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「私はそういう人間ではありません」 ~補集合による自己理解~

 

私は仕事柄、高校生から進路の相談を受けることがとても多いです。

高校生というのは発達心理学の用語で言えば青年期という時期に当たります。

発達心理学では、各年代に達成するべき心理的課題というものがあるのですが、青年期の課題は自我の確立です。

自我の確立。

難しい言葉ですが平たく言えば、自分はこういう人間です、と言える自己像を確立することです。

青年期は、親や周りの大人の価値観から脱し、自分なりの価値観を形作る時期です。

かつては所属する共同体において従うべき価値観が共有されていたため、ある年齢に達した人間はこう生きるべきという明確な指針が存在しました。

だから自分は一体何者なのかなどと言う問い自体が発生することはありませんでした。

しかし、そのような共同体が解体し、社会的に共有された生き方の指針は姿を消しました。

加えてグローバル化が進みこれだけ社会の価値観が多様化した時代に、自分とはこういう人間である、と言い切れる自己像をを確立することは、そう容易い仕事ではありません。

かく言う私もかつて、大学院に進学したものの、本当に自分はこの生き方でいいのかと迷い悩み、うつ病を患った経験があります。

悩みの真っただ中にあるときは、なぜ自分だけがこのように苦しい思いをしなければならないのか、と思っていましたが、

後に様々な人の話を聴いたり、本を読んだりすると、この「自分で自分が分からない」という症状は、決して私に固有の悩みではなかったことが分かりました。

例えば、夏目漱石は三十代の頃文学の研究でロンドンに滞在しているときに、神経衰弱になって下宿に引きこもっていた時期がありました。

また哲学者の竹田青嗣先生も若かりし頃、精神的に不安定な時期を経験され、それが自身と哲学とをつなぐきっかけとなったとご自身の著書の中で記しておりました。

名だたる先賢の経験と、平凡な私の実体験を併記することは大変おこがましいことではありますが、

つまりは青年期の自我の確立というのは、誰にとっても大仕事なのだということです。

自分は一体何者なのかを知るには、一つには自分の過去の経験や指向性を省みて、自分の中にどのような才能があるのかを考える、という方法があると思います。

自分という人間の内面を掘り起こすことによる自己理解も確かに一つの手段であると思います。

しかし、それは基本的に自分という人間の枠組みの中でのみ行われることなので、結局自分本位の的外れの結論に陥ることも多々あり得ます。

もしその方法で行き詰まりを感じているのであれば、もう一つの自己理解の方法を試してみるのも一手と思います。

 

ここで話は一端数学に飛びます。

数学の集合論で、全体集合、部分集合、補集合という言葉が出てきます。

図示すれば以下のようなものです。

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Uが全体集合、Aがある共通項を有する要素が集まった部分集合、そしてその集合Aの外側を、集合Aの補集合と言います。

例えば全体集合が動物であり、その中に猫の部分集合があるならば、その外側の補集合は猫以外の動物ということになります。

この集合の概念を使ってもう一つの自己理解の方法を考えてみたいと思います。

世界という全体集合の中に、私という部分集合があり、その外側には自分以外という補集合が広がっているとします。

先ほど述べた自分の内面を掘り起こすという自己理解の仕方は集合論で言えば、

自分の中に一体どのような要素が存在するのかを明確にすることで、世界の中の自分という人間の輪郭を明確にするというものです。

これも確かに一つの自己理解の方法です。

しかしそれは先ほど述べたように、自己完結型のプロセスになりがちなため、自分本位の的外れは結論に至ってしまうリスクがあります。

私の考えるもう一つの自己理解の仕方とは、自分は何者ではないかを知ることを通して自分が何者かを迂回的に知るという方法です。

集合論に引き寄せて言うならば、自分という集合の外側の補集合の要素を明確にすることによって、自分という集合の輪郭が事後的に浮き彫りになるという形の自己理解です。

他者と自分とを比較し、他者の中にはあり自分の中にはない要素を把握することで、自分が何者でないかを理解し、その結果自分が一体何者であるかが迂回的に分かる、というわけです。

社会心理学者で40年以上にわたりラジオで悩み相談を受けてきた加藤諦三先生は、著書の中で、悩んでいる人には共通点があると記しています。

それは「私はそういう人間ではありません」という一言が言えないということだそうです。

自分が一体どのような人間でないかが分からないから、自分がどういう人間かも分からず、悩み続けることになるというわけです。

だから自分が何者ではないかを理解することは、自分が何者であるかを理解し心穏やかにその人らしく生きるためにはとても大切なことなのです。

この自己理解の方法は、先ほどの自分の内面を掘り起こすという自己理解の方法とは異なり、

他者という自分の外側にある対象を介在させることで自分という人間を客観視できるため、

希望的観測を挟まないより正確な自己理解に達することができるという利点があります。

自分が認識している世界は決してありのままの世界を映しとったものではありません。

私自身を含め、人は世界を自分の見たいように見るものです。

だから自己完結した自己理解の方法は多くの場合、その正確性を損なう可能性が高いと言えます。

誰も世界をありのままには認識できないという前提のもと、より正確に世界を認識する方法があるとするならば、

それは他者という客観を介在したものである必要があります。

 

高校生は、進学か就職か、進学するなら専門学校か大学か、就職するならどのような仕事か、自我の確立がまだ未完了なまま、大切な選択を迫られる時期です。

これだけ価値観が多様化し、今までの価値観がそのまま通用しなくなってしまった時代、大人でさえどのように生きるべきか悩んでいる人がたくさんいます。

そんな時代に生きる若者の人生の指針を見つける手助けをする、というのは我々大人の大切な仕事の一つであると私は考えます。

だから仕事を通じて、彼らと一緒にいかに生きるべきかを考えていこうと思っています。

もし、お子さんがそのような選択で悩まれているならば、一度「自分は一体何者なのか?」という問いを離れ「自分は一体何者ではないのか?」という問いかけをしてみる事をお勧めします。

不登校、引きこもり、家庭教師に関するお問合せはこちらからどうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

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環境問題と不登校 〜無限の価値増殖ゲームが壊したもの〜

こちらは、マルクスの資本論を経済学者でマルクス研究家の斎藤幸平さんが解説した一冊です。

何やら書き込まれているマジック書きは決してマルクスのサインではありません。

気を付けていたのにとうとう我が家のまるくちゅ君にやられてしまいました。

一読して今二回目を読んでいるところなのですが、自分の気づきをまとめるためにアウトプットしてみようと思います。

私はことある毎に、不登校は個々のご家庭の問題ではなく、社会の構造が生み出す問題であると言ってきました。

理由は至極簡単です。

もし個々のご家庭の問題であるならば、なぜ同時多発的に日本国内で十数万人の子どもたちが学校に行くことを拒否するのでしょうか?

十数万人子どもの親御さんが一斉に育て方を間違えたからでしょうか?

そんなはずはありません。

だから不登校とは、個々のご家庭の問題ではなく社会の構造が生み出す問題なのです。

それではここで言う社会の構造とは何でしょうか?

私は環境問題を解決したいと思い大学と院で環境問題の研究をしてきました。

そして今、紆余曲折を経て不登校という社会問題に微力ながら取り組んでおります。

取り組んでみて分かったことは、環境問題も不登校も根は同じだということです。

環境問題と不登校に共通する「根」とは、何でしょうか?

私は資本主義であると考えます。

資本主義とは、お金からモノやサービスを生み出し、そのモノやサービスを売買することで、元手のお金を増やしていく、無限に続く価値増殖ゲームです。

地球が蔵する資源が仮に無限大であったとするならば、この価値増殖ゲームはこれから先も永久に続いてくことでしょう。

しかし、この地球上に存在するものは、石油も金もダイヤもレアメタルも人の命も、一見無限に見える水や空気でさえ、ありとあらゆるものが有限です。

無限に続く価値増殖ゲームをありとあらゆるものが有限である球体の上で展開する、この根源的な矛盾がいたるところに軋みとして現れています。

その軋みとは、森林破壊や大気汚染のような環境破壊であり、うつや依存症や過労死などのメンタルの問題であり、高齢者や子どもの虐待であり、コミュニティの崩壊であり、途上国の児童労働であり、戦争であり、テロリズムであり、ウイルス禍です。

そして私は不登校もその軋みの一つであると考えています。

魚が水の中で泳いでいることに無自覚であるように、私達は皆どのような価値観を血肉化して日々生活しているかに対して無自覚です。

現代の日本に生きる私たちは、「成長」という言葉に何の疑問も挟まず、良きものという判断を下す傾向にありますが、それは果たして本当でしょうか?

「成長」を無批判に是とできたのは、地球は無限に広いという無邪気な前提条件を私たちが信じていられたからです。

確かに地球はかつて無限に広かったかもしれませんが、人口が77億にまで膨れ上がった今、その前提条件はもうすでに破綻しています。

前述の通り、私達は成長を良きものとする価値観を深く内面化して生きていて、しかもそのことに対して無自覚です。

その価値観はどこに由来するかと言えば、無限の価値増殖を志向する資本主義という金儲けゲームです。

私達は、この価値増殖ゲームに好むと好まざるに関わらず巻き込まれていて、その価値観があまりに内面深く食い込んでいるが故に、それ以外の価値観があることさえ忘れてしまっているのではないでしょうか?

資本主義が蔓延する以前の社会は定常経済でした。成長など志向していませんでした。

本書の中でも紹介されていますが、世界のGDPは18世紀半ばまではほぼ横ばいで推移していたのです。

それが産業革命以降急激に上昇し、GDPの推移を表すグラフの傾きは今やほぼ無限大になっています。

ほぼ定常であった経済活動が産業革命以降急激に拡大し、有限な地球の上で、無限増殖を志向する金儲けゲームが展開されている。

この矛盾が先ほど列挙したような様々な問題を引き起こしています。

その矛盾に抗うためにまず必要なこと。

それは、今私たちが無自覚に取り込まれているゲームがどのようなルールで運用され、どのような矛盾を孕んでいるかに自覚的になることです。

自分がどのようなゲームに知らない間に参加させられていて、それによって何を失ってきたかが分かれば、その無理筋のゲームから一定程度距離を取ることが出来るはずです。

マルクスは、資本主義が社会が蔵するあらゆる富を、お金で買わなければ手に入れられない商品に変えてしまうことを、

分業によって労働者を無力化し労働の内容から疎外してしまうことを、

コミュニティが崩壊し人間が何ともつながりを持たない砂粒と化してしまうことを、今から150年も前に予見していました。

本書を読んでいてその先見性に驚くばかりです。

有限な世界で展開される無限増殖ゲームから距離を置くためには、まずそのゲームの仕組みを知ることです。

無限増殖ゲームに世界が食い破られてしまう前に、別の生き方を探し出さなければいけない。

その第一歩として本書はぜひ手に取って頂きたい一冊です。

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2021年 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

旧年中は皆様に大変お世話になりました。

新潟県新発田市はだいぶ雪が積もり、雪かきからスタートの新年となりました。

年末は授業授業でバタバタと過ぎ去っていきましたが、今日は朝から子どもを膝に抱っこして一緒に童謡を歌ったり、雪遊びしたり、束の間のんびりと過ごせております。

自分の脳内整理の意味も込めて2020年を振り返ってみたいと思います。

2020の一番の気づきは、決して真新しいものではなく、改めてという感じなのですが、

子どもにとって一番強い影響を与える環境は家庭である、ということです。

つまり、動けなくなったお子さん、理不尽な振る舞いをしているお子さんに対して、

親御さんの価値観が変わると状況は好転するケースが多い、ということです。

この場合の状況の好転とは、必ずしも学校に行き始めるという事ばかりではなく、

お子さんが穏やかさを取り戻し、アルバイトを始めたり、家庭での学習を再開したりということも含みます。

不登校や引きこもりで悩まれているご家庭に私が出来ることは、

一、親御さんとの対話
二、生活習慣に対する提言
三、学習の支援

の三つですが、この中で一番根本的で効果の高い関わりが、一番の親御さんとの対話です。

様々な制限があって一番の関わり方が不十分なまま、二、三だけを行なっていても、その効果は限定的な場合が多いですが、

逆に親御さんとの対話を通じて、何かを感じて頂けて、親御さんの価値観が変化することで、二、三が勝手に後からついてくるというケースは多々あります。

親御さんとの対話の中で私がお伝えしたい価値観は、何かが出来るとか出来ないとかは、あくまでも表面的な価値観であり、

何が出来ても出来なくても、その人の価値は変わらない、ということです。

つまり、人の価値はその機能にではなくその存在にある、ということです。

不登校や引きこもりになるお子さんでよく見かけるケースは、成績優秀で頑張り続けてきたけれど、その頑張りが限界に達して動けなくなる、というものです。

その子は今まで、人の果たす機能によってその価値を評価する、という世に蔓延する皮相な価値観の中で、必死に頑張り続けてきたのかも知れません。

そんな子たちに必要なのは、不安を煽りさらなる頑張りを強要することではありません。

確かに不安感は人を動かしますが、動かし続けることは出来ません

一時は頑張りが効いたとしても、早晩また動けなくなってしまう場合が多いです。

社会を覆う表面的な価値観に自身を適応させるために頑張り続けてきた子どもたちに必要なのは、そのような不安を煽る対応ではなく

何が出来ても出来なくても、自分の価値は変わらないし、自分がそこにいることを喜んでくれる誰かがいるのだ、という安心感です。

その視点から自分を見つめてくれる誰かが、その子にとっての帰る場所、居場所になります。

そして帰る場所、居場所のある子どもは、不安に負けず未知の世界に一歩踏み出していけるようになります。

だから、動けなくなった子どもたちにまず必要なのは、何かあったら帰れる場所、安心して休める居場所です。

そして、親御さんに、その帰る場所、居場所の役割を担って頂けるよう対話を重ねていく必要があると私は考えています。

何が出来ても出来なくても、その子の価値は何も変わらない。

今年もこの価値観の基、仕事を通じて、果たし得る機能によって子どもを評価するような浅薄な価値観に抗っていこうと考えております。

今年もどうぞ宜しくお願い致します。

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