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「母はどんなときも私の最大の理解者だった」

人にとって「母」は特別な存在。

だからこそ困難にある子どもを救い出す力がある。

前回のブログではそのような内容を綴りました。

蓄音機、白熱電球、動画撮影機など、数々の発明で知られるトーマス・エジソン。

彼は小学校を三か月で退学になってるのをご存知ですか?

小学校退学のエジソンがなぜ歴史に名を残す発明家になり得たのか?

今回はそんな内容です。

 

=小学校退学=

1847年2月11日、アメリカのオハイオ州で七人兄弟の末っ子としてエジソンは生まれます。

とても好奇心と探求心に富んだ子どもだったそうです。

小学校に入ると、

「1+1はなぜ2なの?粘土の塊と粘土の塊をくっつけると大きな1つの塊になるじゃないか。」

「Aは何故エーと発音するの?なぜピーと発音しないの?」

などなど先生を質問攻めにしてたびたび授業がストップしたと言います。

これが積もり積もって校長先生から、「他の子の迷惑になるから」という理由で、3か月で退学処分を告げられることとなりました。

 

=母、ナンシー=

ガチョウの卵をふ化させようと卵を抱えて何時間も家の小屋にこもる。

モノは何故燃えるのかを知りたくて藁に火をつけていたら、家の納屋を全焼させてしまう。

子どもの頃のエジソンについては様々なエピソードが残っています。

その好奇心と探求心ゆえに学校から不適合を言い渡されたエジソンですが、母ナンシーの対応は違いました。

その好奇心、探求心こそが息子の才能であると見抜いた母は、自宅でエジソンに勉強を教え始めます。

エジソンの好奇心と探求心を大切にして、根気強く個人指導を続け発明王エジソンの基礎を作り上げました。

お母さんと一緒の学びの時間、幼いエジソンにとっては嬉しかったのではないでしょうか。

 

=発明王を育てたもの=

学校から不適合の烙印を押されたエジソン。

そんなエジソンの才能を見出し、信じて支え続けてくれたのは母。

後年、エジソンは白熱電球の実用化がなかなかうまくいかず、

耐久性のあるフィラメントの材料を探して、なんと6000通りもの素材を試しています。

そんなエジソンを見て周りの人は、「そんな失敗ばかりして、もういい加減諦めたら?」と言ったそうです。

エジソンは、「失敗ではなく、これはうまくいかないという方法を6000通り発見したんだ」と言って諦めませんでした。

その強さの裏に私は母の存在を感じます。

世間の評価にめげず自分を信じ続けることができたのは、

例え学校から退学を言い渡されても、自分の可能性を信じ寄り添い続けてくれた母の存在があったからだと私は感じます。

事実、エジソンはこう言い残しています。

「何があっても支えてくれた母がいたから今の私がある。

母だけは何があっても、あるがままの私を理解してくれた。

どんなに苦しい時でも、母を喜ばせたくて私は努力を続けることができた。

すべて母のお陰だ。」

母の信じる気持ちが、困難な状況にある子どもにエネルギーを注ぎ、再び立ち上がらせる。

自分が関わってきた事例からも、「母」という存在にはそんな力があると私は感じます。

 

今でこそ子どもに学習指導をしていますが、高校時代の私は勉強が全くダメでした。

先生からも随分きついことを言われました。

そんな私のことを信じてくれたのは、エジソン同様やはり母でした。

振り返って感謝だなぁと思います。

その話はまた後日。

続きます。

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