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「私が悪かったんです、、、」 ~「私」を規定するもの〜

数日春のような暖かな日々が続いています。

日が長くなるだけで、暖かくなるだけで、天気がいいだけで、私は幸せな気持ちになります。

冬の間ずっと晴天が続く太平洋側に住んでいたこともありますが、

この幸せは、灰色の冬がある日本海側に住んでいるからこそ感じられるものなのでしょうね。

 

~「私が悪かったんです、、、」~

お子さんの不登校に悩まれている親御さんのお話を伺っていると、

「私が悪かったんです、、、」

とご自身を責めておられる方が多いです。

しかし親御さんがご自身を責めて辛そうにしているその姿を見て、お子さんは、

「自分のせいで、、、」

と自身を責め、状況はさらに悪化してしまう場合もあります。

自分を省みる視点を持つことは決して楽なことではありません。

どうしても自分自身の至らなさに目が行きやすく、

「なんであんなことしかできなかったのか」

という気持ちになることが多いからです。

それでもお子さんのためにその視点からご自身を省みる親御さんの姿に、

私は強さを感じるとともに尊敬の念を抱くことさえあります。

しかし、「私が悪かった、、、」という時の「私」とは、

私が私の意志で、私の独力で作り上げてきたものなのでしょうか?

 

~「私は、私と私の環境である」~

先日読んだ本の中に、スペインの哲学者である、オルテガ・イ・ガセットの言葉が載っていました。

「私は、私と私の環境である」とオルテガは言います。

「私」とは、私たちが自分自身の意志のみで作り上げてきたものでしょうか?

私たちは私たちの身に起きるありとあらゆる出来事を、

自分自身で選び取って生きてきたのでしょうか?

科学技術が発達し人間に不可能なことなど無いと万能幻想が肥大化した現代では、

自分の人生に起きるありとあらゆることは自己決定できるなどと勘違いしてしまいがちですが、

それは違います。

例えば、生まれた時代、生まれた国、生まれた家、天災、病気、事故、戦争。

「私」という存在は、私が自己決定することが出来ない、さまざまな要素によって規定されているのです。

自分を取り巻く環境から完全に独立した「私」などというものはあり得ないということです。

それが、「私は、私と私の環境である」という言葉の意味です。

親御さんが「私が悪かった、、、」と仰るときの「私」も私と私の環境が作り上げてきたもの。

そうであるならば、今自分を取り巻く状況の原因を「私」にのみ求めることなど出来るのでしょうか?

 

「私」であることを決めてきたのは、私の意志もあるでしょうが、

私は「私」を取り巻く「環境」の方が、大きな影響力を持つように感じます。

今の「私」を考える際に、私の環境を抜きに語ることはできません。

次回は子どもたちを取り巻く「環境」について考えてみたいと思います。

続きます。

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続・「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

前回のブログでは、子どもたちからの、

「こんなこと勉強しても大人になってから使わないでしょう!」

という言葉を受け、私の考えを綴りました。

二つあるのですが、その一つ目が、

「それを学ぶ前の人間に、それを学ぶ意味は分からない」

ということでした。

前回のブログ記事 「こんなこと勉強して何の意味があるの?」

今回は二つ目を綴ります。

推敲の段階では二つと思っていましたが、よくよく考えると前回の考えと地続きだなという気もしてきて、

二つに分ける必要がなかったのだなと後から気づきました。

とりあえず綴ります。

 

~汎用的学び~

子「なんだこれ、訳わからん!」

私「簡単ではないよね。」

子「もうやりたくない!だいたい大人になって二次関数使う人なんているんですか?」

私「使う人より使わない人のほうが圧倒的に多いかもね。」

子「じゃあこんなん勉強しても意味ないじゃないですか!」

私「いやいや、あのねぇ、、、」

今授業中のやり取りを一部再現してみましたが、

ここに書いたように、この手の質問を受けるのは、理科や数学を学習している時が多いです。

確かに二次関数を大人になってから利用する人はごく一部の限られた人かもしれません。

しかし、私たちは数学や理科を通じて、日常生活に欠くことのできないもっと汎用的能力を涵養しているのです。

それは論理的にものを考える力です。

それは、日常生活で腕立て伏せの動作をすることは稀であっても、腕たせ伏せで鍛えた筋肉が日常生活で大いに役立つこと、とよく似ています。

つまり学んでいる題材それ自体を実際に使うことはなくとも、その題材を通して養った力は大いに役に立つということです。

論理的に考える力は、誰かに物事を説明するとき、誰かから物事の説明を受けるとき、必要不可欠な力です。

それを持たなかったために、論理的に破綻してるような嘘くさい詐欺に引っ掛かるなどということさえある訳です。

数学、理科だけではありません。

詳しくは割愛しますが、例えば歴史を学ぶことで、文脈の中で出来事を見る力を、

英語を学ぶことで、日本語とは別の思考方法を私たちは学んでいるのです。

 

~意図せず何かを学んでいる~

上で、私たちは題材それ自体に加え、もっと汎用的な能力を身に着けているという話を綴りました。

もう一歩論を進めれば、何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている、でもそれが何なのかをうまく認識できない。

そんな学びもあるのではと私は考えます。

それを感じるのが、文章読解力です。

文章読解力というものが、本を読むことで確かに身につくことは、よく知られていることですが、

それがなぜなのかをうまく説明できるでしょうか?

何を身に着けたから私たちは文章を読み取れるようになったのでしょうか?

文章を読むことでたくさんの言葉を知ったからでしょうか?

難解な論説文を読んで論の展開の仕方を学んだからでしょうか?

時代の風雪に耐え読み継がれてきた古典に触れて、情緒が豊かになったからでしょうか?

そのどれもが確かにその通りなのですが、そのどれもがこの疑問に対して十分な答えを与えてくれているようには思えません。

一体何が身に着いたから文章が読み取れるようになったのかをうまく説明できないけれど、

読書を重ねることで確かに文章を読み取れるようになる。

それを通じて一体何を学び取っているのか分からないけれど、確かに何かを学び取っている。

そのような学びもあるのだということです。

 

何を学び取っているのかをうまく説明できないのは、前回のブログに書いた通り、

私自身がまだ何かを学び取れていない証拠なのだろうと思います。

別の話をするつもりが、一周回ってもとの話に戻ってしまいました。

前回と地続きと申し上げたのはそういうことです。

何故なのかは分からないけれど、それを通じて確かに人間の生きる力が向上する、そのような学びが存在するということです。

それが今に至るまで消えることなく学問として残り続けるということは、そこに何かしらの人類史的意味があるという証なのであり、

たとえ今の未熟な自分がその意味を上手く咀嚼できないからといって、簡単に切り捨ててはいけない。

様々な事例を挙げて説明してきましたが、要するに私が言いたいことはそういうことです。

 

いくつかの歴史的、地政学的要因が相まって今まで日本は豊かさと安全を享受してきました。

豊かで安全な社会であれば人は未熟なままでも生きていけるので、学ぶことの意味が分かりづらくなってしまったのだと思います。

ただその豊かさと安全が未来永劫続くとは思えない雰囲気が漂ってきていると私は感じます。

(昨今大人の世界にも広がる「学び」ブームもその空気を肌で感じているからこそ、でしょう。)

人口爆発、資源の枯渇、環境破壊、大国の右傾化など、今までと同じ暮らしを妨げるであろう要素はいくつもあります。

これからは好むと好まざるに関わらず、変化を求められる時代になっていくのでしょう。

だからこそ私は、子どもたちに学びを通じて考える力を身に着け、人間的成熟を果たしていってもらいたいと考えています。

 ご家庭でもしお子さんから、

「こんなもの大人になっても使わない!」

と言われた時に参考にして頂けたら、と思います。

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「こんなこと勉強して何の意味があるの?」 

ここ数日、一緒に学習をしている子どもたちから、

「こんなこと勉強しても大人になったら使わないでしょ!」

という言葉を頂きました。

確かに二次関数や三角比、電磁誘導の法則を大人になってから使う人より、使わない人のほうが圧倒的に多いことでしょう。

「使わないものを学んでもしょうがないじゃないか」

私自身、高校生の時にsin、cos、tanを習いながら、

「これはいったい何のためになるのだろうか?」

と思っていた記憶がありますから、その疑問も分からないではありません。

ただ大人になって思うことは、

「意味が分からないことを簡単に切り捨てないでほしい」

ということです。

理由は二つあります。

 

~学ぶ前の人間にその意味は分からない~

一つ目。

何かを学ぶ前の人間が、それが無意味か否かについて判断を下すことは不可能だからです。

それを学び取る前の人間には、それを学び取った後、

自分の世界がどのように変化するのかを想像することができないということです。

人間の変化には量的変化と質的変化があります。

今までできていたことを、今までよりも速く、多く、広範囲に出来るようになること、それが量的変化です。

例えば今まで自転車で移動していたけど、車の免許を取得することでもっと速く移動できるようになった。

これは量的な変化です。

一方、それを学ぶことで、物事の見え方、価値観が変わること、そんな世界があると初めて知ること、それが質的変化です。

例えば赤ちゃんが言語を学び取ること、これは質的変化です。

質的変化とは、物事の見え方、価値観が変わることと書きました。

それには今までの自分の価値判断体系を変化させることが必要なので、学ぶのにそれなりの負荷がかかります。

今までの自分の思考フレームを組み替える作業が必要になりますから、当然苦痛も伴うでしょう。

そして質的変化によって変化した自分の姿というものを、その情報に触れ変化する前の人間が、事前に想像することは難しいのです。

だからそれを学び取る意味も、それを学び取る前の人間には良く分かりません。

例えば想像してみてくだいさい。

赤ちゃんが言語を習得する前に、言語を習得することで自分はこのようなことが出来るようになる、と想像することは可能でしょうか?

赤ちゃんが言語を学び取った意味が分かるのは、言語を学び取った後なのです。

学び取った後になって初めて、

「言葉を学ぶことによって私はこのような事が出来るようになったのだ」

と事後的にその意味を知ることになるのです。

 

質的変化をもたらすような学びであればあるほど、それを学ぶ前の人間がそれを学ぶ意味を理解することは難しいものなのです。

だから、学び取る前から短絡的に「そんなものには意味がない」と意味付けることをしないでもらいたい、

というのが理由その一です。

長くなりましたので、続きはまた次回。

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読書のすすめ ~習慣化するために~

前々回のブログでは、読書離れに対する危機感を、前回のブログでは読書によって得られるものは何かについて、綴ってみました。

読書のすすめ ~読めない、書けない、その理由~

読書のすすめ ~地平線の向こう側~

読書の大切さは分かっているけれど、それがなかなか習慣化されない。

親御さんの中にはそのような悩みを抱えていらっしゃる方もおられることと思います。

そこで、読書習慣をつけるために、何が出来るのかを今回は考えてみたいと思います。

そしてこれは学習の習慣づけに関しても応用できる内容です。

 

~興味と難易度~

どんなに親御さんが読ませたいと願う本であっても、まずお子さんがその本に対してなんの興味もなければ、

きっとその本を読んでもらうことは難しいでしょう。

まずその本のジャンルがお子さんの興味を持てるものを選ぶこと。

これが大切です。

内容と同じくらい難易度も大切です。

人が最も集中できるのは、対象の難易度が自分にとってちょうどよい時です。

例えば、何かゲームをすることを想像してみてください。

そのゲームが自分に対応できる範囲を超えて難しかった場合、

またはものすごく簡単であった場合、そのゲームをしてみようと考えるでしょうか?

自分にとってちょうどよい難易度であるとき、人のやる気は最も引き出されるのです。

だから大人向けの難しい本であったり、低年齢向けの簡単な本であったり、

そのような場合にお子さんの興味を引くことは難しいでしょう。

以上のことから、まず読みたい本はお子さんを本屋さんや図書館に連れて行って、

実際に読んでもらったうえで、お子さん自身に選んでもらうことをお勧めします。

 

~毎日少しづつ~

今まで学習習慣がなかった子に、学習の習慣を身に着けるように話すと、

今まで全くしていなかったことに対する後ろめたさもあるのでしょうか、

1日2時間、3時間学習をする、という大きな目標を掲げがちです。

しかし、その目標の多くが習慣化することはありません。

習慣化するときのコツ、それは少量を毎日続けることです。

学習であれば、1日45分学習をするなどの目標から始めることです。

ストレスとは煎じ詰めれば変化のことです。

あらゆる変化がストレスであるからこそ、昇進や出産などの世間的におめでたいことでも、

精神疾患のきっかけになり得るのです。

大きな変化は大きなストレスになり得ます。

だから初めの変化はハードルを低く設定することが大切なのです。

読書に関して言えば、毎日30分くらいから始めてみるとよいと思います。

その際、始める時間と場所も決めるとより習慣化しやすくなります。

 

~環境~

お子さんにとって強い影響力を持つ環境要因の一つは親御さんです。

私が週に一回家庭教師でお邪魔して本を読むことが大切だよ、と語るよりも、

毎日たくさんの時間を一緒に過ごされる親御さんが、その効用を語るほうが何倍も効果的です。

親御さんご自身がその効用をお子さんに対して語れるためには、

まず親御さん自身がその効用をご自身で体験される必要があります。

どんなに人から説明されても、自分で体験してみなければ分からないことが世の中にはたくさんあります。

そしてそうであるからこそ、体験者の言葉というのは強い説得力を持つのです。

まずはご自身が読書の習慣を身に着けられ、それによって自分は何を得たのかを、お子さんに言語化されてみてください。

「本を読みなさい」と上から目線で語りかけるより、そういう親御さんの姿を見せることが、

お子さんに対して読書の魅力を何倍も雄弁に物語ってくれるのではないでしょうか。

 

私自身、小学校の時は全く本を読まない子どもでした。

先生の「本を読むといいよ」という金言を全力無視して野山を駆け回っておりました。

中学校に入ってから、たまたま手に取った椎名誠さんの旅行記が、私にとって自発的に読んだ初めての本になりました。

それから少しづつ本を読むようになり、大人になった今では、

一日の仕事を終え風呂に入り、眠る前に布団の中で本を読む時間が私にとって至福のひと時です。

本を読むことで得られるものをいくつか挙げてみましたが、私自身本から得たものは数えきれないほどあります。

そういう実体験があるからこそ、ゲームやスマホやテレビの世界に引きこもるのではなく、

本を通してその向こう側にある世界を見つけてほしいと強く思うのです。

あんまり口やかましくいうと逆効果にしかなり得ないと自制もしつつ、

これからも本の魅力を事あるごとに子どもたちに伝えていこうと思っております。

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読書のすすめ ~地平線の向こう側~

前回のブログでは、

・中高生、大学生の読書離れが進んでいること

・文章を読み解く、記述する力が低下していること

・ゲーム、スマホなどが子どもから独りで思考する時間を奪っていること

について綴りました。

前回は読書をしないことによって失われるものについて書きましたが、

今回は読書によって得られるものについて考えてみたいと思います。

 

~地平線の向こう側~

私は普段あまり積極的にテレビを見ません。

テレビの世界で展開される話は、結局商業主義という小さなコップの中の出来事でしかなく、

そのような情報に触れても、自分自身の世界観、人間に対する理解、そういったものが広くなる、または深くなることがほとんどないからです。

それではなぜ本を読むのか?

それは本を読んでいると、テレビとは逆のことが度々起きるからです。

自分が世界だと思い込んでいたものの向こう側にも、実は世界が広がっていたのだと気づかせてくれる。

本の世界にはそのような出会いがたくさんあるから私は本を読み続けるのです。

そしてそのような話に触れ新たな価値観を得ることで、

自分が今まで絶対視していた価値観への囚われから自由になれるのです。

読めば読むほど新しい価値観に触れられる、本を読むことにはそのような効用があります。

 

~葛藤を通じて成熟を果たす~

子どもが成熟を果たすためには、様々な価値観に触れることが大切です。

親の価値観、祖父母の価値観、学校の先生の価値観、近所のおじさんの価値観、親せきのおばさんの価値観、塾の先生の価値観。

それら様々な人の価値観が微妙にずれていて、その「ずれ」の中で揺れ動き葛藤する中で、自分独自の価値観を形作り成熟していく。

子どもはこのようなプロセスを通じて人間的に成長していくと私は考えていますが、

今の日本は、かつて存在した家族、地域社会といった共同体がどんどん存在感を失いつつあります。

子どもによっては接触を持つ大人が親と学校の先生しかいない、などという場合もあり価値観のずれに触れる機会がどんどん少なくなっています。

そんな中で、様々な人の様々な価値観に触れ、自分の中にすでにある価値観と新しい価値観のずれの中で葛藤する経験出来るのが本の世界なのです。

 

~認知する力~

人はどのように物事を認知するのでしょうか?

目に見えるもの、触れられるものであれば、それがそこに存在することを認知するのは比較的簡単です。

それでは目に見えないもの、触れられないものの存在を認知するにはどうしたらよいでしょうか?

それはそれを現す言葉を得ることです。

例えば、オーストラリアの先住民の中には、左右という概念を持たない言語を話す部族がいるそうです。

色も形も質感も大きさも同じだけれど、左右が逆になっている例えば右手と左手のような関係にある物体同士を鏡像関係にあると言いますが、

その言語を話す部族は、この鏡像関係にある二つの物体を異なるものとは認識できないのだそうです。

つまり左右という概念を持たない人たちから見ると、たとえそこに違いがあったとしてもそれを違いとは認識できないということです。

このように人は言葉を通してある概念を得、その概念を通して世界を認知します。

そしてそれを表す言葉を知らなければ、その概念を認知することは出来ないのです。

つまり言葉を得ることで、人は目に見えない、触れられない概念を理解し、その概念を通じてより世界を広く、深く、細かく認知できるようになるということです。

 

~抽象的概念を理解するために~

小学生を悩ませる概念の一つに、算数の割合があります。

割合とはある数に対するある数の比のことで、それは目に見えない概念です。

この割合という概念の理解が難しい子と容易な子がいます。

すべてそうとは言い切れませんが、割合を理解しやすい子は読書が好きな子が多いです。

それは読書を通じて得た言葉を通して抽象的な概念を理解できるからだと私は考えています。

小中高校生に教えていて思うのは、学習進度が進めば進むほど、扱う内容の抽象度は増していくということです。

この間高校生と一緒に読んだ論説文の題材は、話し言葉と書き言葉、印刷された言葉と手書きの言葉の差異について、というものでしたし、

高校数学の一番難解な数学Ⅲの領域では、この世界には実際に存在しない複素数平面などという概念が登場します。

学習進度が増せば増すほど、この抽象的な概念を理解する力、つまりどれだけたくさんの言葉を持っているかが、その子の理解度を左右してきます。

言葉を得るためには、沢山の言葉に触れることです。

たとえ難しい言葉があったとしても、辞書で調べながら本を読み続けることで、

私たちは沢山の言葉を得て、さまざまな概念を認知できるようになっていくのです。

 

今回のブログでは、本を読むことで私たちはいったい何を得られるのか、私見を書かせて頂きました。

「大切なのは分かったけれど、読まないんですようちの子は。」

そんな言葉も聞こえてきそうなので、どうすればお子さんが本を読むようになるかについて次回は考えてみたいと思います。

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読書のすすめ ~読めない、書けない、その理由~

ついこの間、年が開けたと思ったらもうすでに二月。

雪の少ない冬は、車の運転が多い仕事には本当に助かります。

受験生の学習指導に、生まれたての子どものお世話に日々バタバタと過ごす毎日です。

 

私、事あるごとに子どもたちに「本を読みなさい」と何度も何度も言っています。

子どもたちの学習指導に携われば携わるほど、その重要性を感じます。

今回はなぜ読書が必要なのかについて考えてみたいと思います。

 

~子どもたちの読書量~

全国学校図書館協議会が毎年5月に読書量調査を行っています。

第64回学校読書調査

その最新のデータ(2018年5月)によれば、高校生の一か月の読書量は、1.3冊。

全く本を読まない不読率は55.8%に上るそうです。

小中学生は、2001年くらいから読書量が緩やかに上昇し、不読率は下降傾向ではありますが、

高校生は先に挙げたような低調な結果が続いています。

大学生の読書量に関して大学生協が調査した結果によれば、

2017年、1日の読書時間が0と答えた大学生の割合はなんと53.1%にもなるそうです。

読書時間120分以上の学生の割合はほんの5.3%に過ぎませんでした。

大丈夫か、大学生?と思うのは私だけではないと思います。

 

~文章が書けない~

国語の論説文を読んでいると、「筆者の主張していることを120字以内でまとめなさい。」というような問題が度々出題されます。

「空欄に当てはまる言葉を三語で書きなさい。」、とか「○○について説明している箇所を25字で本文中から抜き出しなさい。」とか、

自分で文章を作成せずともよい問題ならば正答率は比較的高いのですが、

文章中に散在する必要な情報を拾い集め、自分の言葉で編集し直すような問題になると、

全く書けないか、書けても参照する部分がずれていたり、言葉の使い方、文と文のつなげ方がおかしかったり、

正答率が大幅に下がってしまいます。

この文章が書けないということと、読書量が極めて少ないということは、間違いなく関係しています。

 

~子どもから時間を奪うもの~

前述の調査で、不読率が中高生に比して極めて高かった高校生。

その読書をしない理由の1位と2位は、

他の活動などで時間が無かったから(64.5%)、他にしたいことがあったから(47.3%)となっています。

私が今まで見てきた限り、高校生になるとまず全員がスマホを持っています。

そして学習中もひっきりなしに、着信音やバイブレーションの音が鳴っています。

特に男の子に多いですが、休みになると朝からずっとゲームをしているという子も多いです。

依存症に気を付けてくださいね、とお話させて頂くことも度々あります。

スマホにゲーム。

高校生だけではなく大人もでしょうが、これらは独りになる時間、思考する時間を人から奪うものだなぁと感じています。

スマホであれゲームであれ、確かに誰かと繋がれるような気はするし、暇つぶしには持ってこいなのですが、

そこに展開する情報は、結局誰かの都合(多くは大人の金儲け)のために作り出された小さなコップの中の話でしかないので、

それらに触れることで世界観が広がるなどということはそうそうあるはずがないのです。

高校生の多感な時期にそのような狭隘な価値観の中に閉じ込められて、

大人の都合に染め上げれていくことは本当に大きな損失だと私は感じます。

 

子どもたちが本を読まないこと、読書しないことで失われるもの、子どもたちから時間を奪い取るもの、と綴ってきましたが、

読書で得られるものとは何でしょうか?

次回はそのような内容を綴ってみようと思います。

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