「それで人は幸せになるか」 ~速さが奪ったもの~

先日、だいぶ前に読んで強く感銘を受けた一冊を読み返しておりました。

こちらの一冊です。

「スローライフ 緩急自在のすすめ」 筑紫哲也 著

この本の冒頭部分にこんな言葉が出てきます。

「道徳なき経済は罪悪である、経済なき道徳な寝言である。」

江戸時代後期の思想家、二宮尊徳の言葉です。

一昔前の小学校の校庭には、薪を担ぎながら本を読む氏の子ども時代の銅像があったものです。

「経済」と「道徳」とは度々対置して語られる言葉ですが、

どちらか一方が大切で、どちらか一方が不要なわけではなく、その両方に功罪があり、

相反するものを自分の中に併せ持つことが大切である、ということをこの言葉は伝えています。

物事の功罪、その両面を把握して、初めてそれが何であるかを理解したことになるのだと思います。

 

動けなくなった子どもにまず必要なことは、

1、責められないこと

2、受容的な雰囲気

3、力を奪うものから遠ざけること

の三つであると以前のブログで綴りました。

環境 ~動けなくなった子どもに必要なもの~

3の力を奪うものとは、今でいえば具体的にはゲームやネットへの依存です。

ネット依存のほぼ9割を占めると言われているのが、ゲーム依存です。

先日のブログでは、依存症とはどのようなもので、なぜ人は依存してしまうのか、を考えてみました。

「そこしか居場所がなかった」 ~なぜ依存するのか~

ゲームの世界に依存するのは、そこに彼らが居場所を見出すからです。

それではなぜ彼らは家庭や友人関係などの現実世界に居場所を見出せず、ゲームの世界に居場所を見出すに至るのでしょうか?

 

「それで人間は今より幸せになれるのでしょうか?」

今はもう故人となってしまいましたが、先ほど紹介した本の著者であるニュースキャスターの筑紫哲也さんを、15歳の時にテレビで初めて拝見して以来私はずっと尊敬しています。

筑紫さんが、グローバル化を提唱するあるアメリカの著述家の基調講演会にて講演者に投げかけた質問が「それで人は幸せになるのか」というものです。

「それで~」の「それ」とはグローバル化のことです。

グローバル化とは一言で説明するならば、それはしばしばアメリカ化と同義なのですが、世界の均質化のことです。

そのグローバル化を強力に推し進めたツールがIT(情報技術)です。

情報技術は確かに私たちの暮らしを劇的に便利にしました。

今回のコロナ禍で、在宅勤務が可能になったのも、こうして大手メディアに属さない私のような一個人が情報発信ができているのも、確かにITがもたらした果実です。

でもそれで本当に私たちは幸せになったと言い切っていいでしょうか?

 

生活が便利になることと、人の幸せはイコールでしょうか?

例えば産業革命で私たちの社会は、飛躍的に便利になり、人類の生産性は著しく向上しました。

しかしその陰で、朝から晩まで工場内で児童労働に従事させられ、学校にも行けず、遊ぶ時間も奪われた子どもたちは、果たして幸せになった言えるのでしょうか?

ITによって私たちの暮らしは便利に、スピーディーに、効率的になりました。

しかしそれは私たちに本当に果実のみをもたらしたのでしょうか?

ここで私が問いたいのは、二宮尊徳の説く物事の功罪です。

 

「手段の自己目的化」という言葉があります。

私たちはある目的を達成するために、ある手段を採用しますが、

その手段を採用し続けているうちに、それを採用し続ける事自体が目的になること、

これが手段の自己目的化という現象です。

例えば、痩せるという目的のために、ジョギングするという手段を採用して、それが快に変わりいつの間にかジョギングすること事態が目的になる。

これは限度を越さない限りにおいて、自分を利する手段の自己目的化です。

同じように痩せる目的のために、食事の回数を減らすという手段を採用して、十分体重が減ったにも関わらず、再び太るという不安から食事の回数を減らし続けてしまう。

これは自分を害する手段の自己目的化と言えるでしょう。

 

便利さと幸せの話をしているところでした。

便利さは確かに、ある程度の範囲において私たちの幸せに資するものでしょう。

しかし私たちは、「幸せ」という目的のために採用した「便利さの追求」という手段を採用し続けること自体が目的になり、

「ある程度の範囲」を超え、自分自身を害する手段の自己目的化の落とし穴にはまってはいないでしょうか?

今回のタイトルに書きましたが、便利さ、効率、速さが私達から奪ったものがあります。

それは心の穏やかさです。

それが便利さの「罪」の部分であると私は考えます。

便利さ、効率、速さを追求するなかで、私たち大人は心の穏やかさを奪われ、子どもたちに受容的な態度で接することが出来なくなりました。

だから動けなくなった子どもたちがゲームの世界にしか居場所を見出せないということが起きてしまうのです。

 

不登校という現象と大人社会の出来事は密接に関わっています。

先日のブログで紹介しましたが、1970年代中ごろ、オイルショックに端を発する大人社会の変化が、それまで微減し続けていた不登校の人数を劇的に押し上げるということが起こりました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~」

オイルショックの後も、私たちの社会は低成長時代に入りこそすれ、一貫して成長、拡大、効率を追求してきました。

先日子どもと一緒に読んでいた英語の長文問題の中で知ったのですが、1909年の世界人口は17億人、1960年代は約35億人ほどだったそうですが、2020年の今、その数は77億を超えるに至りました。

環境問題を扱う本によく書いてあることですが、私たちは今一年間で地球が供給できる資源の1.4倍を(地球上の人間がみな日本人と同じ生活を求めるならば2.4倍を)消費して生きているのだそうです。

地球は無限に広く資源は無限に存在する、などと無邪気に信じてこられた時代はとうの昔にもう終わりました。

それにも関わらず、手段の自己目的化の罠にはまり抜け出すことが出来なくなっている私たち大人。

まるで、有毒ガスが発生した際に鳴き声を上げて人間に危機を知らせてくれる炭鉱のカナリアのように、

そのことに違和感を持つことが出来る豊かな感受性を持った子どもたちが、不登校という現象を通じて、私たち大人に問題を提起してくれている。

不登校という現象の中に私はそのような構造を見ます。

だから変えるべきは子どもたちではありません。

変わるべきは私たち大人です。

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