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電卓があっても数学を学ばねばならない理由

学校教育は洗脳などではなく、子どもたちの世界観を広げてくれる素晴らしい内容。

「学校教育は洗脳」という洗脳

それでは学校教育を通して得られるものとは何か?

そんな内容でここ数回ブログを綴っております。

国語を学ぶことで得られるもの、英語を学ぶことで得られるもの、歴史を学ぶことで得られるもの、と私の考えを綴ってきました。

世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

今回は数学、理科を学ぶことで得られるものについて。

=「こんなこと勉強してなんか意味あるんですか?」=

子どもたちと一緒に学んでいると、度々そう問われることがあります。

特に言われる頻度が高いのが、数学、理科かもしれません。

「三角比?」

「微分積分?」

「四則演算出来ればいいでしょ!」

「電磁誘導?」

「酸化還元?」

「これ何に使うんですか?」

表面的なことにばかり目を奪われていると、個別の知識は役に立たないように見えるのかもしれません。

三角比、微分積分、酸化還元、電磁気。

それらを学ぶことによって得られるもの。

個別の知識それ自体を得ているのはもちろんですが、もっと汎用的な能力が得られます。

それは論理的思考力です。

腕立て伏せの動作は日常生活ではなかなか行いませんが、腕立て伏せで鍛えた筋肉は日常生活の役に立つように、

数学や理科の問題を通して論理的思考を繰り返すことで身に着けた論理的思考力は、日常生活で非常に役に立つものです。

論理的思考方法の代表例として、演繹法と帰納法を紹介したいと思います。

=演繹法=

広く認められているルールと目の前で観察される事柄からある結論を導き出すことを演繹法と言います。

例えば、二つの三角形がぴたりと重なり合うには、どのような条件が必要でしょうか?

これは三角形の合同条件と言って、中学校二年生の数学で学ぶ内容です。

三つあります。

1、三辺がそれぞれ等しい。

2、一辺とその両端の角がそれぞれ等しい。

3、二辺とその間の角がそれぞれ等しい。

この三角形の合同条件は広く認められたルールです。

さて、今目の前に二つの三角形、△ABCと△DEFがあったとします。

そしてその二つの三角形の三辺の長さを測ってみるとそれぞれ長さが等しいことがわかりました。

これは目の前で観察される事柄です。

三角形の合同条件という広く認められているルールと目の前で観察される事柄を照らし合わせれば、

今目の前にある二つの三角形△ABCと△DEFは合同、つまりぴったりと重なり合うという結論が導きだせることが分かります。

今の話の流れをまとめれば、

三角形の合同条件(ルール)+三角形ABCと三角形DEFの三辺の長さがそれぞれ等しい(観察事項)→二つの三角形は合同(結論)

となり、これは演繹法で考えていることが分かります。

上の例のように演繹法は数学の証明問題などで度々用いられる論理的思考法です。

=帰納法=

目の前で観察される複数の事柄から共通項を見出し、それを元に仮説を立てる。

この思考法を帰納法といいます。

18世紀、オーストリアの司祭であるグレゴリー・メンデルは、黄色のえんどう豆と緑色のえんどう豆を交配すると何色になるのか、という実験を行いました。

実験の結果、すべてが黄色になりました。

この結果を受けてメンデルは、えんどう豆の色を決める遺伝子には、豆を黄色にするものと、緑色にするものがあり、

その特徴の現れやすさには優劣関係がある、という新たな仮説を立てました。

これは現在、遺伝法則の一つである優勢の法則として知られています。

この思考方法は、

黄色と緑のえんどう豆を交配するとすべてが黄色のえんどう豆になる、という観察される事実から、

ある遺伝形質(今の例では豆の色)を決める遺伝子が複数存在する場合、それらには発現のしやすさに優劣がある、という新たなルールを導き出しました。

これは帰納法の思考方法になっていることがわかります。

このように帰納法とは、理科の分野で良く用いられる論理的思考方法なのです。

=論理的思考力=

上で見てきたように、私たちは数学、理科で教わる内容を通じて、知らず知らずのうちに論理的思考の訓練をしていることがわかります。

論理的思考力が必要なのは、何も数学や理科の分野に限ったことではありません。

例えば社会人になって人前でプレゼンをするときなど、演繹法や帰納法を使って話を筋道立てて進めていくことが出来れば、

自分のプロジェクトに周りから共感や協力が得らやすくなるでしょう。

また誰かの話に耳を傾けるとき、その話の流れが論理的思考の型としておかしくないか、論理的に破綻がないかどうか判別できれば、

悪い人間が持ちかけてくる悪い話に騙されることも無くなるでしょう。

このように、数学や理科を学ぶことを通じて得られる論理的思考力とは、決して数学や理科の範囲にとどまるものではなく、

私たちの生活に広く深く根差したとても汎用的な能力であることがわかります。

三角関数、微分・積分など、取り扱う個別の事柄はもしかしたら大人になって使わない人のほうが多いかもしれません。

ただそれらの事柄を学ぶ過程で身に着ける論理的思考力を必要としない人は、まずいないと言っていいと思います。

私が考える、数学・理科を学ぶ意味。

それはこのようなとても汎用的な力である論理的思考力を鍛え、社会の中で役立てていくためです。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

学校教育は洗脳などではなく、子どもたちの考えるための土台を築く素晴らしい内容であること。

そしてその素晴らしさに気づき辛いのは、学校教育が万人に等しく教育の機会を与える、非常によくできたシステムであるから、と述べてきました。

「学校教育は洗脳」という洗脳

前回は他言語を学び取ることで、私たちが何を得ているのかを考えてみました。

世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

今回は私も大好きな歴史を学び取る意味を考えてみたいと思います。

 

=愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ=

歴史を学び取る意味。

その第一は先人のトライ&エラーから学べるということです。

例えば1600年、関ケ原の戦い。

西軍の大将石田三成は豊臣秀吉の遺言を忠実に守り、言っていること、やっていることは論理的に正しいのですが、

その正しさばかりを振りかざす態度から、周囲の武将たちに嫌われ、人心は離れていってしまいます。

一方東軍の徳川家康。

秀吉の遺言を破り、やりたい放題にも関わらず、豊臣恩顧の大名たちまで味方に引き入れ、戦に勝利、天下統一を果たします。

石田三成が見逃し、徳川家康に見えていたもの。

それは人間は理屈ではなく、感情で動くということです。

三成より家康の方が人間に対する理解が深かったということですね。

このように過去の歴史を振り返ることで、先人たちが積み重ねてきた膨大な試行錯誤から、

今を生きる私たちはたくさんのことを学び取ることが出来るのです。

 

=文脈の中で物事を見る力=

二つ目は文脈の中で物事を見る力を養えることです。

1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開戦。

1941年、パールハーバーへの奇襲作戦から太平洋戦争開戦。

アメリカ、イギリス、中国、オランダ、フランス。

世界を敵に回してなぜ日本はこのような無謀な戦争に突入したのでしょうか?

日中戦争、太平洋戦争という二つの事柄だけを見ていたのでは、その理由は見えてくることあありません。

日清戦争、日露戦争という二つの大国を相手にした戦争で勝利したことで、日本国内では軍部がその発言権を増し、武力をもって政党政治を無力化し中国に対して強硬な態度を強めていったこと。

日本が中国でその存在を増すことを嫌ったアメリカが、日本に対して石油や物資の輸出を取りやめたこと。

打開策として南方に進出した日本に対して、ABCD包囲網を敷き経済封鎖を図ったこと。

そういう流れまで見たときになぜ日本はあのような無謀な戦争に突き進んでしまったのか、その真意が初めて見えてきます。

目の前で起きた出来事の理由とは、その出来事自体だけを見ていても分かりません。

その出来事がどういう背景をもとに起きたのか、そこまで考えて初めて見えてくるものです。

歴史を学ぶことで、このような文脈の中で物事を見るという力が養われるのです。

 

=今を客観視する力=

三つ目は今という時代を客観視する目を養えることです。

国政選挙の度ごとにその低い投票率が話題に上りますが、そもそも日本では一定の納税額以上の25歳以上の男子にしか、選挙権が認められていませんでした。

ようやく20歳以上の男女に選挙権が認められたのは、終戦後の1945年のことでした。

また今はブログ、SNS、さまざまなイベントなどで、自分たちの考えを世の中に対して自由に発言できますが、

以前の日本では1925年に制定された治安維持法によって、政府の考えに反する発言や活動は厳しく監視され、

違反者は特別高等警察に逮捕され、蟹工船を記した小林多喜二のように拷問を受けたり処刑されたりしていました。

今私たちに当たり前に与えられている、男女平等の選挙権、集会、結社、発言の自由は、歴史を振り返れば決して当たり前のことではないと気づけます。

そして一人一人が、この勝ち得た権利を大切に守ろうとする強い意志を持ち続けねば、また失われる可能性があるということにも。

そういう視点は今という時代しか知らない人には決して持ちえないものです。

 

私が考える歴史を学び取る意味。

1、先人のトライ&エラーから学ぶことが出来ること

2、文脈の中で物事を見る力を養えること

3、今という時代を客観視する視点を持てること

これはあくまでも私が考える意味でしかありません。

子どもたちと一緒に勉強していると度々、学ぶことの意味が分からないという質問を受けます。

人は意味が分からないことには十分な力を発揮できないものです。

だから周りの大人は、子どもにその意味を伝える必要があるのです。

そのためにもまずはご自身で一度なぜ学ぶのかを考えてみてほしいのです。

そしてそういう大人の自ら考える姿が、子どもたちを学びの世界へと誘うことに繋がると私は考えます。

次回は、数学、理科を学ぶことで得られるものについて考えてみたいと思います。

お問合せはことらからどうぞ。

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世界の新しい切り取り方 ~他言語を学ぶ意味~

前々回のブログでは、

・学校教育の意味を見出だしづらいのは、学校教育というシステムが万人に等しく教育の機会を与える素晴らしいシステムだから

・「学校教育は洗脳」というフレーズを近頃するが、学校教育がなければ世の中にもっとひどい洗脳が横行する

・学校教育は、さまざま改善点はあるものの、子どもたちの思考の幅を広げてくれる素晴らしいシステムである

という内容を綴りました。

それでは、学校教育で教えられている科目を学ぶことで一体何が得られるのか、もっと具体的に考えていきたいと思います。

今日は英語について。

 

英語を学ぶことで人はいったい何を得られるのでしょうか?

高校生の頃に私が考えていたこと。

・海外旅行のときに便利

・外国人と友達になれる

・女の子にモテそう

最後は別の要素も絡んでくるので一概には言えませんが、それ以外はまさにその通りです。

ただ、これ以外にも英語を学ぶ意味があります。

 

=構造主義という考え方=

人は自由に思考を繰り広げているように見えて、実は様々な構造に思考を制約されながら生きている。

その構造とは、例えば無意識、例えば社会階層、例えば身体運用法、例えば使用する言語。

これらの構造の中で制約を受けながら思考しているのであって、決して自由自在に思考しているわけではない。

そう主張するのが構造主義という哲学の考え方です。

人の思考を制限するものの中に「言語」が含まれています。

使用言語が人の思考を規定するとは、どういうことでしょうか?

 

=言語は思考=

著書「大事なものは見えにくい」の中で臨床哲学者の鷲田清一先生は、

“思考は言葉によって編まれるが、それは単に思考形成の手段ではなく、言葉自体が一つの思考である”

という趣旨のことを述べておられます。

例えば日本語で「お金がない」という表現をしますが、

同じ意味合いを英語では、「I have no money.」と表現します。

日本語で所持金を聞かれて「私は0円を持っています。」と答える人はいないと思います。

これは「無」という状態を、文字通り「何も無いこと」と捉える日本語話者と、

「0という状態が存在する」と捉える英語話者の思考の違いを表す良い例だと思います。

また日本語では向き合う他者との関係性によって、一人称が「私」、「俺」、「僕」と変化しますが、英語では一貫して「I」が使われます。

鷲田さんの言葉をお借りすれば、これは“言葉が違えば他者とのまみえ方まで違う”ということを教えてくれます。

 

=多言語を学ぶ意味=

人は様々な構造の中で思考して生きているのであって、何事にもとらわれることなく、自由自在に思考しているわけではない。

そしてその人間の思考を縛る構造の一つが言語であり、言語によって思考の様式がことなること、他者との交わり方のルールさえも異なること、を見てきました。

こうしてみると、他言語を学ぶことは、海外旅行に便利とか、外国の人と繋がれるとか、様々な意味もあると考えられますが、

母語とは異なる思考の方法を身に着けるという意味もあると言えることがわかります。

それは、単言語話者と複数言語話者が同時に同じ景色を見ていたとしても、複数言語話者は、一つの景色を二つの世界観で眺められることを意味しています。

他言語を学ぶことによって得られるもの、それは単言語話者では持ちえない、二つ目の視点なのだと思います。

 

この文章を綴りながら、一緒に学ぶ子どもたちにそのように感じてもらえるよう、私自身がもっと学んでいかねば、との思いを新たにしました。

次回は歴史を学ぶことで得られるものについて考えてみたいと思います。

 

=参考図書=

寝ながら学べる構造主義 内田 樹 著

大事なものは見えにくい 鷲田 清一 著

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「あの時があったから」 ~踏まれて踏まれて強くなる~

昨日、友人が開催する映画の上映会のスタッフを務めさせて頂きました。

三連休の中日、たくさんの方たちにご来場頂き、大盛会のうちに終わることができました。

本当にありがとうございました。

昨日の映画「ずっと、いっしょ。」は、3組のご家族の生まれること、生きること、死にゆくこと、を描いたドキュメンタリー映画です。

映画「ずっと、いっしょ。」

血のつながりがない五歳の息子さんにその事実を伝える男性と、死産を乗り越え出産に立ち向かうその奥さんの物語。

42年間連れ添った奥さんを亡くした悲しみから抜け出せず苦しむ男性と、それを支えるご家族の物語。

18トリソミーという先天性の病を持って生まれた男の子、そしてその事実を受け容れ、病とともに生きるご夫婦の物語。

それぞれに困難を抱えながらも、それでも生きようとする登場人物の姿に、人間のしなやかな強さを感じました。

映画の上映後、会場で、監督、脚本、撮影をされた郷田トモさんからのお手紙が紹介されました。

“生きていれば、否応なしにさまざまな困難が身に降りかかりります。

それでも、この映画に登場されるご家族はそれを受け容れともに生きていらっしゃる。

皆さんも生きる中で何かしらの困難が降ってきたとき、この映画を思い出して頂けたら嬉しいです。”

言葉が正確ではありませんが、このような趣旨のメッセージを頂きました。

自分自身の経験を思い出しながらその言葉を聞いておりました。

プロフィールにも書いておりますが、私は心身のバランスを崩し辛い時期がありました。

家族、友人をはじめ周りの人たちに支えて頂き今の自分があります。

その時は正直、「なんで俺だけが」「何も悪いことはしていないのに」「あいつのせいで」とか、恥ずかしい話ですが毎日のように思っていました。

幼い人間ですね。

ただ、家族に囲まれ、友人に恵まれ、仕事に恵まれ、元気になった今、振り返ると「あの時があったから」という気持ちになります。

両親をはじめ周りの人の支えのお陰で心身を壊すまで、私の人生は順風満帆でした。

ただそれを自分の力と過信し調子に乗っていたのだと今になれば思います。

あのまま何事もなく生き続けていたら、私は人の心の痛みにも気づけない本当に鼻もちならない人間になっていたことでしょう。

自分自身が身体を壊したからこそ、思うようにならず苦しんでいる人の姿に心を寄せることの出来る自分になれました。

だから「あの時があったから」という気持ちが湧いてきます。

苦しみの真っ最中にはこんな風に思えるようになるなんて想像もつきませんでしたが、

不思議なことにあの苦しかった時間さえ、今の自分を成す大切な一部と思える自分がいます。

子どもの頃に読んだ漫画「裸足のゲン」の冒頭で、ゲンのお父さんが、

「踏まれて踏まれて強くなる麦のような人間になれ」と言っていたのを思い出します。

艱難辛苦はその最中にはただただ辛いだけですが、そのプロセスが人を強く優しくしてくれる。

今回の映画から、郷田監督のメッセージから、そんなことに改めて気づかせて頂いた一日でした。

ご来場頂いた皆さんに、一緒にスタッフとして働いてくれた皆さんに、本当に感謝します。

ありがとうございました。

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「学校教育は洗脳」という洗脳

たいして身体を酷使したわけでもないのに、一生懸命考え事をしていたわけでもないのに、やたらと疲弊する。

そんな経験はありませんか?

そういう場合はたいてい「こんなことやっていてなんか意味があるのだろうか?」という疑問を抱きながらやっていた。

私の場合、そんなことが多いように感じます。

無意味に感じる事をやり続けていると、人は疲弊するものなのではないでしょうか。

子どもたちが学習することを嫌がる原因の一つ。

それは、学ぶ意味が分かっていないからだと私は考えます。

=学校教育の意味を見出せない理由=

日本の多くの大人が感じていること。

それは、「学校で習ったことなど大人になっても使わない」ということです。

学校教育は無意味。

それを大人が言っていれば、子どもは学ぶことに意味はないと感じるのも、当然の帰結だと思います。

多くの大人が学校教育に意味を見出せない理由。

それは、さまざまな改善点はあるものの、それでも学校教育が素晴らしいシステムだからです。

私が考える、学校教育の意味を見出し難い理由。

それは学校教育を受ける機会を持てなかった人に出会うことが少ないからです。

「赤」という色を認識するために「赤」以外の色を必要とするように、

学校教育の意味を認識するためには、学校教育を受けずに育った人が必要です。

しかし、そういう人に会ったことがある人はきっと少ないと思います。

それは学校教育というシステムが、万人に等しく教育を受ける機会を提供する素晴らしいシステムだからです。

学校教育というシステムが素晴らしいが故に、学校教育の意味を見出すことが難しい。

そういうことはないでしょうか?

=「学校教育は洗脳」という洗脳=

近頃よく聞くフレーズに「学校教育は洗脳」というものがあります。

集団を恣意的にある方向に導くために、学校教育はなされている。

時代の転換点である今、何かと閉塞感に満ちていて、そのやりきれなさを誰かのせいにせずにはいられない。

そういう他責的な文脈から生まれたのが、「学校教育は洗脳」というキャッチーなフレーズなのかもしれません。

でも、そういう人は果たして考えたことがあるのでしょうか?

学校で教育がなされなければ、読み書きはできない、計算はできない。

そんな無知な人間を大量に生み出したほうが、よっぽど洗脳しやすいんじゃないですか?

そしてもう一つ。

「学校教育は洗脳」という批判を展開するときの、その言葉を、その論法を、その人はいったいどこで誰から教わったのでしょう?

人から受け身で情報を得るだけで、学んだことの意味を自分で見出そうとしない人ほど、

そういう浅薄で印象的なフレーズに簡単に飲み込まれてしまうのではないでしょうか?

学校教育は洗脳でしょうか?

学校教育は無意味でしょうか?

私はそうは思いません。

=世界は言葉によって分節されている=

新しい言葉を得ることで、今までのっぺりとしたひと塊に見えていたものが、細かく割れて見えてくる。

新しい言葉を得ることで、世界はその解像度を増していきます。

例えば「笑う」という言葉。

笑う=楽しいという意味付けのみで生きてきた人が、鼻で笑う、ほくそ笑む、という言葉を得ることで、

今までのっぺりとしたひと塊に見えていた「笑う」という概念が、愉悦、嘲り、企てという三つに分節され、

世界をより細やかに彩り豊かに眺めることが出来るようになるわけです。

言葉を得ることで世界は細かく割れていき、今までと同じ景色を見ていても、

何百倍も何千倍も、味わい豊かな世界を経験できるようになるのです。

世界は言葉によって分節されている。

だから私たちは国語を通して様々な言葉を得る必要があるのです。

私の周りには、様々な制約があるにも関わらず、

どうすれば子どもたちにもっと良いパスが贈れるだろうかと、日々試行錯誤されている先生がたくさんいます。

そして私は子どもの頃、学校で素晴らしい先生と出会い、学ぶことの楽しさに気づくきっかけを頂きました。

だから「学校教育は洗脳」などと言われると、「ちょっと待ってくれよ」と言いたくなるのです。

学校教育には確かに様々改善すべき点はあるかと思います。

それでも私は学校教育は必要だし、素晴らしいシステムであると考えます。

子どもたちに学ぶことの意味を理解してもらうためには、まず教える人間がその意味を理解していなければなりません。

自分の脳内整理の意味も込めて、次回以降、認識されづらい学ぶことの意味を脳みそフル回転で言語化していこうと思います。

続きます。

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子どもたちを自立に導くために

アドラー心理学の知見である「課題の分離」について綴っております。

その決断をすることで最終的に責任を負うのは誰か?

この観点から、それが誰の課題であるかを判別する。

すると、他者の課題に踏み込むことがなくなり、自分の課題に踏み込ませることがなくなり、

複雑に見える人間関係の悩みがシンプルになっていく。

「課題の分離」という考え方には、そのような効用があると綴りました。

 

=結末を経験させる=

人間関係がシンプルになる以外にも、「課題の分離」には大切な意味があります。

むしろ子育てについて言うならば、こちらのほうが重要なのかもしれません。

それが「結末を経験させる」ということです。

多とば先日の例、宿題をしない、持ち物を確認しない、部屋の掃除をしない、を考えてみましょう。

宿題をしないことで起こり得る結末は、学校の勉強がわからなくなる。

持ち物を確認しないことで起こり得る結末は、必要な活動ができなくなって困る。

部屋を掃除しないことで起こり得る結末は、探し物が見つからず困る。

そういった結末を自分自身で経験して、気づき、考え、学ぶ中で人間は成長していきます。

「宿題をしなさい」と口を挟むこと、持ち物を確認してあげること、子どもの代わりに部屋を掃除してあげること。

親御さんがお子さんの課題に踏み込むことで、短期的にはお子さんが不利益を被らずに済むわけですが、

ここで考えて頂きたいのは、「子どもを教え導くことの目的は何か?」ということです。

 

=子育ての目的=

私が考える子育ての目的は「自立させること」だと考えます。

親御さんを含め、私も、学校の先生も、子どもたちに関わる全ての大人が、子どもたちより早くこの世からいなくなる可能性が高いわけです。

それならば、自分がこの世からいなくなっても、子どもたちが困らずに生きていけるようにすること、

それが大人の大切な仕事なのではないでしょうか?

子どもの課題を肩代わりすることで、短期的に子どもたちは困らずに済みますが、

それではいつまでたっても大人に依存した状態から抜け出すことが出来ません。

子どもたちと関わることの最終目的は、「あなたはもう必要ありません」という状態になってもらうこと、自立してもらうことです。

そのためにも周りの大人は、子どもの課題と自分の課題を分離し、

きっと、失敗するかもと思っても結末を経験させてあげる、見守る勇気が必要なのかもしれません。

日々お子さんと関わる中で、この「課題の分離」という考え方をぜひ意識してみてください。

お子さんを自立に導くために。

 

「課題の分離」のためには、大人にも見守り、結末を経験させてあげる勇気が必要なのだと考えます。

ただ、「課題の分離」という概念は、「これはあなたの課題だから私は知らない。」、

「自分で何とかしなさいよ。」と突き放すことではありません。

子どもたちが自分の力で課題に立ち向かうために、私は心の中に安心感があることだ必要不可欠であると考えます。

心の中に安心感があるからこそ、人は未知のものに立ち向かっていけるのです。

次回はその安心感を育むための接し方「勇気づけ」という概念について綴ろうと思います。

続きます。

お問合せはこちらからどうぞ。

参考図書:嫌われる勇気 岸見 一郎 著

アドラー心理学入門 岸見 一郎 著

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映画「ずっと、いっしょ。」上映会のご案内

10月7日に新潟市内で映画「ずっと、いっしょ。」の上映会を開催します。
 
この映画は3組の家族を通じて、生まれるとは?、生きるとは?、死ぬとは?を問いかける映画です。
 
自分が生きていること。
 
新しい命が生まれてくること。
 
大切な人がいなくなってしまうこと。
 
日々の生活する中で、なかなかこのようなことを考える時間を持つことは難しいのではないでしょうか?
 
でもこういう根源的な問いの中に、自分が生きるうえで大切にしたいものが隠れているように感じます。
 
映画を観ながらそういう問いについて考える時間を持って頂けたら本当にうれしいです。
 
お席はまだあります。
大切な人とぜひ一緒に御覧ください。
 
樹木希林さんナレーション部分
 
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課題の分離 ~それはだれの課題か?~

ここしばらく、アドラー心理学の知見についてシェアしております。

前回の記事では、

「あんたのためを思って言ってるのよ!」は、「あんた」のためではなく、「私」のために発せられる言葉なのではないか?

という内容を綴りました。

今回は「課題の分離」という考えについて。

 

=「それは誰の課題か?」=

アドラー心理学には「課題の分離」という言葉があります。

人が生きていく中で、解決していかなければいけない課題が様々あります。

学校の課題、仕事、家族や友人などの人間関係、様々な課題があります。

その様々な課題が誰が負うべき課題かを明確にして、自分と他者の課題を区別しましょう、というのが「課題の分離」の考え方です。

例えば、お子さんが宿題をしない、持ち物を確認しない、部屋を掃除しない。

そういう決断をすることで、その最終責任を引き受けるのは誰でしょうか?

宿題をしないことで、“お子さんが”学校の勉強がわからなくなる。

持ち物を確認しないことで、“お子さんが”忘れ物をして困る。

部屋を掃除しないことで、“お子さんが”探し物が見つからなくて困る。

こうして考えてみると、例に挙げた三つの決断の最終責任を引き受けるのは、親御さんではなくお子さんであることが分かります。

そうであるならば、それは親が立ち入るべき課題ではなく、子どもの課題であるといえます。

人間関係で起きるトラブルの多くは、他者の課題に踏み込んでしまうこと、自分の課題に踏み込ませてしまうこと、によって引き起こされるのではないでしょうか?

「親しき中にも礼儀あり」という言葉もありますが、どんな人間関係にも適切な距離感が必要で、誰の課題かを明確にするだけで、人間関係は驚くほどシンプルになる、とアドラーは述べています。

他者の課題に踏み込まない、自分の課題に踏み込ませない。

これを意識することが、一見複雑に見える人間関係を解きほぐす上で大切になってくるのだと私は考えます。

次回に続きます。

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「あんたのためを思って言ってるのよ!」 ~課題の分離~

アドラー心理学の知見についてシェアしております。

原因論と目的論のお話から派生して、過去というのは客観的事実ではなく主観的に意味付けされた物語のようなものであること、

だから原因論に縛られて、ご自身を責めたりなさらないでください、と書いてきました。

一度話が逸れましたが、またアドラー心理学のお話に戻りたいと思います。

今回は「課題の分離」というお話について。

 

=「あんたのためを思って言ってるのよ!」=

お子さんが宿題をやらない。

忘れ物が減らない。

部屋が汚い。

そんな時、お子さんを心配するがゆえに、

ついつい「勉強しなさい!」と言ったり、持ち物チェックをしてあげたり、代わりに部屋を掃除してあげたり。

そんな親御さんも多いのではないでしょうか?

かくいう私も、子どもたちと一緒に勉強しているとき、問題の解き方が間違っていると、

「いやいや、それ違うでしょ。」などとついつい口をはさんでしまうことがあります。

そんな時に自分の心の中を省みてみると、それは子どものためではなく、

「せっかく教えたところを間違わないでほしい」という自分の都合である場合が多いように思います。

「あんたのために言ってるのよ!」

自分自身を含め、大人が子どもに対して口にしがちな言葉ですが、

実はその言葉は「あなた」のためではなく、「私」のために発せられている言葉。

そんなことはないでしょうか?

続きます。

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客観的視点を得るために

前回、前々回と、原因論の立場で語られる「過去」とは、

客観的事実ではなく主観に基づいて編集される物語のようなもの。

そういう側面もあるのでは、と綴ってきました。

否定的意味付けをした「過去」を自分に繰り返し語り聞かせ続けることで、

現状の自分に対する認識が悪化し、その結果また悪い意味付けをしてしまう。

そんな負のループに陥らないためにも、現状の自分に対する客観的視点を得る必要があります。

自分の認知に対する認知をメタ認知といいますが、メタ認知するためにはどうしたらいいのか?

私は、話を聴ける人に聴いてもらうことをお勧めします。

 

=聴いてもらうことの意味=

自分に対する客観的視点を得るためにおすすめなのは、

他者に話を聴いてもらうことと綴りましたが、話を聴ける人とはどんな人でしょうか?

的確なアドバイスを出来る人のことでしょうか?

確かにそれも大切なことだとは思いますが、まずはその人の話に丁寧に耳を傾けられる人です。

以前ブログで傾聴について書きましたが、

話を聴くことの三大原則、頷き、おうむ返し、沈黙で見守る、このことを理解している人。

「聴く」とは何か?

それが私が思う話が聴ける人です。

話が聴ける人に、自分を映す鏡になって聴き続けてもらうことで、

自分が自分に不当に課していた悪い意味付けを客観視できるようになれます。

その結果、自分のイメージを悪くする負のループから抜け出せるようになっていくのです。

 

=新しい意味付けを得る=

話を聴いてもらうことで、自分自身に課していた否定的意味付けに気づけると書いてきました。

聴いてもらうことの効用はそれだけではありません。

他者に話を聴いてもらうことで、否定的意味付けに代わる新しい意味付けを手にすることができます。

「過去」とは、現在の自分自身に対する認識を正当化するために意味付けを施した物語のようなもの、と述べてきましたが、

自分自身に対する否定的意味付けに気づきその呪縛から自由になることで、

現在の自分自身に対する認識の仕方が少しづつ良いものに変化して行きます。

現状の自分に対する認識が良いものに変化していけば、自分自身の過去に対する認識の仕方も変わってきます。

新しく肯定的意味付けをされた「過去」という物語が出来上がることで、

その新しい物語を自分の拠り所として生きていけるようになる。

これも話を聴ける他者に話を聴いてもらうことの効用です。

 

=子どもたちが望むもの=

以前にもブログに書いたかもしれませんが、私の両親は共働きで父も母も大変忙しい人たちでした。

私自身高校に馴染むことが出来ず辛い気持ちを抱えていたのですが、

仕事から疲れて帰ってきた両親を見ていると、そんな話はとても出来ませんでした。

自分の辛い気持ちを押し込めて、家の雰囲気が少しでも明るくなるようにと、わざとお道化てみせたり。

これも恣意的に作り出された「過去」なのかもしれませんが、私にはそんな記憶があります。

そういう自分の経験からも、子どもたちが望むもの、それは親御さんの笑顔なのではないか、と私は考えます。

そうであるならば、原因論に囚われて自分が作り出した否定的「過去」でご自身を責める事、苦しめる事。

それはお子さんの望みとは対極にあるものではないでしょうか?

もし今、ご自身の今までに否定的な意味付けをされ苦しんでいらっしゃるならば、どうぞご自身を責めないでください。

子どもたちが望むもの、それは大好きな親御さんの笑顔なのですから。

 

予定ではアドラー心理学の用語である「課題の分離」について記すつもりだったのですが、

原因論にとらわれて苦しい気持ちになっている方にどうしても伝えたいとの気持ちから、少し寄り道をすることに致しました。

次回は予定通り「課題の分離」という概念について紹介し、子どもを自立させるとはどういうことかを考えてみたいと思います。

続きます。

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