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情緒を育むために ~自然の中に身を置くこと~

前々回のブログでは、現行教育は、世の中の流れを受けてあまりにも理性を重視しすぎているのではないかという、問題提起を、

情緒と理性 〜人を突き動かすもの〜

前々回のブログでは、人間を強く突き動かすものは、理性ではなく、情緒なのではないかという内容を様々な事例を挙げて綴りました。

感じて動く 〜なぜ人は歌い、踊り、絵を描くのか〜

世の中の流れを受けて、教育の内容が理性偏重になったとしても、ご家庭でお子さんの情緒を育むような子育てをすることは可能です。

今回のブログでは、お子さんの情緒を育む子育ての方法について綴りたいと思います。

 

=自然の中に身を置く=

まず私がお勧めしたいのは、自然の中に身を置く経験をさせるということです。

プロフィールにも書いておりますが、私自身が子どもの頃自然豊かな環境で育ちました。

子どもの頃は川で釣りをしたり、山の中に探検に行ったり、夏になると川で魚を取ったり、冬はカマクラを作ったり、そり遊びをして育ちました。

私は今新潟市という街に住んでおりますが、都市というのは人間の理性の範囲内の世界です。

そこには、大人が脳内で作り出した「意味性」で満たされており、大人が無駄と感じるものはあらかじめ排除されています。

そんな無意味が排除され、大人の考えだした狭量な意味性に満たされた世界で、豊かな想像力、豊かな情緒が育つでしょうか?

一方で、自然というのは人間の理性を超えた世界です。

そこでは、人間の理性を、子どもの想像力を超えるようなことが起こります。

その驚きの体験が子どもたちの感受性を刺激し、情緒を育んでいくのです。

また自然の中で身体を使い遊ぶ中で、冷たい、温かい、痛い、快いなどの様々な感覚を味わいます。

その中で身体感受性が育まれ、それが情緒の豊かさにつながっていくのです。

自然の中に身を置くことで、感じる心が育まれ、情緒が豊かな人間になっていく。

こういうことを言っているのは、私だけではありません。

解剖学者の養老孟子さんも、オーライニッポンというプロジェクトを実施し、

都会の子どもたちを農山村に短期間留学させるという活動を行っています。

子ども農山漁村交流プロジェクト

子どもの頃に自然の中に身を置くことの大切さを分かっていらっしゃるから、こういう活動をされているのだと思います。

続きます。

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感じて動く 〜なぜ人は歌い、踊り、絵を描くのか〜

先日のブログでは、情緒と理性がバランスして初めて人は人らしく生きられるはずなのに、

今の世の中では、理性が重視され、情緒が軽視される傾向にあるのではないか、と綴りました。

理性と情緒、どちらが人を突き動かすのか?

先日のブログでも綴りましたが、それは時に理性であり、時に情緒であり、時に両方であったり、

どちらであると断言することは難しいものだと思います。

そしてその両方があって初めて人は社会の中で他者と協力しながら生きていけるのだと思います。

そういう断りを書いたうえで、私は人をより強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であると考えます。

 

=なぜ理不尽な事件が日々起きるのか?=

テレビのニュースを見ていると、毎日のように誰が誰を殺したとか、殺伐としたニュースが流れてきます。

法を犯すようなことをすれば、その後どうなってしまうのか、知識として知らない人はいないはずです。

つまり論理の部分ではしっかりと理解しているにも関わらず、人は一線を超えてしまうということです。

もし人間をより強く突き動かすものが、情緒ではなく理性であるなら、

なぜこのような事件が起きるのでしょうか?

 

=言葉が無いということ=

私は相田みつをさんのエッセイ作品が好きです。

その中に、“感動とは感じて動くと書くんだなあ”というモノがあります。

もし人間が理屈で動く生き物であるならば、この世の中には「理動」という言葉だってあっていいはずですが、

私が知る限りそのような言葉はありません。

それを表す言葉が存在しないということは、そのような概念が存在しないということです。

つまり根源的に人を突き動かすものは理性ではないということです。

 

=なぜ宗教は存在し続けるのか?=

日本人は、一神教の国々に比べ、寛容な宗教観を持っている民族ですが、

それでも人生の節目節目には神仏に手を合わせ、日々の安寧を願う習慣を持っています。

そして大切な人との別れなど、自分一人では受け容れられないほどの悲しみを背負ったとき、

私たちはそのようなものに頼り、心の危機を回避しようとします。

論理の世界で考えれば、神仏のような存在を証明することはできません。

それでも、私たちは人生の節目に、悲しみに、喜びに、そのような存在に手を合わせ祈る生き物なのです。

もし情緒ではなく、理性のほうが人を強く突き動かすならば、なぜ宗教というものが存在し続けているのでしょうか?

 

=言葉では語り得ぬもの=

言語というのは、論理的な脳が統御する他者と意思疎通を図るためのツールです。

もし人間が言葉を使ってありとあらゆる自分の感情を他者に伝えることができるなら、

なぜこの世に芸術は存在するのでしょうか?

言葉だけでは語り得ぬ何かが心の中に在るからこそ、人は歌い、踊り、絵を描き、

語り得ぬその何かを懸命に表現しようとするのではないでしょうか?

その何かが、言語化し切ることが出来ない、人の情緒というものではないかと私は考えます。

 

“人間は考える葦である”という言葉を残し、数学や物理学の分野で多大な功績を遺したパスカルは、以下のように語っています。

“理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。

それを認めるところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない”

人間を強く突き動かすものは、理性ではなく情緒であるにも関わらず、

理性が重視され、情緒が軽視される世の流れに私は違和感を覚えます。

世の流れを受け、公教育が理性重視の傾向に流れたとしても、ご家庭でお子さんの情緒を育むことは可能です。

次回は私が考える情緒を育む育て方について綴っていこうと思います。

続きます。

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情緒と理性 〜人を突き動かすもの〜

あけましておめでとうございます。

高校受験生、大学受験生の指導が立て込んで、しばらくブログを更新できずにおりました。

私立高校受験、センター試験と一月もバタバタと過ぎていくのだろうと思いますが、

自分の目標に向けて集中して取り組む子どもたちに、今の自分に出来得る精一杯のことをしていこうと思います。

三月までほぼほぼ休みが無い生活が続きそうです。

 

=理性>情緒=

子どもたちの学習指導をしていると思うことがあります。

だいぶ以前からの傾向ではありますが、進路選択で理系を希望する子どもが確実に増えています。

以前は文系を希望する割合が高かった女子でも、哲学、歴史、宗教、美術、文学などの文系分野を希望する学生は減少傾向にあり、

理学、工学、医療分野などの社会に出て即役に立つ度合いが高い、実利的な学部を希望する傾向があります。

個人的には、哲学や歴史、宗教、文学などは、私たち人間とはいったい何者なのかを理解するために大いに役立つ学問であると感じますが、

そういう学問領域よりも、社会に出てからすぐに役に立ちそうな学問領域を選択する傾向が強まっていると感じます。

この傾向を加速させるように2022年から高校の国語教育も変化します。

現行の国語では、必修科目として国語総合、選択科目として現代文A、現代文B、古典A、古典B、国語表現という科目が設けられていますが、

新課程では、必修科目として現代の国語、言語文化、選択科目として論理国語、文学国語、古典探求、国語表現という科目分けがされることとなります。

現行課程の現代文A、Bを、小説、詩、短歌、俳句などを学ぶ文学国語、評論文を学ぶ論理国語という二つのカテゴリーに分けるということですが、

現場の先生からは大学受験の出題傾向を受けて、多くの学校は論理国語と古典探求を選択し、文学国語は選択されなくなるだろうと言われています。

そもそも、人が書いた文章の真意を深く理解するためには論理的思考力と情緒的成熟の両方が必要になるはずで、

それを二つに分けてしまうこと自体に私はだいぶ違和感があるのですが、、、。

この情緒を軽んじ論理を重んじるという傾向は何も、勉強の世界に限った話ではなく、それが世の中全体の大きな流れなのだと感じます。

例えば何かモノを買う時も、知り合いのお店にお金を落とすより、大型量販店で一円でも安い商品を購入することが、消費者として正しい振舞であるという信憑が世の隅々まで広く行き渡っています。

今働く人の四割弱を非正規労働者が占める時代ですが、派遣社員や契約社員を増やしたほうが、企業の人員調整がしやすく、人件費も抑える事ができます。

その分自社で働く労働者の雇用は不安定になりますが、情緒よりも論理・理性を重んじる世の中ではそれは政治的に正しいふるまいと評価されます。

このように世の中全体が、情緒的なものより論理的・理性的なものを評価する時代になっていますが、私は「大丈夫ですか?」と言いたくなります。

私は大学で環境問題について学んできました。

大学を卒業してからも環境分析の仕事に携わってきました。

そして今、不登校、引きこもりという世の中から問題視される現象と関わっていますが、

環境問題も不登校、ひきこもりも根は一緒の問題だと感じています。

どちらも対象への表面的理解がもたらしている、という点で同根だと考えるのです。

続きます。

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