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書評 〈叱る依存〉がとまらない

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本書は、臨床心理士の村中直人さんが、心理学的、脳科学的、社会学的視点から「叱る」という行為について論考を展開した一冊です。

「叱る」という行為が持つ依存性、これが私にとってこの本を読んだ一番の収穫でした。

まず本書における「叱る」を定義をご紹介したいと思います。

叱るとは、言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールする行為

これが本書における「叱る」の定義です。

まず「叱る」という行為を叱られる側に視点に立って考えてみたいとおもいます。

その定義上、「叱る」には叱られる側のネガティブ感情が伴います。

このネガティブ感情は脳の扁桃体と呼ばれる部分が活動することで引き起こされるのですが、扁桃体が活発に活動している時、理性的にものを考える脳の部位である前頭前野の活動が低下することが知れらています。

つまり、叱られている時にはネガティブ感情に圧倒されているために、表面上「ごめんなさい」「もうしません」などとその場を逃れるための回避行動をとるだけで、理性的な学習が出来なくなるのです。

それ故になぜ自分が叱られたのか、そうならないためにはどうすれば良いかを学ぶことができず、また同じような振舞いを繰り返してしまいまた叱られることになるのです。

つまり叱られる側の人間においては、叱られる→ネガティブ感情からの回避行動→学習しない→叱られる→、、、という負のループが回り続けることになります。

今度は「叱る」を叱る側の視点から見てみたいと思います。

「叱る」という行為がやめられない理由は二つあります。一つには自己効力感の充足、もう一つには処罰感情の充足です。

まず一つ目の「自己効力感の充足」について。

「叱る」という行為は、相手の中に強いネガティブ感情を引き起こすため、叱られる側は叱る側が問題視している行動を即座に辞めざるを得なくなります。

それが叱る側からすると劇的な効果があるように感じられーしかしその多くは叱られる側の回避行動によるものなのですがー結果として自分は状況をコントロールできるという悪い意味での自己効力感をもたらします。

自分は状況をコントロールできるという感覚(自己効力感)は人に快の感情をもたらします。つまり「叱る」を通じて叱る側は「快」という報酬を得ているのです。

次に二つ目の「処罰感情の充足」について。

「水戸黄門」や「大岡越前」などの勧善懲悪の物語が繰り返し語られ続けていることや、古代ローマでは罪人を処刑することが一つのエンターテイメントとして人々に消費されていたことからも明らかなように、処罰は人に「快」をもたらします。

「叱る」の定義に戻って考えるなら、相手にネガティブ感情を植え付ける行為は一種の処罰であるため、「叱る」ことで人には「処罰感情の充足」が起こり、そこからやはり「快」という報酬を得ているのです。

事実、人を処罰した時には脳内で報酬系回路が活性化し、人に快感をもたらすドーパミンが分泌されるという報告があるそうです。

一つ目の「自己効力感の充足」も二つ目の「処罰感情の充足」も人に「快」という報酬をもたらします。人には報酬が得られる行動を繰り返そうとする性質があります(学習強化)。それ故に人は「叱る」がやめられなくなるのです。

叱る側の中で起きていることをまとめると以下のようになります。

叱る→状況の劇的な変化→自己効力感の充足または処罰感情の充足→「快」という報酬→叱る→、、、、。

「叱る」について叱られる側と叱る側の中で起きていることを見てきましたが、叱られる側でも叱る側でも負のループが発生することが分かりました。

そしてこれが「叱る」の質の悪さなのだと私は感じるのですが、叱られる側の負のループと叱る側の負のループがまるで歯車の様にがっちりとかみ合って回り続け「叱る依存」の構造を深刻化させてしまうのです。

この「叱る依存」が家庭内で起これば、その先に待っているのは虐待でしょう。またこれが会社内で起こればパワハラになるでしょう。どちらの場合も叱る側、叱られる側の双方にとって悲劇です。

もちろん叱ることが必要な場面があることを認めないわけにはいきません。しかしそれは自分自身や他者を害する行為などのごく限られた場面であり、それ以外の多くの場合では、今まで述べてきたような「叱る依存」という負のループが回ってしまい、状況は悪化していくことになります。

このような「叱る依存」から抜け出すにはどうすれば良いか、という内容はぜひ書籍を手に取ってご自身で読んで頂きたいのですが、私はこの「叱る」という行為がもたらす快、それ故に生じる依存性という着眼点を得るだけでも、「叱る依存」に陥ることをかなり防げるのではないか、と感じました。

一人の親として、子どもと関わる仕事に携わる身として、「叱る」がもつ依存性に自覚的でありたいと感じました。

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    書評 「いじめのある世界に生きる君たちへ」

    こちらは、精神科医の中井久夫先生が、「いじめ」という現象について著した「いじめの政治学」というご自身の論文を子ども向けに編集した一冊です。

    中井先生はいじめを、「孤立化」→「無力化」→「透明化」という三段階を経て進む人を奴隷化するプロセスであると定義します。

    孤立化とは、いじめのターゲットを定め、そのターゲットを周囲から切り離すプロセスです。加害者はターゲットの些細な特徴や癖をあげつらい「あいつはいじめられるに値する人間だ」というPR活動を周囲に対して行います。自分が巻き込まれることを恐れる周囲はターゲットから距離をとるようになります。その結果ターゲットは孤立し、徐々に「自分はいじめられても仕方がない存在」と思い始めてしまいます。

    次の段階が無力化です。これはターゲットーむしろこの段階では被害者というのが相応しい呼称でしょうーに「反撃しても無駄」であることを教え込むプロセスです。暴力を含む様々な攻撃によって誰も味方になってくれる人間はいないと被害者に自覚させ無抵抗化し飼いならしていきます。親や教師などの大人に訴えることも厳に禁じられるため、やがて被害者は抵抗する気力も失っていきます。

    最後の段階が透明化です。孤立化と無力化の二段階のプロセスによって周囲との関係性は途切れ、被害者は抵抗も脱出も無理という価値観を深く内面化するに至ります。そのため加害者との結びつきが唯一現実的な関係となり、その関係性が拠り所にさえなっています。この段階では被害者は加害者と仲が良いようなアピールをしてみせたり、大人がいじめられているのではないかと尋ねてもそれを激しく否定してきたりします。このようなストックホルム症候群に近い状態に陥るのが透明化のプロセスです。この段階まで至ってしまうと周囲からはいじめの構造が見えにくくなってしまいます。

    孤立化、無力化、透明化の三段階の後に、被害者は加害者から繰り返し無理難題を突き付けられるようになり、そこでいよいよ行き詰ると最悪の決断を下すに至ってしまいます。

    だから透明化に至る前の、孤立化と無力化の段階で周囲の大人はいじめに気が付く必要があります。

    しかし中井先生は著書の中でその難しさを以下のように記述しています。

    「被害者は、いじめがひどくなっていく全ての段階で『これを見て何とか気づいてくれ』というサインをまわりに、特に先生や親に出し続けています。しかし、このサインが受け取られる確率は、太平洋の真ん中の漂流者の信号がキャッチされるよりも高いとは思えません。」

    それほどまでに分かりにくいいじめのサインをキャッチするための指標として中井先生は、「立場の入れ替えの有無」を挙げています。

    鬼ごっこに例えるならば、A君が鬼になったり、B君が鬼になったり、C君が鬼になったりしていれば、それは立場の入れ替えがあるのですから、いじめではなく子ども同士の遊びです。しかし、いつもいつもC君ばかりが鬼をやらされていればそれは立場の入れ替えが生じていないため、いじめの可能性があるということです。

    このような指標を手掛かりにしていじめに気づいた大人がまず為すべきは子どもの安全確保です。

    いじめ被害にあった子どもは大人に対しても不信感を抱いています。だからまずはその不信感を払しょくし、被害者の子どもの側に立ち、いじめは犯罪であり、あなたはその被害者なのだと伝え、その子が抱え込んだ罪悪感や劣等感を軽くしてあげることです。

    いじめ加害者の中には、家庭内で暴力を振るわれたり、発言権を奪われたり、家族のいがみ合いに晒されていたりというケースが少なくないそうです。そんな家庭内で溜め込んだ自己無力感を、誰かを自分よりも無力な立場に貶めることによって解消しようとするのがいじめという行為。しかしそこにどんな背景があろうとも許されるものではありません。

    いじめは学校内で行われていると何故か「いじめ」と名付けられますが、その多くを学校外で同じように行えば「犯罪」です。だから悪いのは犯罪者の方であり、被害者のあなたではないと何度も何度も子どもに伝え続けてあげて下さい。

    中井先生は戦時中、小学生だった時に疎開先でひどいいじめの被害を受けています。それから時が経ち神戸大学で教授を務めている時に阪神淡路大震災を経験します。

    被災者の支援について学ぶために、ジュディス・ルイス・ハーマン著の「心的外傷と回復」の翻訳に取り組んでいた時のこと。翻訳過程で心に傷を負った後に起きる様々な症状を学んでいた際に、ご自身の中にかつてのいじめられ体験がふつふつと蘇ってきたのだそうです。

    「その体験は当時62歳だったわたくしの中でほとんど風化していませんでした。」

    いじめというのはこれほど長い期間、その被害者の人生に影響を与え続けてしまう行為なのです。だから起こしてはいけないし、もし起きてしまったら周囲の大人は出来るだけ早く気づいてあげなければいけません。

    中井先生は本書の最後にこのように記しています。

    「わたくしのように初老期までいじめの影響に苦しむ人間をこれ以上つくらないよう、各方面の努力を祈ります。」

    ある指標をもっている人間には認識できるが、それを持たない人間には認識できない現象というものがあります。本書に触れて、その指標を得ることで、私たち大人はいじめの芽にいち早く気が付けるようになるのだと思います。ぜひ手に取ってご一読下さい。

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      ワーキングメモリーとその鍛え方

      人間の認知機能の一つにワーキングメモリー(以下WMと表記)があります。

      WMとは脳内にインプットされた情報を短期間保持し、それらに何らかの操作を加え新しい情報として出力する能力のことです。この機能はコンピューターのCPU(中央演算処理装置)に例えられます。

      例えば誰かが「8+14-7の答えは?」と読み上げたとき、脳内に8、14、7という情報を保持し、8と14の和22を求め、そこから7を引き15という数字を出力する。これがWMの機能です。

      学習に困難を抱えたお子さんはこのWMが弱い場合が多いです。音声情報や視覚情報を脳内に一旦保持してそれを処理することが苦手なため学習に困難を抱えることになるのです。

      またWMは学力だけではなく、社会的スキルとも関連しています。例えば人と話している時、目の前の人の発する音声情報だけでWMが一杯になってしまうと、その人の声のトーンや表情まで読み取る余裕が無くなり、その状況に相応しくない返答をしてしまうという事が起こるのです。

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      このようにWMは学力や社会的スキルなど人が生きる上で重要な要素と深く関連した認知機能なのです。

      それではお子さんのWMが弱い場合はどうすればよいのかと不安になる親御さんも多いかと思いますがどうぞご安心ください。WMを鍛える方法があります。

      その方法のいくつかをご紹介致します。

      ・紙に12+4-9などの計算を書いてお子さんに数秒間提示した後、その紙を隠して暗算させる

      ・24586などの数字を読み上げた後、読み上げた順序とは反対に復唱させる

      ・親御さんが短い物語を創作して聞かせ、その話の内容を要約させる

      ・算数の文章問題を読み上げて、その計算結果を暗算させる

      こんな練習を行うことでお子さんのWMをご家庭で鍛えることができます。

      学力にもソーシャルスキルにも深く関わるWM。たとえそれが現状で弱かったとしてもご家庭で鍛えることが可能です。是非ご紹介した方法を試してみて下さい。

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        不死身の特攻兵 〜何故人は学ばなければならないか〜

        先日、仕事が早く終わった夜に、お盆に録りためていたNHKスペシャルを見ました。

        番組が扱っていた内容は第二次世界大戦です。

        録りためていたものの一つに、特攻隊を扱った番組がありました。

        特攻とは何だったのか?

        何故あのようなことをしなければならなかったのか?

        自分でもはっきりと理由が分かりませんが、私は特攻というものを知りたいし、知らなければいけないという気持ちを持っています。

        それはもしかしたら、無謀な作戦を強いられて死ななければならなかった若者たちの声に耳を傾けたい、という願望なのかもしれません。

        番組を機に手に取ったのが、劇作家の鴻上尚史さんが書かれたこの一冊です。

        「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」

        特攻作戦を9度命じられて、9度とも生きて帰ってきた特攻兵がいました。

        鴻上さんはその特攻兵、佐々木友次さんの話を耳にして、どうしても会ってみたいと強く望むようになります。

        なぜ、今とは比べ物にならないほどに同調圧力の強い時代背景の中、

        しかも軍隊という上位者に絶対服従の組織において、上官の決死の命令に抗って生きて帰ろうと思ったのか。

        その興味が鴻上さんを突き動かし、実際に佐々木さんの住む北海道に赴き、5度インタビューをしています。

        本書はそのインタビューの内容に加え、様々な先行資料に基づいた、美化されていない特攻の現実が描かれています。

        私がこの本を読んでいる間、終始感じ続けていたのは日本人の非論理性です。

        論理的に破綻すると精神主義に逃げ込む悪癖、と言い換えてもいいかもしれません。

        飛行機というものは空を飛ぶのですから、当然構造的に軽くなければいけません。

        故に多くの戦闘機はアルミなどの柔らかい軽金属で出来ています。

        片や、特攻機が突撃する空母は堅固な鋼鉄で出来ています。

        特攻作戦が現実味を帯び始めたとき、多くのベテランパイロットたちはそれを、

        「コンクリートの壁に生卵をぶつけるようなもの。卵は粉々になるが、コンクリートは汚れるだけ。」

        つまり戦果は期待できない、非論理的である、と主張しました。

        その主張に対して陸軍の航空技術研究所は、論理的に反論できないと見るや、

        「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と反論にもならない反論で返します。

        そしてこの非論理性は、軍内の一部組織だけの性向ではありませんでした。

        戦犯として処刑された東条英機首相は、帝国議会で以下のように発言しています。

        「申す迄もなく、戦争は、畢竟、意志と意志との闘いであります。

        最後の勝利は、あくまでも、最後の勝利を固く信じて、闘志を維持したものに帰するのであります。」

        軍の飛行学校を訪れ、学生にどうやって敵機を撃ち落とすかと質問した際には、

        学生が「高射砲でこのように打って、、、」と説明し始めるとそれを遮り、

        「違う。精神で落とすのだ。」と答えたそうです。

        また東條首相はたびたび、

        「負けたと思った時が負けなのだ。負けだと思わなければ負けない。」

        という言葉を繰り返し使っていたそうです。

        重ねて言えば、この非論理性は軍部などの指導層に限られたものではありませんでした。

        その性質は国民にも広く共有されていました。

        本書の中で先日亡くなった歴史研究家の半藤一利さんの著書、「そして、メディアは日本を戦争に導いた」の記述が引用されています。

        それによれば、第二次世界大戦から遡って、日露戦争開戦前、戦争に対するメディアの論調は、

        「帝政ロシア断固撃つべし」と「戦争を避けて外交交渉を」に二分していました。

        この二つの論調に対する国民の対し方は、正反対のものとなりました。

        戦争反対を唱える新聞は大きく部数を下げた一方で、戦争賛成派の新聞の部数はどんどん伸びていったのです。

        この体験からメディアは戦争翼賛は儲かることを学び、それ以降戦争に協力的な傾向を強めていくことになります。

        商売のために伝えるべきを伝える責任を放棄したメディアの態度は言うまでもなく論外ですが、

        私がここでより問題視したいのは、現実的に考えれば、まともに戦って敵うはずもないロシアという強国に対して、

        「外交交渉を以って臨むべし」という至極まっとうな主張を展開したメディアに強い忌避反応を示した、国民の態度です。

        これは、見たくないものでも目を逸らさず直視し論理的に考える、という態度で事に臨むのではなく、

        情緒的に自分を満足させてくれるようなものを無批判に妄信してしまう非論理性を表している、と私は考えます。

        こういうことを書くと、日露戦争で日本はロシアに勝ったじゃないかという反論があるかもしれませんが、

        日露戦争で日本はロシアに勝ったわけではなく、負けなかっただけです。

        それが証拠に、ロシアは戦後日本に賠償金を支払ってはいません。

        戦争中に第一次ロシア革命が起きていなければ、短期戦の後にアメリカが講和のテーブルを用意してくれなければ、

        日本がロシアに負けることがなかったかどうかは大いに疑問です。

        だから「帝政ロシア断固撃つべし」などというのは非論理的で無責任な妄言だと私は考えるのです。

        前途有望な若者たちを特攻に追いやったものとは何だったのでしょうか?

        近視眼的に見れば、それは航空技術研究所や東條英機首相のような、非論理的な指導層だったのかもしれません。

        しかしもっと包括的に考えれば、見たいものだけを選好し、論理的に考える事を忌避した日本人の国民性が、

        特攻などという非論理的で、残酷な作戦を実現せしめた一番の原因なのだと私は考えています。

        本書を読んでいて私は沈鬱さの中に一つの希望を見つけました。

        それは以下の記述(「つらい真実 虚構の特攻隊神話」より引用された箇所)です。

        「体当たり特攻への志願・自発性の度合いは、当然にもその有効性を信じる度合いと並行した。

        種別的に見れば、回天特攻(一人乗りの人間魚雷)のそれが最後まで最も高く、ついで海軍特攻機、陸軍特攻機の順となる。

        時期的には、特攻開始の初期ほど高く、後ほど低くなる。

        また実戦経験や技術練度の高い者や高学歴者ほど批判的であり、年齢も学歴も低いものほど、積極的であった。」

        本書の別の個所では、生きて帰った特攻兵を隔離再教育する施設「振武寮」で教官を務めていた少佐の、少年飛行兵に対する言葉も紹介されています。

        「12,3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。

        あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、その代わり小遣いをやって、

        うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、

        自然とそういう人間になっちゃうんですよ。」

        教養のない少年兵は洗脳するに容易く、経験や学歴のある人間は特攻作戦に対して批判的であった。

        私が希望を感じたのはこの点です。

        学問や経験を通じて学んだ人間は懐疑することができますが、

        逆に教養や経験を持たない人間は容易く人の言いなりになってしまう。

        先ほど引用した記述はこのことを示しています。

        ここから「なぜ人は学ばなければならないのか?」という表題の問いに対する答えが導き出されます。

        それは「懐疑するため」です。

        人が学ぶ理由は様々あっていいと思います。

        その中には、社会的に上昇したいから、という功利的な理由があってももちろん良いわけですが、

        「懐疑出来る人間になるため」というのは、

        間違いなく人が学ばなければならない理由のうちで、欠くことの出来ないものの一つです。

        9度特攻に出撃し、9度生きて帰ってきた佐々木友次さんの話に戻ります。

        鴻上さんのインタビューの中で、なぜ生きて帰って来られたのかについて様々な理由を話されていますが、

        その中の一つに上官の言葉がありました。

        佐々木さんが所属した特攻隊の岩本隊長は、当時陸軍のエースパイロットとして数々の爆撃を成功させていた人物でした。

        その岩本隊長が、出撃前の作戦会議にて以下のように佐々木さんたち下士官に命じます。

        「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで撃沈できる公算は少ないのだ。

        (中略)

        これぞという目標を捉えるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それは命を大切に使うことだ。

        決して無駄な死に方をしてはいかんぞ。

        (中略)

        出撃しても爆弾を命中させて帰ってこい。」

        明らかに上層部の命令に違反するこの隊長の言葉が、出撃のたびに佐々木さんの脳裏を過り、

        それがこの無謀な作戦に対する懐疑に変わり、

        体当たりではなく爆撃して生還する、という行動に駆り立てた一因であったと佐々木さんは語っています。

        「論理的に考え懐疑することの大切さ」、そして「懐疑するために学びが必要であること」、

        今までも一緒に学ぶ子どもたちに伝えてきたことですが、本書を読んでこれからもそのことを伝えていかねば、という思いを一層強くしました。

        特攻に対して批判的な発言をすることは死者に対する冒涜である、という考え方もあるかもしれません。

        私はそうは思いません。

        慰霊というのは、先人の行いを無批判に賛美することだけをいうのではないはずです。

        そこに改善すべきを見出し、次の世代に知恵として伝えること、繋いでいくことも私は慰霊であると考えます。

        何故学ばなければならないか?

        それは懐疑できる人間になるため。

        一緒に学ぶ子どもたちにこれからも伝えていこうと思います。

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          複眼的思考 ~事実を事実として認識するために~

          外を歩いていると、あちこちで花が咲き出して、日本海側特有の灰色の冬から、色彩の春へと季節が変わりつつあることを実感します。

          桜の蕾も膨らんできて、開花の日がもう間近といった感じです。

          新年度早々ですが。ありがたいことに家庭教師の枠がすべて埋まったため、一旦新規生徒さんの募集を止めさせて頂きました。

          お子さんの不登校、引きこもりに関するご相談は受け付けておりますので、お気軽にお問い合わせください。

           

          10代後半から20代前半にかけて、私は今にも増して思慮の浅い人間でしたので、

          数学や理科の知識を身につけさえすれば、人間の何たるか、世界の何たるか、を理解できると思い、理学部に進学し学んできました。

          あの時のあの選択があったから、今の自分でいられる訳で、だからそのことを全く後悔はしておりませんが、

          理科や数学ばかりを学んだところで(学び足りないからということもありますが)、私の目には世界は依然謎だらけにしか見えませんでした。

          私は昨年40歳になりました。

          まだまだ学び足りない人間ではありますが、10代後半から20代前半のあの頃から見れば、

          少しは人間が、世の中が分かる様になったと、自分本位の痛々しい勘違いという可能性も加味しつつ、そのように思っております。

          それでは若かりし私に足りなかったものとは何でしょうか?

          私はもう一つの視点だと考えます。

           

          中一の数学で習う立体図形に三角錐というものがあります。

          パーティーの時に使うクラッカーを逆さまにしたような、底面が円形で先端が尖った立体図形です。

          三角錐は、真上から見たら円、真横から見たら三角形に見えます。

          どちらの見え方も事実ですが、どちらも事実の一部でしかありません。

          三角錐を円や三角形としてではなく、三角錐として観察するためには、真上からの視点と、真横からの視点の両方が必要になります。

          真上からの視点、真横からの視点、この二つがあって初めて事実を事実のままに認識できる、ということです。

           

          つまり10代後半から20代前半の私は、三角錐を真上からのみ眺めて、それで世界を、人を理解しようとしていた、ということです。

          理科や数学の取り扱う領域は理論です。

          しかし人間は、そしてその人間が作り出した世界は、いつも論理的に振る舞うわけではありません。

          例えば、コロナ禍で在庫は十分にあるとアナウンスされても、トイレットペーパーやレトルト食品を買い溜めたり、

          そんなことをすれば数年から十数年身体の自由を失い、他者の生存権を奪うことになると知りながら、殺人を犯すに至ったり、

          法に抵触することを知りながら、自分の知り合いや身内に便宜を図ってしまったり、

          人間というのは、必ずしも論理的ではなく、むしろ情緒的な生き物であると言っていいと思います。

          私に足りなかったものは、情緒という視点でした。

          人間や社会を理論の観点からしか眺めていなかったから、三角錐を円と思い込み、

          「分からない、分からない」と呻いていたのが、若い頃の私であったように思います。

          私に人間の情緒的な側面を理解させてくれたのは、文学であり、人間心理であり、歴史であり、音楽であり、映画であり、人との対話でした。

          このような経験を経て、私の中に情緒的な視点が生まれたため、以前よりは人を社会を少しは理解出来る様になったのだと思います。

          だからと言って私は、理論を否定し情緒を手放しで賛美するつもりもありません。

          何故ならば、過度に情緒的でベタベタとへばり付くような人間関係が災厄を引き起こすということも、日常生活には少なくないからです。

          情緒的な視点のみでは、また人を世界を見誤ることになります。

          大切なのは理論と情緒のバランスであり、二つの視点を持ち続けるということです。


          長くなりましたので、次回に続きます。

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            「私はそういう人間ではありません」 ~補集合による自己理解~

             

            私は仕事柄、高校生から進路の相談を受けることがとても多いです。

            高校生というのは発達心理学の用語で言えば青年期という時期に当たります。

            発達心理学では、各年代に達成するべき心理的課題というものがあるのですが、青年期の課題は自我の確立です。

            自我の確立。

            難しい言葉ですが平たく言えば、自分はこういう人間です、と言える自己像を確立することです。

            青年期は、親や周りの大人の価値観から脱し、自分なりの価値観を形作る時期です。

            かつては所属する共同体において従うべき価値観が共有されていたため、ある年齢に達した人間はこう生きるべきという明確な指針が存在しました。

            だから自分は一体何者なのかなどと言う問い自体が発生することはありませんでした。

            しかし、そのような共同体が解体し、社会的に共有された生き方の指針は姿を消しました。

            加えてグローバル化が進みこれだけ社会の価値観が多様化した時代に、自分とはこういう人間である、と言い切れる自己像をを確立することは、そう容易い仕事ではありません。

            かく言う私もかつて、大学院に進学したものの、本当に自分はこの生き方でいいのかと迷い悩み、うつ病を患った経験があります。

            悩みの真っただ中にあるときは、なぜ自分だけがこのように苦しい思いをしなければならないのか、と思っていましたが、

            後に様々な人の話を聴いたり、本を読んだりすると、この「自分で自分が分からない」という症状は、決して私に固有の悩みではなかったことが分かりました。

            例えば、夏目漱石は三十代の頃文学の研究でロンドンに滞在しているときに、神経衰弱になって下宿に引きこもっていた時期がありました。

            また哲学者の竹田青嗣先生も若かりし頃、精神的に不安定な時期を経験され、それが自身と哲学とをつなぐきっかけとなったとご自身の著書の中で記しておりました。

            名だたる先賢の経験と、平凡な私の実体験を併記することは大変おこがましいことではありますが、

            つまりは青年期の自我の確立というのは、誰にとっても大仕事なのだということです。

            自分は一体何者なのかを知るには、一つには自分の過去の経験や指向性を省みて、自分の中にどのような才能があるのかを考える、という方法があると思います。

            自分という人間の内面を掘り起こすことによる自己理解も確かに一つの手段であると思います。

            しかし、それは基本的に自分という人間の枠組みの中でのみ行われることなので、結局自分本位の的外れの結論に陥ることも多々あり得ます。

            もしその方法で行き詰まりを感じているのであれば、もう一つの自己理解の方法を試してみるのも一手と思います。

             

            ここで話は一端数学に飛びます。

            数学の集合論で、全体集合、部分集合、補集合という言葉が出てきます。

            図示すれば以下のようなものです。

            img_4280

            Uが全体集合、Aがある共通項を有する要素が集まった部分集合、そしてその集合Aの外側を、集合Aの補集合と言います。

            例えば全体集合が動物であり、その中に猫の部分集合があるならば、その外側の補集合は猫以外の動物ということになります。

            この集合の概念を使ってもう一つの自己理解の方法を考えてみたいと思います。

            世界という全体集合の中に、私という部分集合があり、その外側には自分以外という補集合が広がっているとします。

            先ほど述べた自分の内面を掘り起こすという自己理解の仕方は集合論で言えば、

            自分の中に一体どのような要素が存在するのかを明確にすることで、世界の中の自分という人間の輪郭を明確にするというものです。

            これも確かに一つの自己理解の方法です。

            しかしそれは先ほど述べたように、自己完結型のプロセスになりがちなため、自分本位の的外れは結論に至ってしまうリスクがあります。

            私の考えるもう一つの自己理解の仕方とは、自分は何者ではないかを知ることを通して自分が何者かを迂回的に知るという方法です。

            集合論に引き寄せて言うならば、自分という集合の外側の補集合の要素を明確にすることによって、自分という集合の輪郭が事後的に浮き彫りになるという形の自己理解です。

            他者と自分とを比較し、他者の中にはあり自分の中にはない要素を把握することで、自分が何者でないかを理解し、その結果自分が一体何者であるかが迂回的に分かる、というわけです。

            社会心理学者で40年以上にわたりラジオで悩み相談を受けてきた加藤諦三先生は、著書の中で、悩んでいる人には共通点があると記しています。

            それは「私はそういう人間ではありません」という一言が言えないということだそうです。

            自分が一体どのような人間でないかが分からないから、自分がどういう人間かも分からず、悩み続けることになるというわけです。

            だから自分が何者ではないかを理解することは、自分が何者であるかを理解し心穏やかにその人らしく生きるためにはとても大切なことなのです。

            この自己理解の方法は、先ほどの自分の内面を掘り起こすという自己理解の方法とは異なり、

            他者という自分の外側にある対象を介在させることで自分という人間を客観視できるため、

            希望的観測を挟まないより正確な自己理解に達することができるという利点があります。

            自分が認識している世界は決してありのままの世界を映しとったものではありません。

            私自身を含め、人は世界を自分の見たいように見るものです。

            だから自己完結した自己理解の方法は多くの場合、その正確性を損なう可能性が高いと言えます。

            誰も世界をありのままには認識できないという前提のもと、より正確に世界を認識する方法があるとするならば、

            それは他者という客観を介在したものである必要があります。

             

            高校生は、進学か就職か、進学するなら専門学校か大学か、就職するならどのような仕事か、自我の確立がまだ未完了なまま、大切な選択を迫られる時期です。

            これだけ価値観が多様化し、今までの価値観がそのまま通用しなくなってしまった時代、大人でさえどのように生きるべきか悩んでいる人がたくさんいます。

            そんな時代に生きる若者の人生の指針を見つける手助けをする、というのは我々大人の大切な仕事の一つであると私は考えます。

            だから仕事を通じて、彼らと一緒にいかに生きるべきかを考えていこうと思っています。

            もし、お子さんがそのような選択で悩まれているならば、一度「自分は一体何者なのか?」という問いを離れ「自分は一体何者ではないのか?」という問いかけをしてみる事をお勧めします。

            不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問合せはこちらからどうぞ

             

             

             

             

             

             

             

             

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              環境問題と不登校 〜無限の価値増殖ゲームが壊したもの〜

              こちらは、マルクスの資本論を経済学者でマルクス研究家の斎藤幸平さんが解説した一冊です。

              何やら書き込まれているマジック書きは決してマルクスのサインではありません。

              気を付けていたのにとうとう我が家のまるくちゅ君にやられてしまいました。

              一読して今二回目を読んでいるところなのですが、自分の気づきをまとめるためにアウトプットしてみようと思います。

              私はことある毎に、不登校は個々のご家庭の問題ではなく、社会の構造が生み出す問題であると言ってきました。

              理由は至極簡単です。

              もし個々のご家庭の問題であるならば、なぜ同時多発的に日本国内で十数万人の子どもたちが学校に行くことを拒否するのでしょうか?

              十数万人子どもの親御さんが一斉に育て方を間違えたからでしょうか?

              そんなはずはありません。

              だから不登校とは、個々のご家庭の問題ではなく社会の構造が生み出す問題なのです。

              それではここで言う社会の構造とは何でしょうか?

              私は環境問題を解決したいと思い大学と院で環境問題の研究をしてきました。

              そして今、紆余曲折を経て不登校という社会問題に微力ながら取り組んでおります。

              取り組んでみて分かったことは、環境問題も不登校も根は同じだということです。

              環境問題と不登校に共通する「根」とは、何でしょうか?

              私は資本主義であると考えます。

              資本主義とは、お金からモノやサービスを生み出し、そのモノやサービスを売買することで、元手のお金を増やしていく、無限に続く価値増殖ゲームです。

              地球が蔵する資源が仮に無限大であったとするならば、この価値増殖ゲームはこれから先も永久に続いてくことでしょう。

              しかし、この地球上に存在するものは、石油も金もダイヤもレアメタルも人の命も、一見無限に見える水や空気でさえ、ありとあらゆるものが有限です。

              無限に続く価値増殖ゲームをありとあらゆるものが有限である球体の上で展開する、この根源的な矛盾がいたるところに軋みとして現れています。

              その軋みとは、森林破壊や大気汚染のような環境破壊であり、うつや依存症や過労死などのメンタルの問題であり、高齢者や子どもの虐待であり、コミュニティの崩壊であり、途上国の児童労働であり、戦争であり、テロリズムであり、ウイルス禍です。

              そして私は不登校もその軋みの一つであると考えています。

              魚が水の中で泳いでいることに無自覚であるように、私達は皆どのような価値観を血肉化して日々生活しているかに対して無自覚です。

              現代の日本に生きる私たちは、「成長」という言葉に何の疑問も挟まず、良きものという判断を下す傾向にありますが、それは果たして本当でしょうか?

              「成長」を無批判に是とできたのは、地球は無限に広いという無邪気な前提条件を私たちが信じていられたからです。

              確かに地球はかつて無限に広かったかもしれませんが、人口が77億にまで膨れ上がった今、その前提条件はもうすでに破綻しています。

              前述の通り、私達は成長を良きものとする価値観を深く内面化して生きていて、しかもそのことに対して無自覚です。

              その価値観はどこに由来するかと言えば、無限の価値増殖を志向する資本主義という金儲けゲームです。

              私達は、この価値増殖ゲームに好むと好まざるに関わらず巻き込まれていて、その価値観があまりに内面深く食い込んでいるが故に、それ以外の価値観があることさえ忘れてしまっているのではないでしょうか?

              資本主義が蔓延する以前の社会は定常経済でした。成長など志向していませんでした。

              本書の中でも紹介されていますが、世界のGDPは18世紀半ばまではほぼ横ばいで推移していたのです。

              それが産業革命以降急激に上昇し、GDPの推移を表すグラフの傾きは今やほぼ無限大になっています。

              ほぼ定常であった経済活動が産業革命以降急激に拡大し、有限な地球の上で、無限増殖を志向する金儲けゲームが展開されている。

              この矛盾が先ほど列挙したような様々な問題を引き起こしています。

              その矛盾に抗うためにまず必要なこと。

              それは、今私たちが無自覚に取り込まれているゲームがどのようなルールで運用され、どのような矛盾を孕んでいるかに自覚的になることです。

              自分がどのようなゲームに知らない間に参加させられていて、それによって何を失ってきたかが分かれば、その無理筋のゲームから一定程度距離を取ることが出来るはずです。

              マルクスは、資本主義が社会が蔵するあらゆる富を、お金で買わなければ手に入れられない商品に変えてしまうことを、

              分業によって労働者を無力化し労働の内容から疎外してしまうことを、

              コミュニティが崩壊し人間が何ともつながりを持たない砂粒と化してしまうことを、今から150年も前に予見していました。

              本書を読んでいてその先見性に驚くばかりです。

              有限な世界で展開される無限増殖ゲームから距離を置くためには、まずそのゲームの仕組みを知ることです。

              無限増殖ゲームに世界が食い破られてしまう前に、別の生き方を探し出さなければいけない。

              その第一歩として本書はぜひ手に取って頂きたい一冊です。

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                2021年 新年のご挨拶

                明けましておめでとうございます。

                旧年中は皆様に大変お世話になりました。

                新潟県新発田市はだいぶ雪が積もり、雪かきからスタートの新年となりました。

                年末は授業授業でバタバタと過ぎ去っていきましたが、今日は朝から子どもを膝に抱っこして一緒に童謡を歌ったり、雪遊びしたり、束の間のんびりと過ごせております。

                自分の脳内整理の意味も込めて2020年を振り返ってみたいと思います。

                2020の一番の気づきは、決して真新しいものではなく、改めてという感じなのですが、

                子どもにとって一番強い影響を与える環境は家庭である、ということです。

                つまり、動けなくなったお子さん、理不尽な振る舞いをしているお子さんに対して、

                親御さんの価値観が変わると状況は好転するケースが多い、ということです。

                この場合の状況の好転とは、必ずしも学校に行き始めるという事ばかりではなく、

                お子さんが穏やかさを取り戻し、アルバイトを始めたり、家庭での学習を再開したりということも含みます。

                不登校や引きこもりで悩まれているご家庭に私が出来ることは、

                一、親御さんとの対話
                二、生活習慣に対する提言
                三、学習の支援

                の三つですが、この中で一番根本的で効果の高い関わりが、一番の親御さんとの対話です。

                様々な制限があって一番の関わり方が不十分なまま、二、三だけを行なっていても、その効果は限定的な場合が多いですが、

                逆に親御さんとの対話を通じて、何かを感じて頂けて、親御さんの価値観が変化することで、二、三が勝手に後からついてくるというケースは多々あります。

                親御さんとの対話の中で私がお伝えしたい価値観は、何かが出来るとか出来ないとかは、あくまでも表面的な価値観であり、

                何が出来ても出来なくても、その人の価値は変わらない、ということです。

                つまり、人の価値はその機能にではなくその存在にある、ということです。

                不登校や引きこもりになるお子さんでよく見かけるケースは、成績優秀で頑張り続けてきたけれど、その頑張りが限界に達して動けなくなる、というものです。

                その子は今まで、人の果たす機能によってその価値を評価する、という世に蔓延する皮相な価値観の中で、必死に頑張り続けてきたのかも知れません。

                そんな子たちに必要なのは、不安を煽りさらなる頑張りを強要することではありません。

                確かに不安感は人を動かしますが、動かし続けることは出来ません

                一時は頑張りが効いたとしても、早晩また動けなくなってしまう場合が多いです。

                社会を覆う表面的な価値観に自身を適応させるために頑張り続けてきた子どもたちに必要なのは、そのような不安を煽る対応ではなく

                何が出来ても出来なくても、自分の価値は変わらないし、自分がそこにいることを喜んでくれる誰かがいるのだ、という安心感です。

                その視点から自分を見つめてくれる誰かが、その子にとっての帰る場所、居場所になります。

                そして帰る場所、居場所のある子どもは、不安に負けず未知の世界に一歩踏み出していけるようになります。

                だから、動けなくなった子どもたちにまず必要なのは、何かあったら帰れる場所、安心して休める居場所です。

                そして、親御さんに、その帰る場所、居場所の役割を担って頂けるよう対話を重ねていく必要があると私は考えています。

                何が出来ても出来なくても、その子の価値は何も変わらない。

                今年もこの価値観の基、仕事を通じて、果たし得る機能によって子どもを評価するような浅薄な価値観に抗っていこうと考えております。

                今年もどうぞ宜しくお願い致します。

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                  停滞期を乗り越えるために ~意味を見出すことの意味~

                  昨日所用で、外を歩いていると、蝉の声に勢いがなくなっているように感じました。

                  確かにもうお盆ですものね。

                  夜になるとあちこちから秋の虫の鳴き声も聞こえてくるようになりました。

                  学生時代はこの時期になると、終わっていない宿題をどうしようと、焦燥感に駆られていたものです。

                  24時間テレビを見ては、世の中には頑張っている人もたくさんいるのだから俺も頑張ろうと自分を鼓舞してみたりしましたが、

                  結局それも長続きせず、宿題が全部終わらぬまま新学期を迎えてしまう、というのが私の夏休みのいつものパターンでした。

                  その話を一緒に勉強している子たちにすると、「それでよく卒業できましたね!」と驚かれます。

                  私が学生だった頃は、色んなことが良くも悪くも今より緩い時代だったように思います。

                  今の子たちは、私達の頃に比べ要求されるものが多くなり、大変だなぁと感じることが多いです。

                  みんな本当に頑張っています。

                   

                  昨日のブログでは、人の成長は一次関数のように直線的に実現するのではなく、

                  階段を上るように、停滞期が続いた後、ある日突然ブレイクスルーが訪れるという形で実現する、という内容を綴りました。

                  人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

                  多くの人は、人間は一次関数的に何かに取り組んだら取り組んだだけ成長すると勘違いしていて、

                  取り組んでも取り組んでも何の成果も感じられない時期がしばらく続くと、その取り組みをやめてしまい、

                  自分は結局このような人間である、成長できない人間である、という諦念を抱いてしまいます。

                  そのような成長に対する勘違いが、人の成長を拒んでいるように私は感じています。

                  停滞期に自分自身を見限ってしまう、そのような状態に陥らないために、大切なことは三つあります。

                  1、人の成長は一次関数ではなく、階段状に果されることを知ること

                  2、取り組むものにやりがいを見出すこと

                  3、微細な変化に対するフィードバックをしてもらうこと

                  昨日は1について綴りました。

                  今日は2について。

                   

                  人は意味のないことを延々とやり続けられるものではありません。

                  自分のやっていることに意味を見出せるからこそ、それを続けることができるのです。

                  自分のやっていることに意味を見出せれば、成長を実感できない停滞期が続いたとしても、

                  それをやり続け、最後には成長を感じられるようになるわけです。

                  そして何か一つのことで成長を感じられれば、人の成長は停滞期とブレイクスルーを繰り返すという形をとることが実体験として分かり、

                  他のことでも、停滞期に心折れることなく取り組み続け、成果を得られるようになるのです。

                  だからその人がやっていることの意味を周りの人間が明確化してあげるというのは非常に大切なことです。

                  子どもの学習に関してもそれは当てはまります。

                  多くの子どもは学習する意味など考えたこともなく、周りの大人からやれやれと言われるがままに学習に取り組んでいて、

                  一体自分は何のためにこんなことをしなければならないのかと、疑問を持っている子はたくさんいます。

                  しかし、大人がその意味を明確にしてあげれば、彼らの学びに対する姿勢も変わってきます。

                   

                  学習することの意味、これはいくつもいくつもあると思いますが、一つの例として、「人は知っている範囲内でしか考えられない」という話をしたいと思います。

                  例えば雷という自然現象があります。

                  あの現象の原理は中学で習う電磁気と気象の知識があれば理解できます。

                  急速に発達する積乱雲の中で上昇気流に煽られた氷の粒がぶつかり合うことで雲が静電気を溜め込み、

                  雲と地上との間の電圧差がある一定値を超えたときに空気中で起こる放電現象、それが雷という自然現象です。

                  これも中学の歴史で習うことですが、17世紀に俵屋宗達によって描かれた風神雷神図屏風を見ると、昔の人たちが雷という自然現象をどのように理解していたかが良くわかります。

                  雲の上に太鼓を持った雷様が住んでいて、それが大暴れするときに雷という自然現象が起こる、というのがその時代の人たちの雷の理解の仕方です。

                  科学技術が進歩し、人間の知っている範囲が広がったからこそ、現代人はその原理をより合理的に考えられるようになったわけです。

                  これは「人は知っている範囲内でしか考えられない」ことの好個の例です。

                   

                  私の実体験も一つ。

                  高校生の子たちと一緒に学習していると、「もう勉強やだ!学校辞めたい!」などという言葉が飛び出してくることがあります。

                  テスト勉強に追われ頭が一杯になっているからこそ、そんな言葉が飛び出してくるのかもしれません。

                  その気持ちはとても良くわかるのですが、その言葉を受けて私が、

                  「高校は義務教育じゃないから辞めようと思えば辞められるよ。でも辞めてどうするの?」

                  などとちょっと意地悪いことを聞くと、彼らの多くは言葉が出なくなります。

                  なぜどうしていいか分からないのでしょうか?

                  これもやはり「人は知っている範囲内でしか考えられない」からです。

                  まだあまりものを知らないからこそ、そのあとの選択肢を考えられなくなるのです。

                  知れば知るほど、様々な選択肢を考えられるようになり、自分が生きたいように生きられる可能性も高まっていくのです。

                  だからこそ人は学ぶ必要があるのです。

                   

                  私が学生だった20年ほど前までは、偏差値の高い大学に入って、大企業に就職して、結婚し、ローンを組んで家を建て、定年までその企業の一員として働くという、

                  社会に広く共有された目指すべき一つの生き方がありました。

                  しかし、今その生き方はもう成り立たない時代になっています。

                  そうであるならば、勉強して大学に入ったって意味がないのではないか?

                  そういう意見も一緒に学んでいる子どもたちから聞かれますが、私はむしろ逆だと思います。

                  社会が生き方の指針を失った時代だからこそ、自分で考えて生きていける人になるために、学ばなければならない。

                  私はそのように考えています。

                  なぜなら、人は知っている範囲内でしか考えることが出来ないからです。

                   

                  私が考える学ばなければならない理由、説明の仕方はいくつもあるのですが、上に書いたことがその一つです。

                  このように、学ぶ意味、そして自分が置かれた時代背景を理解できれば、子どもの学ぶことに対する意識は相当変わってきます。

                  だからその子の周りにいる大人が、その子より一段高い視点から学ぶことの意味を明確化してあげることは非常に重要です。

                  そしてその意味を実感出来れば、成長のための停滞期を乗り越え、ブレイクスルーを経験できるのです。

                  そしてそのことが一つの成功体験としてその人の中に記憶され、さらに学びたいという意欲を掻き立てることになるのです。

                   

                  今日も長くなってしまいましたので、3に関してはまた次回とさせて頂きます。

                  今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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                    人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

                    8月14日、お盆二日目の朝です。

                    今年はコロナウイルスの影響で帰省を控える方が多いからでしょう、いつもより静かなお盆を過ごしております。

                    私の家もいつもなら東京に住む姉とその子どもたちが帰省してきて、ワイワイガヤガヤの日々を過ごしているはずなのですが、

                    今年は帰省取りやめなので、甥っ子、姪っ子に会えずちょっぴり残念です。

                    来年は一緒に花火をして遊べるといいなぁ。

                    昨日息子は実家の庭に大きなプールを出してもらって水遊びをしていました。

                    じじちゃん、ばばちゃんにたくさん遊んでもらって満足気な顔をしていました。

                     

                    一緒に学習している子どもから、勉強しても成績が上がらない、という話をされることがあります。

                    考えられる原因は二つあります。

                    一つはやり方が間違っている。

                    もう一つは成長に対する勘違いです。

                    今日は二番目の人の成長に関する勘違いについて。

                     

                    中学二年生の数学で、一次関数というものを学びます。

                    y = ax + b という形の関数で、そのグラフは傾きaが0より大きければ右上がりの坂道ような形になります。

                    人の成長に対する勘違い。

                    それは、多くの人は人間の成長は一次関数のように実現されると考えていることです。

                    例えば一時間何かの学習に取り組めば、一時間に見合う形で成長を感じられるはずである、ということです。

                    しかし、自分自身を含め多くの子どもと学習する中で、人はそのような形では成長しないと私は確信しています。

                    それでは、人の成長とはどのような形で実現するものなのでしょうか?

                     

                    高校生になると、y = [x] という関数を学びます。

                    これはガウス関数と言ってそのグラフは右上がりの階段のようになります。

                    私が考える人の成長は、このガウス関数のような形で実現します。

                    つまり、階段の踏み段のように、いくらやっても成長を感じられない平坦な時期がしばらく続いた後、

                    今までできなかったことがある日簡単に出来るようになる、階段を一段登るような瞬間が突然訪れる、

                    人の成長というのはそのような形で訪れるものだということです。

                     

                    だから何かに取り組み始めたからといって、それがすぐに何かしらの実を結ぶなどということはほとんどありません。

                    しばらくは何の変化も感じられないような時期が続きます。

                    そして多くの人はこの期間に何かに取り組むことをやめてしまい、いつまでもこの階段状の成長を体験することが出来ず、

                    自分はこういう人間なのだ、結局ダメなのだと、自分自身に対する諦念を強く握りしめ、ついにはそれを手放せなくなってしまうのです。

                    このような状態に陥らないために必要なことが三つあります。

                    1、人の成長が階段状であると知ること

                    2、取り組むものにやりがいを見出すこと

                    3、微細な変化に対してフィードバックをしてもらうこと

                    一つ一つを見ていきたいと思います。

                     

                    まず、一つ目ですが、人の成長は一次関数ではなく階段状に実現すると知ることです。

                    人の成長が一次関数のように実現すると確信したまま、やってもやっても成果らしいものが感じられない日々が続けば、

                    その人はその努力をもう続けなくなってしまうでしょう。

                    しかし、人の成長が一次関数ではなく、階段のように実現すると知っていれば、その何の成果も感じられない日々にも意味を見出すことが出来るはずです。

                    いつか成長の時が訪れるという確信があれば、たとえ大変な事であっても投げ出さずに取り組み続けることが出来るものです。

                    だから、何かをやり続けるために、まずは人の成長は階段状であること、続けることでいつか成果を感じられる日が必ず来るとことを知ることが大切なのです。

                     

                    ちょっと長くなりましたので、今日はここまで。

                    2と3についてはまた次回とさせて頂きます。

                    今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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