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ゲーム障害 ~子どもを食い物にする国

昨日はWHOが正式にインターネット・ゲームの依存を「ゲーム障害」という疾患に認定したという事を紹介しました。

私は日々学習を通じて子どもと接する仕事をしておりますが、イライラしていたり、目がうつろだったり、集中力が持続しないなどの状態にある子どもの割合が増えているように感じています。

ある研究結果によると、テレビゲームを一時間した後の血液中のドーパミン量の増加は、覚せい剤を静脈注射した時のそれに匹敵する数値なのだそうです。

しかし、人間の身体は同じ強さの刺激を受けていると、それを刺激とは認識しなくなるという性質があります。臭いにおいのする場所にいると、それを臭いと感じなくなるのもその一例です。

同じ量の刺激ではもう満足感が得られなくなって、さらなる強い刺激を求めて、さらにその行為に没頭するようになる、これが依存症の仕組みです。

日本に先んじてインターネット・ゲームの依存症が社会問題になっている中国や韓国では、矯正施設が設けられたり、午前0時~午前6時までの間16歳未満のネットアクセスを禁じる法律が施行されるなど、対策が講じられています。

その一方で、日本では、インターネット・ゲームに関してこれといった対策も講じられておらず、その危険性さえ把握していない大人も多いのが現状です。

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昨日も書きましたが、日本のゲーム業界の市場規模は、1兆3800億円(2016年)に達し、過去最高を記録しています。そしてその75%をしめるのが、依存症の危険性が高いとされているオンラインゲームです。

たとえ健康を害したとしても、それが経済成長に資するなら、政治的に正しいとされる風潮が瀰漫している昨今の日本では、公的な規制の動きはしばらく出てくることはないでしょう。

だから、人頼みにするのではなく、まずは子どもたちと一番身近に接する親御さんがこの問題を知って、一人一人考えて行動していくしかないのだと私は考えます。

日本では唯一となるネット・ゲーム依存症の専門外来を持つ久里浜医療センターのホームページをご紹介させて頂きます。

もしお子さんのネット・ゲーム依存傾向を心配されているようならば、ぜひ一度ご覧になってみてください。

久里浜医療センターホームぺージ

続きます。

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「ゲーム障害」新たな疾患に認定へ

2018年6月19日付けの朝日新聞で、WHO(世界保健機関)が、インターネット・ゲームをやり続け、日常生活に支障が出る状態を「ゲーム障害」として新たな疾患に認定、との記事を掲載されていました。

ゲーム障害は、

・ゲームをする時間を自分でコントロールできない。

・ゲーム以外の出来事や関心事の優先順位が低くなる。

・日常生活に支障をきたしてもゲームを優先する。

などの症状が12ヶ月以上続いた場合に診断が下されるそうです。

知られざるゲーム障害の実態

厚生労働省の調査によれば、日本人の421万人、中高生の52万人がインターネットやゲームに依存した「ゲーム障害」の疑いがあると推計されています。

アメリカをはじめとする20か国からなるゲーム団体は、ゲームと依存症の関係について否定的な立場を取っていますが、中国や韓国では、日本よりも早くネット・ゲーム依存が社会問題化し、すでに死者も出ています。

ゲーム業界の市場規模は2016年の段階で1兆3801億円にまで達し、その75%は依存症になるリスクが高いネットゲームの収入が担っています。

健康とお金を天秤にかけたとき、お金のほうが重要視されるのが、昨今の世の風儀ですが、ゲーム業界もまた然りという事なのでしょう。

次を担う世代から搾取してでも、今目先の利益が確保できればそれでいい、という発想。

本当にそれでいいのでしょうか?

私には疑問でなりません。

続きます。

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世間のモノサシ、自分のモノサシ

前回のブログでは、

・ひきこもることは必ずしも悪いことではない。

・周囲の大人が適切なケアをしてあげれば有意義な時間になり得る。

・自分の世界観を深めることで、二つ目の言葉、二つ目の視点が得られる。

という内容を綴りました。

 

=価値とは何か?=

今、目の前に大きなカバンと小さなカバンがあったとします。

どちらのカバンに価値があると思われますか?

収納性というモノサシで測れば、大きなカバンのほうが価値があるでしょう。

携行性というモノサシで測れば、小さいカバンのほうが価値があるでしょう。

経済的価値というモノサシで測れば、値段の高い方が価値があるでしょう。

思い出深さというモノサシで測れば、それにまつわるエピソードが多いほうが価値があるでしょう。

観察している対象は何も変わっていないのに、どういうモノサシでそのモノを測るかによって価値というものは簡単に入れ替わることがわかると思います。

絶対不変の価値などというものはなく、どういうモノサシを採用するかによって、価値というものはコロコロと移り変わっていく、そういうものだということです。

 

=世間のモノサシ、自分のモノサシ=

大人でも子どもでも、世間一般の価値観から距離を置くというのは、結構勇気のいることだと思います。

こんな事したら、こんなこと言ったら、周りの人から変に見られるのじゃないか?

自分を含めそんな風に気になる方は多いと思います。

ただ、価値というものは絶対不変のものではないし、世間一般に信じられている考え方、世間のモノサシがいつも必ず正しいとも限りません。

横並びの発想で、みんなで足並みそろえて断崖絶壁に向かって行進していた、歴史を振り返ればそんな事例は枚挙に暇がありません。

そんな時代にさえ、世間の価値観に流されず、世の中と適切な距離をとっていたが故に大惨事を免れた、そんな人間もいるわけです。

そういう人はその他大勢と一体何が違うのか?

それは世間一般のモノサシとは異なる自分なりのモノサシ、もう一つの視点を持ちえたか否か。

それが両者を分けるもの、私はそう考えます。

 

世の趨勢に流されることなく、自分の価値観を信じて決断を下せる人間。

それは一人思索にふける時間、自分の世界観を深める時間、ひきこもる時間を経験してきた人ではないでしょうか?

世間のモノサシと自分のモノサシ、どちらが正しくてどちらが間違っているのか?単純に判じることは難しいと思います。

正しい正しくないという話とは別に、物事を測り取るモノサシの種類を増やすことで、目の前の事柄をより多角的に検証することができるようになる。

だから世の中全体が危険な方向に向かってしまっても、自分を信じて生きていけるようになる。

その価値観は一人の時間を持つからこそ得られるもの。

私はそう考えます。

ひきこもることは決して何かを失うだけではありません。

その子の周りにいる大人が、適切なサポートをしてあげればかけがえのない時間にだってなり得るのです。

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ひきこもれ

例えばトイレに入ったとき。

例えばお風呂に入っているとき。

例えば黙々とジョギングをしているとき。

例えばカフェでボケーっとしているとき。

ずっと考えていても分からなかったことの答えが分かったり、ずっと悩んでいたことの解決策を思いついたり。

私にはそういう経験がたくさんあります。

一人でいる時を「独りぼっち」と悪くとらえる向きもありますが、

私にとって一人で思索にふける時間は本当に豊かな時間です。

 

=「ひきこもる」は悪か?=

世間一般にひきこもることは、良くないこととされています。

例えば、勉強がわからなくなる、社交性が損なわれる、昼夜逆転生活になる、ネット・ゲーム依存症になる、体力が落ちる。

さまざまな弊害が挙げられます。

確かに周囲の大人が適切なケアをしてあげなければ、今挙げたような弊害に陥りやすいと思います。

ただ、私は必ずしも悪いことばかりではない、むしろ得られるものもあると考えます。

私自身、その場の雰囲気に合わせるのがつらくて仕方なかったけれど、それでも我慢して学校に通い続けた高校三年間でした。

辛さに耐えながら我慢して通ってはいましたが、授業の内容などろくに頭に入ってきませんでした。

私のように無理して通い続けても何も得るものがないならば、むしとそういう場所から退いて一度ひきこもってみるのもありなのではないでしょうか?

周りにいる大人が適切な配慮さえしてあげれば、ひきこもることによって得られるものはたくさんあると感じます。

 

=複眼で見よ=

昭和を代表する思想家の吉本隆明さんは、著書「ひきこもれ」の中で、ひきこもることでその人の中に「第二の言語」が育つと述べています。

「第二の言語」とは他者とコミュニケーションをとるための言語ではなく、自分が碑文の内面深くとコミュニケーションをとるための言語。

“自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉”、“内臓に響いてくるような言葉”それが第二の言語であると、吉本さんは述べています。

それは世の中と対峙するときに、世間一般の視点とは別の二つ目の視点を得ることと同義なのだと思います。

例えば、三角錐という立体があります。

底面が円で先端が尖がっている、工事現場に置かれているコーンのような形をした立体です。

三角錐は真上から観察すれば円に見えます。

真横から観察すれば、三角形に見えます。

三角錐を三角錐として認識するためには、真上からの視点と真横からの視点を同時に持ち合わせなければいけません。

これと同じように、ある事柄をたった一つの視点から眺めていたのでは、真実とかけ離れた認知をしてしまうのではないでしょうか?

ある事柄を真実のできるだけ近い形で認知するためには、複数の視点からその対象を観察する必要があるのです。

自分自身と深く対話するひきこもる時間を持つことによって、第二の言語、二つ目の視点が得られ、物事を立体的に、より真実に近い形で認知できるようになる。

私はそう考えます。

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・・・だけど本当に欲しかったのはぬくもりですよ。

家庭内暴力。

夜遊び。

ネット・ゲーム依存。

このようなお子さんの理不尽な行動に悩まれている親御さんもいるかと思います。

なぜ子どもたちはこのような、自分を、他者を害するような理不尽なふるまいをするのでしょうか?

理屈で考えてみても理解できない行動の裏には、感情が絡んでいる場合があります。

私は相田みつをさんの著書が好きで以前よく読んでおりましたが、相田さんの著書に、

“人は理屈で動くのではない、人は感じるから動く。

だから理動という言葉はなく、感動という言葉があるのだ。”

という内容のエッセイがありました。

人を強く動かすもの、それは理屈ではなく、感情です。

そして感情が人を強く突き動かす場合、本人はその感情に気が付いていない場合が多いです。

その抱え込んだ感情は何でしょうか?

私は寂しさだと感じます。

抱え込んだ寂しさを理解してもらえないことで、その気持ちがやがて怒りに転化し、

自分や他者を害するような理不尽な行動に走らせてしまうのではないでしょうか?

 

=駅の子=

先日私はNHKスペシャルで「駅の子」という番組を見ました。

第二次世界大戦の終戦直後、

親を失くし戦争孤児となった子どもたちが、日本中の駅で暮らしていました。

彼らは「駅の子」と呼ばれ、物乞い、窃盗、靴磨きなどをして生き延びていました。

終戦直後、大人たちは自分のことで精一杯。

誰も「駅の子」を助けてくれる大人はいません。

助けてくれないどころか、社会の風紀を乱す存在として忌み嫌われ、

差別されたり、蹴飛ばされたり、棒で叩かれたり、まるで野良犬のように扱われたそうです。

その番組の中で小倉勇さんという方が、ご自身の体験を語っておられました。

小倉さんは福井県で戦争中に親を失くし、その後は親せきの家に預けられていましたが、

親せきからの言葉の暴力に耐えかね家出し、駅の子となりました。

二年弱にわたり全国を転々とする中で、身体を壊しほぼ視力を失いました。

行動を共にしていた友達のカメちゃんは、孤独感にやられて線路に飛び込み自ら命を絶ちました。

「なんで自分だけがこんな思いをしなければならないんだ!」

「これから徹底的に社会に逆らって生きてやる!」

小倉さんはそう思ったそうです。

その後京都の伏見にある保護施設で保護された小倉さん。

そこでも先生に対してずっと反抗的な態度をとり続けていました。

ある日、一人の先生が小倉さんを銭湯に連れて行ってくれました。

小倉さんは全国を転々とする間に疥癬(かいせん)と呼ばれる皮膚の病気にかかっていました。

そんな自分の背中を先生は洗い流してくれた。

本当にうれしかったそうです。

「まじめにならないかん」

小倉さんはそう思ったそうです。

小倉さんはこうも仰っていました。

「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えていた、着るものもなかった、寒かったしね。だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」

 

=新たな視点を得ること=

お子さんの理不尽なふるまいに対して、

そばで対応される親御さんも怒りがわいてくることがあるかと思います。

私自身、子どもたちと接していて、「一体何なんだ!」という気持ちが沸き上がってくることもあります。

ただ、「その理不尽なふるまいの裏には抑え込んだ寂しさがある」という視点があると、

目の前のお子さんの振る舞いもまた違って見えるのではないでしょうか?

そしてそういう理不尽な振る舞いは誰にでもぶつけてくるものではありません。

この人ならば、こんな振る舞いをしても受け入れてくれる。

そういう深い信頼のある人だからこそ、子どもは理不尽な行動を通して怒りや寂しさをぶつけてきます。

これらの視点を持つことで、お子さんのふるまいの見え方が少し変わってくるのではないでしょうか?

「寂しさがそうさせている」という視点があれば、

必要なのは、怒りに怒りで対応することではなく、受け容れてあげることなのだと気づけるのではないでしょうか?

 

価値観が変わるとは、新たな視点をえること、新たな言葉を得ることです。

「寂しさ」という感情が人を理不尽な行動に駆り立てる。

この視点があれば今までと違った対応ができると思います。

それではなぜ子どもたちは心に寂しさを抱えるに至るのでしょうか?

そういう風に考えていくと、不登校、引きこもり、問題行動というのは、

個人の問題ではなく、社会全体の問題なのだと私は強く感じます。

「だけどね、本当に欲しかったのはぬくもりですよ。」

終戦当時の小倉さんの言葉は、現代を生きる子どもたちの気持ちを代弁しているようにさえ聞こえます。

この言葉に自分はどう応えていけばいいのか。

考え行動していかなければと思います。

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「褒めて育てる」の落とし穴

褒めることでお子さんが伸びていく。

普段から子どもに誉め言葉をかけるように意識している。

そういう親御さんもいらっしゃることと思います。

ただ、「褒めて育てる」にも注意点があります。

 

=褒めて伸ばすの落とし穴=

例えばテストでいい点を取ったときに、部活動で良い成績を修めたときに、

「よく頑張ったね」と褒める。

それ自体は素晴らしいことと思います。

と同時にそれだけでは不十分でもあります。

何が不十分なのか?

褒めることのいったい何が落とし穴なのか?

それは、ある条件を満たさなければ自分は受け容れられない、

そんな印象をお子さんに抱かせてしまう場合があるからです。

テストでいい点を取らなければ、部活動でいい成績を修めなければ、

自分はお父さんお母さんに受け容れてもらえない。

そんな印象をお子さんに与えてしまう場合があるからです。

 

=誉め言葉+○○の言葉=

お子さんを褒めて育てることは素晴らしいことですが、

それだけでは不十分な場合があります。

ここでちょっとイメージしてみてください。

自分の身近な人から次の言葉をかけられる場面を想像してみてください。

「この難しい仕事をこんなに早く終わらせてすごいね」

「いつも元気でいてくれてありがとうね」

どちらの言葉がけがうれしいという気持ちが強いですか?

一つ目の言葉は、自分の能力に対する承認の言葉。

二つ目の言葉は、自分の存在に対する承認の言葉。

どちらの言葉がうれしいという気持ちが強いですか?

きっと二つ目の言葉と答える人が多いと思います。

誰だって自分がここにいることを喜ばれたら嬉しいと思うのです。

これが誉め言葉にプラスするもの。

「感謝の言葉」とでも言えばいいでしょうか。

 

=根っこを伸ばす言葉がけ=

木になぞらえるならば、誉め言葉で伸びていくのは枝や葉っぱです。

感謝の言葉で伸びていくのは、根っこです。

誉め言葉でどんなに枝葉を広げていっても、根っこの浅い木はいつか倒れてしまいます。

逆に根っこの深い木は安心して枝葉を広げ、大きな木へと成長していくことができるでしょう。

私たち大人はついつい目に見える枝葉の成長に一喜一憂してしまいがちですが、

枝葉が伸びることよりも、目に見えない根っこがしっかりと成長していることのほうが、

何倍も大切だと私は考えます。

子どもたちは、お父さん、お母さんに喜ばれたいと思っています。

お父さん、お母さんが自分の存在を喜んでくれている。

それは子どもに深い自信を与えるのだと思います。

もし今、お子さんがなんだかちょっと元気がない。

そんな風にお感じになるならば、誉め言葉に加えて感謝の言葉がけを試してみてください。

最初は気持ち悪がって素直に言葉を受け取ってくれないかもしれません。

それでもどうか忍耐強く感謝の言葉がけを続けてみてください。

効果が出るには時間がかかるかもしれません。

でも着実にお子さんの自信の根っこは深く深くなっていくはずです。

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「私が悪かったんです、、、。」

「私が悪かったんです、、、。」

以前、お子様の不登校で悩むお母様から、こんな風に言われたことがあります。

皆と同じようにふるまえず苦しんでいるお子さん。

そのお子さんを思う気持ち故の自責のお言葉だったのかもしれません。

 

=自分を責めること=

過去を思い返して、どうしてあんなことをしてしまったのだと自分を責めること。

私がよくしてしまいがちなことです。

知らず知らずのうちにやってしまうことです。

過去を振り返って自分自身を責めているうちに、どんどん自分で自分の活力を奪っていた、自分で自分を追い詰めていた。

私にはそんな経験があります。

 

=子どもが親に望むもの=

私の家庭は両親共働きで、父も母も大変忙しい人たちでした。

仕事が終わって帰ってくると、家の中で疲れた表情を浮かべている。

そんなことの多い家庭でした。

そのような時、私は本当は親に聴いてもらいたい辛い気持ちがあっても、

その気持ちは表に出さず、家の中の沈んだ雰囲気を和ませようと、

わざと明るくおどけて見せることが多かった気がします。

そうすることで、きっと私は両親に笑顔でいてほしかったのかもしれません。

子が親に望むもの、親が子に望むもの。

実はそれは同じなのかもしれません。

子どもが親に臨むもの、それは親御さんの笑顔ではないでしょうか。

 

=後悔と反省=

自分自身の過去を振り返ったときに、

今の自分から見れば本当に未熟で至らないことばかりやっていた、

そんな気持ちになることが多々あります。

と同時に、その時々で、自分に出来うる最良の選択を積み重ねてきたじゃないか。

そう自分を労ってあげる自分もいます。

そしてよりよく生きるために、改めるべきは改めていこうと思う自分も。

後悔とは、過去を振り返って悔いること、自分自身を責めること。

反省とは、過去を振り返って、自分自身の振る舞いの中に改善点を見出すこと。

後悔は人から生きるエネルギーを奪いますが、反省はより良く生きるためのエネルギーになります。

ほんの僅かかもしれませんが、昨日の自分よりより良く生きていけるよう、

後悔ではなく、反省を重ねていける自分であろう、そう思います。

=労うこと=

自分で自分を責めることで、人はエネルギーを失っていく。

子どもたちが望んでいるもの、それは親御さんが笑顔でいてくれること。

そうであるならば、過去を悔いてじぶんを責める親御さんの姿に、きっと子どもたちは心を痛めることでしょう。

過去を悔いて自分自身を否定するではなく、改めるべきは点は改めるという視点で自分自身を振り返ること。

そして日々を精一杯生きる自分自身に労いの言葉をかけること。

ご自身にそのように優しさを持って接することで生まれる心のゆとりが、お子さんの辛さを受け止める受け皿となり、

ゆっくりゆっくりかもしれませんが、お子さんの中に立ち上がる力が満ちていくきっかけとなるはずです。

どうぞご自身を責めずにいてくださいね。

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「こどもが話してくれないんです、、、。」

子どもが全然話してくれない。

何を考えているのかわからない。

そんな悩みを抱えている親御さんは多いのではないでしょうか?

 

=話したくなる人=

ご自身の経験を振り返って、話を聴いてほしくなる人とはどんな人でしたか?

話を聴いてほしくて相談に行ったらその人の意見を押し付けられて、かえって苦しい気持ちになった、行くんじゃなかった。

私にはそんな経験があります。

人から相談を受けたら、相手のためを思うがゆえにアドバイスをする。

私にもそんな傾向がありますが、話したくなる人、話を聴いてほしいと思う人とは、

自分の意見を挟まず、話を聴いてくれる人だと私は考えます。

 

=傾聴とは=

相手の話を聴いてこちらの意見をアドバイスするという話の聴き方もあるのかもしれません。

それ以外に、もう一つ傾聴という話の聴き方があります。

自分の意見を挟まず話し手の脳内整理を手助けする聴き方、とでも言うのでしょうか。

傾聴とは、以下の三つの要素から成ります。

一、うなづき

二、要約・おうむ返し

三、沈黙で見守る

 

一つ一つ説明していきます。

一、うなづき

うなづくことで、あなたの話を聴いていますよ、あなたに関心がありますよ、というメッセージを話し手に送る。

二、要約・おうむ返し

相手のしゃべった内容をまとめて相手に返す、相手のしゃべったことをそのまま相手に返す、というのが要約・おうむ返しです。

話し手が自分の話した内容の確認、整理を手助けする効果があります。

三、沈黙で見守る

相手が沈黙したら沈黙で見守るということです。

話していた相手が沈黙するとき、それは話す過程で沸き上がってきた感情を味わいなおし、何かに気づいた瞬間かもしれません。

感情は味わいなおすことで、浄化されその影響は小さくなっていきます。

 

この聴き方は、聴き手が自分の意見を挟むことなく、聴き手は話し手を映す鏡になりきる。

そんなイメージでしょうか。

 

=分かろうとし続けること=

ついついご自身の経験から、お子さんにアドバイスをしたくなることもあるかもしれません。

人が相談をしに来るときには二種類あるのではないでしょうか。

一、アドバイスを求めているとき

二、自分の気持ちを分かってほしいとき

自分の気持ちを分かってほしい時、聴き手が自分の意見を挟まず、話に耳を傾けてくれたなら、

話し手は、安心して自分の内面にある感情と向き合い、何かに気が付けるのではないでしょうか。

人が人を分かりきること、それはとても難しいことだと思います。

分かりきることなどできないと分かりながら、それでも分かろうとし続けてくれる人。

そういう人の姿に、人はゆっくりゆっくり心を開いてくれるのかもしれません。

私が話したくなる人、話を聴いてほしいと思う人はそんな聴き方をしてくれる人です。

相手を分かろうとし続ける傾聴という話の聴き方。

もし「子どもが話してくれなんです」というお悩みをお持ちならば、ぜひご家庭で試してみてください。

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学校と納豆の等価性 ~不登校が無くなるとき~

数回に分けてちょっと変なタイトルでブログを綴ってきました。

今まで書いてきた内容は、

・「納豆嫌い!」は問題視されないのに、「学校嫌い!」は大問題になってしまうのは何故か?

・日本には「学校だけが唯一の学びの場である」という信仰にも似た考えがあり、それが不登校という「問題」を作っている。

・人間には様々な情報処理の仕方があり、その方法によっては学校の講義型の学習が合わない子もいる。

・HSC(Highly Sensitive Child)と呼ばれる感受性豊かな子どもがいて、その才能ゆえに学校にいるだけで苦しくなる場合がある。

・世界の教育に目を向けると、実に多彩な教育プログラムが用意されていて、日本のように単一のキャリアパスしか用意されていない国のほうが少ない。

ということです。

 

子どもたちと接していると、一人一人が実に多様であることがわかります。

その多様である子どもたちに一様な授業を提供することで、理解に達することができず、

自尊感情に傷つきを抱えてしまう子も少なくありません。

私自身、今では高校生に数学を教えておりますが、高校生の時は本当に数学が苦手で、

高校二年生の夏休み明けのテストで0点を取ったことは今でもはっきり覚えています。

そして学校自体にうまく馴染めなかったことも相まって、自己嫌悪の感情を強く抱いていた高校時代でした。

 

学校とは本来どういう目的で作られた場でしょうか?

子どもの学力や社会性、自尊感情を育て、自立を促す場であるはずです。

今の学校教育には、七、五、三という言葉があります。

小学生の三割、中学生の五割、高校生の七割が授業の内容を理解できていない、という現状を表す言葉です。

この状態で学力、自尊感情が育まれていると言えるでしょうか?

またテストをして他の子と競わせることに重きを置く今の入試制度で、

他の誰かと協力して何かをなしてゆく社会性が果たして身につくのでしょうか?

日本で学制が敷かれた明治五年の地政学的状況を考えれば、

今のような学校の形を取らざるを得なかったのかもしれませんが、

今そのシステムは、日本の現状との間で大きな齟齬を来していると感じます。

 

学校というシステムが様々な問題を抱えているなかで、

子どもたちの可能性を伸ばすために一生懸命努力しておられる学校の先生方を私は知っています。

そして様々な制約のある中で試行錯誤されている先生方を尊敬もしています。

今すぐには無理でも、やがてこの国の教育はゆっくりと変化していくでしょう。

ただ、関わる人間が多い組織ほど、急に変わることができないものです。

もしお子さんが現状に強い苦しさを抱えているなら、そこから避難することだと思います。

学校で経験できることの多くは、実は学校以外でも経験できます。

学習したいと思うなら、図書館で本を読んだっていいし、塾や家庭教師も選択肢の一つと思います。

社会性を身に着けたいのならば、アルバイトやボランティア活動に参加してみてもよいと思います。

それから日本には、高卒認定試験という制度があり、それに受かれば専門学校、大学を受験することができます。

高卒認定試験について

学校から避難したとて、何一つ人生の選択肢はせばまりません。

大丈夫です。

 

人生いろいろ、子どももいろいろ。

そうであるならば、学びの場もいろいろであるべきなのに、たった一つの受け皿しか用意されていない。

それが不登校という「問題」を作り出している。

そういう側面もあると私は考えます。

日本という国は、その地理的、歴史的背景から、多様さに対して不寛容な国です。

ただこれからは交通、通信の手段が発展し人や情報の移動がどんどん容易になっていく時代。

社会が寛容さを身につけざるを得ない状況になっていくでしょう。

この社会が成熟し、自分と異なる他者に対する寛容さを持ちえたとき、

この国から不登校という「問題」がなくなるのではないでしょうか。

不登校という「問題」を通じて私たち大人に問題提起してくれている子どもたち。

それに私たち大人はどう応えていけばいいのでしょうか?

変わるべきは子どもではなく、まず私たち大人です。

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学校と納豆の等価性 ~人生いろいろ、学校もいろいろ~

ここ数回、変なタイトルでブログを書いております。

前々回、前回の記事では、

・「納豆嫌い!」は怒られないのに、なぜ「学校嫌い!」は怒られるのか?

・学びの場は学校しかない、という価値観が不登校という問題をつくる

・情報処理の仕方、感受性の強弱によっては学校にいること自体が苦痛になる子がいる

ということを書いてきました。

日本の教育について考えてきましたが、海外の教育はどのようになっているのでしょうか?

オランダでは、公的な学校教育以外のさまざまな代替教育が普及しています。

例えば、イエナプラン教育、シュタイナー教育、ダルトン教育などです。

そこでは、異年齢の子が少人数のグループを作って学んだり、時間割を自分たちで決めたり、

知識だけでなくモノづくりや身体表現、芸術表現を学んだり、

自分が学んだことを同じグループの子たちに発表することに重きが置かれていたり。

日本の学校とはだいぶ雰囲気が異なることが感じ取れると思います。

またドイツ、スイス、オランダでは、小学校卒業時に、進路が大きく分かれます。

ドイツの例を見てみましょう。

ドイツは、日本でいう小学校4年生を終えた段階で中等教育が始まり、

その進路は、ギムナジウム、総合制学校、実科学校、基幹学校に分かれます。

ギムナジウムは9年間あり、大学への進学を目的としています。

実科学校、基幹学校はそれぞれ6年、5年の期間があり、

そこでは職業訓練が行われ、技術者や公務員、職人の育成に当たっています。

約半数の子どもがこのコースに進学するそうです。

卒業者は職人として仕事に就くか、職業専門学校へ進学します。

総合制学校は、大学へも職業専門学校へも進学でき、約3割の子どもたちがこのコースを選択します。

ドイツでは、職人や技術者の社会的地位が高く、生活も安定しやすいのだそうです。

本人も希望せずその適正もないのに、誰かれ構わず大学進学を目指させる日本と違い、

その子の適性に応じて様々なキャリアパスが用意されているのです。

フィンランドでは、グループ学習が重要視されています。

一クラスは24人で子どもたちは4~5人のグループに分かれて学習します。

そこではできる子ができない子に教え、助け合い学びあうことが重視されています。

学力だけでなく、お互いに助け合うという社会性も同時に身につくため、

フィンランドでは、いじめが少なく、不登校という問題も存在しないそうです。

また先生は皆大学院の修士卒で、大きな裁量権を与えられ、人事考課もなく、子ども一人一人に合った学習方法を自分で選択することができます。

中央で決めた画一的学習内容を、どんな特性を持った子どもにも画一的に指導しようとする日本の教育とは対称的です。

オランダ、ドイツ、フィンランドとヨーロッパの国々の教育について見てきましたが、実際にそれで学力は付いているのかという疑問があります。

PISAと呼ばれる国際的な学力調査のテストがあります。

3年ごとに15歳の子どもの数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力を問うテストです。

紹介したいずれの国々も、世界の72の国と地域から54万人が参加するこのテストで、すべての分野において上位15位以内に入っています。

つまりその教育方法でしっかりと結果が出ているということです。

今日は世界の国々の教育について紹介しました。

ここから分かることは、教育とは必ずしも正解ではなく、試みであるということです。

世界中でさまざまな教育方法が試行錯誤されています。

日本の教育だってそうです。

それはあくまで試みであり、決して正解ではないのです。

そうであるならば、その一つの試みに適応することが苦手というそれだけの理由で、

私たちはそんなに自分を責める必要があるのでしょうか?

続きます。

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