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自立とは何か ~自立と依存~

昨日のブログでは、何でも自分で出来るようになることは、自立ではなく孤立である、と綴りました。

実際に何でも自分で出来る人などおりません。

そして、そんな人間を目指すことは現実的ではありません。

私も今年で38歳になりますが、出来ないことはいっぱいあります。

何でも自分で出来るようになることが自立ではなく孤立ならば、自立とはなんでしょうか?

臨床心理学者の河合隼雄先生は、著書の中で以下のように述べています。

“自立ということを依存の反対である、と単純に考え、

依存をなくしていくことによって自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。

自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれ出てくるものである。”

自立というのは依存と切っても切れない関係性にあり、適切な時期に、受け容れられ甘えられることによって、

心の中に自分が自分であることの安心感が芽生え、その結果、外の世界に興味関心が向いていく。

自立とはそういう順序をたどって果されるものなのです。

受け容れられ甘えられた経験は、自分自身の存在に対する安心感を育むとともに、

自分を取り囲む世界は、自分を受け容れてくれる信じるに値する世界である、という感じ方を子どもの心の中に育みます。

その自分を取り囲む世界に対する信頼感があるからこそ、外の世界に自分を開いて、他者と協力して生きていけるようになるのです。

臨床哲学者の鷲田清一先生は著書の中でこう書いてます。

“自立しているというのは決してインデペンデント(独立的)なのではない。

インターインデペンデント(相互依存的)な仕組みをどう運用できるか、

その作法を身につけることが本当の意味での自立なんじゃないかな。”

自立とは何でも独力で出来るようになることではありません。

自立とは、十分な依存によって育まれた自分自身に対する安心感、世界に対する信頼感を足掛かりに、

他者と相互依存的な人間関係を築き、手をつないで生きていけるようになることを言うのです。

そのために、周りの大人がしてあげられることとは何でしょうか?

親の価値観から離れ、自分自身の世界観を築いていく自立のプロセスを歩む子どもたちに、

私たち大人がしてあげられることとは何でしょうか?

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

参考図書 こころの処方箋 河合隼雄 著

大人のいない国 鷲田清一 内田樹 著

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    自立とは何か? ~自立と孤立~

    教育や子育ての目的とは何でしょうか?

    私の考える目的は、子どもを自立させることです。

    私以外にもそのように考える方が多いのではないでしょうか?

    たびたび用いられるこの「自立」という言葉ですが、それは具体的にどのような状態をいうのでしょうか?

    お子さんを自立させようと、小さな頃から身の回りのことを自分でやらせる、学校の勉強も部活動も頑張らせる、

    そういう接し方をされている親御さんも多いと思います。

    親からの要求に応えようと、子どもは身の回りのことも、学校の勉強も、部活も一生懸命こなす。

    周りからみれば、本当に非のうちどころない「良い子」です。

    だけど、そういう「良い子」が、心の中に不安を抱え、寂しさを抱え、ある日心がポキッと折れて動けなくなる。

    私はそのような事例がとても多いと感じています。

    ここで用いられている自立の意味を言葉にすると、「自分のことは自分で何でもできるようになること」だと思います。

    だけど、「自分のことは自分で何でもできるようになること」を目指した結果、

    心が折れて動けなくなって、周囲との関係性を持てず、自分の殻に閉じこもってしまったのなら、

    それは自立ではなく、孤立というのではないでしょうか?

    「自分のことは自分で何でもできるようになること」が自立ではなく孤立であるとしたら、

    自立とは一体何なのでしょうか?

    続きます。

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      なぜ人は言葉を交わし合うのか?

      なぜ人の話が聴けないのか?

      それはその人自身が誰かから話を聴いてもらう必要があるから。

      人は誰かに話を聴いてもらうことで心の中に余裕が出来て、

      その出来た余裕の分だけ人の話を聴けるようになる。

      だからもし今、人の話を聴けないならば、

      それはまずご自身が誰かに話を聴いてもらう必要があるのかもしれない。

      昨日のブログでは、そのような内容を綴りました。

       

      私たちは日々、自分以外の他者と言葉を交わし合いながら生きています。

      そもそもなぜ人は言葉を交わし合い生きているのでしょうか?

      以前、本の中でこの問いに出会ったときに私は、

      知るべきを知り、伝えるべきを伝えるため、と考えました。

      私たちは日々生きる中で、知らねばならないこと、伝えなければならないことがたくさんあります。

      例えば仕事で、明日の何時にどこに何を持って集合せねばならないか、を知る必要があります。

      例えば買い物で、どんな大きさ、どんな色合い、どんな手触り、どんな値段帯の服を探しているのか、を伝える必要があります。

      その必要性を満たすために、私たちは日々言葉を交わし合う。

      私はそのように思っていました。

       

      それではなぜ、私たちは日々挨拶を交わすのでしょうか?

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      「おはようございます。」

      「こんにちは。」

      日々交わされる挨拶の中には、知るべき情報も、伝えるべき内容もありません。

      何の有意な情報も含まれていません。

      それでも日々、挨拶という言葉を交わし合いながら私たちは生きています。

      この反例から分かるのは、コミュニケーションの目的が、知るべきを知り、伝えるべきを伝えるためだけではないということです。

      それではコミュニケーションの目的とは何でしょうか?

      挨拶という習慣が私たちに教えてくれるもの。

      それは、コミュニケーションの目的はコミュニケーションそれ自体であるということです。

      つまり、私たちは知るべきを知り、伝えるべきを伝えるためにコミュニケーションをするのではなく、

      他者と言葉を交わし合うためにコミュニケーションをとっているということです。

      自分の発する言葉を受け止めてくれる他者が確かにこの世の中に存在する。

      その事実を確認するために私たちは日々言葉を交わし合い生きているのです。

      だからこそ、無視というものには人を深く傷つける力があるのだと思います。

       

      好むと好まざるに関わらず、私たちは日々資本主義という大きなシステムの中で生きています。

      そこで刷り込まれる価値観は、平たく言ってしまえば、

      「金になることには意味があり、金にならないことには意味がない」というものです。

      そういう、何の面白みも深みも無い価値観の蔓延が、

      コミュニケーションの目的とは、伝えるべきを伝え、知るべきを知るため、という誤認を生み、

      そこに内在する意味性は二次的な意味でしかなく、本当の意味とは言葉を交わし合うことそれ自体なのだということを、

      私たちから忘れさせてしまうのでしょう。

      そして、この「意味がないものには意味がない」という私たち大人が握りしめてしまった無味乾燥な価値観が、

      誰にも話を聴いてもらえず、心の中に寂しさを抱えた子どもを、

      生きづらさを抱え苦しむ少数派の人々を、生み出しているのではないか。

      私にはそんな風に思えてなりません。

      続きます。

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      参考図書:先生はえらい 内田 樹 著

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        「分かっているけど、聴けないんです、、、」

        前回のブログでは、聴き方の技術的な面、傾聴について綴りました。

        自分が話すのは得意だけれど、人の話を聴くことは苦手という人は多いのではないでしょうか?

        なぜ話を聴くことは難しいのでしょうか?

        一つには、「聴く」ということが具体的にどうすることが分からないからだと思います。

        これに関しては、「聴く」とはどういうことかを前回、前々回のブログにて綴ってきました。

        もう一つの理由は、自分が話を聴いてもらっていないから、という理由があります。

        人は誰かに話を聴いてもらうことで、人の話を聴けるようになるものです。

        だから人の話を聴ける人とは、誰かに話を聴いてもらったことのある人です。

         

        なぜ人に話を聴いてもらうと、人の話が聴けるようになるのでしょうか?

        人が誰かの話を聴けるときとは、どんな時でしょうか?

        逆に人が誰かの話を聴けないときとは、どんな時でしょうか?

        人が話を聴けないとき、それは自分自身が心の穏やかさを失っている時です。

        心に余裕がない時、人は誰かの話を聴くことはできません。

        裏を返せば、心穏やかな時は人の話を聴けるということです。

         

        自分がつらかったときを思い出しながら、そのことを日記に記すだけで、

        高血圧、関節リウマチ、うつなどの症状が改善されるという医学的データがあります。

        人が心身を壊すとき、心のバランスを崩すときいうのは、自分の心の中が押し込めた感情でいっぱいになっているときだったりします。

        その味わい難く押し込めた感情を、書くという行為を通じて自分の外に出し、

        感情を味わい直すことでカタルシス(感情の浄化)が起こり、

        心身の不調が改善することが、医学的にも証明されつつあります。

        参考図書:日記を書くと血圧が下がる 体と心が元気になる「感情日記」のつけ方 最上 悠著

        心の中に様々な辛いことを押し込めすぎると人は余裕をなくし、心身のバランスを崩してしまうものなのだと思います。

        その辛い気持ちを日記という形で外に出すことで、心身の健康も取り戻せるということです。

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        人に話を聴いてもらうことも、辛い気持ちを外に出すという点で、日記と一緒です。

        聴き手が、自分の考えを差し挟むことなく傾聴することで、話し手は辛い感情を味わい直し、

        一杯になっていた気持ちに少しだけ余裕ができます。

        その出来た余裕の分だけ、他者を受け容れられる心のゆとりが生まれ、人の話を聴けるようになるのです。

        だから技術的なことを知っていても、聴くことができないのは、

        その人の気持ちが一杯なのにも関わらず、人から話を聴いてもらったことがないからです。

        もし今ご自身が、お子さんの話を聴けないのなら、それはご自身が誰かに話を聴いてもらう必要があるからかもしれません。

        話の聴き方を分かっている人がもし身近にいらっしゃるならば、ぜひ一度話を聴いてもらうことをお勧めします。

        そしてもし誰かに話すことに抵抗を感じられるならば、先ほど紹介したように、日記を書いてみるというのも一つの手段です。

        続きます。

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          「聴く」とは何か?

          前回のブログでは、聴くとはアドバイスすることではない、と綴りました。

          それでは、聴くとは何なのでしょうか?

          「傾聴」という話の聴き方があります。

          傾聴とは、技術的な面について書けば、以下の3つの事柄を意識しながら他者の話を聴くという行為です。

          1、うなづき

          2、要約、おうむ返し

          3、沈黙で見守る

          1つずつ説明して参ります。

          1、うなづき

          自分が話しているのに、相手から何の反応もなければ、この人は果たして聴いてくれているのかと不安になるものです。

          相手の話をうなづきながら、相槌を打ちながら聴くことは、あなたの話を聴いていますよ、あなたに関心がありますよという非言語的なメッセージとして話し手に伝わります。

          2、要約、おうむ返し

          おうむ返しとは、相手が言ったことをそのまま相手に返すこと。

          例えば相手が「○○なことがあってとても苦しい」と言ったならば、聴き手が「○○なでとても苦しいんですね」と返すこと。

          また話をするときというのは、どうしても話題があちらこちらへと飛躍し収拾がつかなくなりがちですが、

          それを防ぐために聴き手が、今まで聞いた内容をタイミングをみてまとめて相手に返す、これが要約です。

          おうむ返しも要約も、話し手が自分の話した内容を他者から返してもらうことで、

          自分の話したことを客観視することができると同時に、脳内を整理できるという効用があります。

          3、沈黙で見守る

          話を聴いている中で、相手が沈黙することがあります。

          それは過去の出来事や自分の気持ちを言葉にする中で、沸き上がってきた感じ難い感情を味わいなおしている瞬間だったり、

          今まで無意識的に目を逸らしていたために気づけなかった何かに気づいた瞬間であったり。

          沈黙は無意味な時間ではなく、そのような意味があるのです。

          だから相手が沈黙しているときは、聴き手はその相手の沈黙を沈黙で見守ります。

          上記3つが傾聴の技術的な説明です。

          この3つを見ていてわかる通り、傾聴という聴き方は聴き手の意見を挟むこと、つまりアドバイスのようなことはしません。

          傾聴とは、聴き手が自分の意見を挟むことなく、話し手に内省を促し考えさせ、脳内整理を手助けする行為。

          相手を自分の思い通りに変えたいという自分勝手な「欲望」ではなく、

          相手が相手らしく生きる事を自らの喜びとする気持ち、「愛」に基づいた行為なのです。

          続きます。

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            「子どもが全然はなしてくれないんです、、、。」

            前回のブログでは、関心の矢印を子どもに向けるとは、具体的には話を聴くこと、というお話を綴りました。

            それでは、話を聴くとは具体的にどうすることなのか、今日は話の聴き方について書いてみたいと思います。

            ご家庭に伺っていると、「子どもが全然話してくれない」というご相談を受けることがあります。

            中学生、高校生ともなれば、精神的に自立し始めて、そもそも親御さんにそんなに話すことがない、そういう場合もあるかと思います。

            心配なのは、辛い気持ちを抱え込んでいるのに誰にも話せない、自分の親にさえも話せない、という場合です。

            そういう場合、なぜ話せなくなるのでしょうか?

            ご自身のことを振り返って、そういうことを話しづらい人はどんな人でしたか?

            私の場合ですが、困っていても、辛くても、この人に話しても無駄だろうなぁ、と思うような人には、

            話を聴くことをアドバイスすることと勘違いしている、という共通項があるように感じます。

            自分自身と相談者を同質の人間であるとみなし、

            「この人は結局こういうことで悩んでいるのだろう」と高をくくったような態度で接せられることで、

            分かってもらえていない、分かろうとしてもらえていない、という気持ちが強くなり、

            この人に相談するんじゃなかったという気持ちになる。

            私にはそんな経験があります。

            お子さんが辛そうにしているのに、何も話してくれない。

            見守る側としてはとてもつらい状況ですが、お子さんがもし何も話してくれないならば、

            それは親御さんが、聴く=アドバイスすることという勘違いをされているからかもしれません。

            聴くことがアドバイスすることでないならば、聴くこととは何なのか?

            続きます。

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              映画「ずっと、いっしょ」上映会のお知らせ

              10月7日に映画「ずっといっしょ」の上映会を開催致します。

              普段バタバタと生きていると、考えることもありませんが、

              「家族」ってなんでしょうね?

              「生きる」ってなんでしょうね?

              この動画を見ていたら、母方の祖父が亡くなった時のことを思い出しました。

              私は17歳でした。

              今から21年前のことです。

              私は、祖父と祖母とは離れて暮らしていておりました。

              家に遊びに行くたびに、あーでもない、こーでもないとよくケンカをしている二人だったのですが、

              祖父が息を引き取ったときに、祖母が耳元で

              「もうちょっと一緒にいたかったねぇ」

              と話しかけていたことをとてもよく憶えています。

              この映画を観ながら、

              もう亡くなってしまった人のこと、

              日々生活を共にする家族のこと、

              自分が今生きているということ、

              そんなことを考える時間を持ってもらえたらいいなぁと思います。

              是非観にいらして下さい。

              お申込みは以下のリンクからどうぞ。

              映画上映会午前の部

              映画上映会午後の部

              映画「ずっと、いっしょ。」劇場版予告

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                「聞く」と「聴く」

                前回のブログでは、「あなたのためを思って」という愛情を偽装した「欲望」ではなく、

                「愛」を持って子どもと接することが大切なのではないか、と綴りました。

                「愛」とは、「相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち」でした。

                そしてそれは、相手に関心を持つことから始まる、関心の矢印を相手に向ける事、と綴りました。

                では、具体的にそれは何をすることなのでしょうか?

                私が思う、関心の矢印を相手に向けるとは、相手の話を聴くことです。

                「聴く」と「聞く」の違いを考えたことはありますか?

                字が違うということは、この二つの言葉の意味するものも当然違います。

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                「聞く」とは、こちらが受け取る意志がないのに情報が耳に入ってくることです。

                「聴く」とは、相手の発する言葉を能動的に受け取り、関心をもって分かろうとすることです。

                「聴く」とは、自分の考えを相手にアドバイスすることと勘違いされることがよくありますが、それは相手を分かろうとする行為ではなく、

                「ああ、この人は要するにこういうことで悩んでいるんだ」と高をくくって分かった気になって、

                自分の思う正解を相手に押し付けることで、それは「聴く」とは真逆の行為です。

                またそのようにアドバイスをしてしまうと、相手は「この人は自分を分かってくれていない」と自分の殻に閉じこもってしまったり、

                再び困ったことがあっても、自分で解決できず依存的になってしまったり、という結果を引き起こす場合が多いのです。

                「聴く」とはそのようにアドバイスという形で自分の「欲望」を相手に押し付ける行為ではなく、

                その人がその人らしく生きていけるように、解決する力はその人の中にあるのだと信じ、

                相手の脳内整理作業を手伝うようなイメージ、「愛」に基づいた行為なのです。

                よくご家庭から「子どもが話を聴いてくれない」というご相談を受けますが、

                それはお子さんが普段から話を聴いてもらっていないと思っている証拠かもしれません。

                人間関係には返報性というものがあります。

                相手から受け取ったものを相手に返そうとする性質のことです。

                例えば、相手から温かい言葉が届けば、自分も温かいを相手に返そうとしますし、

                冷たい言葉を受け取れば、やはり冷たい言葉を相手に返そうとしてしまいがちです。

                そういう返報性の観点から考えれば、話を聴いてもらえないのは、

                もしかしたらご自身が普段からお子さんの話を聴いていないからかもしてません。

                裏を返せば、ご自身がお子さんの話を聴けるようになれば、お子さんも親御さんの話を聴いてくれるようになるということです。

                ただそれは決して、「親の言うことを聞く」「聞き分けがよくなる」という意味ではありません。

                話を聴く目的は、親の言うとおりにする子聞き分けのよい子を育てるためではなく、その子がその子らしく生きられるようにサポートするためです。

                「聴く」というのは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ、「愛」から生まれる振る舞いなのです。

                それでは、話を聴くとは具体的にどのような行為なのか、次回綴ってみたいと思います。

                続きます。

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                  「あなたのためを思って」 ~愛と欲望~

                  前回のブログでは、関心の矢印という話を綴りました。

                  「あなたのためを思って」

                  「それくらい自分で」

                  いずれの言葉も、相手のためを思っている言葉のようではありますが、

                  その実本当に考えているのは、相手のことではなく自分のこと。

                  つまり関心の矢印が相手ではなく、自分の方を向いている言葉。

                  そんなことはないでしょうか?

                  精神科医の泉谷閑示さんは、その著書「普通がいいという病」の中で、愛と欲望を次のように定義しています。

                  愛:相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち

                  欲望:相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ち

                  「あなたのためを思って」という言葉には、親切を装いつつも、相手を自分の希望通りに変えようとする気持ちが、

                  「それくらい自分で」という言葉には、相手の自立を促しているように見せかけて、やはり相手を自分の思い通りに変えようとする気持ちが、

                  つまり相手をこちらの思い通りにしたいという欲望があるのではないでしょうか?

                  子どもたちは、その関心の矢印が自分の方向を向いていない言葉に寂しさを覚えますが、

                  お父さん、お母さんを困らせたくないから、その気持ちは心の中に抑圧されます。

                  我慢して我慢して、その我慢が限界になったときに、それが問題行動として発露するのではないでしょうか。

                  それでは「欲望」ではなく、「愛」とは何でしょうか?

                  「愛」の定義は、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちでした。

                  「相手が相手らしく」に気づくためには、相手に関心を持つ必要があります。

                  関心の矢印を相手に向ける必要があるということです。

                  例えば、この子はどんな遊びが好きか、どんな食べ物が好きか、今日の顔色はどうか、声のトーンはいつもと違わないか、目の表情は生き生きとしているか、など。

                  つまり相手を分かりきることなどできない、自分とは異なる他者として尊重し、関心を持つこと、分かろうとすることから、「愛」は始まるのだと私は考えます。

                  続きます。

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                    子どもたちが求めているもの

                    前回のブログで、子どもたちの寂しさに手を当てるような対応が必要と綴りました。

                    では具体的にどうすることなのか?

                    考えてみたいと思います。

                    親御さんがよく言われる言葉に「あなたのためを思って言っているのよ」というものがあります。

                    私自身、両親からたびたび言われた言葉でもあります。

                    一方で「それくらい自分んでやりなさい」「それくらい自分で考えなさい」など、それに類した言葉もよく聞かれます。

                    これも私自身が言われてきた言葉です。

                    人と人との関係性には距離感というものがあります。

                    家族との距離感、友達との距離感、学校の先生との距離感、部活の先輩との距離感、などなど人間歓迎には遠近があるものです。

                    人間関係の距離感で言えば、「あなたのためを思って」は近く、「それくらい自分で」は遠い、という印象を受けがちですが、

                    それは遠い近いという量の問題ではなく、そもそも人間関係の質が違うのかもしれません。

                    遠い、近いという表現ではなく、関係性が薄いという表現が適切かもしれません。

                    「あなたのためを思って」という言葉も、「それくらい自分で」という言葉も、関心の矢印が子どもにではなく、自分に向いているのです。

                    だから、関係性が近いとか遠いではなく、希薄という表現が適当なのだと思います。

                    子どもはその関心の矢印が自分にではなく、親自身に向かっていることを敏感に察知して、

                    その寂しさを紛らわすために何かに依存したり、問題行動を起こして周囲の関心を自分に集めようとしたりするのはないでしょうか?

                    そのような振る舞いを通じて、子どもたちが訴えているもの、それは「こっちを見て!」という切実な願いだと私は考えます。

                    続きます。

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