「良い子」の仮面の裏側で ~なぜ動けなくなるのか~

今日の新潟市、晴天が広がり少し動くと汗ばむくらいです。

先ほど家族で家の近所を散歩してきました。

息子は、タンポポがお気に入りらしく、花を摘んでは花びらをむしって喜んでおりました。

河川敷を歩いたのですが、川から吹く風が心地よく、のんびりと過ごすことが出来ました。

 

前回のブログでは、不登校、引きこもりという現象が増加する裏には、大人社会の構造変化がある、というお話を綴りました。

二つの眼差し ~不登校の社会背景~

気持ち一杯になって動けなくなったお子さんに対してどのような接し方をしたらいいのか。

それを考える前に、なぜ動けなくなるのかをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

なぜならそれが、動けなくなったお子さんに対してどう接すればよいか、のヒントになると考えるからです。

以前のブログで、子どもと接するときに必要なのは、「評価の眼差し」、「共感の眼差し」の二つである、と綴りました。

二つの眼差し ~共感と評価~

子どもが健全に成長するためには、この二つの眼差しがバランスしていることが大切なのですが、

ここ何回かに分けて書いてきた通り、今は評価の眼差しが過剰になっている時代です。

そんな時代の中で、今まで元気で明るく聞き分けのよい良い子だったのに、何かのきっかけで動けなくなる。

私の知る限りですが、引きこもりや不登校にはそのようなケースが多いように感じます。

それでは彼らはなぜ動けなくなるのでしょうか?

 

子どもというのは本来わがままな生き物です。

私には今もうすぐ一歳半になる子どもがいますが、彼は、自分の願望が通らなければギャンギャンと大声をあげて泣いて怒ります。

接しているこちらは本当に大変だなぁと感じることも多々ありますが、あれが本来の子どもの姿なのでしょう。

だからどんな子どもの中にも、わがままで自分勝手にやりたいという願望はあるのです。

もちろん成長するなかで、それを抑え、周囲と折り合いをつけて生きる事を学ぶのはとても大切なのですが、

まだ小さいうちからその我慢が過剰になって、自分の願望を押し殺し、一生懸命周りの大人の期待に応えようとしているのが、明るく元気で聞き分けのよい良い子の姿です。

それではなぜ彼らは「良い子」を演じるのでしょうか?

それは、彼らを取り巻く世界が共感性に乏しく、過剰な「評価の眼差し」に満ちているからです。

もし自分の願望を素直に表現して、周囲の期待に応えず評価を得られなければ、自分は見捨てられてしまうんじゃないか?

そのような不安を子どもに抱かせる雰囲気が社会に蔓延しているからこそ、彼らは無理をして「良い子」を演じているのです。

 

自分の願望を押し込めて無理に「良い子」を演じ続けていれば、いつかその子は自分に対してそのような我慢を強いる周囲に怒りや憎しみを持つようになるでしょう。

「良い子」を演じるその仮面の裏側で、彼らは沢山の闇を抱え込んでいるのではないでしょうか?

その怒りや憎しみが外へ向かえば、暴力や夜遊びなどの問題行動になるでしょうし、それが内へと向かえば、自分の殻に閉じこもり引きこもることになるのでしょう。

私の実感としては、今は怒りや憎しみが外へ向かう子よりも、内へ内へと向かい動けなくなる子の方が多いように感じます。

ここに書いていることは、私の経験を元にしたものであり、もちろん例外もあるかと思います。

しかし、私の知る限りにおいて考えてみると、不登校、引きこもりの増加という社会現象の裏側には、

このような評価の眼差し過剰な社会の中で、子どもたちが評価を得られず、期待に応えられず、見捨てられたらどうしよう、という不安を抱え込んでいる、

このような構造があるように感じられます。

 

このように「評価の眼差し過剰な社会」の中で、評価されることに、期待に応えることに疲れて動けなくなった子どもたち。

このような構造が認識できれば、自ずと彼らに必要なものが見えてきます。

長くなりましたので、また次回。

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