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揺れつ戻りつ思春期の峠

一冊書籍のご紹介です。

私が子どもたちとの関わり方についてたくさんのヒントを頂いた一冊です。

「揺れつ戻りつ思春期の峠」 高垣忠一郎 著

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思春期とは、親の価値観から離れて自分の価値観を形作っていく、大人への過渡期です。

あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、様々なトライ&エラーを繰り返しながら、自分という人間を作り上げていく時期です。

自分の価値観を形作るというのは、直線的なプロセスではありません。

進んでみては壁にぶつかり、引き返したり、しゃがみ込んだりすることもあります。

そしてそれは一人で歩めるプロセスでもありません。

「親からの自立を果たす」という仕事は、その性質上親と子だけで果たせるものではありません。親以外の大人を必要とする仕事です

しかし、今の世の中は、効率やコストパフォーマンスばかりを重視し、子どもたちに直線的な成長を強要します。

そして何か問題が起こる度に学校批判を繰り返し、学校の先生から、親以外の大人として子どもたちと接する気持ちのゆとりを奪ってしまいました。

お子さんの不登校や引きこもりで悩んでいる親御さんは、自分たちの育て方が原因なのではとご自身を責める方が多いのですが、私はそれは違いますとお伝えしています。

今まで書いて来たように、世の中の構造が、親からの自立を果たすために必要な環境を子どもたちから奪っていることが、本当の原因です。

この世の中には、効率やコストパフォーマンスを重視する、というビジネスのルールを当てはめてはならない分野があります。

医療、宗教、行政、農林漁業、そして教育。

人が人らしく生きていくために必要不可欠なこれらの領域にまで、ビジネスのルールを当てはめ、余裕の無い大人をたくさん生み出した結果、子どもたちが自立のプロセスで躓いて苦しんでいる。

それが不登校や引きこもりという現象を引き起こしている原因だと私は考えています。

著者の高垣忠一郎さんは、臨床心理士として、大学教授として数十年にわたり、子どもたちの引きこもり、不登校に関わって来た方です。

本著では、親からの自立を果たす思春期が子どもたちにとってどんな時期で、どんなことが起こり、どんな関わり方が必要か、たくさんの事例とともに紹介されています。

お子さんの不登校、引きこもりに悩まれる親御さん、中高生と関わる先生や大人にぜひ手にとって頂きたい一冊です。

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変化の時代 ~なぜ考えられないのか?~

前回、前々回のブログでは、

・時代が変化し、良い大学に入って、良い会社に入れば一生安泰という時代は終わったこと

・これからは一人一人が考えることが求められる時代であること

・考えるために必要なのは、「知識」と「理解力」であること

について綴りました。

前々回の記事:変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

前回の記事:変化の時代 ~考えるために必要なこと~

考えることが大切な時代なのですが、日本人はもともと考える事が苦手な国民です。

歴史を振り返って見ればそれは明らかです。

学生時代に、歴史の授業で、遣隋使、遣唐使という言葉を習ったことがあると思います。

政治や法律、文化や宗教、さまざまな分野で日本は、昔から中国大陸、朝鮮半島の真似をし続けてきました。

明治維新、戦後復興では、その物まねの対象が西欧文明に変わっただけで、物まねをするという身の処し方はそのままでした。

つまり、どこかの国で成功している事例を真似することは得意でも、自分たちで考え何かを生み出すということが、日本人はずっと苦手な国民だということが分かります。

なぜ日本人は考えることが苦手なのでしょうか?

歴史が関与するような長い時間スケールで考えたときに、その理由は気候風土や島国であること、などの地理的な条件が関与してくるのだと思いますが、

もっと短い時間スケールでその理由を考えたとき、その答えはズバリ「考える」という訓練をしていないからです。

 

~学校の授業でやっていること~

前回のブログで、頭の使い方はピラミッド型の三層構造になっている、という話を綴りました。

下から数えて、第一層は「覚える」、第二層が「理解する」、第三層が「考える」。

知識の蓄積が理解力を下支えし、理解力が「考える」を下支えする、そのような三層構造になっていると私は考えます。

つまり、「覚える」、「理解する」という頭の使い方の先に、「考える」というさらに高度な頭の使い方があるのです。

ここで学校の授業を思い出してみてほしいのですが、学校の授業でやっている頭の使い方は、「覚える」、「理解する」、「考える」のうちどれでしょうか?

例えば、漢字を「覚える」。

例えば、英単語を「覚える」。

例えば、三角形の合同の証明方法を「理解する」。

例えば、英文法のルールを「理解する」。

例えば、オームの法則を「理解する」。

学校の授業でやっていることを振り返ると、そこで行っている頭の使い方はほとんどが、「覚える」と「理解する」であることが分かります。

その授業のやり方は、試行錯誤を要する「考える」とは違い、非常に効率的に子どもを一定水準まで知的に成長させることが出来るのですが、

それを繰り返すだけでは、いつまでも「考える」ことが出来るようにはならないでしょうし、

人から教えられたことを「覚える」、「理解する」という作業ばかりをこなし続けることで、もっと何かを知りたいという知的好奇心がそがれてしまう恐れもあります。

 

以上のように短期的時間スケールで見たときに、日本人が考えることが苦手な理由は、そもそも「考える」という頭の使い方をしていないことが原因であることが分かります。

このような事を書くと、学校教育批判と捉えられるかもしれませんが、私は学校は、改善すべき点はあるものの、素晴らしい学びの場であると考えています。

先ほども述べたように、「考える」ためには、知識の蓄積と理解力の涵養は不可欠ですし、学力だけでなく、社会性も身に着けられる場所であると考えています。

学校で「考える」という頭の使い方をしていないなら、これから学校でそういう時間を作ればいいじゃないか、という意見もあるかと思いますが、

小学校教員の約55%、中学校教員の約80%が月の残業時間が100時間を超えている現状で、それを学校に求めるのは無理な話です。

「考える」訓練は、それが具体的に何なのかが分かれば、学校でやらずともご家庭で行えることです。

次回は「考える」訓練について。

続きます。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

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変化の時代 ~ベルトコンベヤーはもう動かない~

お陰様で、先日息子が生後四か月を迎えることが出来ました。

日に日に大きくなり、出来ることも増えてきました。

生まれたばかりの頃は、呼びかけても無表情でポカーンとしていましたが、最近は笑顔で応えるようになってきました。

近頃は、自分の手でおもちゃをつかんでべろべろ舐めまくるという遊びにハマっているようです。

自分の子どもが生まれてから、前にも増して子どもが子どもらしくのびのびと生きられる世の中であってほしい、という思いが強くなりました。

伸び行く子どもの姿から学び取ることが多い日々を過ごしています。

 

~変化の時代~

私がまだ子どもだった頃のことです。

良い学校を出て、大きな会社に入って、そこで定年まで働いて、老後はマイホームでのんびりと過ごす。

そんなキャリアパスが現実味を持って語られておりました。

高度経済成長の終焉、バブルの崩壊、新自由主義の台頭を経て、そのようなキャリアプランは過去の遺物と化してしまいました。

今、働く人の4割弱が非正規雇用者で、年金だけで生活できずアルバイトをされている高齢者も沢山見かけるようになりました。

安定した雇用環境があればこそ、消費も増え、家庭を持ち、家を建てることもできたでしょうが、そのようなことがもう当たり前にかなわない時代に突入してしまいました。

いい学校、いい会社というキャリアパスが崩壊したのなら、もう学んだって意味がないじゃないか、という言葉も聞えてきます。

私はそうは思いません。

 

~考えることが必要な時代~

どう生きるべきか?

一昔前の日本は、その道筋を社会が用意してくれていました。

せっせと受験勉強に精を出し、いい学校に入り、いい会社に入り、年功序列で賃金があがり、

という流れに身を任せていれば、個々人が深く考えずとも生きていける時代でした。

今の世の中は、その大きな流れがもう機能を果たしてはいません。

身を任せていれば目的地まで連れて行ってくれるベルトコンベヤーは、もうその動きを止めてしまいました。

そんな時代であればこそ、私は学ぶ必要があるのと考えています。

なぜならば、一人一人が考えなければならない時代に突入したからです。

 

「考える」「考える」と綴ってきましたが、それでは「考える」とは具体的にどのようにすることでしょうか?

「考える」ために必要なこととは何でしょうか?

続きます。

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敬意と信頼 ~届く言葉、届かぬ言葉~

新年度。

一緒に学習をしてきた子どもたちが、それぞれ新生活に旅立っていきました。

若い頃は見送られる側でしたが、年を重ね気が付けばいつの間にか見送る側に変わっていました。

10代、20代の頃は年を重ねることを喪失と考えていましたが、年を重ねるほどに、見えなかったものが見えるようになり、

気づけなかったことに気が付けるようになった自分を発見し、年を重ねることを楽しめるようになりました。

今の自分の中には、10代の自分も、20代の自分も、30代の自分も同居してるようなイメージです。

様々な立場から、子どもたちに対して多層的な関わり合いが出来たら、そんな風に思います。

 

~聞き届けてもらうには~

「届く言葉、届かぬ言葉」というタイトルでここ数回綴ってきました。

上から目線の「勉強しなさい!」という正論は、子どもたちに届くことはありません。

むしろ逆効果になっている、そんなことさえ感じます。

「勉強しなさい!」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

そんな前々回のブログの内容を受けて、前回は私の体験を綴りました。

「立派じゃなくても大丈夫」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

子どもたちの前で話すことになったはいいのですが、人前で話すような立派なエピソードもない。

苦肉の策でひねり出したのが、立派なエピソードなど一つもない自分でもちゃんと生きていけているから大丈夫、そんな内容の話でした。

こんな内容で果たして聞いてもらえるのか、半信半疑の状態で臨んだのですが、意外や意外、子どもたちは真剣に聞いてくれました。

あの話は確かに届いていたと感じます。

届く言葉、届かぬ言葉、一体何が違うのでしょうか?

 

~敬意と信頼~

届かぬ言葉には無くて、届く言葉にあるもの。

私は二つあるように感じます。

それは、敬意と信頼です。

敬意と信頼。

辞書を引けばそれぞれに意味があるのでしょうが、私は以下のような意味合いで使っています。

敬意:自分自身の都合を一旦わきに置いて、相手を大切に思う気持ち。

信頼:言葉を尽くして伝えれば、きっと分かってくれるという相手を信じる気持ち。

上から目線の正論を語るとき、私たちは相手を「困った人」「正すべき人」という前提で見ています。

そこには、相手を大切に思う敬意も、「きっと分かってくれるはず」という信頼もありません。

その前提が無意識的に相手に伝わるから、言葉を聞き届けてもらえなくなるのでしょう。

私の苦し紛れの話がなぜ耳を傾けてもらえたか?

それは決して意図したわけではありませんが、「自分が立派な人だと思われたい」という自己都合を捨て、

思春期の真っただ中、生き方に迷い、不安を抱える高校生に「大丈夫なのだ」という安心感を与えたい、

そんな相手を思う気持ち、敬意が伝わったからではないかと、振り返って思います。

 

敬意と信頼を持って相手に向き合うこと。

その大切さは、日々子どもたちと学習するときにも強く感じます。

何度説明しても理解してもらえないとき、「もう理解してもらうのは無理かもしれない」と、諦めそうになることもあります。

ただ、その気持ちで言葉を発しているときは、本当に相手に言葉が届きません。

子どもたちは集中力も途切れがちで、眠たそうな顔をし始めます。

一方で諦めることなく、「言葉を尽くせば伝わるはず」と敬意と信頼感を持って話し続けていると、

不思議なことに、子どもたちも自分の話に対して前のめりになってくるのです。

 

届く言葉、届かぬ言葉。

二つを分けるものは、発話者が相手に対して抱いている前提なのだと私は感じます。

ご家庭で、もしご自身の言葉がお子さんに届いていないと感じられるならば、

上から目線の正論ではなく、ぜひ敬意と信頼を持った言葉がけを心掛けてみてください。

すぐに効果が出るものではありませんが、お子さんの対応もきっと変わっていくことと思います。

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「勉強しなさい!」 ~届く言葉、届かぬ言葉~

ついこの前年が明けたと思っていたら、もう三月も終わり。

30歳を過ぎたあたりからでしょうか、時間の経過を早く感じるようになりました。

今は受験生の指導も一区切りし、ややゆったり目のスケジュールで過ごせています。

お陰様で今年担当した受験生は、すべて志望校に合格できました。

ただ、振り返ればまだまだやれることはあった、そんな思いも残っています。

満足したら終り、そう自分に言い聞かせ続けようと思います。

 

~「勉強しなさい!」は逆効果~

お子さんの将来を心配するが故に、親御さんが度々口にする言葉が、「勉強しなさい!」です。

ただ、親御さんから「勉強しなさい」と言われて、勉強するようになった中高生を、私は今まであまり見かけたことがありません。

むしろ逆効果になっているんじゃないか、と思うことさえあります。

そんなことを書きながら、私自身がこの仕事を始めたばかりの頃、子どもたちに対して、

度々「勉強しなさい!」と言っていました。

言われたときは「はい!」と返事をするものの、やはりその声掛けで勉強するようになった子はあまりいませんでした。

これをやれば成績が上がるはずなのに、やりなさいと言ってもやらない。

何でなのか訳が分からず、悩むことが度々ありました。

 

~正論は届かない~

そのころの私は、まだまだ人間に対する理解が浅かったのだなぁ、と今になれば思います。

人間はコンピューターのプログラムではありません。

指示をしたからとて、決してその通りに動くわけではない。

そんな簡単なことも分かっていませんでした。

「届く言葉、届かぬ言葉」とタイトルに記しましたが、

どういう言葉が届くのかを一言で言い表すことは難しいですが、

届かない言葉を一言で言い表すことは出来ると私は思います。

それは、上から目線の正論です。

私が人間の器が小さいだけかもしれませんが、人様から正論を言われるとカチンっとくることがあります。

私だけでしょうか?

私だけではないと思うのですが、いかがでしょうか?

ましてや、大人から精神的自立を果たそうと葛藤する思春期の中高生に対して、

上から目線の正論が聞き入れられる可能性は極めて低いと私は自分の経験に照らしても思います。

 

届かぬ言葉は上から目線の正論。

それでは届く言葉とは何か?

届く言葉は本当に多様で、一言で言い表せるのもではありません。

ただ、自分の経験上、これは、と思うものはあるので、次回はそのことを綴ろうと思います。

続きます。

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「私が悪かったんです、、、」~不登校は誰の問題か?~

お子さんの不登校に悩まれる親御さんのお話を聴かせていただいていると、

「私が悪かったから、、、」

「私が至らなかったから、、、」

と、ご自身を責めていらっしゃる方が多いと感じています。

前回のブログでは、

「私が悪かった」という時の「私」とは私がすべて自己決定してきたものではなく、

私を取り巻く自己決定できない様々な要因、

例えば、生まれた時代、生まれた国、生まれた家、天災、事故、ケガ、病気など、

私を取り巻く様々な環境から強く規定されるものであるということを綴りました。

「私が悪かったんです、、、」 ~「私」を規定するもの〜

科学技術が進歩した現代では、もちろん自己決定できることも増えてきたとは思いますが、

それでも自分の力では決定することのできない様々な要素があり、

その様々から好むと好まざるに関わらず様々な影響を受け、

日々をどうにか生きているのが私たち人間ではないでしょうか?

今日のブログでは、私たちを取り巻く環境と不登校の関係を見ていきたいと思います。

 

~父という環境~

児童精神科医の佐々木正美先生は著書「抱きしめよう、わが子のぜんぶ」の中で、以下のように述べておられます。

“子育てというと、どうしてもお母さんにばかり責任の矛先が言ってしまいがちですが、

私は子どもがうまく育たない家庭の責任の80%は父親のほうにあるのではないかと感じています。”

子育ての問題の80%は父親の方に問題がある。

私もこの間父親になったばかりなので、そんな風に言われると辛いのですが、

私の子どもの頃を思い返してみると、父が仕事で疲れ果てて帰ってくると、

母もつられて元気がなくなり、家の雰囲気全体が重くどんよりとしてしまっていたことをよく覚えています。

父親の状態が母親に伝わり、その母親の雰囲気が子どもに伝わり、家の雰囲気が重苦しいものになる。

私にはそんな思い出があります。

今書きながら思い出しましたが、ゲーム依存が起こりやすいご家庭の特徴として、

ダメなものをダメと叱る父性が不足しているという傾向があります。

そういうことを考えると確かに、子育てにおける父親の影響は本当に大きいと感じます。

子育てにおける問題の80%は父親に問題がある。

そうであるならば、「お父さん、しっかりしてくださいよ!」と注意すれば解決でしょうか?

そういう話ではありません。

「私は、私と私の環境である。」という前回のブログの言葉を思い返せば、

父である「私」も「私の環境」から様々な影響を受け、今の「私」として在る訳です。

それでは「父」を取り巻く環境、つまり大人の社会が不登校とどのように関係しているのかを見ていきたいと思います。

 

~不登校が増えた時期~

不登校問題に長年関わってこられた臨床心理学者の高垣忠一郎さんは、著書「共に待つ心たち」の中で以下のように述べておられます。

“73年にオイルショックがあり、高度成長の時代が終わって低成長の時代に入りました。

企業は競争に勝ち抜くために、減量経営といって従業員の首を切ったり長時間過密労働を強めていきました。

その75年以降登校拒否は急増しているのです。”

また文部科学省が作成した、「不登校の子どもの割合の推移」のグラフを見ると、

バブル経済が崩壊し、不良債権を抱えた銀行の破綻やリストラが相次いだ1991年~2001年にかけて、その割合が急増していることが分かります。

これら二つの現象は、日本の経済が疲弊し、大人の労働環境が悪化することと同期して起きていると言えます。

つまり、大人の社会から余裕が失われ、そのしわ寄せが子どもたちの世界に波及し、不登校という現象が増加しているということです。

私は仕事柄、不登校になった子どもたちと接する機会がありますが、彼らの特徴として、感受性が豊かだったり、人一倍優しい性格だったり、ということが挙げられます。

そのような才能や人間的魅力を抱えた子たちだからこそ、大人の社会の余波を受け、ピリピリとした雰囲気が漂う教室にいられなくなってしまうのではないでしょうか?

 

~不登校は個々の家庭の問題か?~

今まで見てきたことから考えるならば、不登校というのは、すべてがそうとは言い切れませんが、

個々のご家庭の問題であるというより、大人の社会の問題の反映と言えるのだと私は感じます。

だから、お子さんの不登校に悩まれる親御さんにお伝えしたいのは、どうぞご自分を責めないでください、ということです。

感じるものに感じ入る豊かな感性と、人を思いやる想像力と優しさを持つがゆえに、

過度に競争的な教室のストレスに耐えられなくなっている子が多いように私は感じています。

そのような才能や人間的魅力を備えているのは、今までの親御さんの素晴らしい子育てがあったからこそ、ではないでしょうか?

だからどうぞ、「私が悪かったから、、、」などとご自身を責めないでください。

 

バブル崩壊以降、ずっと「経済成長、経済成長!」と声高に連呼し、まるで経済が成長すればありとあらゆる問題が一挙に解決するかのような政治的主張を、

私たちは絶えず耳にしてきましたが、一向に景気は良くならず、経済も成長しているようには思えません。

成長する余地もない経済を成長させようとして、その中で苦しむ人を作り出しているようにさえ感じます。

加えて世界の人口が今70億人を超え、環境の悪化、資源の枯渇が危惧されている今、成長することが本当に人間の幸福に寄与するのか、私は疑問でなりません。

そういう大人の社会が抱える様々な問題が、めぐりめぐって子どもたちを生きづらい環境に追いやっているのではないでしょうか?

不登校は子どもたちの問題ではなく、私たち大人が引き起こしている問題。

私はそう確信しています。

変わるべきは、子どもたちではなく、まず大人です。

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「私が悪かったんです、、、」 ~「私」を規定するもの〜

数日春のような暖かな日々が続いています。

日が長くなるだけで、暖かくなるだけで、天気がいいだけで、私は幸せな気持ちになります。

冬の間ずっと晴天が続く太平洋側に住んでいたこともありますが、

この幸せは、灰色の冬がある日本海側に住んでいるからこそ感じられるものなのでしょうね。

 

~「私が悪かったんです、、、」~

お子さんの不登校に悩まれている親御さんのお話を伺っていると、

「私が悪かったんです、、、」

とご自身を責めておられる方が多いです。

しかし親御さんがご自身を責めて辛そうにしているその姿を見て、お子さんは、

「自分のせいで、、、」

と自身を責め、状況はさらに悪化してしまう場合もあります。

自分を省みる視点を持つことは決して楽なことではありません。

どうしても自分自身の至らなさに目が行きやすく、

「なんであんなことしかできなかったのか」

という気持ちになることが多いからです。

それでもお子さんのためにその視点からご自身を省みる親御さんの姿に、

私は強さを感じるとともに尊敬の念を抱くことさえあります。

しかし、「私が悪かった、、、」という時の「私」とは、

私が私の意志で、私の独力で作り上げてきたものなのでしょうか?

 

~「私は、私と私の環境である」~

先日読んだ本の中に、スペインの哲学者である、オルテガ・イ・ガセットの言葉が載っていました。

「私は、私と私の環境である」とオルテガは言います。

「私」とは、私たちが自分自身の意志のみで作り上げてきたものでしょうか?

私たちは私たちの身に起きるありとあらゆる出来事を、

自分自身で選び取って生きてきたのでしょうか?

科学技術が発達し人間に不可能なことなど無いと万能幻想が肥大化した現代では、

自分の人生に起きるありとあらゆることは自己決定できるなどと勘違いしてしまいがちですが、

それは違います。

例えば、生まれた時代、生まれた国、生まれた家、天災、病気、事故、戦争。

「私」という存在は、私が自己決定することが出来ない、さまざまな要素によって規定されているのです。

自分を取り巻く環境から完全に独立した「私」などというものはあり得ないということです。

それが、「私は、私と私の環境である」という言葉の意味です。

親御さんが「私が悪かった、、、」と仰るときの「私」も私と私の環境が作り上げてきたもの。

そうであるならば、今自分を取り巻く状況の原因を「私」にのみ求めることなど出来るのでしょうか?

 

「私」であることを決めてきたのは、私の意志もあるでしょうが、

私は「私」を取り巻く「環境」の方が、大きな影響力を持つように感じます。

今の「私」を考える際に、私の環境を抜きに語ることはできません。

次回は子どもたちを取り巻く「環境」について考えてみたいと思います。

続きます。

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続・「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

前回のブログでは、子どもたちからの、

「こんなこと勉強しても大人になってから使わないでしょう!」

という言葉を受け、私の考えを綴りました。

二つあるのですが、その一つ目が、

「それを学ぶ前の人間に、それを学ぶ意味は分からない」

ということでした。

前回のブログ記事 「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

今回は二つ目を綴ります。

推敲の段階では二つと思っていましたが、よくよく考えると前回の考えと地続きだなという気もしてきて、

二つに分ける必要がなかったのだなと後から気づきました。

とりあえず綴ります。

 

~汎用的学び~

子「なんだこれ、訳わからん!」

私「簡単ではないよね。」

子「もうやりたくない!だいたい大人になって二次関数使う人なんているんですか?」

私「使う人より使わない人のほうが圧倒的に多いかもね。」

子「じゃあこんなん勉強しても意味ないじゃないですか!」

私「いやいや、あのねぇ、、、」

今授業中のやり取りを一部再現してみましたが、

ここに書いたように、この手の質問を受けるのは、理科や数学を学習している時が多いです。

確かに二次関数を大人になってから利用する人はごく一部の限られた人かもしれません。

しかし、私たちは数学や理科を通じて、日常生活に欠くことのできないもっと汎用的能力を涵養しているのです。

それは論理的にものを考える力です。

それは、日常生活で腕立て伏せの動作をすることは稀であっても、腕たせ伏せで鍛えた筋肉が日常生活で大いに役立つこと、とよく似ています。

つまり学んでいる題材それ自体を実際に使うことはなくとも、その題材を通して養った力は大いに役に立つということです。

論理的に考える力は、誰かに物事を説明するとき、誰かから物事の説明を受けるとき、必要不可欠な力です。

それを持たなかったために、論理的に破綻してるような嘘くさい詐欺に引っ掛かるなどということさえある訳です。

数学、理科だけではありません。

詳しくは割愛しますが、例えば歴史を学ぶことで、文脈の中で出来事を見る力を、

英語を学ぶことで、日本語とは別の思考方法を私たちは学んでいるのです。

 

~意図せず何かを学んでいる~

上で、私たちは題材それ自体に加え、もっと汎用的な能力を身に着けているという話を綴りました。

もう一歩論を進めれば、何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている、でもそれが何なのかをうまく認識できない。

そんな学びもあるのではと私は考えます。

それを感じるのが、文章読解力です。

文章読解力というものが、本を読むことで確かに身につくことは、よく知られていることですが、

それがなぜなのかをうまく説明できるでしょうか?

何を身に着けたから私たちは文章を読み取れるようになったのでしょうか?

文章を読むことでたくさんの言葉を知ったからでしょうか?

難解な論説文を読んで論の展開の仕方を学んだからでしょうか?

時代の風雪に耐え読み継がれてきた古典に触れて、情緒が豊かになったからでしょうか?

そのどれもが確かにその通りなのですが、そのどれもがこの疑問に対して十分な答えを与えてくれているようには思えません。

一体何が身に着いたから文章が読み取れるようになったのかをうまく説明できないけれど、

読書を重ねることで確かに文章を読み取れるようになる。

それを通じて一体何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている。

そのような学びもあるのだということです。

 

何を学び取っているのかをうまく説明できないのは、前回のブログに書いた通り、

私自身がまだ何かを学び取れていない証拠なのだろうと思います。

別の話をするつもりが、一周回ってもとの話に戻ってしまいました。

前回と地続きと申し上げたのはそういうことです。

何故なのかは分からないけれど、それを通じて確かに人間の生きる力が向上する、そのような学びが存在するということです。

それが今に至るまで消えることなく学問として残り続けるということは、そこに何かしらの人類史的意味があるという証なのであり、

たとえ今の未熟な自分がその意味を上手く咀嚼できないからといって、簡単に切り捨ててはいけない。

様々な事例を挙げて説明してきましたが、要するに私が言いたいことはそういうことです。

 

いくつかの歴史的、地政学的要因が相まって今まで日本は豊かさと安全を享受してきました。

豊かで安全な社会であれば人は未熟なままでも生きていけるので、学ぶことの意味が分かりづらくなってしまったのだと思います。

ただその豊かさと安全が未来永劫続くとは思えない雰囲気が漂ってきていると私は感じます。

(昨今大人の世界にも広がる「学び」ブームもその空気を肌で感じているからこそ、でしょう。)

人口爆発、資源の枯渇、環境破壊、大国の右傾化など、今までと同じ暮らしを妨げるであろう要素はいくつもあります。

これからは好むと好まざるに関わらず、変化を求められる時代になっていくのでしょう。

だからこそ私は、子どもたちに学びを通じて考える力を身に着け、人間的成熟を果たしていってもらいたいと考えています。

 ご家庭でもしお子さんから、

「こんなもの大人になっても使わない!」

と言われた時に参考にして頂けたら、と思います。

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「こんなこと勉強して何の意味があるの?」 

ここ数日、一緒に学習をしている子どもたちから、

「こんなこと勉強しても大人になったら使わないでしょ!」

という言葉を頂きました。

確かに二次関数や三角比、電磁誘導の法則を大人になってから使う人より、使わない人のほうが圧倒的に多いことでしょう。

「使わないものを学んでもしょうがないじゃないか」

私自身、高校生の時にsin、cos、tanを習いながら、

「これはいったい何のためになるのだろうか?」

と思っていた記憶がありますから、その疑問も分からないではありません。

ただ大人になって思うことは、

「意味が分からないことを簡単に切り捨てないでほしい」

ということです。

理由は二つあります。

 

~学ぶ前の人間にその意味は分からない~

一つ目。

何かを学ぶ前の人間が、それが無意味か否かについて判断を下すことは不可能だからです。

それを学び取る前の人間には、それを学び取った後、

自分の世界がどのように変化するのかを想像することができないということです。

人間の変化には量的変化と質的変化があります。

今までできていたことを、今までよりも速く、多く、広範囲に出来るようになること、それが量的変化です。

例えば今まで自転車で移動していたけど、車の免許を取得することでもっと速く移動できるようになった。

これは量的な変化です。

一方、それを学ぶことで、物事の見え方、価値観が変わること、そんな世界があると初めて知ること、それが質的変化です。

例えば赤ちゃんが言語を学び取ること、これは質的変化です。

質的変化とは、物事の見え方、価値観が変わることと書きました。

それには今までの自分の価値判断体系を変化させることが必要なので、学ぶのにそれなりの負荷がかかります。

今までの自分の思考フレームを組み替える作業が必要になりますから、当然苦痛も伴うでしょう。

そして質的変化によって変化した自分の姿というものを、その情報に触れ変化する前の人間が、事前に想像することは難しいのです。

だからそれを学び取る意味も、それを学び取る前の人間には良く分かりません。

例えば想像してみてくだいさい。

赤ちゃんが言語を習得する前に、言語を習得することで自分はこのようなことが出来るようになる、と想像することは可能でしょうか?

赤ちゃんが言語を学び取った意味が分かるのは、言語を学び取った後なのです。

学び取った後になって初めて、

「言葉を学ぶことによって私はこのような事が出来るようになったのだ」

と事後的にその意味を知ることになるのです。

 

質的変化をもたらすような学びであればあるほど、それを学ぶ前の人間がそれを学ぶ意味を理解することは難しいものなのです。

だから、学び取る前から短絡的に「そんなものには意味がない」と意味付けることをしないでもらいたい、

というのが理由その一です。

長くなりましたので、続きはまた次回。

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読書のすすめ ~習慣化するために~

前々回のブログでは、読書離れに対する危機感を、前回のブログでは読書によって得られるものは何かについて、綴ってみました。

読書のすすめ ~読めない、書けない、その理由~

読書のすすめ ~地平線の向こう側~

読書の大切さは分かっているけれど、それがなかなか習慣化されない。

親御さんの中にはそのような悩みを抱えていらっしゃる方もおられることと思います。

そこで、読書習慣をつけるために、何が出来るのかを今回は考えてみたいと思います。

そしてこれは学習の習慣づけに関しても応用できる内容です。

 

~興味と難易度~

どんなに親御さんが読ませたいと願う本であっても、まずお子さんがその本に対してなんの興味もなければ、

きっとその本を読んでもらうことは難しいでしょう。

まずその本のジャンルがお子さんの興味を持てるものを選ぶこと。

これが大切です。

内容と同じくらい難易度も大切です。

人が最も集中できるのは、対象の難易度が自分にとってちょうどよい時です。

例えば、何かゲームをすることを想像してみてください。

そのゲームが自分に対応できる範囲を超えて難しかった場合、

またはものすごく簡単であった場合、そのゲームをしてみようと考えるでしょうか?

自分にとってちょうどよい難易度であるとき、人のやる気は最も引き出されるのです。

だから大人向けの難しい本であったり、低年齢向けの簡単な本であったり、

そのような場合にお子さんの興味を引くことは難しいでしょう。

以上のことから、まず読みたい本はお子さんを本屋さんや図書館に連れて行って、

実際に読んでもらったうえで、お子さん自身に選んでもらうことをお勧めします。

 

~毎日少しづつ~

今まで学習習慣がなかった子に、学習の習慣を身に着けるように話すと、

今まで全くしていなかったことに対する後ろめたさもあるのでしょうか、

1日2時間、3時間学習をする、という大きな目標を掲げがちです。

しかし、その目標の多くが習慣化することはありません。

習慣化するときのコツ、それは少量を毎日続けることです。

学習であれば、1日45分学習をするなどの目標から始めることです。

ストレスとは煎じ詰めれば変化のことです。

あらゆる変化がストレスであるからこそ、昇進や出産などの世間的におめでたいことでも、

精神疾患のきっかけになり得るのです。

大きな変化は大きなストレスになり得ます。

だから初めの変化はハードルを低く設定することが大切なのです。

読書に関して言えば、毎日30分くらいから始めてみるとよいと思います。

その際、始める時間と場所も決めるとより習慣化しやすくなります。

 

~環境~

お子さんにとって強い影響力を持つ環境要因の一つは親御さんです。

私が週に一回家庭教師でお邪魔して本を読むことが大切だよ、と語るよりも、

毎日たくさんの時間を一緒に過ごされる親御さんが、その効用を語るほうが何倍も効果的です。

親御さんご自身がその効用をお子さんに対して語れるためには、

まず親御さん自身がその効用をご自身で体験される必要があります。

どんなに人から説明されても、自分で体験してみなければ分からないことが世の中にはたくさんあります。

そしてそうであるからこそ、体験者の言葉というのは強い説得力を持つのです。

まずはご自身が読書の習慣を身に着けられ、それによって自分は何を得たのかを、お子さんに言語化されてみてください。

「本を読みなさい」と上から目線で語りかけるより、そういう親御さんの姿を見せることが、

お子さんに対して読書の魅力を何倍も雄弁に物語ってくれるのではないでしょうか。

 

私自身、小学校の時は全く本を読まない子どもでした。

先生の「本を読むといいよ」という金言を全力無視して野山を駆け回っておりました。

中学校に入ってから、たまたま手に取った椎名誠さんの旅行記が、私にとって自発的に読んだ初めての本になりました。

それから少しづつ本を読むようになり、大人になった今では、

一日の仕事を終え風呂に入り、眠る前に布団の中で本を読む時間が私にとって至福のひと時です。

本を読むことで得られるものをいくつか挙げてみましたが、私自身本から得たものは数えきれないほどあります。

そういう実体験があるからこそ、ゲームやスマホやテレビの世界に引きこもるのではなく、

本を通してその向こう側にある世界を見つけてほしいと強く思うのです。

あんまり口やかましくいうと逆効果にしかなり得ないと自制もしつつ、

これからも本の魅力を事あるごとに子どもたちに伝えていこうと思っております。

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