Categories
ブログ

「好き」という力 ~椎名誠さんの講演会で思ったこと~

11月23日、いつもお世話になっている新発田市の図書館、イクネス新発田の入場者100万人記念のイベントにお邪魔してきました。

記念講演をしてくださるのは、中学生の時にその著書を読んで以来憧れている冒険家で著述家で写真家の椎名誠さん。

椎名誠さんは、私が小学生のときに「椎名誠と怪しい探検隊」という番組をやっていて、毎週土曜日だったと記憶しているのですが、楽しく観ていた記憶があります。

小学生の時分には、担任の先生の「本を読みなさい」というありがたいお言葉を全力で無視して、サッカーに、野球に、自転車に、釣りに夢中になっていた私ですが、

中学生になったんだからちょっと本でも読んでみようかな、とおずおずと手に取ったのがテレビで見知っていた椎名誠さんの本でした。

息子さんとの思いでを綴った「岳物語」「続・岳物語」。

オーストラリアの砂漠を横断した「熱風大陸 ダーウィンの海を目指して」、日本の真裏パタゴニアを旅した「パタゴニア あるいは風とタンポポの物語」などの冒険記。

中でも私が好きなのが、何気ない日常を椎名誠さんの目線で綴ったエッセイ集です。

寝る前にぬくぬくと布団に潜り込んでそれらの本を読んでいると、本当幸せだなぁと感じます。

そんな憧れの人椎名誠さんに会えるので、朝からワクワクソワソワしながらお邪魔してきました。

 

講演のタイトルは「本の夢、本の力 ~本から得る夢、読書は自身の力に~」というものでした。

独特の空気感を漂わせながら、とつとつと語り始めた椎名誠さん。

新潟の粟島を仲間と冒険した話、中国を冒険したときのトイレの話、南米パタゴニアで見た氷河の話、同じく南米を旅した際に飲んだ醤油スープが今までで一番美味かったという話。

世界各国を冒険した際の話をたくさん聞かせてくれました。

世界各国を冒険して回っている椎名誠さんですが、その原点は子どものときに読んだ、「十五少年漂流記」や「さまよえる湖」という冒険ものの本だったそうです。

学生時代は喧嘩ばっかりしていて、大学も中退されているはずの椎名さんですが、お話を聴いていると本当に博学な方だなぁと感じました。

自身の好奇心に素直に従って生きている中で、不思議に思ったこと、疑問に感じたことを自身で調べるうちにたくさんの知識を得てこられたのだろうと思います。

何かを好きだと思える気持ちがその人の好奇心を刺激し、それが原動力となっていろんなことを調べ、博識になっていく。

本当に理想的な学びの形だと思います。

 

私は家庭教師として、日々子どもたちと一緒に学習をしていますが、

大人が用意した問いに、大人が喜ぶような答えを出すことばかり繰り返しているうちに、自分が何が好きかも分からなくなって、好奇心を持つことも忘れてしまっている。

そういう子どもも多いと感じます。

学校教育で教える内容は、子どもたちが生きていくうえで役に立つ素晴らしい内容だと私は考えていますが、

その教え方、評価の仕方については、考え直す必要が大いにあるとも感じています。

学習することの目的は、誰かと比べて自分の方が秀でていると悦に浸ることでもなく、自分は何もできないと卑下することでもありません。

自転車に乗れるようになったときに感じた気持ちのように、逆上がりが出来るようになったときに感じた気持ちのように、

昨日の自分には分からなかったことが、今日の自分にはわかる。

その喜びを得ることが学ぶ目的ではないでしょうか?

その喜びを味わってもらえれば、誰かが強制せずともその子は一生自発的に学び続けるようになるでしょう。

そういう状態になってもらうために、学習に携わる大人がどうするべきか、まだまだ学び続けていかなければならないと思っています。

どんな仕事もこれでいいと思ったらそれでおしまいです。

研鑽を重ねていかねばという気持ちを新たにした講演会でした。

.jpeg

Categories
ブログ

情報の海で溺れぬために ~知の蓄積がもたらすもの~

先日のブログでは、情報過剰な世の中で翻弄されることなく生きるためには、情報量を絞り込み、知識を身に着けることが大切である、と綴りました。

情報の海で溺れぬために ~I、K、W

前回のブログでは筑紫哲也さんのI、K、Wのお話をご紹介しました。

IはInformation(情報)、KはKnowledge(知識)、Wはwisdom(知恵)です。

知識の蓄積によって私たちは押し寄せる情報に右往左往することなく生きていけるようになるのですが、

知識の蓄積で得られるものはそれだけではありません。

知の蓄積が私たちになにをもたらしてくれるのか、見ていきたいと思います。

 

=知識が知恵に転化するとき=

wisdom(知恵)とは抽象的な言葉です。

知恵:物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事を筋道立てて計画し、正しく処理していく能力。(大辞泉より引用)

知恵とはつまり、ある事柄を自分で判断し、処理していく能力のことです。

これはいかにして身につくのでしょうか?

私は、知恵とは知識が経験と結びつくことによって得られるものだと考えます。

経験があっても知識がなければ、その経験が自分にもたらす何かを認知できないわけですから、そこから何かを学び取ることは難しいでしょうし、

知識があっても経験が伴わなければ、それは身体感覚を伴わない単なる知識でしかなく、実生活に役立つ判断能力にはなり得ないでしょう。

つまり、知識を蓄えておくことで、それを蓄えていない人に比べて、私たちは知恵を身に着ける機会を得やすくなるということです。

 

=アイディアは既知情報の新しい組み合わせ=

知識の蓄積は、新しいアイディアが生まれる土壌を作り出します。

アイディアとは、既知情報の新しい組み合わせだからです。

例えば私たちが毎日のように使っているスマートフォンという便利で厄介な道具がありますが、

あれは、カメラと電話とパソコンを組み合わせることで生まれました。

このようにアイディアとは既知情報の新しい組み合わせなのですから、

頭に様々な知識が蓄積されていればいるほど、新しい結びつきが生まれやすくなるわけです。

知の蓄積が私たちに様々なアイディアをもたらしてくれるわけです。

 

=記憶力が良い人とは沢山記憶している人=

記憶力は年齢とともに衰えていくものと今までは考えられてきました。

しかし、円周率4万桁を暗記した友寄栄哲さんが、そのギネス記録を打ち立てたのは、なんと54歳の時でした。

友寄さんが記憶した方法は、数字の並びをイメージと結合したり、なじみ深いものと結び付けたりして、ストーリーに仕立てて記憶するというものでした。

つまり、自分の脳内に蓄積された他の知識と結び付けることで新たな情報を記憶していくということです。

つまり記憶量が多ければ多いほど、既知の知識と新しい知識が結びつきやすくなるわけですから、記憶力の良い人とは、たくさん記憶している人と言えます。

頭の中に体系化された知のネットワークを作ることで、新しく入ってきた智識は既存の知識と関連付けられた形で脳の中に配置されます。

それは例えるならば、系統立てて書籍が配置されている図書館の書架に、新しい本が配置されるようなイメージです。

知識が独立して頭の中に入っているより、ほかの知識との関連性の中で記憶されているため、記憶として脳に留まりやすくなるのです。

 

日本の教育は知識偏重で良くないと言われることも多いですが、私は必ずしもそう言い切ることはできないと考えます。

先日参加した勉強会で教わったことですが、日本人ノーベル賞受賞者にはある共通項があるそうです。

それは全員国立大学出身者であるということです。

つまりセンター試験や共通一次試験を通過し、それ以前であっても国、数、英、理、社の五科目受験をしてきたということです。

創造的仕事をする人ほど、しっかりとした一般教養を身に着けており、それがイノベーションに繋がっているという好個の例だと思います。

 

情報の海で溺れぬために、そして知識や新しいアイディアで、困難を抱える誰かの力になれるために、子どもたちには学び続けてほしいと感じます。

そのためにも、私を含めた大人が学び続けその楽しさを、意義を、言語化し、子どもたちに伝えていく必要があるのです。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

IMG_0756

Categories
ブログ

情報の海で溺れぬために ~I、K、W~

前回のブログでは、学ぶために情報が必要ですが、誰でも気軽に情報発信者となれる時代だからこそ、

発せられる情報が玉石混交状態であるという前提で接する必要がある、と書きました。

情報の海で溺れぬために ~玉石混交の時代~

特に困難の中にあり、気持ちが塞いで弱っているときほど、抱え込んだ不安感や寂しさゆえに、怪しいものに引き付けられ騙されやすくなってしまうものです。

“情報とは差異を生み出す差異である。”

社会学者であるグレゴリー・ベイトソンという頭の良い人は、情報をこのように定義付けました。

この定義を採用するならば、ある情報がまたある情報を生み出すこと、つまり情報とは無限に自己増殖するものであることが分かります。

情報に乏しかった昔とは違い、頼みもしないのに様々な情報が私たちに向かって押し寄せてくる時代。

それは、一人一人が情報とどのように向き合うべきかを考えなければならない時代と言えるのではないでしょうか。

玉石混交の情報が溢れかえる現代で、溺れることなく生きていくために必要なことはなんでしょうか?

 

私が初めて筑紫哲也さんを知ったのは、高校一年生の春、夜のニュース番組を見ていた時でした。

自分なりの信念を持ち、かといってそれに固執するわけでもなく、それでいて違うと思ったことにははっきりと異を唱えるその姿に、

子どもながらもジャーナリストとしての気概を感じ、かっこいいおじさんだなぁと思ったのを今でも覚えています。

その筑紫哲也さんの著書「若き友人たちへ 筑紫哲也ラストメッセージ」の中に、情報社会で生き抜くためのヒントがあったので、ご紹介したいと思います。

 

筑紫さんは、Information、Knowledge、Wisdomという三つの言葉を使って、情報社会での身の処し方を紹介されています。

情報社会の中で日々私たちが触れているものが、Information、情報です。

例えば、明日は雨が降るでしょうとか、例えば○○さんが亡くなったとか、例えば、どこそこで交通事故が起きたとか。

しかし、前回のブログでフェイクニュースに言及しましたが、このようなInformation自体、真贋入り混じっていることが多いのが今という時代です。

そのInformationの真偽を確かめるために必要なものが、Knowledge、知識です。

長年時代の風雪に耐え、その真贋を吟味された情報だけが、知識として残り得るわけです。

例えば江戸幕府を開いたのは徳川家康で、その体制は265年続いたとか、

二次方程式の解は、二次曲線と座標軸の交点のX座標であるとか、

権力の暴走を防ぐために、司法、立法、行政の三権を分立させお互いに監視させているとか、

温帯低気圧は温暖前線と寒冷前線の二つの前線を伴い、寒冷前線が通過後はグッと気温が下がるとか、

これらはすべて時代の検証に耐え残り続けた知識です。

このような知識がしっかりと根付いてくることで、日々頼みもしないのに押し寄せてくる情報の真贋を判断し、右往左往することなく生きていけるようになるのです。

そしてその蓄積された知識が、様々な作用によって自分自身で判断していく力Wisdom、知恵に転化していくのです。

この自ら判断する力、Wisdomを得るためにはKnowledgeの蓄積が必要で、一足飛びに手にできるものではありません。

その人が生きる中で経験する様々な作用によってもたらされるものです。

その様々に関してはまた次回のブログに書いてみたいと思います。

 

情報が溢れかえる世の中で、翻弄されずに生きるためにまず私たちに必要なことは、Knowledge、知識の蓄積です。

そしてそれは大人だけではなく、子どもにとっても同じです。

溢れかえる情報の中で溺れることなく生きていくためには、一度情報の入力を減らし、しっかりとした知識の地図を自分の頭の中に構築する時間が必要なのです。

無知のまま溢れかえる情報の中に身を置けば、自己増殖する情報の海の中で翻弄されることは必至です。

子どもたちと学んでいると、「こんなこと勉強してなんか意味あるの?」という問いを投げかけられることがありますが、

その答えの一つが、情報に振り回されず、その真贋を判断するために必要な知識を蓄積するためです。

続きます。

家庭教師のお申込み、お問い合わせはこちらからどうぞ。

2d6c505e9f92c2262951079f4822b1a4_s

 

Categories
ブログ

情報の海で溺れぬために ~玉石混交の時代~

誰かのお仕着せの価値観が人を苦しめること。

自分自身が生きる中で手にした価値観がその人を支えてくれること。

そして誰かの価値観に縛られることなく、自分自身の価値観を獲得するためにも、私たちは学び続ける必要があること。

前回のブログでは、このような内容を綴りました。

価値観  ~人を支えるもの~

 

私たちは学び続ける必要があると書きましたが、現代はインターネット上に様々な情報が溢れかえる時代。

気を付けなければならないことがあります。

それは何から学ぶのかということです。

 

インターネットで流布される虚偽情報をフェイクニュースといいます。

例えば熊本自身が起きた際、動物園からライオンが逃げ出したと虚偽のニュースを流し、逮捕者が出たことがありました。

また、先のアメリカ大統領選挙では、ロシアがクリントン候補に関する虚偽情報をネット上に流し、それにトランプ陣営が関与していた疑いが持たれ、今も捜査が続いています。

誰でも気軽に情報を発信し、受信できるようになったからこそ、私たちはその情報の真偽に注意を払わなければなりません。

 

個人で起業する動きが活発になり、ブログやSNSで情報発信する人も増えてきましたが、

発しているその情報が、実績も伴わなければ学術的裏付けもない、その人個人の思い込みレベルのものも多く見受けられます。

悩み苦しんでいるときは、気持ちがいっぱいで視野も狭くなっているため、

ついつい人は、一見自信ありそうに見える人が発する言葉や、耳障りのよい言葉に乗せられてしまうのかも知れません。

悩んでいる人が、そういう類のビジネスに引っ掛かり、今よりさらに状態が悪化したり、事件になったり。

私自身そういう話をいくつも見聞きしてきました。

 

ご自身のために、大切な人のために、学び続けることは必要ですが、

この玉石混交の情報が入り混じる時代、情報の海で溺れぬために必要なことは何か?

考えてみたいと思います。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

a563d54f1d2cca23ba8e68c7030ec8be_s

Categories
ブログ

価値観  ~人を支えるもの~

「かくあるべし」と人を苦しめるのは、誰かの都合によって押し付けられた価値観であること。

現代日本を覆う価値観は「金になればなんでもいい」という資本主義、拝金主義であること。

価値観なんて絶対不変のものではなく、国が変われば、時代が変われば簡単にひっくり返る程度のものでしかないこと。

ここ数日そのような内容を綴ってきました。

 

人を苦しめるのも価値観ならば、人を支えてくれるのも価値観です。

人を苦しめる価値観、人を支える価値観。

両者を分けるものとは何でしょうか?

人を苦しめる価値観、人を支える価値観。

両者を分けるものは、その価値観の来歴です。

人を苦しめる価値観。

それは誰かの都合によって押し付けられたもの。

人を支える価値観。

それは日々生きる中で、自分の手でつかみ取ったもの。

その違いです。

 

いい学校を出て、いい会社に入って、退職まで一生そこで面倒を見てもらうというキャリアパスが過去の遺物となった今、

「勉強したって意味ないよ」などという声も世間からは聞こえてきます。

本当でしょうか?

私はそういう時代であればこそ、人は学ぶ必要があると考えています。

誰かの都合で押し付けられた価値観が破綻しかかっている今、

私たちは、その価値観から脱皮して自分自身で価値観を作り出して行かねばなりません。

そのためにも私たちは学び続ける必要があるのです。

人は学べば学ぶほど、誰かの都合で押し付けられた価値観から自由になることができるからです。

例えば歴史を学べば、現代日本の価値観を相対視する視点が得られます。

現代日本では、このような価値観が広く信じられているけれど、

それは決して絶対的なものではなく、この時代特有のものでしかないのだと気が付けるようになるのです。

例えば国語で小説を読めば、物語の登場人物に自分を投影して、さまざまな価値観に触れることができます。

そういう経験を通じて、親の言うこと、先生の言うことは必ずしも正解ではなく、

実はその人特有の思い込み多いのだ、と気が付くことが出来るようになります。

例えば英語を学ぶことで、外国の文化、思考に触れ、自分が絶対のものと信じていた価値観が、

実は自分が暮らすこの国特有のものでしかないのだと気が付くことができるのです。

 

このように何かを学ぶという経験を通じて、人は誰かの価値観から自由になることができるのです。

そして学びのプロセスを通じて、色々な人が言う色々な事柄の中で揺れ動き葛藤し、自分なりの価値観を見出していくのです。

学び葛藤する中で自分の力で手にした価値観が、誰かの都合のお仕着せの価値観から人を自由にしてくれる。

そして苦しい時に自分を支えてくれるのも、そのようなプロセスを通じて自分の手でつかみ取った価値観なのだと私は考えます。

今までの価値観が破綻しかかっている今だからこそ、私たちは学び続けなければならないし、

そのプロセスでつかみ取った価値観が、私たちを既存の価値観の軛から自由にしてくれるのです。

 

学ぶというのは葛藤し続ける事、それは古い自分を壊し、新しい自分を創り続けることです。

生物学の言葉に「動的平衡」という言葉があります。

生物を構成する組織は見た目には同じ形をとどめていますが、その中で実は古い細胞が壊れ、新しい細胞が生まれるという動的プロセスが繰り返されています。

古いものを壊し、新しいものを生み続ける破壊と創造の連続が、その生物がその生物として存在し続けることを可能にしているのです。

それはなにも生物の細胞レベルに限った話ではなく、人の成長に関しても同じではないでしょうか?

誰かの価値観に縛られた古い自分を壊し、学びを通じて新しい自分を創造し続けていくからこそ、

力を持つ者が押し付けてくる価値観に変えられることなく、縛られることなく、その人はその人として成長し続けられるのです。

 

学び、学びと何度も書いてきましたが、玉石混交の情報が溢れかえる時代。

情報の海で溺れぬために気を付けなければならないことがあります。

次回からはそのような内容を綴りたいと思います。

お問合せはこちらからどうぞ。

78ecfb7b8a6fcc4de20dcce24ccc87fa_s

 

 

Categories
ブログ

価値観 ~国が変われば、時代が変われば~

前々回、前回のブログでは、「かくあるべし」という価値観が人を苦しめること、

そして今この国を覆う価値観は資本主義、拝金主義であること、と綴りました。

人を苦しめるほど強い力を持つ価値観ですが、それは決して絶対不変のものではありません。

時代が変われば、国が変われば、その価値観は様々に変化します。

いくつか例を挙げたいと思います。

現代の日本では、「働かざる者食うべからず」という諺にもあるように、働くこと、労働が美徳であると考えられています。

しかし、古代ギリシャでは、人々はそのような価値観を持っていませんでした。

古代ギリシャの人々が一番い重きを置いたのは、内省や瞑想を通じて自然界や宇宙の真理について考える「観照」という活動でした。

生活のために働くことは、観照活動を妨げ、人間を家畜のような動物的存在に留めおくものと考えられ、労働とは奴隷が行うものという価値観を持っていました。

シェイクスピアの作品に「ベニスの商人」があります。

舞台は中世イタリアの国際都市、ベニス。

貿易商を営むアントニオは、友人の結婚資金を工面するために、ユダヤ人の金貸しシャイロックからお金を借ります。

そのお金の貸し借りを通じて法とは、愛とは、友情とは、を問うというのが物語の主題です。

現在でも一時期ほどではないにしろ、いまだに就職先として銀行は人気があります。

しかし、ベニスの商人のなかでは、宗教上の理由もあるのかもしれませんが、金貸しのシャイロックは人々から蔑まれ、嫌われる存在として描かれています。

現代とは違い、当時のヨーロッパでは金融業とは、卑賤なものという社会的位置づけの仕事だったのです。

これも国が変われば、時代が変われば、価値観が変わることの一例です。

私は普段ほとんどテレビを見ませんが、NHKのBSプレミアムだけは好きでよく録画して見ています。

その中に「世界入りにくい居酒屋」という世界各国の地元の人から愛される居酒屋をめぐる番組があります。

東アジア、東南アジア、ヨーロッパ、中南米、北米、豪州、様々な国をめぐるのですが、

結構みんな平日の昼間から気の合う仲間たちと一緒に酒を飲んでいます。

どこの国かまでは忘れましたが、「俺たちは金はないけど時間はいっぱいあるんだ。アハハハッ」と楽し気に話す人が映っていました。

日本では仕事が優先され、家族や友人と過ごす時間は後回しにされがちですが、

諸外国の人は、お金儲けも大切かもしれないけれど、家族や仲間と一緒に食卓を囲む時間をそれ以上に大切にする、という価値観を持っていることが分かります。

人を苦しめるものが誰かの都合で押し付けられた価値観であること。

今日本を覆う価値観は「金になるか否か」を至上の価値とする資本主義であること。

前回、前々回とそのような内容を綴ってきました。

しかし今回見たように、そんなものは国が変われば、時代が変われば一変してしまう程度のものでしかありません。

だからその程度のものに縛りつけられて、そのルールに順応することが出来ない自分を責め苛む必要などないのです。

国が変われば、時代が変われば。

誰かの都合で押し付けられた価値観など、その程度のものでしかないのです。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

b95e3296189065c1aff8760fb92a130e_s

Categories
ブログ

価値観 ~金になればなんでもいい~

人が抱える悩みとは「かくあるべし」という価値観がもたらすもの。

そしてそれは結局力を持つ誰かの都合で決められたものでしかない。

昨日のブログではそのようなことを綴りました。

 

今の日本を覆う価値観。

それは資本主義です。

拝金主義と言い換えてもいいかもしれません。

効率的であるべし。

お金を儲けるべし。

競争に勝つべし。

一人一人の「こうしたい」「これが好き」という価値観を押しつぶすように、

資本主義は私たちに様々な「かくあるべし」という価値観を押し付けてきます。

資本主義が私たちに押し付けてくる価値観、そのいくつかを挙げてみたいと思います。

 

・GDPというモノサシ

GDP(国内総生産)の多寡が、その国に住む人の幸せを決めるかのような価値観があります。

その国の経済活動の活発さが、その国に住む人の幸福度を決めるという信仰です。

戦争に使われる武器を生産しても、

環境を破壊するような公共工事をしても、

未来に負の遺産を残すような原発を動かしても、

長い目で見たときに、必ずしも人の幸せに資することなき活動をしても、

それらの経済活動はすべてGDPとしてカウントされ、

それがまるで人の幸福度を表す指標であるかのように用いられています。

 

・実学志向

仕事柄、子どもたちの進路相談を受けることが多いです。

今の学生たちは、自分の進路を選択する際、自分がしたいことよりもそれがお金になるかどうかで進路を選択する場合が多いです。

自分の「○○が好き」「○○がしたい」という欲求に従うよりも、「お金になるか否か」という価値観に従って自分の将来を決める。

事の良否は一端脇に置いておいて、そのような傾向があります。

そしてそれは、そっくりそのまま私たち大人の傾向でもあります。

 

・安いもの=良いもの

私たちがものを買う際、知らず知らずこの価値観に縛られていることが多いのではないでしょうか?

たとえそれが環境汚染を引き起こすような生産方法で作られた食べ物だとしても、

たとえそれが生産者の健康を害するような労働環境で作られた服だとしても、

製品の値段さえ安ければそれでいいじゃないか。

その価値観が私たちの消費行動を気づかないうちに決めている。

そういうことが多いのではないでしょうか?

 

今見てきたように、本当に一人一人の幸せに寄与するかどうか分からない価値観を、資本主義は押し付けてきます。

そしてそれがその価値観のもとで生きる人を苦しめている。

私にはそんな事例が多いように感じられます。

 

私は前職で産業廃棄物処理工場で働いておりました。

そこには毎日毎日大量のゴミが運び込まれてきます。

その中には、便利な製品を作る過程で排出される有害物質がたくさんありました。

どんなに便利な製品を作っても、その裏では大量の有害物質が出ることを知りました。

まだ食べられるレトルト食品やアイス、まだ使えるマスクや入浴剤やホッカイロ。

製品自体には何の問題もないにも関わらず、在庫処分の名のもとに大量廃棄されていることを知りました。

確かにお金にはなるかもしれないけれど、果して自分のやっていることが人の幸せに寄与することと言えるのだろうか?

仕事をしながらずっと悩んだ末に、私は会社を辞めました。

 

資本主義という世界を覆う価値観。

それはそのシステムの中で力を持つ者から押し付けられた価値観でしかないのですが、

かつての私のように、その中で苦しみながら生きている人がとても多い。

これは単なる主観でしかないのかもしれません。

でも、今の世の中は私の目にはそのように映ります。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

b2932c47037f3e4fa7e30938d4df92fb_s