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世間のモノサシ、自分のモノサシ

前回のブログでは、

・ひきこもることは必ずしも悪いことではない。

・周囲の大人が適切なケアをしてあげれば有意義な時間になり得る。

・自分の世界観を深めることで、二つ目の言葉、二つ目の視点が得られる。

という内容を綴りました。

 

=価値とは何か?=

今、目の前に大きなカバンと小さなカバンがあったとします。

どちらのカバンに価値があると思われますか?

収納性というモノサシで測れば、大きなカバンのほうが価値があるでしょう。

携行性というモノサシで測れば、小さいカバンのほうが価値があるでしょう。

経済的価値というモノサシで測れば、値段の高い方が価値があるでしょう。

思い出深さというモノサシで測れば、それにまつわるエピソードが多いほうが価値があるでしょう。

観察している対象は何も変わっていないのに、どういうモノサシでそのモノを測るかによって価値というものは簡単に入れ替わることがわかると思います。

絶対不変の価値などというものはなく、どういうモノサシを採用するかによって、価値というものはコロコロと移り変わっていく、そういうものだということです。

 

=世間のモノサシ、自分のモノサシ=

大人でも子どもでも、世間一般の価値観から距離を置くというのは、結構勇気のいることだと思います。

こんな事したら、こんなこと言ったら、周りの人から変に見られるのじゃないか?

自分を含めそんな風に気になる方は多いと思います。

ただ、価値というものは絶対不変のものではないし、世間一般に信じられている考え方、世間のモノサシがいつも必ず正しいとも限りません。

横並びの発想で、みんなで足並みそろえて断崖絶壁に向かって行進していた、歴史を振り返ればそんな事例は枚挙に暇がありません。

そんな時代にさえ、世間の価値観に流されず、世の中と適切な距離をとっていたが故に大惨事を免れた、そんな人間もいるわけです。

そういう人はその他大勢と一体何が違うのか?

それは世間一般のモノサシとは異なる自分なりのモノサシ、もう一つの視点を持ちえたか否か。

それが両者を分けるもの、私はそう考えます。

 

世の趨勢に流されることなく、自分の価値観を信じて決断を下せる人間。

それは一人思索にふける時間、自分の世界観を深める時間、ひきこもる時間を経験してきた人ではないでしょうか?

世間のモノサシと自分のモノサシ、どちらが正しくてどちらが間違っているのか?単純に判じることは難しいと思います。

正しい正しくないという話とは別に、物事を測り取るモノサシの種類を増やすことで、目の前の事柄をより多角的に検証することができるようになる。

だから世の中全体が危険な方向に向かってしまっても、自分を信じて生きていけるようになる。

その価値観は一人の時間を持つからこそ得られるもの。

私はそう考えます。

ひきこもることは決して何かを失うだけではありません。

その子の周りにいる大人が、適切なサポートをしてあげればかけがえのない時間にだってなり得るのです。

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