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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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