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停滞期を乗り越えるために ~意味を見出すことの意味~

昨日所用で、外を歩いていると、蝉の声に勢いがなくなっているように感じました。

確かにもうお盆ですものね。

夜になるとあちこちから秋の虫の鳴き声も聞こえてくるようになりました。

学生時代はこの時期になると、終わっていない宿題をどうしようと、焦燥感に駆られていたものです。

24時間テレビを見ては、世の中には頑張っている人もたくさんいるのだから俺も頑張ろうと自分を鼓舞してみたりしましたが、

結局それも長続きせず、宿題が全部終わらぬまま新学期を迎えてしまう、というのが私の夏休みのいつものパターンでした。

その話を一緒に勉強している子たちにすると、「それでよく卒業できましたね!」と驚かれます。

私が学生だった頃は、色んなことが良くも悪くも今より緩い時代だったように思います。

今の子たちは、私達の頃に比べ要求されるものが多くなり、大変だなぁと感じることが多いです。

みんな本当に頑張っています。

 

昨日のブログでは、人の成長は一次関数のように直線的に実現するのではなく、

階段を上るように、停滞期が続いた後、ある日突然ブレイクスルーが訪れるという形で実現する、という内容を綴りました。

人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

多くの人は、人間は一次関数的に何かに取り組んだら取り組んだだけ成長すると勘違いしていて、

取り組んでも取り組んでも何の成果も感じられない時期がしばらく続くと、その取り組みをやめてしまい、

自分は結局このような人間である、成長できない人間である、という諦念を抱いてしまいます。

そのような成長に対する勘違いが、人の成長を拒んでいるように私は感じています。

停滞期に自分自身を見限ってしまう、そのような状態に陥らないために、大切なことは三つあります。

1、人の成長は一次関数ではなく、階段状に果されることを知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対するフィードバックをしてもらうこと

昨日は1について綴りました。

今日は2について。

 

人は意味のないことを延々とやり続けられるものではありません。

自分のやっていることに意味を見出せるからこそ、それを続けることができるのです。

自分のやっていることに意味を見出せれば、成長を実感できない停滞期が続いたとしても、

それをやり続け、最後には成長を感じられるようになるわけです。

そして何か一つのことで成長を感じられれば、人の成長は停滞期とブレイクスルーを繰り返すという形をとることが実体験として分かり、

他のことでも、停滞期に心折れることなく取り組み続け、成果を得られるようになるのです。

だからその人がやっていることの意味を周りの人間が明確化してあげるというのは非常に大切なことです。

子どもの学習に関してもそれは当てはまります。

多くの子どもは学習する意味など考えたこともなく、周りの大人からやれやれと言われるがままに学習に取り組んでいて、

一体自分は何のためにこんなことをしなければならないのかと、疑問を持っている子はたくさんいます。

しかし、大人がその意味を明確にしてあげれば、彼らの学びに対する姿勢も変わってきます。

 

学習することの意味、これはいくつもいくつもあると思いますが、一つの例として、「人は知っている範囲内でしか考えられない」という話をしたいと思います。

例えば雷という自然現象があります。

あの現象の原理は中学で習う電磁気と気象の知識があれば理解できます。

急速に発達する積乱雲の中で上昇気流に煽られた氷の粒がぶつかり合うことで雲が静電気を溜め込み、

雲と地上との間の電圧差がある一定値を超えたときに空気中で起こる放電現象、それが雷という自然現象です。

これも中学の歴史で習うことですが、17世紀に俵屋宗達によって描かれた風神雷神図屏風を見ると、昔の人たちが雷という自然現象をどのように理解していたかが良くわかります。

雲の上に太鼓を持った雷様が住んでいて、それが大暴れするときに雷という自然現象が起こる、というのがその時代の人たちの雷の理解の仕方です。

科学技術が進歩し、人間の知っている範囲が広がったからこそ、現代人はその原理をより合理的に考えられるようになったわけです。

これは「人は知っている範囲内でしか考えられない」ことの好個の例です。

 

私の実体験も一つ。

高校生の子たちと一緒に学習していると、「もう勉強やだ!学校辞めたい!」などという言葉が飛び出してくることがあります。

テスト勉強に追われ頭が一杯になっているからこそ、そんな言葉が飛び出してくるのかもしれません。

その気持ちはとても良くわかるのですが、その言葉を受けて私が、

「高校は義務教育じゃないから辞めようと思えば辞められるよ。でも辞めてどうするの?」

などとちょっと意地悪いことを聞くと、彼らの多くは言葉が出なくなります。

なぜどうしていいか分からないのでしょうか?

これもやはり「人は知っている範囲内でしか考えられない」からです。

まだあまりものを知らないからこそ、そのあとの選択肢を考えられなくなるのです。

知れば知るほど、様々な選択肢を考えられるようになり、自分が生きたいように生きられる可能性も高まっていくのです。

だからこそ人は学ぶ必要があるのです。

 

私が学生だった20年ほど前までは、偏差値の高い大学に入って、大企業に就職して、結婚し、ローンを組んで家を建て、定年までその企業の一員として働くという、

社会に広く共有された目指すべき一つの生き方がありました。

しかし、今その生き方はもう成り立たない時代になっています。

そうであるならば、勉強して大学に入ったって意味がないのではないか?

そういう意見も一緒に学んでいる子どもたちから聞かれますが、私はむしろ逆だと思います。

社会が生き方の指針を失った時代だからこそ、自分で考えて生きていける人になるために、学ばなければならない。

私はそのように考えています。

なぜなら、人は知っている範囲内でしか考えることが出来ないからです。

 

私が考える学ばなければならない理由、説明の仕方はいくつもあるのですが、上に書いたことがその一つです。

このように、学ぶ意味、そして自分が置かれた時代背景を理解できれば、子どもの学ぶことに対する意識は相当変わってきます。

だからその子の周りにいる大人が、その子より一段高い視点から学ぶことの意味を明確化してあげることは非常に重要です。

そしてその意味を実感出来れば、成長のための停滞期を乗り越え、ブレイクスルーを経験できるのです。

そしてそのことが一つの成功体験としてその人の中に記憶され、さらに学びたいという意欲を掻き立てることになるのです。

 

今日も長くなってしまいましたので、3に関してはまた次回とさせて頂きます。

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。

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人の成長は非線形 ~それを知ることの効用~

8月14日、お盆二日目の朝です。

今年はコロナウイルスの影響で帰省を控える方が多いからでしょう、いつもより静かなお盆を過ごしております。

私の家もいつもなら東京に住む姉とその子どもたちが帰省してきて、ワイワイガヤガヤの日々を過ごしているはずなのですが、

今年は帰省取りやめなので、甥っ子、姪っ子に会えずちょっぴり残念です。

来年は一緒に花火をして遊べるといいなぁ。

昨日息子は実家の庭に大きなプールを出してもらって水遊びをしていました。

じじちゃん、ばばちゃんにたくさん遊んでもらって満足気な顔をしていました。

 

一緒に学習している子どもから、勉強しても成績が上がらない、という話をされることがあります。

考えられる原因は二つあります。

一つはやり方が間違っている。

もう一つは成長に対する勘違いです。

今日は二番目の人の成長に関する勘違いについて。

 

中学二年生の数学で、一次関数というものを学びます。

y = ax + b という形の関数で、そのグラフは傾きaが0より大きければ右上がりの坂道ような形になります。

人の成長に対する勘違い。

それは、多くの人は人間の成長は一次関数のように実現されると考えていることです。

例えば一時間何かの学習に取り組めば、一時間に見合う形で成長を感じられるはずである、ということです。

しかし、自分自身を含め多くの子どもと学習する中で、人はそのような形では成長しないと私は確信しています。

それでは、人の成長とはどのような形で実現するものなのでしょうか?

 

高校生になると、y = [x] という関数を学びます。

これはガウス関数と言ってそのグラフは右上がりの階段のようになります。

私が考える人の成長は、このガウス関数のような形で実現します。

つまり、階段の踏み段のように、いくらやっても成長を感じられない平坦な時期がしばらく続いた後、

今までできなかったことがある日簡単に出来るようになる、階段を一段登るような瞬間が突然訪れる、

人の成長というのはそのような形で訪れるものだということです。

 

だから何かに取り組み始めたからといって、それがすぐに何かしらの実を結ぶなどということはほとんどありません。

しばらくは何の変化も感じられないような時期が続きます。

そして多くの人はこの期間に何かに取り組むことをやめてしまい、いつまでもこの階段状の成長を体験することが出来ず、

自分はこういう人間なのだ、結局ダメなのだと、自分自身に対する諦念を強く握りしめ、ついにはそれを手放せなくなってしまうのです。

このような状態に陥らないために必要なことが三つあります。

1、人の成長が階段状であると知ること

2、取り組むものにやりがいを見出すこと

3、微細な変化に対してフィードバックをしてもらうこと

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

まず、一つ目ですが、人の成長は一次関数ではなく階段状に実現すると知ることです。

人の成長が一次関数のように実現すると確信したまま、やってもやっても成果らしいものが感じられない日々が続けば、

その人はその努力をもう続けなくなってしまうでしょう。

しかし、人の成長が一次関数ではなく、階段のように実現すると知っていれば、その何の成果も感じられない日々にも意味を見出すことが出来るはずです。

いつか成長の時が訪れるという確信があれば、たとえ大変な事であっても投げ出さずに取り組み続けることが出来るものです。

だから、何かをやり続けるために、まずは人の成長は階段状であること、続けることでいつか成果を感じられる日が必ず来るとことを知ることが大切なのです。

 

ちょっと長くなりましたので、今日はここまで。

2と3についてはまた次回とさせて頂きます。

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人を成長に導く叱り方 ~叱るのは誰のためか?~

子どもと接するとき、または会社勤めをされていて後進を指導するとき、

ある行動に対して、それはどうしても直してほしい、改善してほしいと感じる場面があるかと思います。

その際に苦言を呈する、叱るということが必要になる場合もありますが、人を叱るということが苦手な人は多いと思います。

その苦手意識というのは叱り方を知らないことに起因しているのではないでしょうか?

今日は叱ることについて考えてみます。

 

まず叱るというのは、誰のために行うことでしょうか?

それは相手のためです。

自分のどこに問題点があったのか、その人のためにフィードバックして、成長を促してあげるのが叱るという行為の目的です。

たびたび、叱っているようで、実はそれが自分のイライラした感情のはけ口にしかなっていない、という場合を目にしますが、

それは自分のストレス発散のためになされる行為なので「叱る」ではありません。

その行為は何なのかといえば、「怒る」です。

怒るのは、自分のイライラした感情を発散して自分がスッキリすりために行うことです。

つまり、怒るのは相手のためではなく、自分のためなのです。

そして怒られた相手は、この行為が自分のためではなく、怒っているその人自身のための行為であることに気づき、

その言葉から耳を背けたり、受け流すようになります。

だから怒ったとしても、怒った側の感情は一時的にすっきりしますが、問題点はそのまま放置されるので、また同じことでイライラして怒らなければならなくなります。

「叱る」は相手の成長のため。

「怒る」は自分のストレス発散のため。

いくら言っても相手の行動が改まらないと思う場合、まず自分が今まで行ってきたことが、「叱る」と「怒る」のどちらであったのか、自己省察してみてはと思います。

 

叱るとは何かを明確にしたところで、今度は叱り方について考えてみましょう。

例えばお子さんが、学校からの配布物を親御さんに見せ忘れていた、という場合を考えてみます。

その時に、叱る側の人間が指摘するべきは、改善してほしい行動です。

具体的にどのような行動を改善してほしいのか、その部分を冷静に相手に対して指摘することです。

この場合であれば、学校からの配布物をすぐに見せるようにしてほしい、と相手に冷静に伝えることです。

「どうしていつもそうなの!だいたいこの前だって☆□〇※!」などと怒り始めてしまうと、相手はその言葉を受け流してしまうので、その行動は変わりません。

だからまず、相手の改善してほしい行動を冷静に具体的に指摘することです。

そして叱る際にもし時間があったらやってほしいのが、サンドウィッチにして叱るということです。

サンドウィッチというのは、何かで何かを挟み込むことの例えなのですが、何で何を挟み込むのでしょうか?

それは良い点と良い点で改善点を挟みこんで相手に伝えるということです。

ある事柄に対する人間の印象というのは、同じ強さでその人の中に刻まれるものはありません。

ある事柄の最初と最後が強く印象として残ります。

これを利用して、良い点と良い点で挟み込んで相手に改善してほしい点を伝えれば、相手もその言葉を受け取りやすくなります。

例えば先ほどの配布物の例で言えばこうなります。

「昨日は、夕飯のあと食器を洗ってくれてありがとう。助かったよ。

でも一つあなたに直してほしいことがあるんだけど。

学校からの配布物はもらったらすぐに見せてほしいの。

学校からの連絡が分からないととても困るから。

お願いしますね。

それから今日もお弁当を残さず全部食べてくれて嬉しかったよ、ありがとう。」

例えばこんな風に伝えると、改善点を指摘する場合でも、その人の良い点で挟み込んでいるため、相手の受け取る印象はだいぶ変わってきます。

しっかりと改善点は指摘しつつも、相手には「あなたの良いところも私はしっかりみていますよ」というメッセージが強く伝わります。

ここまでする時間がなかったら、いきなり改善してほしい行動を伝えて、最後に良い点、感謝している点を伝えるだけでも、相手の受け取りかたは全然違うものになります。

このように伝える順番で相手の印象は大きく変わりますので、ぜひ試してみてください。

 

それからもう一つ、叱る際に頭に入れておきたいことは、相手の行動の背景を分かろうとすることです。

どうしてそのような周りが困る行動をし続けてしまうのか、その背景を理解しようとすることです。

頭では分かっていても理屈にかなわないような行動をしてしまうとき、その当人も気づけていない苦しさを抱えている場合があります。

その人が抱えているそうせずにはいられない背景を分かろうとすることです。

分かろうとするとは具体的にはその人の言葉に耳を傾けてあげることです。

それでその人の抱える苦しさが聴き手に分かるようになるわけではありません。

それでも、自分の抱える事情も理解してくれようとしているのだという姿勢が相手に伝わります。

自分のことを分かろうともせずに、自身の要求だけを突き付けてくる人間の言葉と、

苦言は呈しつつも自分の抱える苦しさ、事情を分かろうとしてくれる人の言葉。

一体どちらが耳を傾けてもらえるでしょうか?

自分のことを理解しようとしてくれる人の言葉であればこそ、叱られる側もその言葉に耳を傾けようとするのではないでしょうか。

 

本日のまとめ。

・叱るのは相手の自己成長のため。自分の行為が相手のためか自分のためか自己省察を。

・叱るときは、改善してほしい行動を冷静に伝える。相手の良い点で改善してほしい点を挟んで伝えると、受け取る印象が良くなる。

・自分の要求だけを伝えるのではなく、相手がそのようなふるまいをしてしまうその背景を理解しようとすること。

ご家庭でお子さんに対して、または会社で後進を指導する際に、ぜひ試してみてください。

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「どう書けばいいか分かりません」 ~読書感想文の書き方

最近心掛けていることに、朝しっかりと朝日を浴びる、というものがあります。

朝日を浴びることで、セロトニンの分泌が促され、心穏やかに過ごせるのだそうです。

加えてセロトニンを材料に作られる眠りを誘発する物質、メラトニンの合成も促され、夜の眠りが改善します。

詳しくはまた日を改めてブログに書かせて頂きますが、ここ数日試してみてとても良い気がしています。

朝起きてカーテンを開けてⅠ5分ほど太陽光を浴びる、ただそれだけです。

良かったら試してみてください。

 

コロナウイルスの影響で、今年は夏休みが例年より遅いスタートとなっていますが、

新潟市内では小学生はもうすでに夏休み、中学生も間もなく夏休みといった学校が多いです。

夏休みなると決まって出される宿題が読書感想文です。

この時期にご家庭にお邪魔していると、「読書感想文どうすればいいですか?」、「書き方が分かりません」という質問を度々受けます。

どうして読書感想文を書くのに皆苦労するのでしょうか?

それは文章の型を知らないからです。

本日は読書感想文の書き方について。

 

様々な文章には型というものがあります。

例えば物語であれば、起承転結。

論説文であれば、序論、本論、結論。

学術論文であれば、概要、背景、方法、結果、考察。

それぞれの文章にはそれぞれの型があります。

読書感想文を書くときに途方に暮れてしまう理由は、この型を知らないからです。

それでは読書感想文の型とはどのようなものでしょうか?

 

読書感想文は、作文を読む人に、自分が読んだ本にはどのような内容が書いてあり、

自分はそれをどのように感じ、この本からどのようなことを学んだのかを伝えるために書く作文です。

この読書感想文の目的が分かっていれば、自ずと読書感想文の型は決まってきます。

私がお勧めする読書感想文の型は、これです。

image0 (2)

字が汚くてすみません。

この紙に必要なことを記入していくと、それが読書感想文の型となり、スムーズに作文を仕上げることが出来ます。

それではこの紙をどう使うのか、説明していきます。

 

まず本を読んでいるときに、印象に残った箇所を三つピックアップしておきます。

そして、本を読み終わったらこの紙を自分で作ってください。

( )でくくってある文章は書き方の説明ですので、書かなくて結構です。

次に、この紙を埋めていきます。

内容1~3には、自分が本を読んでいて印象に残った内容を書きます。

いつ、どこで、誰が、どんなことを言っていたとか、その本に書いてあった内容を作文の読み手に対して説明する箇所です。

次に、それぞれの枠の右隣に、その内容に対して、自分がどのように感じたか、どういうことが印象に残ったか、自分なりの解釈を記入します。

最後に、一番右側のまとめの欄に、解釈1~3に記した内容を要約し、結局自分はこの本からどのようなことを学び、どのように自分の日常生活に生かしていきたいのか、をまとめとして記します。

このようにまずこの紙をすべて記入してから、原稿用紙に向かってください。

 

作文を書くのになぜ時間がかかってしまうかと言えば、書きながらどういう作文にしていこうか構成を考えるからです。

構成を考えるという作業と、書くという作業が同時進行になってしまうが故に、書くことに時間がかかってしまうのです。

まずこの紙を記入し構成を考えてから原稿用紙に向かえば、もう書くべきことは決まっているので、休みなく一度に書き上げることが出来ます。

もしお子さんが一人で、この紙を埋められないならば、親御さんがお子さんに対して質問をしてあげるといいと思います。

「どこがおもしろかった?」とか「どこが印象に残った?」とか、「それはどうして?」とか、親御さんが質問してあげることで、お子さんの思考は深まっていきます。

それから、最後の三つの解釈を要約するところですが、物事を要約することで人間は抽象的な思考が出来るようになってきます。

三つの解釈に共通するものは何か、要するに何を言っているのか、物事の本質を観取する訓練にもなります。

少し難しいかもしれませんが、ぜひ挑戦させてみてください。

 

夏休みはいつもより自由に使える時間がたくさんあります。

子どもにはぜひ、たくさん本を読んで、言葉を豊かにし、情緒を育んでほしいと思います。

お子さんの読書感想文を書く際に役立てて頂けたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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理解することの難しさを理解することで得られるもの

先日のブログでは、他者理解を難しくする三つの構造について綴りました。

他者理解を難しくする三つの構造は以下です。

一、感情表出に対する抵抗感

感情を表出するとは、生身の自分を包み隠さず相手の前に晒すこと。

そのことに対する抵抗感が他者への理解を難しくします。

つまり、誰にでも本音を語れるわけではないということが他者理解を阻む第一の構造です。

二、内的枠組みの違い

人は同じことを経験しても、同じように感じるわけではありません。

ある人にとっては恐怖の出来事が、ある人にとっては愉悦である場合さえあります。

そのお互いの感じ方の違いが他者理解を阻む第二の構造です。

三、言語的枠組みの違い

人は同じ言葉を用いていても、その言葉に同じイメージを投影しているわけではありません。

別の言い方をすれば、全く同じ感情を抱いていても、それを必ずしも同じ言葉に乗せて発するわけではないということです。

この言葉に投影するイメージのずれが他者理解を拒む第三の構造です。

上記のように他者を理解することには困難が伴うわけですが、

他者を理解することの難しさを知ることが、よりよい他者理解につながるということがあります。

他者理解の困難さを理解することで得られるもの、今日はそのような内容です。

 

以前一緒に勉強していた子どもの話です。

事前に伺っていた話では、学校では様々な問題行動を起こしているいわゆる問題児とのことでご家庭にお邪魔したのですが、

一緒に学習をしてみると、全くそのようなことはありませんでした。

はにかみながら学校のことをあれこれ話してくれたり、休憩時間にはお茶を入れてきてくれたり、宿題も真面目にこなしてくれました。

私の目にはとても良い子に映りました。

これは他者理解の難しさをよく表しているエピソードだと思います。

つまり、学校の先生や親御さんは自分たちの理解を元に、その子に対する問題児という印象を語っていましたが、

それが必ずしも正確ではなかったということです。

他者を理解することには多くの困難が伴うわけですから、誰かの他者理解が正確ということはそうそうあり得ません。

それでは、私のその子への理解が正しかったかと言えばそれも違います。

必ずそこには私なりの誤解があったはずです。

しかし、人間は、特にまだ力を持たない子どもは、誰かの自分に対する前提を通して自己形成を試みる、という傾向があります。

そうであるならば、その子の周りにいる大人が、自分以外の誰かがその子に下した前提に縛られることなく、その子に対して新しい前提を植え付けてあげればいいのです。

その子のパフォーマンスを下げるような前提ではなく、その子の可能性や能力が開いていくような前提を、です。

このエピソードを通じて私が言いたいのは、

人を理解することの難しさを理解することで、誰かの他者理解に安易に振り回されなくなるということ、

そして、自分が関わる人を縛りつける不都合な前提を、その人の可能性が、能力が開いていくような前提へと上書きする助けとなれる、ということです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの、もう一つあります。

以前お話を聴かせて頂いた親御さんのお話です。

お子さんが学校に行かなくなって、悩まれて私のところにお話しに来られました。

お子さんが学校に行かなくなってからずっと、学校に行きなさい、勉強しなさいと叱ってばかりいたのですが、

ある時自分は、不登校や勉強をしないなどの、子どもの外側のことにばかり興味をもっていて、この子の内面に全然関心を持ってこなかったと気づかれたそうです。

お子さんはアニメやイラストが大好きで、自分でもたくさん絵を書いていたのですが、そのことに気づいてから、

「どんな絵を描いているの?」とか「このアニメのキャラクターはどんな子なの?」とか、お子さんの感じていることを知ろうと努めるようになりました。

初めて自分がそういう風に接したとき、お子さんはとてもうれしそうに自分が書いている絵のこと、好きなアニメのことを話してくれたのだそうです。

私自身も同じような経験があります。

一緒に勉強している子どもと休み時間に話していて、子どもが話してくれた様々な内容について、

「それって〇〇〇ってこと?」と私が聞くと、「ちょっと違う。」という返事が返ってきたので、

「じゃあ、~~~っていうこと?」と聞くと、「それも違うんだよなぁ。」という答えが返ってきました。

私の理解はことごとく的外れだったわけですが、その時子どもはなんだか嬉しそうな顔をしていました。

 

アニメや漫画について興味を持って質問した親御さんも、休憩時間に子どもと会話していた私も、

その子の伝えたいこと、言っていることを十全に理解したわけではありません。

それでも、子どもは嬉しそうな表情を浮かべていた。

それでは彼らは何が嬉しかったのでしょうか?

自分のことを理解してもらったから嬉しかったのではありません。

現に理解には達していなかったわけですから。

彼らは、自分のことを理解してもらえたからではなく、自分のことを理解しようとしてもらえたから嬉しかったのです。

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるものの二つ目は、理解しようとし続けられることです。

他者を理解することが難しいと理解できれば、安易に人を理解したような気にならなくなります。

自分の理解にはどこか誤りがあるという前提があるので、人の言うことを今まで以上に理解しようとし続けられるようになります。

そして、先ほど紹介した事例のように、人は自分のことを理解してもらえたから嬉しいのではなく、理解しようとしてもらえたことが嬉しいと感じるのです。

人が人を理解するというのは大仕事で、完全なる理解に達することは本当に難しいと思います。

そのことを理解することで、常に自分のその人への理解に懐疑の目を向け、理解しようとし続けることが可能になるのです。

そして人に活力を与えるのは、十分な理解してもらえたという納得感ではなく、理解しようとしてもらえた、その手触り。

そんなことはないでしょうか?

 

人を理解することの難しさを理解することで得られるもの。

一つは、誰かの他者理解に振り回されることなく、自分が関わる人にとって好ましい前提を与えられるようになること。

もう一つは、常に自分自身の他者理解に懐疑の目を向け、理解したような気にならず、その人を理解し続けられるようになること。

私が考えるのはこの二つです。

 

人が人を理解することは大変な仕事です。

それを理解したうえでそれでも自分を理解しようとし続けてくれる人の姿に、人は励まされ、やがて立ち上がっていくのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きありがとうございます。

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人を理解することの難しさ ~理解を困難にする三つの構造~

昨日は激しい雨が降り続き、各地で避難勧告や避難指示が出ていた新潟ですが、

今日は一転、梅雨が明けたような夏らしい青空が広がっています。

山の向こうには入道雲が立ち上っておりました。

私はあれを見ているとなんだか力が湧いてきます。

梅雨明けは間近ですね。

 

日本に心理療法を導入した臨床心理学者の河合隼雄さんは著書の中で以下のように述べています。

“一般の人は人の心がすぐ分かると思っておられるが、人の心がいかに分からないかということを、確信をもって知っているのが専門家の特徴である。”

私自身、仕事で誰かの話を伺っているときも、日常生活を送っていても、他者を理解するということの難しさを痛感する場面が多々あります。

人の話を聴くことのプロでさえ、「人の心が分からない」と言っているわけですから、人の心を理解するというのは、一大事なわけです。

それでは、何が人の心を理解することを難しくしているのでしょうか?

人の心を理解する上での困難さ、具体的には以下の三つがあります。

一、感情を表出することへの抵抗感

二、内的枠組みの違い

三、言語的枠組みの違い

一つ一つを見ていきたいと思います。

 

一、感情を表出することへの抵抗

人の話を聴くときに、聴く側の人間が「それでは何でも話してください」と言ったところで、本当に何でも話してもらえるわけではありません。

そこには感情を表出することへに抵抗感があるからです。

感情というのは、その人の人間性の深い部分から沸き上がてくるものです。

それを相手に語るというのは、何一つ包み隠さない生身の自分を相手の前に晒すということです。

そこには当然、こんなことを言ったら笑われるのではないか、変に思われるのではないかという不安感が伴います。

また子どもの頃から、人前で泣いてはいけないとか、兄弟で喧嘩をしてはいけないとか、ある種の感情の表出を制限されて育った場合、

寂しさ、悲しさ、怒りなどの感情を感じたり、表現することが難しくなっている場合もあります。

どんな感情を表現しても、笑われたり、怒られたりしない、安心安全な場があって初めて人は感情を表に出すことが出来ます。

人を理解するとき、その安心安全の場をいかに作るかという難しさがまずあります。

 

そして安心安全の空間を作れたとしても、まだ人の理解を難しくする構造があります。

 

二、内的枠組みの違い

人は同じ経験をしても、必ずしも同じように感じるわけではありません。

例えば、遊園地でジェットコースターに乗った場合、そのスリルを楽しいと感じまた乗りたいと思う人もいれば、

乗り物酔いをして気持ち悪くなったり、怖いと感じたりして、もう二度と乗りたくないと思う人もいます。

花畑を散歩しても、その美しさに魅了されてまた来たいと思う人もいれば、退屈で退屈で一刻も早く帰りたいと思う人もいます。

このように、人は必ずしも同じ経験から同じ感情を導き出すわけではありません。

人の話を聴く際に、話し手が自分なら悲しいと感じるような出来事について話していても、それを話し手は悲しいと感じているとは限りません。

この内的枠組みの違いが、人と人の理解を難しくする第二の構造です。

 

人と人が理解することを難しくする構造、もう一つあります。

 

三、言葉の枠組みの違い

言葉というのは人と人が理解に達するためにとても便利な道具ですが、言葉という道具が内包する問題点が、相互理解を妨げる場合もあります。

その問題点とは、言葉に対して投影するイメージにはずれがあるということです。

ある言葉に対して抱くイメージは同一言語話者であれば、大まかには同じなのですが、

細かく深く他者を理解しようと試みるとき、そのイメージのずれが問題になってきます。

同じ言葉を用いていても、人によってその言葉に投影するイメージ、意味の幅、ニュアンスが微妙にずれているということがあります。

また同じ感情を抱いていたとしても、それを表す言葉が人それぞれに違うという場合があります。

今仮に、AさんとBさんの二人が会話しながら全く同じ感情を抱いてしたとして、

Aさんはそれを「寂しい」という言葉で表現し、Bさんがそれを「悲しい」と表現した場合、

AさんとBさんは自分たちが全く同じ感情を共有しているとは気が付けないでしょう。

一人一人がある言葉に投影するイメージがそれぞれに異なるため、

同じ感情に別の名前を付けていたり、別の感情に同じ名前を付けているということが起こり得ます。

この言葉の枠組みの違いが人と人が理解することを難しくする三つ目の構造です。

 

今見てきたように、人が人を理解するというのは、決して簡単なことではありません。

そんなにも理解することが難しいのならば、人を理解することは不可能なことなのでしょうか?

私はそうは思いません。

もちろん完全に他者を理解することは、大変に難しいことであると思いますが、

人を理解することの難しさを知るのことで、人をより良く理解できるようになると私は考えます。

長くなってしまいましたので続きは次回に。

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