない私に、

「お前はやれば出来る子だから大丈夫」

そう言い続けてくれました。

いろんな人から「お前はダメ!」というメッセージを浴びた高校時代でしたが、母から「大丈夫」と言われると大丈夫な気がしてくるのが不思議でした。

子どもにとって母親の言葉はそれだけ強い力を持つということなのでしょう。

精神的にしんどい日々でしたが、さすがにこのままではまずいと思い勉強をし始めたのは、高校三年生の春からでした。

高校一年生、二年生の貯金が全くないような状態で始めた受験勉強でしたが、

それでも地道に努力を続けていく中で少しずつ成績は上向いていき、なんとか地方の小さな国立大学に現役で滑り込むことができました。

学校に合格報告に行ったときのこと。

「え?受かったの!?」と言って驚いた担任の教師の顔を今でもよく覚えています。

汚い言葉を書いてすみませんが、心の中で「ざまぁ見やがれ!」と叫んでいました。

 

=信じてくれる人=

客観的に見れば何一つ大丈夫である要素など無かったと思います。

いつまでたっても学校には馴染めない、赤点ばかり取ってくる。

それでも私に「大丈夫」と言い続けてくれた母の言葉があったおかげで、私は自分で自分を見限らずにいられたのだろうと思います。

子どもにとって一番身近な環境とは、その子の周りにいる大人がその子に対して抱く前提です。

子どもは周りの大人が自身に対して抱く前提を信じ、良くも悪くもその前提どおりの振る舞いをするように私には感じられます。

だから、世間一般の価値観で見れば決して良くない状態であったとしても、

自分の可能性を信じ「大丈夫」という前提を抱いて見守ってくれる大人がいることが子どもにとってとても大切なのです。

その前提で接してくれる誰かの存在が、苦しさを抱え動けなくなっている子どもに力を注ぎ、やがてその子は立ち上がっていく、

自分自身の経験に加えて、私は今までそのような事例をたくさん見させて頂きました。

だから、今お子さんがどんなに困難な状況にあったとしても、親御さんが当事者意識を持って寄り添ってくれる限り大丈夫。

私はそう言い切れるのです。

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子どもたちを自立に導くために

アドラー心理学の知見である「課題の分離」について綴っております。

その決断をすることで最終的に責任を負うのは誰か?

この観点から、それが誰の課題であるかを判別する。

すると、他者の課題に踏み込むことがなくなり、自分の課題に踏み込ませることがなくなり、

複雑に見える人間関係の悩みがシンプルになっていく。

「課題の分離」という考え方には、そのような効用があると綴りました。

 

=結末を経験させる=

人間関係がシンプルになる以外にも、「課題の分離」には大切な意味があります。

むしろ子育てについて言うならば、こちらのほうが重要なのかもしれません。

それが「結末を経験させる」ということです。

多とば先日の例、宿題をしない、持ち物を確認しない、部屋の掃除をしない、を考えてみましょう。

宿題をしないことで起こり得る結末は、学校の勉強がわからなくなる。

持ち物を確認しないことで起こり得る結末は、必要な活動ができなくなって困る。

部屋を掃除しないことで起こり得る結末は、探し物が見つからず困る。

そういった結末を自分自身で経験して、気づき、考え、学ぶ中で人間は成長していきます。

「宿題をしなさい」と口を挟むこと、持ち物を確認してあげること、子どもの代わりに部屋を掃除してあげること。

親御さんがお子さんの課題に踏み込むことで、短期的にはお子さんが不利益を被らずに済むわけですが、

ここで考えて頂きたいのは、「子どもを教え導くことの目的は何か?」ということです。

 

=子育ての目的=

私が考える子育ての目的は「自立させること」だと考えます。

親御さんを含め、私も、学校の先生も、子どもたちに関わる全ての大人が、子どもたちより早くこの世からいなくなる可能性が高いわけです。

それならば、自分がこの世からいなくなっても、子どもたちが困らずに生きていけるようにすること、

それが大人の大切な仕事なのではないでしょうか?

子どもの課題を肩代わりすることで、短期的に子どもたちは困らずに済みますが、

それではいつまでたっても大人に依存した状態から抜け出すことが出来ません。

子どもたちと関わることの最終目的は、「あなたはもう必要ありません」という状態になってもらうこと、自立してもらうことです。

そのためにも周りの大人は、子どもの課題と自分の課題を分離し、

きっと、失敗するかもと思っても結末を経験させてあげる、見守る勇気が必要なのかもしれません。

日々お子さんと関わる中で、この「課題の分離」という考え方をぜひ意識してみてください。

お子さんを自立に導くために。

 

「課題の分離」のためには、大人にも見守り、結末を経験させてあげる勇気が必要なのだと考えます。

ただ、「課題の分離」という概念は、「これはあなたの課題だから私は知らない。」、

「自分で何とかしなさいよ。」と突き放すことではありません。

子どもたちが自分の力で課題に立ち向かうために、私は心の中に安心感があることだ必要不可欠であると考えます。

心の中に安心感があるからこそ、人は未知のものに立ち向かっていけるのです。

次回はその安心感を育むための接し方「勇気づけ」という概念について綴ろうと思います。

続きます。

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参考図書:嫌われる勇気 岸見 一郎 著

アドラー心理学入門 岸見 一郎 著

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子どもたちが求めているもの

前回のブログで、子どもたちの寂しさに手を当てるような対応が必要と綴りました。

では具体的にどうすることなのか?

考えてみたいと思います。

親御さんがよく言われる言葉に「あなたのためを思って言っているのよ」というものがあります。

私自身、両親からたびたび言われた言葉でもあります。

一方で「それくらい自分んでやりなさい」「それくらい自分で考えなさい」など、それに類した言葉もよく聞かれます。

これも私自身が言われてきた言葉です。

人と人との関係性には距離感というものがあります。

家族との距離感、友達との距離感、学校の先生との距離感、部活の先輩との距離感、などなど人間歓迎には遠近があるものです。

人間関係の距離感で言えば、「あなたのためを思って」は近く、「それくらい自分で」は遠い、という印象を受けがちですが、

それは遠い近いという量の問題ではなく、そもそも人間関係の質が違うのかもしれません。

遠い、近いという表現ではなく、関係性が薄いという表現が適切かもしれません。

「あなたのためを思って」という言葉も、「それくらい自分で」という言葉も、関心の矢印が子どもにではなく、自分に向いているのです。

だから、関係性が近いとか遠いではなく、希薄という表現が適当なのだと思います。

子どもはその関心の矢印が自分にではなく、親自身に向かっていることを敏感に察知して、

その寂しさを紛らわすために何かに依存したり、問題行動を起こして周囲の関心を自分に集めようとしたりするのはないでしょうか?

そのような振る舞いを通じて、子どもたちが訴えているもの、それは「こっちを見て!」という切実な願いだと私は考えます。

続きます。

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なぜ依存するのか? ~本当にほしいもの~

前回、前々回のブログでは、

・WHOが、ゲームに依存して生活に支障をきたす状態を「ゲーム障害」という疾患として認定したこと。

・中国や韓国ではその対策が進んでいるにも関わらず、日本ではそれが問題であることさえ認識されていないこと。

・私自身が日々子どもと接していて、イライラしやすい、集中力がない、目がうつろなどの子どもたちが増えている印象を持っていること。

・健康よりお金を重視するような世の中の雰囲気だからこそ、大人が考えなければいけない問題であること。

を綴りました。

ゲーム障害に限らず、アルコール依存、買い物依存、ギャンブル依存などの依存症には共通の構造があります。

それは、本当に欲しているものが得られず、それを代償行為で満たそうとするが、そもそも本来求めているものと質が違うため、どんどん量的に増大していく、という構造です。

それでは何かに依存してしまう人が本来求めているもの、その「質」とは何でしょうか?

インターネット・ゲームに依存していしまう子どもが、そこで得られるものの一つは、一緒にチームを組んでプレイする人たちからの承認、繋がりだと言われています。

本来ならば、学校や家庭の中で得られるはずの承認や繋がりが様々な理由から得られず、それを求めてゲームの中に没頭してしまう。

そういう側面があるのです。

ゲームに依存してしまう子どもが求めているものは、繋がり、ぬくもり、関心、承認。そいういったものではないでしょうか?

それが得られないから、ゲームという代償行為で満たそうとするけれども、それは本来ほしいものとな全く手触りの違う別の何かのため、満足が得られず、どんどん量的に増大していってしまうのです。

ゲームに依存しているなら、子どもにゲームをやめさせればいい、取り上げればいい。

それも確かに必要な対応です。

私は、ダメなものはダメと親が子どもに対して毅然とした態度で接することも、愛情表現の一つであると考えます。

ただ力で押さえつけるだけでは、夜遊び、自傷行為、家庭内暴力など、別の形で自分の心の苦しさを表出することになるでしょう。

子どもが本来求めているもの、それは周囲の人からの関心、ぬくもり、承認です。

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そういう、その子の心が抱え込んだ寂しさに手を当ててあげるような対応が、根本的な解決のためには必要だと私は考えます。

続きます。

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ゲーム障害 ~子どもを食い物にする国

昨日はWHOが正式にインターネット・ゲームの依存を「ゲーム障害」という疾患に認定したという事を紹介しました。

私は日々学習を通じて子どもと接する仕事をしておりますが、イライラしていたり、目がうつろだったり、集中力が持続しないなどの状態にある子どもの割合が増えているように感じています。

ある研究結果によると、テレビゲームを一時間した後の血液中のドーパミン量の増加は、覚せい剤を静脈注射した時のそれに匹敵する数値なのだそうです。

しかし、人間の身体は同じ強さの刺激を受けていると、それを刺激とは認識しなくなるという性質があります。臭いにおいのする場所にいると、それを臭いと感じなくなるのもその一例です。

同じ量の刺激ではもう満足感が得られなくなって、さらなる強い刺激を求めて、さらにその行為に没頭するようになる、これが依存症の仕組みです。

日本に先んじてインターネット・ゲームの依存症が社会問題になっている中国や韓国では、矯正施設が設けられたり、午前0時~午前6時までの間16歳未満のネットアクセスを禁じる法律が施行されるなど、対策が講じられています。

その一方で、日本では、インターネット・ゲームに関してこれといった対策も講じられておらず、その危険性さえ把握していない大人も多いのが現状です。

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昨日も書きましたが、日本のゲーム業界の市場規模は、1兆3800億円(2016年)に達し、過去最高を記録しています。そしてその75%をしめるのが、依存症の危険性が高いとされているオンラインゲームです。

たとえ健康を害したとしても、それが経済成長に資するなら、政治的に正しいとされる風潮が瀰漫している昨今の日本では、公的な規制の動きはしばらく出てくることはないでしょう。

だから、人頼みにするのではなく、まずは子どもたちと一番身近に接する親御さんがこの問題を知って、一人一人考えて行動していくしかないのだと私は考えます。

日本では唯一となるネット・ゲーム依存症の専門外来を持つ久里浜医療センターのホームページをご紹介させて頂きます。

もしお子さんのネット・ゲーム依存傾向を心配されているようならば、ぜひ一度ご覧になってみてください。

久里浜医療センターホームぺージ

続きます。

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