意味が分からないことの意味

学校教育は決して洗脳などではなく、子どもたちの考える土台を築き世界観を広げてくれる素晴らしい内容であること。

そして国語、英語、社会、理科、数学、それぞれを学ぶことで一体何が得られるのか、どんな意味があるのかを数回に分けて考えてきました。

「学校教育は洗脳」という洗脳

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電卓があっても数学を学ばねばならない理由

ここまで書き綴ってきたすべてをひっくり返すようなことを書きますが、意味が分かることは必ずしも良いことばかりではありません。

意味が分からないことにも大切な意味がある。

今日はそのような内容を綴ってみたいと思います。

 

=意味が分かってしまうことの罪=

考える事はとても大切なことですが、その一方で考えることには辛さも伴います。

なぜなら「考える」とは、今までの自分の思考の枠組みを解体し、再度組み立てなおすこと。

今までの自分を壊し、再構築する作業だからです。

当然脳みそには多大な負荷がかかります。

だから、気が付くと考える事を無意識的に避けていた、そんな経験が私には多々あります。

例えば、本を読むときがそうです。

今まで読み慣れたジャンル、今まで読み慣れた書き手の本は読んでいても知的に負荷がかからないが故に、無意識的にそういう本を選んでしまう自分がいます。

そういう本を読み続けていても、脳みそがくたびれることはありません。

だからスラスラ読めてしまいます。そして読み終えた達成感も味わえます。

その一方で、確認できることは沢山ありますが、新たに得られるものはそれほど多くはありません。

簡単に意味が分かってしまうことの罪、それはその人の世界観があまり広がらないということです。

 

=それを学ぶことの意味は事後的にしか分からない=

“それを学び取ることの意味は学んだあとで初めてわかる。”

これは、内田樹さんの著書「先生はえらい」から教えて頂いたことです。

赤ちゃんが周囲の大人から言葉を学び取るとき、言葉を学ぶ意味を知っているでしょうか?

言葉を学び取ることで私にはこのような良きことがある。

そんな風に考えて言葉を学び取っているのでしょうか?

違いますよね。

言葉を学び取ることで、家族と会話が出来るようになる、本を読むことが出来るようになる、友達に手紙を書けるようになる。

言葉を学び取ることで得られるもの、それは言葉を学び取ったあとで初めて分かるものです。

学び取る内容がその人の人生観をガラリと変えてしまうほどクリティカルな内容であればあるほど、それを学び取る前の人間にはそれを学ぶ意味は分からない。

そういう構造になっているのではないでしょうか?

だからこれを学び取ることで自分には何が得られるのか?容易に想像できる事柄よりも、

これを学ぶことで一体何が得られるのかよくわからないもの方が、その人に大きな学びをもたらすということもあるのです。

 

=成熟は葛藤を通じて果される=

意味が分かるからこそ、人はモチベーションが上がります。

その一方で意味が分かってしまうことで失われるものもあります。

その一つが葛藤する時間です。

意味の分からなさの中で揺れ動き葛藤することで、人は成熟を果たしていきます。

例えば、ここに中学生の少年A君がいたとします。

A君は野球が大好き。部活動を毎日頑張っています。

そんなA君に対して親は、部活よりも学校の勉強を頑張れと言います。

ところが部活の先生はみんなで一緒に部活をがんばろうと言ってきます。

このように親と先生の言うことが割れているとき、少年A君はその相反する二つの考えの間で揺れ動き悩みを抱えます。

でもその葛藤のプロセスの中で、

親は、勉強を頑張って世の中の役に立つ大人になれ、と言っている、

先生は、みんなで部活を頑張ることで仲間と協力して生きていける大人になれ、と言っている、

そうか要するに親も先生も俺に大人になれと言っていたのか!、と分かるときが来るわけです。

このように一見相反する物事の中に共通項を見出せるようになるのは、物事を見る視点が高くなったから、より広い世界を一望俯瞰できる広い視野を得たからです。

そしてそれが人間として一段成熟を果たした瞬間なのです。

意味の分からなさを抱えたまま、相反する物事の中で揺れ動き葛藤することを通じて、人は一段一段大人への階段を上っていくのです。

意味の分からなさが人を葛藤させ、このような成熟のプロセスを駆動する力になる。

だから意味が分からないことにも大切な意味があるのです。

 

学ぶことの意味についてずっと綴って参りましたが、意味が分からないことにも大切な意味がある。

私はそう考えます。

何でも効率よく手にいれようとする近視眼的発想が瀰漫した世の中では、

意味が分からないという状態に耐え切れず、理解できないことを簡単に視界の外に追いやってしまいがちですが、

子どもたちには、その意味の分からなさ、気持ちの片付かなさを切り捨てることなく大切に抱えてほしいと思います。

なぜならばその意味の分からなさ、気持ちの片付かなさの中で、揺れ動き葛藤するなかで人は大人になっていくからです。

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参考図書:先生はえらい 内田 樹 著

街場の教育論 内田 樹 著

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